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2009年01月21日

金子遊のこの人に聞きたい
「幻視の美学・松本俊夫映画回顧展」
松本俊夫監督インタビュー

 2009年1月17日〜2月27日まで「幻視の美学・松本俊夫映画回顧展」が渋谷のシアター・イメージフォーラムで開催されている。これは『薔薇の葬列』『修羅』『十六歳の戦争』『ドグラ・マグラ』の松本俊夫監督の劇映画全4本と、代表的な実験映画を一挙に公開する企画上映である。
 また、ここ数年、松本俊夫熱が高まっている。05年にはアップリンクから『松本俊夫実験映像集 DVD-BOX』が発売され、『映像の発見 アヴァンギャルドとドキュメンタリー』『表現の世界 芸術前衛とその思想』の2冊の評論集が清流出版から新装版で復刊された。映画作家としては、05年に六本木のSuper Deluxにてライヴ・インスタレーションを発表。06年には川崎市市民ミュージアムにおいて「映像の変革」と題した特集上映があり、企画展「眩暈の装置:松本俊夫をめぐるインターメディアの鉱脈」では新作のインスタレーションを発表した。そして、08年夏には高知県立美術館にて「松本俊夫映画祭」も開かれた。
 実験映画やヴィデオアートの草分けとして映画人にリスペクトされるだけではなく、美術家、ミュージシャン、ヴィデオジョッキー、PVディレクターたちからも注視され続ける松本俊夫という存在。映画監督、実験映画作家、美術家、映画・芸術評論家としての多彩な顔を持ち、日本大学芸術学部の大学院で教鞭をとりつつ、77歳にして意欲的に活動を続ける異才にインタビューを試みた。
(聞き手/構成:金子遊 写真:久保田滋)

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幻の処女作『銀輪』
――松本監督は『映像の探求』のあとがきで、ドイツのメディアアート・フェスティバルにおいて松本俊夫特集が組まれたとき、レトロスペクティブ(回顧)という言葉に戸惑いを感じたと書いています。今回は「薔薇の葬列」公開40周年を記念して、「幻視の美学・松本俊夫映画回顧展」が開かれているわけですが、むしろ回顧的にではなく、作家としての松本俊夫がいま何を考えているかをお聞きしたいと思っています。

 それは、あまり喋りませんよ(笑)。一度企画が横取りされたことがあって、その辺は慎重にしているんです。

――今回の「映画回顧展」のなかで、最も注目すべきなのは1月28日からはじまる「program D 最初期と後期」でしょう。松本監督が最初に演出を手がけた処女作ともいえる55年の『銀輪』、企業PRとして製作された『白い長い線の記録』、映画作品としては最近作の『DISSIMULATION <偽装>』など、DVD-BOXに収録されず、なかなか観る機会のない幻の作品が並んでいますね。

 『銀輪』は発表が56年で、大学を出てすぐのことでした。実験工房の山口勝弘さんたちと共に作りました。今観るとそんなに難しい映画じゃないのですが、当時は訳がわからない映画だといわれました。特に音楽を担当した武満徹が散々にけなされて。僕にいわせると、『銀輪』の音楽は日本の音楽史上で初めてのミュージック・コンクレート作品でして、そういう意味でもすごく貴重な映画だと思います。
 後年、パリのポンピドゥー・センターで、50年代の日本の前衛芸術を紹介する企画展があったときに、映画評論家が『銀輪』をぜひ上映したいといってきたがフィルムが見つからなかった。一、二度このフィルムを探して出てこなかったのが、突如06年に見つかった。東京国立近代美術館のフィルムセンターが捨てられそうになっていた古いフィルムをコレクションとして集めたとき、そのなかに『銀輪』のフィルムがあったのです。
 しかし、このプリントは僕らが作ったものではなく、海外版として英語のタイトルがついていました。音声は元々ないからいいのですが、僕らスタッフのクレジットは出てこない。一番違っているのは、武満徹のミュージック・コンクレート以外の音楽が入っていたことです。僕らの関知していないショットが入っていて、二、三割は変えられていました。それ以外の部分は記憶にあるので残っていたわけです。当時は実験的な映画としてやったつもりですが、今見ると「こんなものだったのか」と思わなくもない。円谷英二さんなんかも乗り気になって手伝ってくれたのですが、その当時の技術に限界があったということもあります。

――松本監督のクレジットが脚本、助監督、仕上げ監督となっていますが?

 僕の企画からはじまって、脚本は僕の他に、実験工房の山口勝弘さんや北代省三らが加わりました。彼らは絵描きですから、最終的には画コンテと文章という形で脚本が完成した。演出という段階では、映画会社が経験のない僕にいきなり監督をさせるわけにはいかなかった。それにスポンサーがいて、安心できるような体制が整っていないと、会社での責任が問われると困るという事情がありました。
 それで、PR映画業界で名が知られている矢部さんという監督を表向きに立てたのです。それで作品が完成するのであれば、ぜひやりましょうと言ってくれた。しかし、撮影が終わった後、矢部さんの契約問題がこじれて辞めてしまい、その後に樋口源一郎さんという監督がわかりやすく改良した。ですが、この人も撮影だけして辞めてしまった。それで撮影したフィルムが残っていて素材はあるということで、企画の段階から一番わかっているのは僕だということで、松本が仕上げろということになったのです。


『白い長い線の記録』と実験映画
――『白い長い線の記録』でも、スポンサーの関西電力と葛藤があったんですよね。

 その話も、彼らが何を勘違いしたのか分からないんですが…。この映画には、戦争の後に廃墟となった日本の都市や原爆のイメージ、それに進駐軍を象徴するラッキー・ストライクの煙草の箱が出てきます。これらをリアルに描いたわけではないんですが、そういうものから政治的な臭いがするということでスポンサーの上部が敬遠したんです。そして、これは分かりにくい映画だし、実験的すぎるということでオクラ入りになりました。

――映画の冒頭にガラス製のロボットの頭部が登場して、透けて見える頭脳の回路を電気が巡るショットが印象的です。

 当時の一般的な映画の基準からすると、あまり見たことがないような映画だったんですね。おまけに説明が一切ない。もっと普通の映画にしてほしいと要請されました。長いあいだ人前に出ることのなかった映画です。『白い長い線の記録』は『銀輪』と違って、関西電力がフィルムを持っていることはわかっていたんですが、この映画を表に出さないという方針をとってきた。何十年も前の映画で、何ら宣伝的な実行力を持たない映画なのに、どうしてこういうことになるのか。事なかれ主義がそうさせているのだとしか思えません。

――『白い長い線の記録』は今見ても斬新で、格好いい映像だと思います。写真のコラージュをアニメーション手法で見せたり、ジガ・ヴェルトフのニュース映画と似たような雰囲気を持っていますよね。

 そういう要素もあります。でも60年代のはじめは、まだジガ・ヴェルトフの映画なんて日本で観ることはできなかったんです。前衛映画を観る機会も、それに関する資料も全然なかった。今考えるのとは状況がまったく違っていて、50年代の終わりまでは戦後体制ですから何も情報がないわけです。僕らは断片的な情報から、勝手にその映画作品を想像していました。
 例えば、ルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』という映画は有名だけれども、もちろん観たことがなかった。たまたまフランス語の資料のなかに、蟻が手のひらから出てくる写真が載っていて「なんかすごそうだ、おもしろそうだ」と思うんだけど、どういう映画かはわからない。一方で、内田岐三雄が『アンダルシアの犬』のシナリオを翻訳したものがありました。『シナリオ文学全集』のなかの一冊が、前衛映画のシナリオ集になっており、そこに筋書きが書かれていた。それを読んで、さらに写真を見て、自分でどんな映画なのか想像してみるんです。おもしろいのは、その想像したものに刺激を受けるんですよ。それでこういう映画が作りたいという風になったわけです。
 だから、日本には前衛映画の歴史はなかったし、ヨーロッパの前衛映画を観ることもできなかった。そういう映画が日本で観られるようになったのは、60年代半ばを過ぎてからのことです。それまでは日本における前衛映画の前史にあたるのだともいえます。

――最初の著書『映像の発見』を読んでもわかることですが、さかんに松本監督がフランス語圏や英語圏から情報を収集してきて、日本に前衛映画を紹介しようとしていますね。

 ペーター・クーベルカの実験映画が草月アートホールで61年に公開されて、非常に特別な映画だと思いました。50年代まではこういう映画はほとんどなかった。あるとしたら、そこに書いているアラン・レネの『ゲルニカ』くらいでしょうか。67年あたりから海外の映画祭へ行き、色々な前衛映画を観るようになりました。というのは、その前に草月アートセンターなどへ海外から実験的な映画がどっと入ってきた。それを見てびっくり仰天して、これは直接見にいかなくてはならないと思ったんです。最初に行ったのはアメリカで、その後もヨーロッパへ行って実験映画を見るようになりました。

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『気配』と『DISSIMULATION <偽装>』
――『気配』(90年/ヴィデオ)では、松本監督が登場して、ヤン・ニメッツというチェコの映画作家について語っています。26歳で『夜のダイヤモンド』という傑作を撮った作家が、東欧の共産主義体制になって映画を撮れなくなり、長年タクシー運転手をやっていて、最後には乞食になっていたという衝撃的な事実が明かされています。

 僕もショックを受けたんです。ヤン・二メッツが89年の東欧の自由化で名誉回復されて、見つけ出されて世間の人々の前に戻ってきて、映画を撮ったんです。日本では公開されていませんが、僕はその作品を見ました。ちょっと首を傾げてしまう作品で、作家として一番大事な30代から50代の20年間を棒に振ってしまうと、こんな風になってしまうのかと愕然とした覚えがあります。
 『気配』を撮った直接の動機は、東欧の共産圏の崩壊とスターリン主義への批判でした。ですが、それだけではなく、現実と虚構の境界性をはっきりさせずに互いが組み込まれていくような、そこからくる迷路性に興味を持っていた時期なんです。この映画の前の88年に『ドグラ・マグラ』を撮っており、テーマ性が通底しています。

――『気配』のなかで松本監督がご自分でヴィデオカメラを肩に担ぎ、前へ進んでいると、次に主観ショットで眺められたニュースフィルムが繋がれます。ふいに虚構と現実の狭間に連れていかれて、観客が驚かされるような方法ですね。

 その時期に撮っている『トラウマ』『気配』『DISSIMULATION <偽装>』といった映画は、そのようなシリーズです。意図的に自分の作品も引用しています。『トラウマ』では『ドグラ・マグラ』を、『DISSIMULATION <偽装>』では『十六歳の戦争』を引用しています。特に『気配』の場合にはニュース映画を入れ込んでいて、その場合は著作権の問題が発生するんですね。作品全体は僕の映画なのだけれど、そういう部分部分の著作権をクリアしないとDVDでは出せないということで、これらの作品はDVDに入れなかったのです。そして、初期の50年代の僕の映画は、金を出したスポンサーが所有権・配給権を持っていて入れられない。こういうことは簡単にはいかないんですね。

――その『DISSIMULATION <偽装>』についてですが、2006年の川崎市市民ミュージアムでの企画展示「眩暈の装置」でも常設展示されていました。もちろん偽装的にではありますが、松本監督ご自身の老いと死という問題が提示されている作品です。小川紳介や依田義賢らの死亡記事が出てきたり、松本監督がご自身の過去の写真を見たりといったシーンがあります。亡くなった映画人への追憶、自己の歴史への振り返り、松本監督自身の死への予感をモンタージュによって積みあげています。これは私小説的なものではなく、あくまでも偽装として自己の柔らかい部分を曝け出してみせる戦略的な企図のもとに作られた映画なのではないかと思いました。

 そうですね。僕は私的なものを一概に否定しているわけではなく、いわゆる日記映画も含めて、プライベートな視点は大事なものだと前から思っています。ところが、それはいわゆるパブリックな眼差しに対して、プライベートな眼差しがあるという意味においてです。パブリックな眼差しというのは、より多くの人によって一般化された物の見方です。基準化された文化コードができていて、意識しないでもそのように物を見てしまうということです。そこにある類型性を破る上で、「極私的」という言い方もありましたが、プライベートな個人の特有の見方が、新鮮な物の見方によって亀裂をつくり、今まで見えなかったことが見えてくるといったおもしろさをもたらします。
 その限りにおいて、プライベートなフィルムというのは、商業的に多くのお金をつぎ込んで類型の上で大勢に映画を見せるという一つのシステムというか制度をぐらつかせる要因になります。それが8ミリであれ小型のヴィデオカメラであれ、一つの創作行為として非常に重要だというのが僕の見方でした。ところが今度は、段々とプライベート・フィルムが類型化してきてしまった。プライベートという意味合いにおいて、一定の領域が確保されてしまうのです。もう少し領域を広げていうと、たとえば「これは実験映画です」といえば、実験映画というものの文化的な価値が一つの枠組みとして与えられてしまいます。それで作家であるかの如き地位が与えられる。それに対して、ちょっと待てよという感じがしました。実験映画というのは、既成の習慣的な映画に対して、危険をはらみ、秩序をかき乱すといった作用力を持っています。それが本質的に実験性と呼ばれるものです。それを一つの動物園の檻におさめて「これが実験映画というものなんだ」という柵ができて、外から人が「ああ、これが実験映画なのね」という安心した関係ができてしまうんです。本来の実験映画は、そんなものじゃないと思うところがあります。
 プライベートそのもののあり方にも、他者がなくなってきたということがあります。自分だけで自己完結して、他者との接点のなかで何かが不確定的に動いていく、生まれていくといったものがなくなり、小さくなってきたというのも事実なんですね。フィルム日記というのは60年代のアメリカから始まり、広がったものですが、僕なんかはエッセイ・シネマというのかな、クリス・マルケルとも違うのですが、ある種の随想的な展開をする映画のあり方というのは考えています。『気配』とか『DISSIMULATION <偽装>』では、そういう方法を持ち出しています。実際にはヴィデオで撮影することになると思いますが、エッセイ・シネマというのは撮ってみようと考えています。

――2005年に発売された「松本俊夫実験映像集DVD」のすばらしいところは、松本監督のコメンタリーが収録されているところです。作品の自作自注、あるいは自作の解題において、批評家・松本俊夫が映画作家・松本俊夫の作品を存分に解析しています。あのような形でエッセイ・シネマを作って頂けると、実験的な作風とある種の理解しやすさが同居した作品になるかもしれません。

 僕はコメンタリーというのが何なのか知らずにいて、急に発注されたわけです。それでびっしりと入れなくてはならないものだと理解しました。ところが、実際にはぽつんぽつんと喋ればいいものなんですね。僕はあいだが空いてしまったら失敗だという強迫観念があって、とにかく喋りまくっているんですよ。原稿を用意せず、自分が何を喋るかわからないままで作業に入りました。前のモニターを見ながら、作品との関係で話していった。その頃は今よりも体力があったので、作品と自分とのあいだに意識の緊張関係もあったんでしょう。あとで考えると、あんなに喋らなければよかったと思います(笑)。そこにはエッセイ・シネマの発想の一つの何かがあると思います。形式的にはそれは普通の日記的な随想ではなくて、メタ・シネマ的なものになるのかなと考えています。


インスタレーション作品
――川崎市市民ミュージアムの展示では『DISSIMULATION <偽装>』が流されているブースがあり、それとは別に『物語はかくしてつくられる』というインスタレーション作品がありました。中央の壁に松本監督の過去の作品が流されており、床に置かれた六台のモニターには海の映像が映しだされている。少し離れた空間に事故現場のように白いチョークで人型をかたどった線が引かれている。あれこそまさに、松本監督ご自身が映画作家として神話化・物語化されて、文化的なコードのなかに組み込まれるということを拒否していることを示す作品ですね。制度化やコード化のプロセスを作品として曝け出し、その現場を提示していますから。

 その場合の「物語」というのがどういうことなのか、ということとも関係しますが、「これは一体何だろう」という理解しがたい現象を前にすると、人は必ずそれが何を意味しているのかを見ようとし、意味付けようとします。そこにいくつかの要素があると、その要素のあいだの関係を文脈的に関係づけようとします。「AはBである」という叙述の形式に、それを捉えられるようにします。叙述の形式というのは、言いかえれば「物語」のことです。物語として自分の前にあるものを意味づけるとき、対象の世界はそれなりに自分との関係で安定した風景になってきます。それが安定した風景にならないときはとても不安で、見えない部分が色々とあるんです。だから、人間はどうしてもそうしてしまう。特に意味づけるというのは、言語の動物である人間が、否が応でもそれを言語との関係でねじ伏せようとするところがあるからです。
 そういうところで出てくるものは世界の見方ではなく、見方のほうが物語的になるわけです。つまりは「物語はかくして作られる」ということになります。そこに入ってくる人は、僕のインスタレーションを見て、ここでは何があったんだろう、何を表現しているのだろうと、各自それぞれに物語を作り出してしまう。そのように自縄自縛に陥る作品の見方があるという気がするのです。

――「映画芸術」2009年2月号の「1969年特集」のアンケートで、松本監督はご自身がいま作家として危機的な状況にあると吐露なさっています。これには正直、驚かされました。松本監督はインスタレーション作品を次々と発表していますが、映画作品は91年の『DISSIMULTION <偽装>』以降、沈黙を保っていますよね。まだまだ現役の作家であるのに、資金繰りなどで映画が撮れる環境にないという意味で書いたことなんでしょうか?
 
 そのような意味であると同時に、実際にいま映画の状況がどうであるかということとも関係しています。インスタレーションは美術館という場との関係で、それなりに可能となりました。ですが、ある一定の資金をかけるような映画は、僕がやりたいような映画は、今はとてもできないだろうと思います。注文を受けてエンターテインメント映画を作るように、これ以上はできないという線で妥協はしたくない。自分が発言してきたことを裏切るような映画を作るわけにはいきません。映画が作れないとしても、それはそういう時代に生まれてしまったということの宿命ですよね。僕の気持ちとしては、例えば劇映画を作って発表したときに、『ドグラ・マグラ』を作った人がこんな風になってしまうのか、とは思われるような映画は作りたくない。そういう意味では、不自由といえば不自由なんです。やはり作らないということも大事なんだと思います。

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今後の作家活動について
――何か構想中の映画であるとか、このような原作でやりたいというのはありますか? 

 言ってみれば、二つの極があります。一つは斬新な地平を切りひらく力によって作ってみたい、つまり『薔薇の葬列』の系譜ですね。もう一つの極は、実験性だけではなく何かをとことん極限まで深めていきたいという思いがあります。これは『修羅』に代表される系譜です。僕は出発点から、この二つの極から映画作りを始めました。70年代前半には、僕はすでに『ドグラ・マグラ』を構想していたのですが、これがATGで作れなくなり、ずっと後になって映画化が実現した。『ドグラ・マグラ』には二つの極を統合していくところがあった。本当に作りたいのはこのような映画です。物事の迷宮性が魅力を発散するという時代が終わったわけではなく、もっと色々できると考えています。現在は『ドグラ・マグラ』の時代よりもヴァーチャルなものが氾濫しており、「逆立するリアリティ」を持った時代の姿をつかんでみたいと思うのです。
 いま一つは、現代の世相を見ていると、もう一本くらい鶴屋南北の原作で映画を作ってみたいというのがある。この時代の渾沌とした人間の悪とか、現代において見られる人間のさまざまな形の極限状況を描いてみたい。それを現代そのものの姿でやるとあまりに生々しいので、ポスト元禄という時代に現われてきたものを現代的に捉え直してみる。つまり、それはバブル崩壊ということと通じるところがあるんですね。

――例えば、アート・フィルムのジャンルでコンピュータ・グラフィックスを使った作品を作ってみようと思ったことはないのですか? 松本監督はヴィデオ技術が出てくる前にフィルムでヴィデオアート的な作品を発表し、CGが出てくる前に特殊なスキャナーや撮影方法を使ってCG的なヴィデオアート作品を発表なさっていますよね。

 80年代のコンピュータ技術の発展により、デジタル的なエフェクターが出てきて、みんながそれに飛びついていったときに、僕はいささか嫌になったんです。何を嫌になったのかというと、それによってメニューが決められたものが氾濫したわけです。僕は未知のものを様々に含ませながら、一品料理を作っていくことがおもしろかったんです。その時代、ある種の型に嵌っていくということがシンドロームになったのです。
 そうはいっても、テクノロジー一般が嫌になったわけではないんです。僕が最初にテクノロジーに惹かれたときは、その未知の部分に引っぱられるという驚きがあった。なおかつ、テクノロジーによって開かれていく世界というのが、意識のコントロールを超えている部分もありました。シュールレアリスムのように、心の内側の奥底でとぐろを巻いている無意識の世界が、何らかのことを契機として頭を持ち上げて、意識の制御を超えた働きを見せる。意識がコントロールしている世界から、それを逸脱する思わぬ姿が、新鮮な芸術的意味を持つと考えていました。
 その一方で、機械とかテクノロジーがもたらす世界も、意識のコントロールを超えて、物自体の運動として展開するところがあります。最初は、カメラという機械やレンズ面を通すことが、人間の意識とは違うということに新鮮さを覚えた。物質的な運動が意識を離れてひとり歩きするとき、シュールレアリスムにおける無意識とそれがどこかで繋がっていくのだと考えました。片方は意識の外側の世界、片方は内側の世界で、出発点は違うのだけれども、どこかで両者が出会う位相があるんですね。
 僕は最初の著書『映像の発見』に、副題でドキュメンタリーとアヴァンギャルドとつけました。そのときのドキュメンタリーというのは、物質性を契機にして生まれてくる発見であり、アヴァンギャルドというのはシュールレアリスムの無意識の世界だと考えていました。最初から考えていたその二つがくっついて、意識との関係の上で独特の位置を占めるようになりました。動脈硬化に陥りかけた意識に対して何かを働きかけていく位相が、非常に創造的なものを孕むのではないかと考えるようになったのです。そういうところがデジタル技術も含めてあるわけで、それがもっとおもしろさに向かえば何かを作ることはあり得るわけです。でも、出来合いのメニューで大衆食堂に入り、電子レンジで作ったような安物の料理をどれか選びなさいと言われても、それは嫌だということです。それが80年代以降、僕がコンピュータ技術から距離を置いた理由です。

――それを松本監督はネオ・ドキュメンタリズムとかシュール・ドキュメンタリーという言葉で呼んでいますね。例えば、ミケランジェロ・アントニオーニの『欲望』という映画では、カメラが主人公の意識の外側にあるものを撮影していたということが問題になりました。そのように、カメラという機械が否応なく写してしまう意識の外部性というものと、コンピュータが持っている物質的な外部性とは相容れず、コンピュータではそのようなことをするのは難しいということなんですか?

 そうですね。コンピュータの徹底したプログラム主義と技術がもたらしたものを否定するわけではないですが、それと意識との関係では、すぐに慣れが発生してしまい、新鮮な刺激というものが衰えてくると思うんですよ。


映画批評や理論について
――今度は少し映画批評家・理論家としての松本さんにお話を聞きいていきたいと思います。80年代〜00年代にかけて松本さんが注目してきた実験映画、個人映画、メディアアーティストがいたら、ぜひ教えてほしいのですが。

 たとえば、岩井俊雄とかね。彼の何がすごいかというと、想像力が豊かなんですよ。最初の『時間層』というシリーズ作品がありますね(※85年に『時間層2』で第17回現代日本美術展大賞)。これは物体がコマ撮りのアニメーションで動くのですが、いわゆる人形のアニメの方法ではありません。
 ゾーマトロフィ(回転のぞき絵)は、映画前史において物が動くイメージを作り出すために、側面に縦のスリット(切れ目)を入れた円筒形を回転させます。内側の面には連続写真のように静止画が描かれており、スリットから透かして見るとこれが動いて見えます。これは映画の原理と同じです。カメラでいうと、シャッターがレンズの前を通るときにフィルムが動き、シャッターが開いたところで一コマが写されることのようなものです。そのゾーマトロフィの原理を使って、岩井俊雄は『時間層』のシリーズで蛍光灯の瞬きやモニターをストロボ光源として使い、スリットと同じような機能をそこから取り出している。円盤の上に乗せられた人形や物体が、太陽光の下では整然とした秩序のものではなく、でたらめに動いているように見えます。それを蛍光灯やモニターで照らすと、一コマ一コマの動きがアニメーションとして見えるようになる。
 そんなことを考えた人はいないのよね。それはハイテクではないのだけれども、発想がすごい。普通のドローイングや立体のアニメーションにもいかない。そこのところが創造性の問題だと思います。岩井俊雄はコンピュータを使うようになってからも、音楽家の坂本龍一と組んで、ピアノとコンピュータによる画像形成を連動させて、これも見たこともないようなメディアの可能性を見せました。これはメディアアートといっても、やはり映像表現の展開のなかに出てきた表現なので、映像と関係ないものではない。光を使った技術、音楽、映像がおもしろく結びついている。そういった例は他にも幾つかありますね。

――毎年行なわれているイメージフォーラム・フェスティバルではどうですか。

 いくつかおもしろいものはありますが、みんな小粒になってきていますね。もう少し大きい世界がほしいなと思います。持続してやっていけるような何かがほしい。最近、伊藤高志君が映像とダンスを組み合わせた試みをやっています。映像とパフォーマンスの組み合わせあたりに、何か新しい領域ができるということもあるのかもしれません。

――91年の『映像の探求』のあとがきには、雑誌「イメージフォーラム」に連載していた『逸脱の映像』を本にする予定だと書いています。これは読みたいところです。また、2000年からこの雑誌が休刊になっており、最新の実験映画やメディアアートを紹介する松本さんの文章もまた読みたいところですね。

 『逸脱の映像』は「イメージフォーラム」の連載で十何章かまで書いて、一冊分にしようとしたのですが出版はされませんでした。書き下ろし分も、途中までは書いてあります。最近は映画の本が売れない、さらに僕の評論集のような難解な本は歓迎されないというせいもあるのでしょう。

――70年代〜80年代に書かれ、『映像の探求』に収録された論考で松本さんは「映像の理論史」を試みています。また、映画を見ることの制度性を鋭く批判し、映像を見る身体の復権をはやくから唱えています。あるいは、ソシュールやバルトといった構造主義的な記号学から、クリスチャン・メッツやドゥルーズらの当時の最新の知見を踏まえ、記号生成とイマージュの映像理論といったものを構築しようとしました。
 昨年、日本ではようやくドゥルーズの「シネマ」の翻訳が完了し、映画史や理論史がまた脚光を浴びてきています。さて、現在の松本さんはどのような映画理論や理論家に興味をお持ちなのでしょうか?

 いまこれだというものは思いつきません。パイオニアとして何かをもたらしていくような理論も出てきていない。創作の方もそうですし、観る方もそうですし、これからどうなっていくのかと心配になるところがあります。確かに若手の意欲的な研究者は増えています。ですが、それをやっていけば、映画にとって意味があるだろうという研究はあまりない。自分自身の話でいえば、90年代に僕は病気をしまして、その後遺症が回復していないのです。やはり身体と意識がうまくかみ合っていかないと、創作にしても理論にしても全力をあげてやるというレベルには行きづらいですね。

――90年代以降の劇映画のなかで、松本さんが興味をお持ちの映画作家がいたら教えてください。

 逆にみんなに聞きたいですね。最近は以前みたいに足しげく映画を見てまわるということはできていない。特に足が痛くてね。歩くのがきついわけ。ジャンルについては自分で守備範囲を決めることはしていません。それぞれの表現特性は違うのだけれど、いいものはいいという映画には出会いたいです。そういう感動がほしいだけです。
 最近、日本映画の製作本数というのは増えているんですよね。日本映画はむしろ活況を呈しているという言動すらある。若い人の映画を見ていると、なかには上手いものはあります。やはり若い頃から映像環境のなかで育っているからね。ただ上手ければ良い映画というわけではないので、そこはジレンマがあるところです。
 それに付け加えていえば、映画雑誌が衰退し、映画に関する本や活字がまったく売れないという現状があります。だから『映画芸術』には頑張ってほしい。そういうなかで一番問題なのは、批評というジャーナリズムが衰退してしまったことです。映画を侃侃諤諤と論じる批評運動がないとね、映画自体だって本当にいい映画が出てこないと思うんですよ。


「幻視の美学・松本俊夫回顧展」
1月17日(土)〜2月27日(土)までシアター・イメージフォーラムにて開催中

Vol.1
・『修羅』
・『薔薇の葬列』
・「松本俊夫実験映画集」
program A 詩としての映像
 『西陣』『石の詩』『母たち』
program B 視想の錬金術
 『つぶれかかった右眼のために』『エクスタシス<恍惚>』
 『メタシタシス<新陳代謝>』『モナ・リザ』『ファントム<幻妄>』
 『アートマン』『ホワイトホール』『気=Breathing』
program C 反復と変容
 『エクスパンション<拡張>』『アンディ・ウォーホル=複々製』『色即是空』
 『エニグマ<謎>』『コネクション』『リレーション<関係>』
 『シフト<断層>』『スウェイ<揺らぎ>』
program D 最初期と後期
 『銀輪』『白い長い線の記録』『エングラム<記憶痕跡>』
 『気配』『DISSIMULATION<偽装>』

Vol.2
・『十六歳の戦争』
・『ドグラ・マグラ』

公式サイト http://www.imageforum.co.jp/matsumotoretro/

タグ:金子遊
posted by 映芸編集部 at 14:06 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする