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2009年01月23日

試写室だより『へばの』
モニターを介して愛を説く世代
近藤典行(映画作家)

 北国であると推察できる青白い台地に嵐吹き荒ぶ夜の光景に、素肌を曝け出し男の膝に顔を埋めた女の下半身を中心に捉えた画面が緩慢にオーバーラップしてくる。女と男が何も纏わずにいる室内にはたっぷりと冷気を含んでいるはずの風が吹き込んでいて、上体を起こし穴の開いた窓際に近づく女の口から白い吐息が漏れ出るのも見てとれる。しかし、なぜだろう、女の体温は一切感じられない。映画によって充たされるのは視覚と聴覚だけだ、なんてしたり顔した尤もな指摘は無視する。かつてわれわれは映画を見ていて、まざまざと匂いを感じたり、温もりを感じたりしてこなかっただろうか。

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 紀美(西山真来)は、極寒の青森の地で、常に無防備のまま世界と直に触れあって生きている。彼女の傍らには恋人である治(吉岡睦雄)と父である大樹(長谷川等)しか存在していない。PRセンターに勤めている彼女は、この村にも自分自身にも、PRするものなんて何一つないということを痛いほど肌で感じ取ってしまっているため、黙々とモップを動かすのが唯一の仕事だ。PRセンターで働く他の人=この村の人たちみんな、核燃料再処理工場の存在が尤も端的に表わしているようにすべての事柄を諦念とともに受け入れて暮らしている。それはどこか、その場所で一生を終えるしかない囚人の振舞いと重なり合う。紀美と治が度々足を踏み入れお互いの身体を擦り合わせる、秘密の隠れ家めいた廃墟も、大樹と紀美の父娘二人で住むこととなる建て替えられたばかりの立派な日本家屋も(でもやっぱりこの建物の内部の造り、装飾は、より二人の孤独を指し示す意図が汲み取れるものの不自然すぎると思う)、そしてこの村そのものも、いくらでも望めば出入り自由であるはずが、逆にそこに縛られるしかないような禍々しい磁場をどんより発散させている。治が紀美の元を去るのは、核施設で事故を起こしたからでもそのことで子供を作れなくなったからでもない。この無駄に広くて不自由のない檻の中で、ずぶずぶと飼い馴らされてしまうのに耐えられなくなったからだ。結局は再びその強力な磁場に手繰り寄せられるようにして、また村へと戻ってくることになるのだが……。

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 淡々とした日常を題材とした有象無象の自主映画たるのを賢明に拒むべく、「被曝」という際立ったテーマを物語に果敢に導入し挑んだその姿勢を、それだけで擁護しようとは思わない。そのことで、再処理工場内で防護マスクを着けもせずに放射性物質を吸引してしまう展開や、治の死を象徴的に描写した唐突すぎる銃撃シーンの分かりづらさなど、首を傾げたくなる不可解な点を看過するわけにはいかない。特に、新しい家族を作った治を目撃した後の、紀美のアップに被さる「これでよかったんだ」というナレーションでの処理の仕方と、遅く帰ってきて食卓についた紀美の頭をおもむろに抱きかかえる大樹の動作のぎこちなさ、それに続く箸を持ったまま大樹の腰に手を回すかのようで虚空を彷徨う紀美の中途半端な手の動き、これらは演出的にまずいのではないだろうか。そういった細部こそが主人公である紀美の輪郭を奪い、登場人物たちの存在感を希釈する要因となっているように思えてならない。

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 僕は以前、これと同様の危惧を投げかけたことがある(このサイト内での『東京人間喜劇』クロスレビューを参照していただきたい)。奇しくも、『ヘばの』の監督木村文洋くんと『東京人間喜劇』の監督深田晃司くんは同学年である。映画を撮りたい、との欲望を抱いた時、すでに身の回りには自然とレンタルビデオ屋とビデオカメラがあった初めての世代の監督たちだ。このことが映画作りにどういった影響をもたらしているのか、現時点で結論めいたことなど僕には一つも思いつかない。それでもこの二人の映画に共通する、登場人物たちへの距離をとった、決して深入りしない、醒めた視線ははっきりと画面に表れている。殊に、女性を描いているものの、彼女たちからは匂いも体温もまったく感じられない。だから、グッとくる瞬間もヒヤッとする瞬間も訪れない。映画なんだから女優が美しく映ってなければそれだけで欠点となる。もちろん美醜の問題ではない。二人の監督ともすでに映画を生きていて、これからも力のある映画を撮っていくであろうことが約束されているからこその問題提起だと受け取ってくれたら嬉しい。一方、こちらも同学年、劇作家で小説家の本谷有希子ちゃんはインタビューに応え、「リアリティーには興味はなくて、説得力さえあればいいんです」と高らかに言い放っていた。彼女の描く女性たちはみんな突拍子もない行動、暴走を起こす、どうしようもなくアクの強いやっかいな存在である。いやがらせもいじめも平気で実行するのだが、なんというか陰湿でありながら明るいというか、根っこの部分で希望を蓄えている。悔しくなるほど魅力的だ。それは彼女たちを描き出している作家が持つ、登場人物たちへの無償の愛が刻印されているからだと、僕は考えている。ちなみに、前述した御三方を(その内二人は面識もないのに)君付け、ちゃん付けで馴れ馴れしく呼んでしまった僕も同学年である。

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 脱線してしまった。本題に戻る。『へばの』の劇中で主要人物である、紀美、治、大樹、全員が別々のシーンでそれぞれが同一の言葉を口にする。それは「東京に行こう」というセリフなのだが、冒頭からスクリーンに向かい合っている観客には容易に想像がつく。この中の誰一人として東京にたどり着くことはないだろう、と。事実、東京に向かうどころか、再処理工場以外なにもないこの牢獄の村から皆一歩も出られずに結末を迎えることとなる。そして、ここで指摘しておかなければならないのは、「東京に行こう」と口にして行動に出ようとする治も大樹も直後に死に、間際になって「わは、ここにいる」と選択した紀美だけが新しい命を授かり、家族を築くという点だ。この場所を、自分自身を、肯定した紀美の決断に優しく寄り添うようにして映画は終わっているかに見える。ただこれは些かも幸福な結末ではない。赤ん坊とともに生きていく紀美の牢獄での未来を告げている最後のカットには、希望に溢れた祝福の色合いなど微塵もなく、なんとも空恐ろしい不穏な空気が漲っている。それでも紀美は身を以って感じている、もはや世界のどこにも逃げ場所はないのだということを。三年前、芥川賞の候補作にもなった自作の小説に『生きてるだけで、愛』とタイトルをつけたこの同級生の女子に対して、男子たちは生きていくことと同様、映画を撮ることに付いてまわる暗さから未だ逃れられないでいる。

『へばの』
監督・脚本:木村文洋
出演:西山真来、長谷川等、工藤佳子、吉岡睦雄
2008/カラー/DVCAM/81分

1月31日(土)よりポレポレ東中野にてロードショー

公式サイト http://teamjudas.lomo.jp/
公式ブログ http://teamjudas.exblog.jp/



posted by 映芸編集部 at 23:13 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする