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2009年03月19日

闘うドキュメンタリー映画時評(序)
ハンディカム・ドキュメンタリー宣言
金子遊(映画批評家)

擬似ドキュメンタリー
 魔女伝説を背景にした『ブレアウィッチ・プロジェクト』(‘99)以降、ハンディカムのビデオカメラ映像を使用した「擬似ドキュメンタリー」(モキュメンタリー)の手法をときどき劇映画のなかで目にするようなった。
 『クローバーフィールド/HAKAISHA』(‘08)はパーティに持ってきた家庭用ビデオカメラの視点から見られた設定の怪獣映画である。カメラの手ぶれと一参加者の視野に限定されたビデオ映像が臨場感を高めるが、実際の撮影にはソニーのシネアルタというプロ用HDカメラを使用したらしい。ジョージ・A・ロメロの『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(’07)も、学生の映画撮影グループがゾンビに襲われる惨状を記録するという趣向であり、撮影者が変わるところが特徴的である。
 
 ブライアン・デ・パルマの『リダクテッド 真実の価値』(‘07)は手が込んでいる。若い兵士が撮影したプライベート・ビデオを軸に、実際にイラクで起きた米兵による14歳少女のレイプと家族惨殺事件の過程を描いている。デ・パルマはビデオ映像のみではなく、携帯電話で撮影された映像、Youtubeやチャットの動画、監視カメラや武装集団のネット上の映像など多様なフォーマットを取り込み、高度に情報化された戦場の現実感の希薄さを立体化しようと試みる。
 いずれの擬似ドキュメンタリー的な映画も、ハンディカム・ビデオカメラで撮影されたという設定を組み込むことで現実味と臨場感を高めている。ジャンルに関係なく映画におけるフィクションは、客観と主観(人物の見た目)を出入りする自由間接話法的な文法で撮影されることがほとんどだが、これらの映画はハンディカム・ビデオによって視点を固定し物語に同期させることで、映画を見る者に強い一体感を覚えさせる効果をあげている。

ハンディカム・フィクション 
 『食人族』(‘81)や『カメレオンマン』(‘83)の時代から擬似ドキュメンタリーは架空の人物や出来事を扱ったものであり、それが映画内外の言及によって自ずとわかるようになっていた。それに対して『風の馬』(‘98)や『リダクテッド 真実の価値』は、現実に起きた事件を再現するために擬似ドキュメンタリー的なアプローチをしている。中国政府の弾圧化にあるチベットで撮影された『風の馬』(‘98)は、実話を元にしたフィクションをもう一度チベットの現実のなかに戻して撮影するという、ひと筋縄ではいかない構造をそなえた映画である。
 まず、『風の馬』ではハンディカム・ビデオカメラの存在が物語構造のなかに内在化される。チベットの首都ラサで政治的な地下活動をする友人たちを尻目にぶらついている兄と、中国人青年の力を借りて歌手としての道を歩もうとする妹。その家族のもとへ、ダライ・ラマ支持の意志を表明したために監獄で拷問を受け、瀕死の状態になった僧侶の従妹ペマが運びこまれる。彼女の身に何が起きたのか。この家族はペマの証言をビデオカメラで録画し、アメリカ人旅行者に託して当局を告発しようとする。
 ハンディカム・ビデオカメラで撮影したビデオテープを海外へ持ち出し、それで告発しようという発想は映画としてはややナイーブに過ぎる。ただ現実には、中国政府の報道規制によって外国からのカメラが入れなくなっているチベットで、どれだけそれが個人にとって危険を孕む抗議行動であることか。『風の馬』では撮影に関わった家族がラサにいられなくなり、兄妹はネパールへ亡命するためにヒマラヤ山脈を徒歩で越えることになってしまう。新聞報道によれば、公費で「視察旅行」と称し海外観光旅行をくり返していた中国の役人が、ネット動画によって告発されて辞職に追い込まれた実際の事件もあるようだ。ビデオカメラやネット動画は使いようによっては、中国政府や官僚機構に対する抵抗の道具にもなりうるのだ。

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『風の馬』

 それにしても気になるのは、DVかデジタル以前のベータカムで撮影された映像が安手に見え、役者の演技や演出にも紋切り型の表現が目立ち、ひと昔前の現地のテレビドラマはこうであったろうと想像されるような作品になっていることだ。少人数による撮影や現地スタッフの技術の問題に加えて、チベットやネパールで無許可撮影を行なうしかなかった条件のせいもあるのか。それでも『風の馬』という映画の力強さを支えているのは、役者と撮影隊が街頭へ出て行き、虚構を現実のなかに溶け込ませようとする、そのビデオカメラによる無許可撮影の身振りでもあるのだ。
 『風の馬』のような手法を擬似ドキュメンタリー的と呼ぶことはできない。再現映像をドキュメンタリーに近づけた「ハンディカム・フィクション」とでも名づけるしかない。この撮影手段は資金、時間、撮影条件の貧しさを映像のなかに露呈させる一方で、『風の馬』の場合、この映画がこのやり方でしか撮りようがなかったという真摯さを見る者に印象づける。元々、カメラにとって撮影対象が本物か虚構かなどという区別は存在しない。本物の人物も役者も、カメラは無言でそれを記録するだけである。そのような意味では、『風の馬』が持つ特性は、制度的にドキュメンタリーやフィクションといった言葉でジャンル化することの無意味さを、改めて私たちに鋭く突きつけてくるところがあるのだ。
 
ビデオ・ドキュメンタリー映画
 ところで、フィルムカメラに比べてビデオカメラを使用する利点はコスト・パフォーマンスにある。何度でも再撮影が可能であり、長まわしも可能であるからこそ、90年代から00年代にかけて、劇映画ではなくドキュメンタリーの分野でデジタル化とビデオ化が急速に進んだ。ここでは便宜上、業務用・民生用を問わずビデオカメラで撮影されたドキュメンタリー映画を総称して「ビデオ・ドキュメンタリー映画」と呼んでおきたい。
 たとえば、『小三治』(‘09)は落語家の柳家小三治を3年半にわたって追いかけたビデオ・ドキュメンタリー映画である。この小三治師匠、なかなか頑固で癖のある人物である。寄席を大事と考えてテレビ出演をしない上に、噺家はどんどん変貌していくものだから落語の記録を残すのも嫌だという。そんな師匠にビデオカメラが鈴本演芸場での高座、全国各地での落語会、旅の道中などに粘り強くはりつく。そうしているうちに、気難しく堂々としている落語家の「迷い悩み、自分と格闘し続ける」姿が徐々に浮びあがってくる、優れた人物ドキュメントとなっている。

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『小三治』

 なるほど、『小三治』はプロフェッショナルなスタッフによって作られた、非常に質の高い映像ソフトであり、この映画を見たいと思う一定人数の層は必ずいるだろう。ただ引っかかってしまうのは、このビデオ・ドキュメンタリー映画がNHKなどで放映される良質な番組と、果たして本質的な差違を持ちえているかという点である。『小三治』を映画たらしめている要素は、何よりもテレビに出ない小三治師匠の高座やプライベートでの姿が見られることと、そして番組制作では難しい3年半という月日をかけて丹念に撮影したことであろう。
 たしかに、これは少人数で撮影できるビデオカメラの特性と、フィルムに比べて圧倒的に廉価なビデオ・メディアでなくてはできないであろうし、作り手は辛抱強くビデオ・ドキュメンタリーの能力をフル活用して追い続けることで、師匠の胸襟を開くことに成功している。また、テレビでは取り上げにくい題材を扱っているという優位性もある。しかし、良質なドキュメンタリー番組と比較したときに、通常60分の番組が104分に拡張されて映画館で上映されているということ以上に、『小三治』に積極的な映画性を見つけることは難しい。番組的な「構成」ではなく、私たちが『風の馬』を考察しながら見たような、映画的な「構造」というものを欠いているように思えるのである。

記録映画
 映画を映画たらしめているものは何なのか。ビデオ・ドキュメンタリー映画は尺の長さと上映形態の他に、ドキュメンタリー番組と何か本質的に違うものを持っているのか? その問いに答えるためには、私たちはもう一度「記録映画」というものに遡って考察する必要があるだろう。
 記録映画のメディアが、フィルムからデジタルの媒体に変わることで利便性は上がったが、そこで失われたものもたくさんある。小川紳介、佐藤真らの映画ではフィルムが一回性のメディアであるからこそ、記録する状況や対象に対して肉迫することが要求された。映画作家はスタッフと共にロケ地に住み込み、撮影対象となる三里塚や阿賀の人々を知ることで、撮影するべき時と場所を事前に察知しようとした。テレビという新興メディアとのせめぎ合いのなかで、映画にしかできないドキュメンタリーを撮るために、撮影対象との長期にわたる関係性の構築を目指したのである。
 記録映画の方法論の蓄積を生かし、35ミリフィルムによる映像の叙事詩にまとめ上げたのが本橋成一の『バオバブの記憶』(‘09)である。セネガルの首都ダカール近郊の村に残る、バオバブの木を中心とした人々の営みを1年通して記録したものである。バオバブは樹皮をロープとして、果実は食器や楽器として、種子は食用油として使うことができ、昔から人々の生活に欠かせない存在であった。それに加えてバオバブはその形象からも「聖なる樹」として崇められ、呪術師や村の人々は、古くからバオバブの木の下で占いや祭儀を執りおこなってきた。そのバオバブを中心とした暮らしが崩壊しかけているという事実を静かに、しかしながら強固な意志をもって警鐘を鳴らす映画なのである。

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『バオバブの記憶』

 『バオバブの記憶』を見ていると、本橋成一がこの映画をフィルムで撮影しなければならなかった理由が感得されてくる。もちろん、彼は過去にビデオ・ドキュメンタリー映画もテレビ番組も作っているはずなのだが、この題材はデジタル・ベータカムやHDカメラで撮影しないことの方を選択したのだろう。それはどうしてなのか? それはフィルムでしか写せないもの、ビデオ技術では映らない何かがあるということに根ざしている。
 俗にいわれる技術的な観点では、デジタルビデオ(CCD)はフィルムの画質を超えていないといわれる。明暗や諧調において、フィルムの方が人間の眼に近いような範囲の広さを持っているからだ。しかし、一部のデジタル・ハイビジョンカメラは既にフィルム的な再現性を獲得しつつあり、これはいつか克服される問題でもある。もっと重要なのは、フィルムがビデオより優れているかどうかではなく、フィルムの表現力や質感を映画作家が芸術の問題として選ぶことがあるということの方だ。『バオバブの記憶』では、本橋成一は村の人々の暮らしをやさしく包む空気と、バオバブの樹が持つ集合的な記憶を繋げようとしている。そのような或る意味で詩的ともいえるアプローチをとるときに、作家は経験的にフィルムでの撮影を決断したのであろう。それがビデオでは不可能だというのではない。現代においては、フィルムによる記録映画という手段は、いくつかある手法のなかから題材に合わせて選択されるものとしてあるということである。

ハンディカム・ドキュメンタリー 
 不思議なのは、35ミリフィルムで撮影された『パオバブの記憶』を見ていて、私の眼が「まるで昔の映画を見ているようだ」と感じたことである。森達也の『A』(‘98)や土屋豊の『新しい神様』(‘99)くらいまでは、劇場で上映される映画のビデオ映像にはまだ違和感を持っていた。それが、ビデオ・ドキュメンタリー映画を見慣れてくるにつれて、まったく反対に、フィルム撮影された記録映画の方に古さを感じるようになってきたのだ。それにはデジタル・ビデオカメラやプロジェクターなどの機器が飛躍的に進歩しているというテクノロジーにおける側面もあるが、それ以上に「視覚の歴史性」のようなものが作用しているように思える。
 たとえば、劇映画のなかの回想シーンにおいて、8ミリフィルムや16ミリフィルムによる映像が効果として使われることがある。大雑把にいって、それらが社会において身近であったのは戦後から70年代後半くらいまでで、その後はビデオの時代になっていく。つまり、フィルムの映像を見ると、その或る時代の集合的な記憶へと私たちの眼と脳がアクセスし、それを過去のものとして認識しようとするのだろう。これはフィルム撮影がまだ支配的な劇映画についてはいえないが、近い将来ドキュメンタリー映画においては、35ミリフィルムで映画を見ると、90年代かそれ以前の時代をノスタルジックに想起するという事態が起こるようになるかもしれない。

 それでは反対に、ドキュメンタリー映画の最前線はどこにあるのか。その一つはハンディカム・ビデオカメラならではの特性を活用している「ハンディカム・ドキュメンタリー」であろう。新たなる映画文法と個人映画の可能性をはらむ方法論として、これらの映画には注目しておきたい。
 たとえば、森達也の『A』は、ハンディカムの手持ちカメラならではの身軽さでオウム真理教側に潜行し、むこう側の視界からオウムを叩くマスコミや現代社会の姿を批評的に浮かび上がらせることに成功した。あるいは土屋豊の『新しい神様』では、手軽なハンディカム・カメラを登場人物のそれぞれに持たせることにより、多視点の交錯を実現していた。90年代後半の当時は、デジカメ映像は映画館での上映の長さとスクリーンの大きさに映画として耐え得ないという危機意識があり、彼らはそのような映画的な「構造」や「仕かけ」を持ち込むことで、ハンディカム・ドキュメンタリーの方法論を切り拓いていった先駆的存在であった。

個人映画へ
 『長江にいきる 秉愛の物語』(‘07)はDVカムやHi-8ビデオを使い、7年かけてひとりの中国人女性の生を撮ったハンディカム・ドキュメンタリー映画である。長江の岸辺の農家へ意志に反して嫁いできた秉愛(ビンアイ)は、子供と病弱な夫を抱えながら、貧しくもたくましく暮らしている。ところが、三峡ダムの建設にともなって、役人に立ち退きを迫られる。補償金をもらって街に移住するのではなく、農地のあるこの場所で生き抜きたいと、彼女は中国の国家官僚たちへ抵抗をはじめる。
 ひとりの女性の苦難を女性監督であるフォン・イェンが、長年通い続けて撮りあげた映画であるが、この映画のハンディカム・ビデオカメラには獲物を狙うような目が見当たらない。カメラというデジタル機器が、母であり妻であり農婦である秉愛という女性の生に共鳴する楽器のように、やさしい目で見つめながら響き合っているのである。作家が撮影対象と同じように夫や娘を持つ女性の立場だからというだけではなく、『長江にいきる 秉愛の物語』ではまるで撮影することが二義的であるかのように、ひたすらフォン・イェンは三峡ダムへ、秉愛の元へと通い続けている。
 政治告発的な題材ではあるのだが、むしろ撮影者の視点はそれを記録し、その不当性を世間へ知らしめるという当初の主題から逸脱していき、秉愛の生き方から何かを教わろうという個的な関わりや交わりへと移行しているように見える。ゴダールは「映画は5人で撮れる」といったが、『長江にいきる 秉愛の物語』はたったひとりで撮った映画だといっていい。むしろ、ひとりで撮らなくては、これだけの個的な共鳴を映像に定着させることはできなかっただろう。これはドキュメンタリー映画であると同時に、「個人映画」の流れをも汲んでいるようだ。ハンディカム・ドキュメンタリーは、個人が映画を撮りたいという願いを実現することのできる、唯一無二の場となりつつあるようだ。

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『長江にいきる 秉愛の物語』

フォークアートへ
 近年のハンディカム・ドキュメンタリーは、ますますその個人性を強めている。これはパーソナル・コンピュータの処理速度が速くなり、家庭用のPCで滞りなく編集作業ができるようになったこととも関係しているのだろう。近年の『カメラになった男 写真家中平卓馬』(‘03)、『選挙』(‘06)、『バックドロップ・クルディスタン』(‘07)、『フツーの仕事がしたい』(‘08)などを見ていると、興味深い人物と出会い、ひとつの社会の切り取り方を見つけ、根気強く撮影を続ければ、緊張感のあるドキュメンタリー映画が個人の手によって生み出せることがわかる。
 ハンディカム・ビデオカメラはそんな現代における魔法の道具となりつつある。ヘンリー・ミラーの言葉をもじっていえば「どんな人の人生においても、映画を1本作るだけの出来事くらいは起きる」のである。むしろ、難しいのは撮り続けることの方であり、ワン・ピンの『鉄西区』(‘03)のように、たったひとりで社会や歴史を相手にまわすような撮影スタイルを確立することなくしては、ハンディカム・ドキュメンタリーの作家は今後、困難な道を歩むことになるかもしれない。
 そんななかで注視したいのは、実験映像の方面からハンディカム・ドキュメンタリーへ入ってきた二人の作家、『半身半義』の竹藤佳世と『究竟の地−岩崎鬼剣舞の一年』の三宅流の存在である。特に三宅流はもともと舞踊や身体芸術への志向が強かったのか、フィルムからDVへ移行してからも、能面師、観世流能楽師、伝統芸能を題材に撮り続けており、ひとつの鉱脈を発見したかのように見える。三宅流の『面打』(‘06)はいわゆる文化映画の装いもあるが、独自のスタンスからハンディカム・ドキュメンタリーの可能性を切り拓く映画として考えることができる。

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『面打』

 『面打』のリーフレットには次のようにある。「若干22歳の面打、新井達矢が一つの能面を製作し、観世流能楽師・中所宣夫による舞によって命を吹き込まれるまでを追った作品である。ナレーションやインタビュー等、言葉による説明を一切排し、ひとつの四角い木の塊が削られ、剥がされ、次第に表情を帯びていく様をひたすら見つめ続ける。沈黙の作業空間に、ただ鋭利な刃物が木を刻んでいく音だけが静かに響きわたる」。個人撮影がなされるハンディカム・ドキュメンタリー映画では、フレーム内に撮影者が映り込まないにしても、音声やカメラワークによってその存在を意識させられることが多い。しかし、この『面打』という映画は、DVカメラに能面作りの過程を凝視させるという抑制した演出によって、撮影者の気配をうまく消し去っている。
 また、『面打』は徹底して、音と身体運動の映画となっている。面打(能面師)が大べし見と呼ばれる恐ろしい顔の能面を作るために、鑿で木を割き、刀で彫り、鉋で磨き、装飾を施していくひとつひとつの挙動が、繊細な音のドラマとなって見る者に迫る。ハンディカム・ドキュメンタリー映画において、整音という工程がいかに重要なことであるかがわかる。それと同時に、ほとんどクロースアップのフレーミングのままで撮影された面打の手と指が、一度たりとも同じ表情を持つことのない多彩な手指のダンスを織りなしていく。そのさまが、能楽師が作られた能面と白頭の頭巾をかぶり、大天狗として豪快な動きを見せる「鞍馬天狗」のラストシーンへと引き継がれていくのだ。
 かつてジョナス・メカスは、いつか映画から作家の名前が剥奪されて、誰が作ったかなどは問われず、映画が優れた工芸品のようになる日が来ると考えていた。たとえば、8ミリフィルムで撮影されたホーム・ムービーが、一般の人が作り出した民謡や叙事詩のように「美しいフォークアート」として評価されるようになるだろうというのだ(『メカスの映画日記』)。この『面打』という映画は、メカスが予見した個人映画やハンディカム・ドキュメンタリーにおけるひとつの極北、つまりフォークアートや民芸品としての映画の可能性を私たちに示唆しているようにも思えるのだ。


『風の馬』
監督:ポール・ワグナー
共同監督:テュプテン・ツェリン
出演:ダドゥン、ジャンパ・ケルサン、リチャード・チャンほか
1998年/アメリカ/Video/97分/カラー
宣伝・配給:アップリンク
公式サイト http://www.uplink.co.jp/windhorse/
4/11(土)より渋谷アップリンク他、全国順次ロードショー

『小三治』
監督:康宇政
撮影:杉浦誠
出演:柳家小三治、入船亭扇橋、柳家三三、立川志の輔、桂米朝ほか
2009年/日本/ドキュメンタリー映画/104分/カラー
企画・製作:オフィス・シマ、ヒポ コミュニケーションズ
公式サイト http://cinema-kosanji.com/
ポレポレ東中野、横浜シネマ・ジャック&ベティほかにて公開中

『バオバブの記憶』
監督:本橋成一
語り:橋爪功
2009年/日本/35mm/102分/カラー
製作・配給・宣伝:サスナフィルム、ポレポレタイムス社
公式サイト http://baobab.polepoletimes.jp/
シアター・イメージフォーラム、ポレポレ東中野にて公開中

『長江にいきる 秉愛の物語』
監督:フォン・イェン
2008年/中国/DVカム/117分/カラー
配給・宣伝:ドキュメンタリー・ドリームセンター
公式サイト http://www.bingai.net/
3/27(金)まで渋谷ユーロスペース、3月下旬第七藝術劇場(大阪)ほかにて公開

『面打』
監督:三宅流
整音:種子田郷
出演:新井達矢、中所宣夫、津村禮次郎
2006年/日本/DV/60分/カラー
上映サイト http://www.uplink.co.jp/x/log/002981.php
4/4(土)より渋谷アップリンクにてDVD発売記念ロードショー


posted by 映芸編集部 at 17:45 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする