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2009年04月11日

金子遊のこの人に聞きたいVol.2
あがた森魚(映画監督・俳優・歌手)インタビュー

 あがた森魚から目を離すことができない。
 ミュージシャンとしては、2007年にアルバム『タルホロジー』を発表。「『惑星漂流60周年!』海上海底全国潜行オーシャンクロスロードツアー」と名づけて、2008年8月から12月末までの数ヶ月間、北は北海道から南は沖縄までキャンピングカーを駆使しながら精力的なライブ活動を行った。そして、2009年2月22日にはその総決算として「あがた森魚とZIPANG BOYZ號の一夜〜惑星漂流60周年 in 東京〜」が、鈴木慶一、矢野顕子、久保田麻琴ら豪華ゲストを迎えて九段会館にて大々的に行なわれた。近々、ツアー・ドキュメント映画も完成する予定だ。
 また、映画人としてのあがた森魚といえば『僕は天使ぢゃないよ』(77)、『オートバイ少女』(94)、『港のロキシー』(99)の3本の劇映画の映画監督であるが、近年は映画音楽や俳優として映画に関わることも多い。林静一が監督した画ニメ『赤色エレジー』(07)で名曲「赤色エレジー」を様々なバリエーションによって変奏し、井口奈巳監督の『人のセックスを笑うな』(07)では猪熊さん役で際立った存在感を見せつけた。
 そんなあがた森魚が日記映画を自らの手で撮影し、2007年3月から東京・小川町のスペースneoにおいて「月刊映画」として、ほぼ毎月上映会を行っている。彼は個人映画・自主映画に参入したのだろうか? それとも、これはツアー・ドキュメント映画への序章にすぎないのか? その真相を見極めるべく、本人に直撃インタビューを行った。
(聞き手・構成/金子遊 写真/久保田滋 協力/若木康輔)

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映画と港町
――あがた森魚さんといえば、留萌や函館などの港町の育ちですよね。北海道の港町って街ではあるのだけれども、どこかフィクションの匂いがします。生まれ育った町なのに、架空の舞台にいるような感じがする。その風土性の弱さのせいで、ノスタルジーというものが普通に過去を顧みる行為ではなく、自分でこういう過去だったらいいなと記憶を捏造するようなところがありますよね。あがた森魚さんの音楽や映画には「港町育ち」というのが関係しているのかなと思っていました。

 うんうん、すごくよくわかる。室蘭なんて、いわばセットのような街だもんね。仮に「鉄工所物語」という映画があったら、自分がそこにキャスティングされて、そのまま与えられた役以外は演じることができないような、そんなところがある。室蘭は霧や霞のなかに街があるので、ジミ・ヘンドリックスの曲名でいえば、まさに「パープル・ヘイズ」の港町だよね。
 北海道には小樽、室蘭、函館のポート三都市があって、港町はとてもおもしろい。室蘭はあまり注目されていないけれど、あそこのように測量山から下に港町を見るというシチュエーションがある場合、人は無意識のうちにそこで物語やドラマを見通すパースペテクィブを開いているんだよ。個人的な体験でいえば、ぼくは函館港に到着して、市電の路面電車に乗って帰ってくる。二十間坂を登ってきて、ふっと後ろを振り返って函館の町並を見たときに、その日に起きたぼくのなかの物語が全部フラッシュバックするんだ。それは頭のなかで描かれたものだから、いきなり映像や物語になっているわけじゃないんだけど、もうそこに物語が芽生えはじめている。

――あがた森魚さんは『獲物の分け前』というエッセイ集のなかで、北海道生れの北海道育ちなのに、その風土はどうしても異国的に思えて仕方がないと言っています。北海道は物語のなかの架空の場所か、映画のための広大なオープンセットなのだと。これをもう少し押し広げていえば、「月刊映画」では日本列島があがた森魚さんのロードムービーの大きなオープンセットと化しています。

 ああ、ほんとだねえ。直感的にしかいえないけれど、すでに日本における港という現象自体がフィクションのようなところがある。なぜかといえば、ちょうど150年前にペリーなどの黒船が日本にやって来て、まったくそれまでになかった物が急に作られていったわけじゃない? だから、あれは日本の人たちがいきなり映画の世界に引き込まれたようなものだよね。そういう風に作られてしまったエキゾチズムというか、非日常性というか、超現実性が、ぼくが音楽や映画作品を作るときにも息づいているのかもしれない。

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――あがた森魚さんを育てたのは「港町」であると同時に、「映画」でもあるのだと思います。ベタな質問で恥ずかしいのですが、子供の頃はどういう映画がお好きだったのでしょうか? 『第七東映アワー』という音楽アルバムもありましたよね。

 東映のチャンバラ映画だよ。もちろん、いかにも「あがた森魚」的な探偵ものとか、荒唐無稽な冒険物も大好きなんだけれど。東映の映画がおもしろかったのは、そこに20世紀の日本人論というか父親論があるからなんだよ。たとえば、『スター・ウォーズ』というSF映画のシリーズがあるけれど、あの物語の核になるダース・ベイダーとルーク・スカイウォーカーという父子構造をプレゼントしたのは、東映のチャンバラ映画だと思わないかい?
 そこにはもちろんキリスト教的な要素もあるし、どんな民族にも父との葛藤という形式は深くあるんだけど。特に日本人は戦争に敗けて家族的な構造や儒教的な構造を、外からの圧力によって一旦否定されているわけだから、すごくつらいわけ。たとえば、天皇のような地位があり、それは人によって肯定も否定もできるんだけれど、絶対的な存在としての天皇陛下や父を失ったときの日本人の、近代日本における人たちの悲しみのようなものが、東映のチャンバラ映画の底流には流れていたような気がするんだ。
 ご存知のように、ぼくは72年に「赤色エレジー」でソロ・ミュージシャンとしてデビューしたんだけど、その翌年には『僕は天使ぢゃないよ』という映画の製作に入っている。ただこの映画は完成までに3、4年かかってしまい、公式的には77年の映画になっている。あの頃はインディペンデント映画やインディーズ映画などという言葉はなくて、映画会社や企業が製作する映画以外の劇映画というのはほとんどなかった。だから大変だったし、時間もかかった。自分としては誰かの映画を意識したというのではなく、東映のチャンバラ映画とヌーヴェルバーグの映画を見ていて、ぼくだったらこんな映画を作りたいっていう風に作ったのが『僕は天使ぢゃないよ』だった。

――4本目の劇映画の構想はあるのでしょうか?

 死ぬまでに撮ってみたい映画というのは、あるんだけどね。万が一「あがた森魚の撮る映画をもう一回見てみたい」という人がいて、5000万でも1億でも資金を出してくれたら、劇映画を撮ってみたいというのはある。ただ、ぼくはもう映画には人生を賭けられない。やっぱり何事にもある程度の限界みたいなものは認識すべきなのかな。

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あがた森魚の日記映画
――日記映画の上映会をスペースneoで始められたのは、ホームページの記録によると2007年3月からだとあります。『月刊映画もっちょむ・ぱあぷるへいず1月號・2月號』が最初だと思いますが、これはいつ頃から撮影を開始したのでしょうか?

 その前もランダムに日記映画を作っていたんだけど。その流れで撮影を開始したのは2007年1月からだから、ちょうど2年が経過したんだね。

――ビデオカメラは大分前から使っているんですか?

 ビデオカメラは大分前から持っている。8ミリフィルムの時代には、そんなに熱心にやらなかったけれど。情けない話になるが、やはりビデオカメラには廉価に映像製作ができるというメリットがある。ぼくは欲深くて何でも撮っちゃう方なので。

――日記映画を作るためにビデオをまわすと、一日に五分間だけ撮影したとしても大変な量になりますよね。ある程度、今日はどこを撮ろうとか何を撮ろうというのは決めているんですか?
 
 それがないんだよね。行きずりで肉眼がとらえたものがシャッターチャンスになるんだ。たとえば、ぼくの家の前に鋳物工場がある。この工場は定点観察のように三日に一度くらい撮影している。「月刊映画」には毎月のようにそれが出てくるのに、それはそれで素晴らしいわけ。頭のなかでは「これは今度ゆっくり撮りに来よう」とか「工場の人と話してみたいな」とかいつも思っている。工場をきちんと取材して、このテーマで撮ってみようという風にやってみたいんだけど、それだけの時間的余裕がない。
 だから、ツアー先や呑み屋で出会った人にカメラを向けているようなことになる。それでも、単なる偶然ばかりだけじゃなくて、ツアー先で出会った人にカメラを向けて「この人がどうしてぼくの音楽に興味を持ったのかな」という興味でずっと撮っているところもあるんだ。それが毎回の「月刊映画」の通奏低音のようになっているんだね。

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――月刊映画には『ろっけんろおどで行くよ』『もっちょむ・ぱあぷるへいず』などのタイトルがついています。今お話に出た鋳物工場は『きゅぽら・ぱあぷるへいず』というタイトルにもなった「きゅぽら」のことですよね。キューポラは鋳物をつくるために鉄を溶かす溶銑炉のことです。あと「もっちょむ」は屋久島のモッチョム岳のことでしょう。それらの言葉を映画タイトルに入れたのは、どうしてなんでしょうか。

 屋久島では「もっちょむ」は同時に女性器のことをいうんだよね。むこうの人はそれを言うと、普段使わない言葉なのでびっくりする。そのくせ、自分たちは山の名前に「モッチョム岳」とつけているんだよ(笑)。日本の浦島太郎伝説では、竜宮城でもらった玉手箱を空けると煙が出てきたお爺さんになるじゃない。あれが紫の煙で、パープル・ヘイズなんだ。浦島太郎が行く竜宮城っていうのは、中国では仙人の住む蓬莱山のことで、背景に不老不死を願う神仙思想があるよね。活火山というのは煙が出ている神山として崇められているところがあって、「ぱあぷるへいず」はそういうものへのオマージュという面がある。日本という島々の風土が持っている、霞立った風光みたいなものが好きなんだね。 
 だから、埼玉県の川口はキューポラの煙で霞立っているし、モッチョム岳も年中霧がかかっているし、函館は昔の地名で「ウスケシ」という。ウスケシはアイヌ語で「湾の端」の意味なんだけど、日本語にすれば薄墨のようなモヤッとしたイメージになるじゃない。そういう言葉の連想でもって、霧立った中にいる自分たちというイメージを真ん中に置いたのかな。もっとクオリィティの高いビデオカメラがあれば、昼間よりは黄昏どきにそういう映像を撮れるんだろうけど。いつか黄昏どきの風光を撮れたらいいなと思う。一日のなかで一番魔力のある時間帯だからね。

――日記映画はどのようなきっかけで始められたことなのですか?

 もともとぼくは自分でビデオを撮影していて、それを日記のようにしてみんなに見てほしいと考えていたんだ。だけど、なかなかできなかった。それが若い人たちや手伝ってくれる人たちのサポートがあって「月刊映画」の撮影、編集、上映が可能になってきた。これは有り難いことだと思っている。

――普通の個人映画と違うところは、あがた森魚さん自身の他に、カメラマンが複数人いるということですね。二人の撮影者による映像を混在させていくやり方は、独特の効果を出しています。『港のロキシー』のDVDに付属の特典ディスク『もっちょむ・ぱあぷるへいず 2007年5月号』は、一篇の日記映画として傑作だといえます。あがた森魚さんが福岡の能古島に渡り、舞踏家の田中泯さんとライブを行いますが、若い女性にカメラを渡して撮影し合ったり、さらにそれを別の撮影者が撮影したりするという三つ巴の撮影風景があります。ご自身でそれを「撮りっこロール」と呼んでいますね。
 
 基本的には、ぼくが自分で撮っているんだけど、歌っているときは三脚を立てるか、誰かに撮ってもらうしかない。それで、そのときたまたまそこにいる人に撮影を頼んだりする。そういう意味では「実験的」であるのかもしれない。ある種の偶然性の積み重ねによって、映像作品を作っているということだからね。一種の映像によるジャム・セッションになっているといえばいいのか。

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撮影行為へのパッション
――「月刊映画」の一つの魅力は、あがた森魚というミュージシャンが様々な場所に出かけて、色々な人に出会うというロードムービーになっていることです。普通のツアー・ドキュメンタリーではライブ映像や、練習でのセッション風景がメインになるのですが、日記映画ではそれは必要最低限に抑えられています。その代わりに、あがた森魚さん本人が撮影した映像によって、旅先で出会った人々の自然な表情やその場にいるかのような臨場感が伝えられます。

 そうだね。ふつう音楽家は自分でこういう日記映画は作らないよね。そこには、いろんな意味があると思うんだけど、ぼくはやっぱりこれを誰かに見てもらいたいから撮っているんだよね、絶対。見せたい相手は自分のファミリーか、友だちか、他のアーティストか、はたまた他の誰かか、それは自分ではわからない。
 今だって、自分のなかで少年が走っているから、こうしてインタビューに応じて喋っているわけで。日記映画を撮っていると、見直したときなんかに「昨日、なんでぼくはああやって喋っていたのかな」と自分の気持ちを確認したりすることになる。常日頃から、何とかしなきゃいけないという気持ちがあるんだよね。

――ハンディカムのビデオカメラを使っているとはいえ、毎月1本のドキュメンタリー映画を撮影・編集し、上映会で見せていくことは物凄いエネルギーのいることです。毎日のようにカメラをご自分でまわしているのでしょうが、そこまで掻き立てるパッションとはいうのは何なんでしょう?

 ひと言で言い表せない、いろんなものがあるんだよね。まず一つは、ぼくの音楽のジャンルって何かなって考えることがある。たとえば、パンクかもしれないよね。だから、とても音楽的なんだけれども、音楽を壊しながら音楽をやっているところがある。そういう風に狙ってやっているわけじゃなくて、結果的にそれまでの音楽を壊しているというのか。それはかつてのロックがそういうものだったから、ということが大きい。そうすると、今のロックって一体何なんだよって話になってくるじゃないか!

――心の内にたぎるような物があるということですね。

 たとえば、それはいま日本の東京に住んでいるということと、イランやイラクやパレスチナやラテンアメリカに住んでいるっていうことでは、意味が全然違うでしょう? ぼくが思うのは、どこにどう住んでいるのであれ、人は何かのために闘わなくちゃいけないということ。何のために闘うのかわからないんだけど、自分がすべてであるために闘わなくちゃいけないという気持ちが強いんだ。
 それは、どういうことかというと、上下左右どこへ向かうベクトルも、全部自分のなかで噛み砕いて吐き出さなきゃいけないと思うんだ。それが闘いなのかどうかわからない。ただ、そのようなものをぼくがどれだけ客観的に、自分の理性や知性の力で噛み砕けているかといえば、ほとんど何にもできていないんだ! こうやって60歳になったのにさ、ますます世の中がどうなっているのかが、わかっていないんだよ!

――なるほど……。

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 そうならば、どうしたらいいのか。一つの例でいえば、人様に迷惑をかけちゃいけないなんて安直な考えを取っ払ってしまう。人様を殺してはいけないなんて、おかしな言い方だよね? ぼくたちは知らないうちに誰かを殺しているわけなんだから。
 以前、秋葉原であった通り魔事件だって、ぼくらが内側に孕んでいるベクトルの一つだと思うんだよ。現代人なら誰でも孕みかねない問題なんだ。それに関して、自分のなかのあらゆるものを咀嚼した上で一生懸命に考えてみる。ぼくが刃物を振りまわす真似をすることはあるかもしれないけれど、それじゃ駄目なんだとも思う。それじゃ、社会に抗議するために国会議事堂へ行くのか、あるいはデモへ行くのか? どこかでテロでもやるのか? どこかで高級で難解なパフォーマンスでもやるのか? きっと、どれもぼくにはできないんだ。たぶん、歌うことしかできないんだ。そうなったときに、ぼくの課題はそれに対してどれだけ自分に正直になれるか、ということしかないんだよ。
 質問の答えになっているかどうかわからないけれど、どうしてぼくが映像を撮り続けるかということを考えてみる。そうすると、映像を撮ることの根本にあるのは、この日記映画をぼくが本当に会いたい誰かさんに、いつかそれを見てほしいからなんだよ。その誰かさんというのは、一言ではいえないんだけど。これまで、ぼくの音楽に一度も触れずにいて、あるときぼくの音楽を聞いて「この人何だろう」と思った人が、これもあがた森魚の表現の一つなのか、あがた森魚ってこういう人なのかと考えてくれるための一つのテキストになればいいのかなって。だから、誰に向けて日記映画を作っているのかわからないんだけど、確実に或る誰かがそこにいるんだよ。いつかその人に見てほしいと思って、映画の撮影を続けているんだ。それ以上でも以下でもないんだ。

――あがた森魚さんの日記映画は、何か個人とカメラの関係のなかから生まれてきた切実な試みだということが見えてきました。そこには、私たちが失いかけている撮影における始原的な昂奮があるように思われます。また、頭であれこれ考える前に本能的に撮影を欲望し、カメラと連動した身体が身のまわりにある物を撮ってしまうというしなやかさがあります。そうすると、カメラとあがた森魚さんの音楽の関係はどうなっていくのでしょう? 日記映画を撮っていることは歌や音楽にも何か影響があるのでしょうか?

 「初めに言葉ありき」というよね。平たくいうと、言葉を音楽の方に倒したときには「歌」になるのよ。そして、言葉を映像の方へ倒したときには、それは映像の詩というか映像の物語というか、そういうものになる。音楽も映像も、言葉をひとつの蝶番とした場合の、やっぱり合わせ鏡なんだね。そういう意味では、ぼくの歌ってよく言われるけど、ものすごく映像的なところがあるでしょう? 歌うことで映像を作っているようなところがあるよね。
 だから、ぼくの日記映画はジャーナリスティック性を目論んでいないドキュメンタリーといえる。あるいは、実験をてらわないけど、結果的に実験的になっている映像。それか、音楽を全然使っていないけれど、ぼくが歌っているからやはり音楽映画でもある。あえていえば、それはポエジーを狙わないポエジーなんだよね。子供のように、おもしろがれるものは何でも撮る。その結果、ぼく自身が何を営もうとしているのかが、そこに過不足なく見え隠れしてほしいと願っている。ひと言ではいえないけど、そのようなものなんだね。

(2009年1月末 小川町スペースneoにて)


公式サイト http://www.agatamorio.com/

posted by 映芸編集部 at 11:03 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする