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2009年07月09日

金子遊のこの人に聞きたいVol.5
DVD「金井勝の世界」
金井勝監督インタビュー PART1

 今日は、映画作家の金井勝さんにお話をうかがいたいと思います。2009年2月に金井さんの全作品を収録したDVD「金井勝の世界」が発売されました。同年5月30日と31日には神田小川町のneoneo坐でほぼ毎年行われている金井勝の特集上映もありました。
 金井さんは無論、日本の実験的な映画の潮流をつくった作家なのですが、テレビのドキュメンタリー番組の演出家としても200本以上の作品があります。また、金井勝は特に海外での評価が高い映画作家であり、2006年の第53回オーバーハウゼン映画祭では回顧展が開かれました。
 そして2009年にイェール大学主催のシンポジウムへ招かれるなど、これから研究が進められていく映画作家でもあります。今回はDVDの発売を記念したインタビューとして、全作品についてお話をうかがうと共に、この記事が資料として少しでも金井勝研究の一助になるようにしたいと思います。

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終戦体験と大川周明
――まずは金井さんの原点である小学校3年生のときに終戦をむかえた体験と、神奈川県相模原の農家で育ったという幼年・少年時代についてうかがいたいと思います。

 ぼくは2.26事件のあった昭和11年(1936)の夏に、神奈川県の片田舎で農家の次男として生まれたんです。物心がつくようになると、時代の流れの中で愛国教育を叩き込まれ、将来の夢は他の子供たちと同様、立派な軍人になることでした。しかし国民学校(現・小学校)3年生の8月15日に終戦をむかえます。国家が騙し続けてきた嘘、学校が教え続けてきた嘘、それらの嘘が敗戦と共に白日の下に晒されたとき、一切のものが信じられなくなりました。
 他の土地の子供たちとちょっと違ったのは、相模川を挟んだ向こう岸に、アジア主義者とも右翼とも呼ばれる大川周明が住んでいたことだと思います。そのこともあって愛国心は他の地域の子供たちより強かったのだと思います。ところが終戦になるとその大川は戦争犯罪人となり、天皇陛下も現人神から象徴天皇になりました。学校でも教育方針ががらりと変わり、世の中は民主主義制度に変わりました。ところがその民主主義というやつもなかなかの曲者で、結局は強いやつとか狡いやつとかが巧く勝つ制度のような気がして溶け込むことは出来ませんでした。
 敗戦から暫らくすると極東国際軍事裁判がはじまり、そこで東条英機の頭を大川周明が叩くという事件が起ります。戦時中に大川らしき男を見たことがあった為か、ぼくは異常なほど極東国際軍事裁判に関心を持つ少年になっていました。またその頃に近くの町に誕生した小さな教会も気になりました。そこへ通っているのはみな良家の人たちであり、遠くから眺めていると尼さんたちのニコニコ笑っている姿にも何故かグロテスクなものを感じていたんです。それらの経験が後の『無人列島』という映画へ繋がっていくことになるんです。

 さて大川が東条を殴った事件ですが、絞首刑になるのが怖いからだと仲間たちはこの《落ちた偶像》を「臆病者の偽キチガイ」と罵るようになります。後に調べた資料のなかに「大川は脳梅毒からくる精神病」だとありましたが、そのどっちであれ余り格好良くはありませんよね、子供たちにとっては・・・。(笑)
 それはともあれ、大川は東大出のインテリであり、当初は欧米の文化に憧れを持っていましたが、インドがヨーロッパの植民地主義に蹂躙されているのを知って、彼の心はアジアへと向かい、来日していたインド独立運動の青年を匿ってやるなど積極的な行動を開始します。後に彼は満州鉄道に就職しますが、その関心は東アジアというよりはインドとかトルコとかにありました。
 極東国際軍事裁判で狂人と診断され無罪になった彼は松沢病院へ入院〜〜 そこで全精力を投じたのがコーランの翻訳でした。狂人か偽狂人かは判りませんが、やはり欧米に対する恨みは持っていたんですね、きっと。彼の戦前・戦中の著書には「政治と宗教というのは不二だ」とあました。ライバルの北一輝は日蓮宗の信徒で、熱心に法華経を唱える人でしたが、しかし大川自身は特に決まった宗教を持っていなかったようです。でも戦争に負けてしまったことでもう日本にある宗教の後ろ盾では欧米には歯が立たないと考え、イスラム教へその夢を馳せたのかも知れませんよね。(笑)

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『無人列島』

『城門の蟹』のシナリオ
――未映画化のシナリオ『城門の蟹』の城門とは、川向こうにある中津村に住んでいた大川周明邸の門のことですね。このシナリオは76年に書かれたもので、金井さんの著書『微笑う銀河系』に収録されています。

 いや『城門の蟹』の〈城門〉はニィチェの『ツァラトストラ』から取ったものです。一寸長い引用となりますが、「この後への長い道、それは永遠に続いている。そして、あの向こうに行く長い道― これも別の永久である。この二本の道は、向きが反対だ。それらは、鉢合わせをする。そしてここ、この城門は、それらが出会う所だ。城門の名前は上に記されている、“瞬間”と」〜〜 この時間論からそれまで考えていた構成のヒントを得ました。
 それはともあれ、 まずこのシナリオの執筆の経緯から話しますと、70年代半ばからはメジャー・エンターテイメントの時代になりそうだったので、暫らくは自主映画製作を休もうと思っていました。ところが横浜国大新聞に『王国』論を書いたことのある沢則雄という青年が、ある日マグロの大きな包みを抱えて家にやってきたんです。「1年ばかりマグロ漁船に乗って150万円稼ぎました。そのうちの50万は北海道にいる病弱な父に、50万は自分の生活費に、そしてこれは次作の製作費の一部に〜〜」と言って、彼が机の上においたのが分厚い茶封筒で50万円入っていました。話を聞くと金井シネマの次回作にスタッフとして関わりたいのだが、自分はまったくの素人だから製作資金の一部を作らなければと思って船に乗ったのだと言うんです。それで以前に考えていたアイデアを彼に話してみたところ面白いというので、膨大な資料と格闘〜〜 更に青戸隆明と小野沢稔彦とが加わり書き上げたのが『城門の蟹』です。

――シナリオは金井勝の分身である勝丸が老人の姿で誕生し、時王(クロノス)と対峙するシーンで終わっています。さらに政治的な要素として大川周明、北一輝、2・26事件を起こした青年将校たちのエピソードが入ってきます。1936年という年は阿部定事件があり、ベルリン・オリンピックがあり、夢野久作が死んだ年でもありますね。

 そうですね、ぼくの生まれた昭和11年には色々なことがありました。自分がまだ母の胎内におり、その羊水のバイブレーションを通して伝わってくる世の中の諸々の出来事が、自分自身の形成に大きな影響を与えているのではと考えたというわけです。そして先に言ったニィチェの書にある、「この二本の道は、向きが反対だ。それらは、鉢合わせをする」その“瞬間”に、勝丸は誕生するのです!
このシナリオを読んだ映像作家のかわなかのぶひろは「これはすごい、今までにないシナリオだ!」と絶賛してくれました。また朝日新聞の堀記者もこのシナリオを高く評価し、彼の知人を通して角川映画へ持込んでくれました。意外だったのは「角川春樹氏が面白い!」と言ったということでしたが、あそこは利益を優先する企業だからこの映画化は実現しませんでした。その後、ぼくの本を出さないかという話があり、この『城門の蟹』のシナリオをどうしても残しておきたかったので、れんが書房新社から出版した「微笑う銀河系」(1981)のなかに載せました。
 話は飛んで今年の2月、イェール大学のイベント《East Asia in Motion》に招待されましたが、そのイェール大学の蔵書のなかの一冊に、なんとこの「微笑う銀河系」があったので吃驚したというわけです!

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映画への道
――そもそも金井さんを映画へ向かわせたのは何だったのでしょうか。

 中学生になるともう仲間たちはすっかり民主主義に順応していて、ひとり取り残されていると感じていました。そんなときに読んだのが志賀直哉の私小説で、文学者である主人公が京都でバスに乗ると、三高(現在の京都大学)の学生たちが乗ってきて、主人公の文学について熱っぽく語るのです。それを後ろの席で、作者が黙って聞いているというシーンがあったんですが、それを読んでいて、物を書く人はすごいなと感心しました。そこに生きることの贅沢さを感得したぼくは、一筋の光明のようなものを感じたんです。
 しかし、文学者になれるほどの筆力はないし、絵や音楽も駄目でしたのでとても芸術家になれそうもありません。それでも高校へ入ってからは写真部に籍を置き、写真だけは続けることができました。
 さて、麦畑が何処までも広がる相模原の開拓地のど真ん中に、映画の全盛期ということもあって建てられた場違いな感じの映画館がありました。あるときそこに大映株式会社製作の奇妙な3本立てがかかったのです。それは若尾文子と南田洋子主演による〈十代の性典〉シリーズの2本と、数年前に封切られた黒澤明監督の『羅生門』(1950)だったんですよ!

 『羅生門』はヴェネチア映画祭のグランプリ作品として話題にはなってはいましたが、文芸作品と呼ばれるもので原作を凌ぐ映画を見たことがなかったので、正直なところ余り期待はしていませんでした。ところが『羅生門』はまったく別だったんです! 原作者芥川龍之介の小説は全て読んでいましたし、好きな作家のひとりでしたが、映画が初めて小説を超えたと思いました。演出、脚本、美術、音楽、出演者〜〜 どれをとっても非の打ち所はありませんでしたが、特に感心したのが撮影監督・宮川一夫の採光の設計でした。
 ぼくは写真をやっていたんで当時のフィルムについてはかなりの知識がありました。感度が低かったのもそのひとつでしたので、暗くてよく写らない筈の森の中の映像が驚くほど見事だったんです。後で知ったのですが、大きな鏡に太陽光を受けて、それを次の鏡に反射させていくという光のリレーをし、最後にレフ板に当てたというんです。まぁこの作品を見たあたりから、ぼくは映画のカメラマンに憧れを持ちす。
 また朝鮮戦争による軍需景気で成長した日本でしたが、1953年の休戦に伴ってその経済は低迷し、やがて鍋底景気と呼ばれる不況がやってきました。そうなると他に娯楽がなかった時代ですから儲かる産業は映画だけ〜〜 その時期が丁度ぼくの高校卒業に重なったので、映画のカメラマンになることを真剣に考えました。

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『無人列島』

――それで日本大学の藝術学部映画学科を目指すことになるんですね。

 当時の映画会社は、超一流の人材が集まる場所でした。でもぼくが目指すのは監督ではなくキャメラマンなので頑張れば何とかなるのではと思いました。それで日藝を受験して受かったのですが昔気質の親父に猛反対されました。映画なんてヤクザのやるものだと言うんです。でも三つ違いの兄が映画好きだったので母親を説得してくれ、その母親の臍繰りで何とか入学金を払うことができたと言うわけです。(笑)
 その頃、すでに超先進国のアメリカでは、新しい大衆娯楽として登場したテレビの影響を受けて、ハリウッド映画は徐々にその勢いをなくしていきますが、ヨーロッパからはちょっと難解で魅惑的な個性を持った作品が続々とやってきました。また邦画界は観客数が頂点に達した時期であり、若者の映画への関心は頗る高かったんです。
 そんなわけでしたから日藝の同級生には日比谷高校を初めとする名門校からきた者もかなりいました。後に松竹の監督になる山根成之や、日活ロマンポルノの加藤彰も都立の名門高校出身者です。

――ちょうど日大映研の勃興期は、後年に映画人となる様々な人物が関わったといいますね。

 ええ、そういった同級生の中でも最も輝いていたのが平野克己で、彼の親友の神原寛、谷山浩郎と語らって学校と掛合い、《日大映研》を誕生させました。その最初の作品は『釘と靴下の対話』(1958)でしたが、既に実験映画を作っていた在日アメリカ人のドナルド・リチーや、松竹のまだ助監督であった大島渚、新しいドキュメンタリーを目指していた松本俊夫、野田真吉などを招いてその意見を訊き、多分にその影響を受けていたようです。この《映研》からは、直ぐ下の学年に城之内元晴がおり、その次の、次の学年に足立正夫、その次に沖島勲などがいました。
 この連中のなかで神原寛と城之内などが中心となって作ったのがVAN映画科学研究所で、そこにはジャンルを超えた前衛アーティストたちが集ってきて「限りなく刺激的な“創造への場”だった」と言うことです。驚いたことにこのVAN映画科学研究所は欧米の研究者の間でもかなり知られていて、イェール大学のイベントでも「金井さんはVANの常連でしたか?」と訊かれましたので、「違います」と答えると、そのパネリストは「それは、大変に惜しいことをしましたね!」と言いました。(笑)

 さて話を元へ戻しますと、ぼくは平野が中心になって運営する「コミニカシオン」という機関誌に長文を寄稿したこともあって、彼から《映研》への入会を強く求められましたが、これに深入りしたら卒業も就職も怪しくなりそうなので断りました。親の反対を押し切って進んできたので撮影所へ就職できなければ親に合わす顔がなかったのです。(笑)
 後に親友となる城之内とは学生時代には出会っていません。ですが、それらしい人物は眼に浮かんできます。ガリ版刷りのチラシを片手に「シュール・リアリズムの監督・ルイス・ブニュエルの『忘れられた人々』(1950)を見つけてきたんで上映します!」と叫んでいたその男が、後で聞くとやはり城之内でした。私はこの映画によってシュール・リアリズムに興味をもち、その芸術運動の基となるフロイトの著作に没頭することになるのですから彼には感謝しなければいけませんね。
 さて就職ですが、ぼく等が4年生のときに大映ではアラン・レネが『二十四時間の情事』を撮っていたので、行きたい会社は大映東京撮影所でした。しかし大企業のように見えた映画会社ですが、実は中小企業に毛が生えたようなところでしたので余計な人材などはとりません。が、幸いなことにNHKのTV放送が本格的に始まり、日藝の先輩だった2人の撮影助手がNHKに引抜かれた為に募集があり、1960年の春に大映東京撮影所の技術部撮影課へ就職できました。

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大映から自主映画へ
――大映での撮影助手としての仕事についてお聞かせください。

ぼくが最初についたカメラマンは、前年に『二十四時間の情事』の撮影を担当した高橋通夫でした。その彼に気に入られたので、たったの8ヶ月で一番下のフォース助手からセカンド助手(フォーカス・マン)に抜擢されました、いわゆる飛び級です。フォーカス・マンはピントを送るので重要な助手〜〜 簡単にいうと、マスター・レンズだけで撮るとスタンダードの画面になり、シネマスコープはそのマスター・レンズの前にシネスコにするアナモフィック・レンズというのを付け、その2種類のレンズのピントを同時に送るので大変な仕事なのです。
 フォーカス・マンとして関わった主な作品には、『黒い十人の女』(市川崑監督1961)、『春琴抄・お琴と佐助』(衣笠貞之助1961)、70mm映画『秦・始皇帝』(田中重雄監督1962)、『真珠の小箱から・夫が見た』(増村保造1964)などがあります。今になって思えば、衣笠監督には『狂った一頁』(1926)と『十字路』(1928)という大傑作があり日本前衛映画の先駆者でしたので、監督からいろいろと聞いておくべきだったと後悔しています。
 さて、そんな時にATG新宿文化のレイトショーに《日大新映研》の35mm作品『鎖陰』(1963)がかかりました。その学生監督・足立正生という後輩の存在に、大きな刺激を受けたことは確かです。

――4年半で大映を飛び出して、独立プロを作るのですね。

 1964年の東京オリンピックの年に、『二十四時間の情事』のチーフ助監督だった白井更生から「金井、大映を飛び出して独立プロを作ろう」と言われました。映画産業は観客が入らなければ成り立ちません〜〜 その観客が年々減少し、それに反比例する形で組合活動が活発になってきました。そんななかでの映画作りには魅力はありませんので躊躇なく退社〜〜 その後はフリーランスのカメラマンとして様々な分野の映像作りに携わることになります。
 さてそれらの仕事をやりながら、独立プロの劇映画の製作準備を進めてゆき、遂に白井更生監督、金井勝撮影、主演は望月優子、加藤剛、更に新劇の役者たちに脇を固めてもらって『ヒロシマ1966』が完成しました。
 今までにない斬新な作品を作ろうとみな必死だったんですが、結果としては余り高い評価は得られず、経済的にも行き詰ってプロダクションはたったの1本だけで解散となりました。しかしこの作品に関わったことで得たものはその反面教師ということも含めて大きかったと思います。
 また、その頃ぼくは10本ほどピンク映画の撮影を担当していましたが、それらが後の《かない勝丸プロダクション》に繋がる大きな布石となりました。なかでも新藤孝衛監督の『雪の涯て』(1965)と、佐々木元監督の『悶え狂い』(1969)は共に脚本が良かったこともあり、スタッフもキャストも一所懸命〜〜 既に大映撮影所では失われていた〈やる気〉がここでは満ち溢れていたのです!

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『GOOD-BYE』

当時の映画状況
――その頃に、強い影響を受けた映画人や映画作家はいますか?

 ぼくはカメラマンとして決して自信がなかったわけではありません。しかしあるとき黒木和雄監督の『とべない沈黙』(1966)を見て吃驚しました。そのカメラマンは鈴木達夫で、飛んでいる蝶を手持ちカメラで追いながら藪のなかへどんどん入っていくんです〜〜 当時あんな撮影は考えられないことだったので、同じカメラマンとして落ち込んでしまいましたね。(笑)。
 どうしてあのような手振れナシの映像が可能なのか〜〜 失意のまま正月に実家に帰ってテレビのスイッチを入れると、ボリショイ・サーカスが始まりました!そこに展開する世界はぼくの肉体とは別次元でしたので、はたと気づきました〜〜 こうした身体の持主がカメラマンになったら、あのようなカメラワークが可能なのだと気づいたのです!
 そもそもぼくは人間関係が下手だし、人前に出るのが苦手だったからカメラマンを目指したのですが、鈴木達夫のような肉体がないのなら前途はないので、もう監督に転向するしかないと覚悟を決めたというわけです。(笑)
 60〜70年代のぼくらのリーダーは大島渚で、彼はアートシアターとの提携作品で次から次へと斬新な作品を発表していました。またその彼の言葉も刺激的で、ぼくの座右の銘となったのが、「まったく新しい内容のものを、まったく新しい方法論で作らなければ映画として認めない。自己模倣も許さない!」です。そこには文学からの借物ではなく、映画作家自身が〈オリジン〉を孕めという言葉が含まれているのだと思いました。ともあれ、それまでの映画は文学の風下にあり、監督は文学者に頭が上がらない存在だったので、オピニオン・リーダーとして、言論界の猛者たちと対等に渡り合っている大島のその姿に惹かれました。

 その頃のぼくの主な収入源は、PR映画やCMの撮影料でしたが、それらの仕事を通じて知合った山崎佑次などと〈映像表現の会〉を結成します。そして新しい映画の構想を練りながら、山崎の奥さんが働いていた劇団・代々木小劇場の稽古場を借りて、先ず前衛的な映画の上映活動を始めます。そのときの上映で衝撃を受けたのが、高崎経済大学の学園闘争を扱った小川伸介の『圧殺の森』というドキュメンタリーでした。怒れる学生たちの顔のアップの連続による迫力ある構成〜〜 撮影行為を通して内側からそれを変えてしまうというような作品です。
 また、彼らが《独立プロ》ではなく、《自主制作・自主上映》だというコンセプトを打出したことに新しい可能性を感じました。けれども小川の後を追うわけではなく、ぼく自身が戦後から持ち続けきた恨み辛みを、新しい表現方法を用いてできないかと言うこと〜〜 それは田舎の従兄たちとの読書会で知ったアルベール・カミュの実存主義を自分流の実存主義に進化させ、それとフロイトやユングなども再読して自分が納得する意識下の世界を構築し、それらを弁証法的にアウフヘーベンするような作品にしようとしたのが処女作・『無人列島』なのです。

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『無人列島』
――「微笑う銀河系3部作」についてお話を聞きましょう。まずは1969年の『無人列島』(35ミリ・55分)です。スイスのニヨン国際映画祭でグランプリを受賞しています。ヨーロッパの映画研究者:マックス・テシエやトニー・レインズなどにも高く評価されている作品です。最初から「微笑う銀河系3部作」という構想があったのでしょうか?

 それはよく聞かれる質問です。最初からはっきりした構想があったわけではありませんが、立て続けに3本は撮ろうと考えていました。昔の撮影所では監督をしても最初の3本まではまだ助監督扱いの社員監督であり、3本撮り上げたところで初めて一人前の監督として認められ契約者となっていました。そう言ったこともあって監督をする以上は少なくとも3本は撮ろうと決めていました。
 『無人列島』は35ミリの劇的な作品ですから、山崎佑次のほかのスタッフはピンク映画の現場で鍛えられてきた人たちがメインで、その殆どが早稲田の出身者で、頑張ってくれました。

――『無人列島』の内容についてですが、これは政治的な文脈で解釈をされることが多かった作品ですね。冒頭の日出国が教会の尼たちに受ける鞭打ちは、まるで極東裁判のようです。日出国という主人公の名前自体が「日本」のアレゴリーになっているようです。

 映画は奥行きと同時に幅のあるのが理想的です。ぼくは戦後に軍国少年から上手く転換できず、異端児になってしまいましたが、世界レベルで見たときに日本という国家にも共通するものをそこに感じていました。だから大雑把に言うと、日出国という主人公はぼく自身であり、同時に日本国家でもあります。更にそこに様々な妄想を重ねて「この世は悪夢か!」を表現したかったのです!

――教会の地下室で行われる審議会の、スポット照明を使った舞台劇のような室内撮影が見事です。螺旋階段で行われる尼による日出国への鞭打ちはサドマゾの要素があるとともに、白衣の尼がエクスタシーを感じるというエロスの面もあります。さらに日出国が「おっかちゃーん」と叫ぶことから、擬似近親相姦の要素もありますね。

 そう。『無人列島』のもうひとりの主役は白い僧衣の尼僧ですね。あれは何かというと、ぼくの学校にいた奈美さんという、美しい先生のイメージで造形しました。彼女は良家のお嬢さんでとても優しい先生でしたが、その上品な美しさの裏側に不思議な怪しさを宿していたので、ぼくは淫らな妄想に耽りました。(笑)
 そのイメージを国家的なレベルにすると日本に対するアメリカです。最近になって中野で上映したときに、ある初老の観客が「日出国はまるでイラクのサダム・フセイン大統領ですね」と言ったのでとても嬉しく思いました。アメリカには最初は可愛がって育てながら、大きくなり過ぎると抹殺してしまおうとする性癖があります。
こうして主だった人物に幾つかの象徴を重ねて《オブジェ》にしておくので、見る人、見る時代によって違う解釈ができるようになるんですね。ラストシーンについてもメビウスの輪のように、エンディングがまた冒頭の部分に繋がるようにして、次の日出国の登場を暗示させているのです。尼さんたちの輪のなかで語られる「平和」と言う言葉も、だから自分たちにとっての都合のいい「平和」なのです。

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『王国』

――日出国が線路を走るシーンで、背中の赤子が読む「ねずみの嫁入り」は戦後民主主義の見事な寓意になっています。またシャム双生児のようになった日出国と大人になった赤子が交わす、東と西に関する対話は様々な意味にとることができます。

 そう。カミュの実存主義の根本にあるのは『シジフォスの神話』ですよね。神がいてシジフォスに石を山頂まであげろと命令する。それは徒労に終わるしかない不条理な作業ですがシジフォスはそれを分かっていながらも黙々と続けます。しかし日本の新憲法では主権在民が謳われ、参政権も与えられていますのでその権力構造はどちらかと言うと日本の昔噺にある『ねずみの嫁入り』に近いような気がしました。それは国民一人ひとりの中に神とシジフォスが共存しているように見せて、実はそれを隠れ蓑にして責任逃れを可能にしているのがこの民主主義の〈からくり〉なのです。
 極東軍事裁判でもインドのパール判事は、この裁判のあり方自体が問題だと主張した人でした。『無人列島』の中でも、ひとりだけ日出国を庇い、皆に反対する尼さんが出てきますが、彼女も黒い微笑(わらい)を周囲から押し付けられて、遂に最後には皆と一緒に笑わなくてならない状況に追い込まれます。
 レベルを変えて話しますと、映画の製作状況もひとつの『ねずみの嫁入り』だと言えます。例えば、ぼくが新しい革命的な映画を望んでいます。しかしただの観客では駄目だから、撮影所へ入って映画人になりました。でも、現場労働者だから好きな映画を撮ることはできず、監督になることにしました。ところが監督になってみても、上にはプロデューサーがいるから撮りたい映画は撮れない。それでプロデューサーになったらどうなるかというと、観客が入らない映画は駄目だということになるでしょう。そういう風に「まわりまわって、ねずみの嫁入り」というような、〈怪やかしの輪〉ができ上がっている。そこがカミュと違う金井流実存主義の根底にある考え方で、その〈怪やかしの輪〉を突き抜けてこそ主体性なのです。

――金井さんのシュール・リアリズム的なグロテスク描写、白い僧衣の尼がニワトリを生のまま齧るところ、日出国が汚い集落で背中から赤子を産む場面などが秀逸です。団地の中で新聞を壁に貼ることが主体的なのだと言い張る夫がいて、ここで大家と名乗る日出国がこれまでと違う存在形態、たとえば資本家、主人、テロリストのような存在になっていきます。その後、日出国がその妻を強姦し、殺します。この後に君が代が流れ、5人の奇形児たちが生まれる。何か潜在意識的なものが噴きだすとき、奇妙な身体パフォーマンスやダンスが使われることが多いですね。

 団地の中の一連のシーンは、この映画の時系列の中で、撮影時点の〈現在〉であり、撮影にも力が入りました。人間であれ国家であれ、力を持ち始めるとその自信を何らかの形で表したくなるものだと思います。例えば三島由紀夫ですが、かつての貧弱な体から美しく逞しい肉体へと変化したとき、彼はそれを最も過激な形の行動として表現しました。
 新聞をできるだけ多く美しく貼るという行為ですが、日出国とは別な考えの人たちの自己表現のひとつの形として設定しました。その臨界点の闘いをグロテスクなパフォーマンスとして描きたかったのです。またこの団地シーンの体験で日出国を更に成長させ、あの尼僧たちの黒い微笑を習得させるためのプロセスとしたのです。

――もっとも素晴らしいシーンが、日出国が国会議事堂に飛び込んでいくと、場末の劇場のステージに上がってしまうところです。これはまるで場所から場所へと自在に繋がる夢のようです。日出国が日本刀、尼がドスを持って振っていると、ジェイムス・ブラウンの曲がかかって客席の人たちが踊りだします。このとき日出国のブレザーの胸には日の丸がついています。どこか右翼のテロリストのようになるのですが、これは三島の割腹自殺の前に撮影されたのだそうですね。

 日出国というオブジェに三島由紀夫のイメージを段々と強くさせました。映画は三島由紀夫の割腹自殺の前に公開しており、三島本人もこの作品を見ている可能性も強いです。というのは公開中のある日、劇場の総支配人から「今日は三島先生が見えられるので君は来るな!」と言われました。新聞などに「三島由紀夫を思わせる主人公が日本刀を振り翳して国会へ〜〜」などという文言があちこちにあったからだと思います。ともあれ三島の割腹自殺を予言した作品だという人も、当時はかなりおりました。
 国会議事堂前での撮影は大変でした。特にあそこでの俯瞰撮影は警視庁の屋上からでないと撮れませんのでとても気を使いました。東大闘争・日大闘争などで荒れ狂っていた時期でしたが、山崎佑次が知恵を働かせてくれたので成功〜〜 彼とカメラマンの2人がスーツ姿でアイモというニュース映画専用のカメラを抱え、正門から堂々と入ったので成功したのです!

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PART2に続く

タグ:金子遊
posted by 映芸編集部 at 15:01 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする