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2009年02月12日

試写室だより『ポチの告白』
どうせイヌならバター犬になりたい
平澤竹識(編集)

 3時間15分という尺数はいまや、それだけでも十分に挑発的である。以前、『河童のクゥと夏休み』の公開を控えた原恵一監督はインタビューのなかで、長尺の映画に対する製作興行サイドの反発に言及していたが、作り手の強い意志と覚悟がなければ、現在の邦画界で3時間を超える映画を作り、それを劇場公開まで持ち込むのはきわめて難しいということだろう。2005年に製作された本作が、同じ監督の第二作である『GOTH』と同時期の公開となったのも、そうした事情と無関係ではないはずだ。そして実際この『ポチの告白』が、3時間57分の上映時間が宣伝にも利用されている園子温監督の『愛のむきだし』と同様に、その長尺に見合うだけの内実を伴った問題作であることは間違いない。

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 本作を一言で説明すれば、「警察の内幕もの」ということになるのだろうか。現職警官たちの不正や汚職、堕落や頽廃を暴きたてる鋭く批判的なまなざしはもう〈告発〉の域にまで達している。その告発が一方的な教条主義に陥らず、告発する主体の自家撞着をも免れたところに、本作の賢明さがあると言えるのではないだろうか。
 わたしたちはもう、あらゆる種類の正義には裏があることを知っている(つもりになっている)。「八紘一宇」も「共産主義」も「所得倍増」も「技術革新」も、本作が材に取る「警察」だってそうである。だから、ある一つの思想に依拠した主張というものを信じることができないし、信じたいとも思わない。いまの世代の教条的な表現に対する反発の理由はそうした感覚と背中合わせにある。
 昨年公開された『闇の子供たち』では、教条的な表現を回避すべく、タイの幼児売買春を告発しようとする記者がその犯罪の当事者に設定されていた。作り手はそうすることで、映画のなかで横行する罪悪が自分にとっても観客にとっても他人事ではないことを示そうとしたのであろう。しかし、こと映画においては、その“誠実さ”は必ずしも効果を発揮しなかった。告発する主体が罪悪を犯していては、その告発自体の信ぴょう性が失われてしまうからである。そこに、現代において「社会派映画」を作ることの困難を見て取ることはむずかしくない。高みから説教を垂れても、逆に自らの罪を見つめても、それが映画の力とはなりえないのが現代なのである。

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 『ポチの告白』はなぜ、教条主義の罠にも自家撞着の陥穽にもはまらずにすんだのか。ひとつには、そのドラマに善悪二元論の図式的な対立を持ち込まなかったことが挙げられるだろう。開巻当初、告発の主体である草間力男(川本淳市)は、不正をネタにして警察にたかるチンピラまがいの男として登場するし、告発される側の警官・竹田八生(菅田俊)は朴訥な好人物の人格をあたえられている。その後、草間は警察のさしがねでリンチを受けたことをきっかけに、竹田は交番の巡査から刑事へと昇任したことをきっかけにして、善玉と悪玉の役割を交替していくのである。表向きは告発ドラマの体裁を取りながら、作り手は最後まで告発する側が善で、告発される側が悪であるという判断を下さない。それによって、旧来の「社会派映画」が陥りがちな教条的な表現を免れているのである。
 さらに本作では、交番に勤務する巡査たちの頽廃や、竹田を汚職に巻きこんでいく三枝課長(出光 元)と遠縁の山崎(野村宏伸)の深謀遠慮までもが相当の分量をもって描かれている。竹田と草間の対立を軸としながらも、そこに焦点を絞らなかったことでドラマの進行は緩慢になっており、全体として冗長な印象を与えるのはたしかである。しかし、この群像劇のようなスタイルを採用したことで、竹田の堕落と頽廃が個人の性向に由来するものではないことが強調されている点を見落としてはならない。とりわけ、竹田が「おれの若いころにそっくりだ」と気にかける愚鈍な新米巡査・国井(新井貴淑)のその後の変貌ぶりに作り手のそうした意図が明らかである。つまり、この映画が告発しようとする標的は個々の「人間」ではなく、あくまでも人間によって形成された「組織」のほうなのである。だからこそ作り手は自分を責める必要なしに告発の映画を撮りえたのであり、それが自家撞着の陥穽にはまった『闇の子供たち』との大きな違いと言えるだろう。

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 ともあれ、そうした全体の構成のみによって映画がおもしろくなるわけではない。本作の大きな魅力は、微にいり細をうがった警察組織内の細部描写にある。警察官特有の言葉遣いにとどまらず、裏金作りの手続きや暴力団との癒着の実態などが、次から次へと的確に示される。たんに取材の成果を羅列したシナリオなら、これだけの説得力を獲得できるはずがない。セリフが俳優の実感を通して語られるからこそ、情報ではなく肉声として、観る側の心にまで届いてくるのである。俳優たちのそうした演技を引き出したのはもちろん演出の力によるところが大きいはずだ。ただ、各人物を多面的なキャラクターとして造形したシナリオの力も大きく貢献しているように思われる。
 たとえば竹田は妻子の前ではふつうの父親であり、職場と上司に対しては忠誠心の強い、生真面目な男である。だが、ひとたび現場に出れば権力を武器にして、暴力団や韓国マフィアからカネを巻き上げることも厭わない獰猛さも持ち合わせている。近年の邦画ではとかく人物のキャラクターを単純化する傾向が見られるが、人間とはつねに矛盾を抱えた曖昧な生き物である。本作では、人物がそれぞれに矛盾を抱えたまま存在しており、だからこそ矛盾をつなぎ止める肉体としての俳優がなまなましく画面に息づいているのだろう。カメラが俳優の演技に集中しすぎたせいか、映像が躍動しないきらいはあるものの、それでも彼らの演技は十分に映画的な興奮をもたらしてくれる。

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 いまの観客は『ポチの告白』を前にして、これが真実なのかどうかとまず身がまえるにちがいない(この映画には「これは実話に基づく物語である」という類のテロップが出てこない)。しかし、ここに描かれた出来事が実際にあったかどうかは大して重要な問題ではないだろう。この映画が撃とうとしているのは警察それ自体ではなく、警察という組織が最も顕著に表している日本人的な共同体のあり方だからである(画面に顔をのぞかせる日の丸や皇居の存在を指摘するまでもなく、三枝が山崎に娘との政略結婚を勧め、国井が検事の息子に設定されているのも、当然そうした狙いと無縁ではないはずだ)。そもそも、ここに描かれている不正や汚職はいずれも保身や虚栄の心理に端を発しているがゆえに、どんな組織においても起こりうる身近な問題として捉えられる。一方では宣伝会社の意向を気にしつつ、他方では作り手の顔色もうかがい、また読み手の評価にもおびえながら、こうしてビクビクと文章を綴っているわたしのような人間にも決して他人事とは思えない。この普遍性にまで到達しえたところに本作の真価があるのだろう。


『ポチの告白』
監督・脚本・編集:高橋 玄
原案協力:寺澤有
出演:菅田俊、野村宏伸、川本淳市、出光 元、井上晴美 ほか

1月24日より新宿K'sシネマにて上映中
2月11日より名古屋シネマスコーレにて上映
3月21日より大阪第七藝術劇場にて上映

公式サイト:http://www.pochi-movie.com/


タグ:平澤竹識
posted by 映芸編集部 at 03:50 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする