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2014年06月10日

『収容病棟』クロスレビュー
比嘉徹徳(思想史/精神分析)、菊井崇史(文筆/詩/写真)

比嘉徹徳(思想史/精神分析)

 閉鎖環境への監禁によって従順な身体を作り出すことが、近代の規律権力のあり方であった。この病棟に収容された「狂人たち」は、建物の中庭を見下ろしながら延々その回廊を彷徨し続ける。廊下だけでなく階段にも鉄格子が張り巡らされている。この閉ざされた空間で、患者の一人の言葉を借りれば、彼らは「ゾンビ」のごとく佇みうろくつことしか許されていない。
 しかし規律権力が監禁と同時に、時間の有効利用による技能習得やら知識獲得といった「発展」や「発達」をあくまで目指していたのに対して、このドキュメタンリーが描くこの病棟には、いかなる未来も指し示されない。ここには未来がない。時間は円環的に閉じている。「回復」や「治癒」、社会への「復帰」は医師や看護師、あるいは患者の家族すら望んでいないように見えるし、患者たち自身も次第にそれを信じなくなっていく。空間的にこの病棟が回廊として閉ざされ、歩いてきた場所にまた戻るしかない構造であるように、時間的にも、昨日と同じ一日が始まり、そして同じ一日が明日以降も果てしなく続いていく。こうしてある者は10年、ある者は15年、そして20年をこの病棟に棲まい続ける。この閉鎖病棟に入りたての「新人」が示すありとあらゆる抵抗に、ベテランがやさしく諭す。慣れるしかないのだ。その先の未来がないということに。

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 ワン・ビンが映す人物たちは、誰もが閉じ込められている。現代中国の厳しい現実にカメラを向けることによって、何より、「人々はそこから動くことができない」ということをこの作家は執拗に描こうとしているのではないのか。前作『三姉妹〜雲南の子』において、家畜たちに囲まれた極貧の中国農村のある家族を追ったときもそうであった。ヤギやロバたちを連れ出して行った先に広がる山村の段々畑のある広大な見晴らしが、その空の寒く乾いた青さとともに開放感を見る者にもたらすことは決してない。その眺望はどこまでも続いていく可能性や明るい未来を指し示すものではなく、この小さな子どもたちや大人たちは決してこの貧しい場所から逃げられない、いつまでもこの開け放たれた「吹きだまり」に閉じ込められたままであろうという苦い印象をしか与えない。ここから逃げ出すには、せいぜい都市に出稼ぎに行くことであるが、これもまた別の不自由、別の「監禁」でしかないだろう。

 この閉鎖病棟内では、当然ながら、医師は医師であり患者は患者であるという厳然たる制度的な同一性が貫徹している。乱暴な所業に対する「罰」として後ろ手に手錠をされた患者が、医師にどうか外してくれと懇願する。医師は自らの気まぐれな裁量において適当なところで外してやる。また、医師たちによって目の前で列をなした患者たちが薬を服用させられる光景は、治療するためのものというより、むしろ彼らを患者であり続けさせるための儀式のように見える。
 では、この病棟内の人間たちが均質でモノトーンであるかというと、そうではない。カメラは、固有名を持ったそれぞれの存在を映し出していく。そのそれぞれの特異な個性は、彼らのその発話形式によって見る者に強い印象を刻む。歌をうたう者、怒鳴り散らす者、やさしく仲間を気遣うささやき、俺は狂っていないと抗議する者、賢者のように世界を語る者、あるいは黙して時間をやり過ごす者。下の階に同じく入院しているお気に入りの女性患者に呼びかける男の猫なで声、暗闇に消えていく虚しい独白。話し方によってそれとわかるさまざまな個性の共存は、その病質や症状が深刻であるか否かに関わりなく「いっしょくた」にこの病棟に収用されていることにも拠るのだろう。家族や近隣の者による「通報」や「要請」によって強制的に収容された者がほとんどらしい。こうなると単に風変わりに見える者から、呆けて徘徊する者、喧嘩早いあらくれ者、妄想に苦しむ者や、アルコールもしくは麻薬の中毒のためにベッドから一歩も動かぬ者までが、同一空間にひしめき合うことになる。結果的に、われわれは患者たちの奇妙な共同生活を垣間見ることになる。
 彼らは差し入れの食料を分けあい、あるいはタバコを融通しあっている(その一方で、他人に食べ物を取られまいと必死になっている者もいる)。あるいは、仲間の足を洗ってやる患者がいる(他方で仲間を大した理由もなく蹴りつける男もいる)。親子ほども年が違う男二人が思春期の同級生同士のように肩を組んで語り合う姿があるかと思えば、他人のベッドに潜り込もうとする男と、それを嫌がりながらも結局は許してしまう患者がいる。狭いベッドに複数の男たちが同衾する姿は滑稽ではあるが、これはしかし、行き場のない寄る辺のなさを互いに持ち寄った者たちが陥った極限的状態でもある。

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 この作品は、ほとんど映されることのなかった対象をわれわれに見せてくれるという意味において極めて貴重であることは言うまでもない。患者たちが強制的に収容されているあのような場所によく入り込めたものだと思う。ただしその一方で、日常において見ることのできない特殊な対象や隠蔽されているものを追いかけて映し出すことは、ドキュメンタリーの最も基本的な振る舞いであるだろう。その意味で、これら「汚辱に塗れた者たち」(フーコー)を映すことは、それ自体では、ドキュメタリーの常套とすら言えるかもしれない。
 しかしこの作品がそのような常套性を免れているのは、その実われわれには何も隠されていないということ、何も秘められたものはないことをこそ映し出すことによってである。患者たちの振る舞いは、なるほど奇矯であり常軌を逸している。しかし同時に、われわれはそれらを充分すぎるほど理解できるし、彼らの発言の意味を受け取ることができ、感情の動きを見て取ることもできる。患者たちが特異でわれわれの理解を絶した何者であるかのような「演出」は皆無である。ましてや、その佇まいに特別な意味やフェティッシュを見いだすことは固く禁欲されている。カメラを前にして患者たちがなぜかくも「ありのまま」を曝すことができるのか、これは今でも私にとって理解できないままである。ワン・ビンが彼らの内面に立ち入ろうとしている訳でも、また、壮絶な物語を求めている訳でもなく、ただただ彼らの隣人として長時間寄り添っていたであろうことが推測されるだけである。ここに対象にカメラを向けるワン・ビンの監督としての倫理があるはずである。ここに映し出されているのが生の「卑小さ」であると誤解を恐れずに言うなら、それはこの作品を見ている衣食足りたわれわれの生とも地続きであることが了解されるだろう。

 作中でカメラは一度だけ戸外へ出る。そして収容病棟から退院したある元患者を追っていく。家族たちの扱いは冷たい。何かあればまた入院させるぞと言い放つ親。ほどなく家を出て男は歩き始める。日が暮れる。それでも男はポケットに手を突っ込んだまま黙って歩き続ける。カメラがそれ以上追うのをやめ、その男は冷たい闇夜に消えていく。彼は自由になったのではない。行く当てもなく、どこにも逃げ場などないことは誰よりも彼が知っているのである。

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菊井崇史(文筆/詩/写真)

 三階建、中庭に面した廊下の全面に鉄格子が張り巡らされ、各階ごとにも閉鎖されているその病棟は、「中国では多くの精神病院は、衛生部ではなく、日本の警察庁に当たる公安の管轄を受けている」、「治療は二の次となっている事実」と資料にあるとおりの様相を紛れもなく呈していた。

 中国南西部雲南省にある公立精神病院で、二〇一三年一月三日から四月十八日までの三ヵ月半のほぼ毎日を撮影されたドキュメンタリー映画『収容病棟』にうつされる人々の実際は、「収容」「病棟」という言葉が思い起こさせるであろういかなる時と場所にも襲ねることはできない。その場所と日付は固有であり、そこには固有の人間が生きている。そう断言しなければならないのだと覚悟したのは、人間の生存の個々を見極めることがこの映画の意志だと覚えるからだ。

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 「どうやらこの人には精神疾患はなさそうだと感じた人は数多くいましたが、どの人がどうだとはっきり断定することはできませんでした。」と監督ワン・ビンが言うように、収容された人々が、正常か異常かを割り切り、判断できるものではないことは、すぐにわかる。薬物及びアルコール依存、治安紊乱行為、喧嘩、浮浪罪、神経衰弱、過度な信仰、政治的陳情、一人っ子政策への違反、重度障害者、認知症、うつ病、コミュニケーション障害等が、病棟に収容される理由であり、各々の暴力性のあるなしを問わず、彼らは皆、一緒に収容されている。しかし、理由の差異にかかわらず、「異常なふるまい」の一括りに行使される病棟への収容だけが、「断定」を拒むのではない。

 収容病棟を生きる人々は、反社会的、反人間的、つまり、人間の規範からの逸脱を宣告されてあり、「すべて自発的入院ではなく、家族や警察、裁判所による措置である。」と映画の終わりに記されることは、その収容が彼らへの一方的な行使であることを充分に説明している。反社会的、反人間的と判断されるには、社会的であり人間的であることの規範がなければならない。国家、共同体は自身を構成する人間の輪郭を規範として縁どる。そして、個々の生存が共同体の規範から逸脱すること、それを判断するのは規範をまもる側でしかない。人間の規範を維持し、保身するのは、規範に生きるものの側であり、そこからの逸脱は、反、という烙印を押され、かたづけられる。誰がここにおれをいれた、という一人の男性の問いの、「誰」は、その行使が一方的であればあるほど、明確に固有の人間、集団を名指しえない。反社会的、反人間的であるものを選択、排斥、抑圧し、淘汰するものは、多数の権力なのだ。

 ワン・ビンは、そのことをはっきりと理解している。だから、収容されてある人間の正常、異常を問うこと、「はっきり断定すること」をしない。収容されてある人々に加担し、告発をなす映画でもない。だからこそ、『収容病棟』は、人間の規範が、つまり、病棟に生きる人間を反社会的、反人間的と断定する側のものが、正常か異常かを問うことになる。『収容病棟』は、病棟に生きる人間の実際に目をむけると同時に、病棟という制度そのものをわれわれの瞳に晒すからだ。この映画を観るものは、その双方と真向かうしかない。

 国家、共同体に異常、狂気と見做され、反、と宣告されれば、誰もが収容される。思惑と作為さえあれば、そこに、確かな判断、明確な根拠を、制度の側は必要としてはない。ならば、病棟を生きる人々の日々の実際が露顕することだけが、異常と正常、狂気と正気の境界が揺さぶるのでも、消滅させるのでもないのだ。そのような境界は、はなから自明でも確乎なものでもありえない。明確な理由の呈示を必要としない収容の行使において、どうしてだ、なぜこんなことになった、と映画に響く一言の切実、悲痛は、人間が人間を隔離すること、排斥すること、人間が人間を隠蔽すること、その隔離と隠蔽が、選択、排斥、抑圧のもとに行使されることを烈しく伝えていた。

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 雪の日が在る。三階のカメラが地上、ひとりの女性をうつす。彼女は、雪の降る中庭で、歌をうたい、跳ねている。彼女は、ほほえんでいる。カメラと彼女の間には、雪が降りつづく。絶え間なく。鉄格子越し、雪の一片一片、無数の白が、カメラと彼女の距離を可視化する。自由な行き来を赦されない病棟の二階三階、鉄格子越しに、愛を伝えあう男女がいる。わたしの顔が見えるか、わたしを抱きたいかと、彼女は三階の彼を見あげ、呼びかける。彼は静かに、二階の彼女にこたえる。ふたりがふれあう光景がうつされる。鉄格子越し、だが、互いの掌がふれあい、互いのこごえが、息が届く。カメラは、鉄格子の見せる隔離と共に、ふたりの愛が確かめた距離を伝える。ワン・ビンは、距離を可視化させつづける。彼女彼らに張り巡らされた鉄格子は、絶望的な距離としてカメラとのあいだにも絶えず巡っている。その絶望的な距離は、病棟を生きる人々と、その映画を観る者との間では、一層、重い。それは、いかようにも無化されない。されてはならない。

 時折、人々は、カメラを見る。ゆっくりとカメラを見る人もいる、すぐに瞳をそらす人もいる。映画を観るものは、カメラにむけられる瞳が、自身にむけられた視線と覚える瞬間があるだろう。しかし、そうではなく、その視線は、カメラとの距離をはかっているのだ。ワン・ビンは、カメラと、うつされる者の距離をありのままに伝える。照明を使わない。カメラを固定しない。暗いものは暗く、明るいものは明るい。彼らの生涯のひと時に、物語を付着させることもない。カメラは揺れている。うつされる者があゆめば、カメラもあゆむ。翔ければ、カメラも翔ける。見あげ、うつむけば、その視線に添う。カメラは、彼らを見ていることを見せる。瞳をそらさないことを見せる。個々の生存を承認していること、個々の生存を見つめる覚悟があることを体現している。この覚悟が、『収容病棟』を撮り、完成させたワン・ビンの位置であり、切実だろう。ワン・ビンのカメラは、病棟を管轄、統治する権力が放つ視線に似ることを自身に赦さない。

 ワン・ビンのカメラは、距離を護るのだ。距離を護ることと、隔離は、絶対的に異なる。隔離とは、生存の個々を見極め護る距離を無化するからだ。隔離を行使するもの、そして監視するものは、彼女彼らの個々の生存を見てはいない。存在と存在、人間の距離を見ない。監視者が彼らを個々と見做すのは、規範からの逸脱の度合いであり、監視体制を揺るがさないかどうかにおいてだ。それが、隔離し監視するものの視線であり、その視線は、生存の個々を封殺する。ワン・ビンは、封殺された人々の聲を聴く。人々の仕草を見る。ワン・ビンは彼らに発言も仕草もうながさない。人々がみずから語り、行動する、人々の生きる日々の実際をうつすのだという意志をはずさない。ひしめくベッドの軋み。シーツの皺。壁のくすみ。衣服の汚れ。鉄パイプの錆び。裸足や靴の足音。排泄された尿や、飛散した水道水で水浸しの床。煙草のけむり。無造作な髪の毛。飲食物の包装。彼女彼らが生きてきた、生きている、生きてゆく場所の様相の細部が、映画を観る間、確実につみ重なるからだろう、一人の男性が蜜柑の皮を剥く時、実と内果皮の繊維が、千切れ、剥がれる音、その指のすがたが伝える生存の呼吸に、わたしは、胸を締めつけられた。ワン・ビンは、自身のカメラが出逢い、うつしとった日常の光景のひとつひとつを『収容病棟』を観るものに、邂逅させる。たとえそれが、絶望的な距離のさきにであろうとも。

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 『収容病棟』という経験の結果「鉄格子で閉じ込められているにも関わらず、彼らは彼らの間に、道徳による規制も行動の規制もない、新しい世界と自由を創りだしています。」とする監督ワン・ビン自身の言明に対し、わたしは首肯できない。その言明を承認するには、病棟を統治、管理する「行動の規制」「道徳による規制」が、あまりに見えすぎていたからだ。

 法を犯していなくたってやつらは一日中監視する、先生たちは権力者だ、病棟を生きる人間が告げる一言一言は、収容された人々が、法にふれるかどうかだけを監視されているのではないことを教える。病棟において一層に監視され封殺されるものは、個々人の「道徳」倫理、および、それにもとづく「行動」なのだ。個々人が、各々に護り、生きる倫理道徳は、共同体を構成する人間の規範及び法と不可分ではないが、制度からの一方的な強制に屈すべきものではありえない。個々の倫理道徳は、その内側、外側から、人間の規範の縁取りを問うことができる。法に否を叩きつけることができるし、国家、共同体の制度を変革する根拠になるものであり、その余地は奪われてはならないはずだ。しかし、『収容病棟』には、権力が倫理道徳に対し、一方的に介入し、生存の均一化をはたそうとする手つきが、あまりに露顕している。時折、彼らは、病棟の管理体制、権力に対して敵意を吐露する。しかし、この敵意は、何ものにも釣り合わない。病棟で赦される敵意は、管理体制が脅かされないと判断されたものであり、管理体制を脅かすそれは赦されないからだ。許容の限度にふれたならば、制裁を与え、暴力を執行する。管理体制を脅かさない範囲での緩慢な放任、無関与もまた、それ自身が暴力の形態だろう。病棟を生きる人々は、収容されたという現実を受けとめるしかないのだ。病棟に収容されたという揺るがぬ事実によって、彼らは、自身が、排斥されてあることを自覚している。理由はわからなくても、納得などできなくても、その事実は自覚せざるをえない。その自覚が時に、敵意となり、絶望となり、悲しみとなる。彼らが見せる敵意とは、彼らにむけられた敵意の照りかえしなのであり、その敵意、聲、悲しみ、憤りは、ふたたび一方的に監視される。釣り合うわけがない。

 一度だけ、カメラは病棟の外に出る。母の迎えに連れられ、病棟を去る三十歳に近いひとりの男を追って。男は、自分の帰宅を喜ぶでもない母親に、何かあればまた病棟に連れてゆくよと脅される。しかも、男の帰宅した家屋は、「この貧しい地域では患者及び患者の家族の大半に治療費を払う余裕はない。」との言明に顕著であり、貧困の実体が、収容とわかたれないと知るとき、強制収容されることも、収容されてからの日々にも、収容をとかれてからの日々にも「自由」を見出すことは難しかった。自発的な収容病棟からの離脱が不可能であるという状況、管理体制の転覆、もしくは、変更はもう病棟の外部からでしか可能ではなく、しかし、その外部が、彼らを強制収容したのだという事実にいきあたらざるをえなかったからだろう、鉄格子越しに見えるビルや、夜空にうちあがる花火、その破裂音といった、病棟から見える外部の気配の逐一が、たまらなく不穏なものに感じた。

 ひとりの青年が、自身の肌に言葉を記す光景がある。文字の読み書きがあまりできず、共に生きる人間に教わっている。青年は、手や足の肌に記した文字を丁寧に指でなぞり、聲に発する。自分は、肌が薄いからと文字の書かれた皮膚をむき、傍にいる人々をわらわせる。彼は、共に生きる人間の肩に腕をまわし、人懐っこい表情で、語る。聲を交わす。『収容病棟』からは時折、歌が聴こえる。不意に、彼女彼らは、何かを思い出すように歌をうたう。歌謡曲、故郷で聴いた歌、祈りの歌、民謡、ひとつひとつの旋律や詞が、人のよすがであるように、口からこぼれる。それら全ての歌が、切なく響く。覚えていたい。その歌は、うたう人自身のものだ。歌うこと。飯を喰うこと。排泄すること。寝ること。煙草をすうこと。走ること。水を浴びること。服を着込むこと。裸になること。柵越しの日を浴びること。想うこと。願うこと。それらは尽く、彼女彼らが生きていることの証明だ。その証明の重さに、痛切に、だからこそ、わたしは、病棟に収容され生きる人々が「自由を創りだして」いると言うことは赦されないと感じたのだった。この映画を観るものは、彼女彼らの見せるほほえみや、よろこびや、やさしみや、いたわりあう光景を理由に、慰められても、救われてもならないのではないかと。もしも、「自由を創りだして」いると言っても赦される人間は、病棟を生きる人々自身、個々の生存だけだろうと。

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 撮影が終了した翌月、二〇一三年五月、中国で「精神衛生法」が施行され、個人の同意なしに施設へおくりこむことが違法行為だと明文化された。起草から施行までに、三十年弱の年月を経て。しかし、制度は、条件による強制の余地を残している。この余地は、闘争の場だ。この余地に、今、われわれは問いたださなければならない。『収容病棟』にうつされる現実の何が異常、狂気であり、何が正常、正気なのかを。

 『収容病棟』は、現在、人間の生存全土の基盤、規範、共同体の概念を、幾多の位相によって問うことになるだろう。われわれはいかなる地に生きているのかを問われる。同時に、『収容病棟』という四時間の経験の重さは、はかりがたく、容易な理解を拒む。烈しく。彼女彼らの生きる日々は、あらゆる相似を無化するに充分な現実だからだ。映画を観終えた後、今、現在、終わりなく病棟の現実が繰りかえされているのだということの自覚の前では、一層にそうなのだ。ワン・ビンのカメラが隔離をではなく、距離を忘れなかったように、それを受け取る側のわれわれはそれを忘れてはならない。

 ひとつの光景が映画の開始を告げる。西日が射している。ベッドの上、白い布団がうつされている。無造作に剥がれる布団のなかに、ふたりの男性がもぐり、つつまれていたことがわかる。めくられた布団の内側に西日の光が届き、ふたりの体温でみちていただろう、そのぬくもりが宙にほどけるのが伝わる。男のひとりは、構わないでくれと、苛立ちを籠めた聲を出す。この光景に映画のはじまりを託した理由は、映画がすすむにつれ、明かになる。いや、その光景の重さが、ふくらんでゆく。おそらく、外部を遮断する布団のなかで、彼らは彼らであることを護っていたのだ。人のぬくもり、匂い、息、肌を確かめ、それらが命のそれであることを覚えていた。その切実がひたすらに重さをましてゆく。『収容病棟』に籠められた生存の切実は、幾度も、わたしをこの映画に向かわせるだろう。

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『収容病棟』
監督:ワン・ビン(王 兵)WANG BING
製作:Y.プロダクション、ムヴィオラ
2013年/香港、フランス、日本
配給:ムヴィオラ
上映時間:前編 122分/後編 115分(全237分)
第70回ヴェネツィア国際映画祭特別招待作品
第35回ナント三大陸映画祭銀の気球賞
コピーライトマーク Wang Bing and Y. Production

6月28日(土)、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
公式HP:http://moviola.jp/shuuyou/






posted by 映芸編集部 at 14:21 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする