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2009年10月25日

試写室だより『谷中暮色』
何をどう伝えるのか
加瀬修一(ライター)

 谷中を初めて訪れたのは、もう17年前になる。劇団第七病棟公演『オルゴールの墓』を柏湯という200年の歴史のある銭湯(廃業していた)で観た。当日券を購入すると開場まではまだ随分と時間があったので、散策を決め込んで路地に入る。当時谷中の事など何も知らなかったが、足を踏み入れた途端なんともいえない雰囲気が漂った。どっしりと根を張ったというか、浮き足立ったところがない。排他的な緊張感とは違う、ピンと張った独特の空気。背筋がすっと伸びる。背の低い家屋と鉢植えが並ぶ道を何時間も歩いた。もう昔の記憶だからか、音がしていた覚えがない。いや、そこに暮らす人々の生活音が、微かに街の息吹として響いていた。芝居が跳ねた後、僕は柏湯のタイルを1枚ポケットに忍ばせた。『オルゴールの墓』の公演が終わると、柏湯は解体された。それ以来、谷中に行ったことはない。

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 『谷中暮色』は、下町情緒溢れる谷中で、古いホームムービーのフィルムの保存・修復・上映をするNPOで活動している女性が、昭和32年に焼失した谷中五重塔を記録した幻の8ミリフィルムを探すというスジをメインに、彼女が寺院、霊園の墓守、伝統工芸の職人、郷土史家など谷中に住む人々に取材をする中で、地元のチンピラと出会い、一緒にフィルムを探すうちに恋が芽生えるという物語。そして思いは時代を遡って、かつて五重塔を建設した大工の姿が時代劇として挿入される。監督のアイデアは、「江戸の心意気を残した下町谷中、現代東京の若者を放り込むとどうなるか?」「シナリオなしで若者たちを谷中というある種異次元ともいえる街中に放り込み、伝統工芸の職人とぶつかり合わせ、ドキュメンタリーとフィクションを融合させる」ということらしいのだが、正直、試み以上のモノは伝わって来なかった。
 セピアカラーに字幕で処理されたサイレント時代劇は、幸田露伴の「五重塔」を原作にしている。封建的な社会や師弟関係に対して、たった一人で立ち向かった大工の姿は反骨だし、新しい価値観の創出だと思う。そして完成した五重塔が、やがて谷中の象徴になるのは、価値観や権威がいかにうつろいやすいかという批判でもある。この物語と現代の若者の恋愛がどうシンクロするのか? 生活感のない2人、何に迷い、葛藤し、生きているのか。人物像の作り込みが足りないせいか、フィクション部分が軽く見える。まさかそれが現代の若者なんてことではないだろう。どうしても幸田露伴の「五重塔」とつながらない。易々とつまみ食いできる原作ではないと思う。画面がやたらとモノクロになったり、セピアになったり、カラーになったりするのも、何を伝えるための技術なのか。そこから感情の機微は伝わってこなかった。監督は谷中に住んでいるという。谷中の街の、人の何に魅かれたのか。生活者の目線なのか、探訪者の目線なのか、どこに立っていたのだろう。上品過ぎる画面からは、街の匂い、人々の生活の匂いが感じられなかった。

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 焼失した谷中五重塔を記録した8ミリフィルムを探すことが、何にも増してドラマチックだったし、それだけで十分に観せる力がある題材だったと思う。ドキュメンタリーに絞り込めなかったのは、この作品がENBUゼミナールの映像俳優コースの卒業制作だったからだろうか。
 最近は各種学校の実習や卒業制作で作られる映画が、劇場公開されることも多くなった。そのこと自体には大きな希望を感じる。学生はプロと創作を共にすることで、大きな経験を得るし、技術も学べる。また映画そのものに対しても、自分の向き不向き、特性を考えることができる。教育的な意義も大きい。プロも学生から新鮮な刺激を得て、新たな創作意欲を掻き立てられたり、メジャーでは通らない企画を実現できたり、自主制作レベルでは難しい、人、モノ、お金のある体制で撮影できるというメリットもある。また作った映画が劇場にかかるのは、ひとつのゴールとして大きな励みになるだろう。
 反面、「作品」を作るということが最大の目的で、どれだけ人に観せるという意識を持って制作されているのか分からない作品も多い。もっともこれはこういう体制で作られた作品だけでなく、インディペンデントの作品に総じて言えることなのかも知れないけど。「他とは違う、新しいモノを作りたい」「自分たちのやりたいことをやりたい」そして「ひとりでも多くの人に観て欲しい」と続く。もちろんそれは本音だし、否定するところはない。でも、純粋に「作品」を作りたいということだけだったら、それはでき上がった時点で達成しているのではないだろうか。そこから先、「他人に観てもらう」というのは別の話だと思う。そもそも「ひとりでも多くの人に観てもらう」=劇場公開というところから、疑ってみる必要があるのではないか。例えばチケットを売る難しさは同じだから、DVDを自主制作して手売りすれば、劇場費+宣伝費より安く済んで利益も大きいかも知れない(原価の問題があるけど)し、もっと極端に言えば、DVDを無料で手渡したり、劇場やレンタル店などにTAKE FREEで置いてもらった方が、単純に「多くの人に広める」ということになるかも知れない。

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 じゃあ劇場で公開することに拘るのはなんなのか? ステイタスが欲しいのか、あわよくば一発当てたいのか、自分が感じた劇場体験を自分の作品で誰かにも体験して欲しいのか。その欲望にもっと正直に、真摯に向き合わなければならない。観客の欲望だって、もっと深くてシビアなはずだ。みんな余裕もない中から、時間とお金を使う訳だから。さっき「他人に観てもらう」というのは別の話と言ったけど、本当は「ひとりでも多くの人に観てもらえるような作品を作り、ひとりでも多くの人に観てもらえるような伝え方」が理想なんだと思う。そのための制作プロデューサー、宣伝プロデューサーが必要だし、意識的に自分たちの中にそういう人材を作っていかなければならないということだろう。
 「作品」は観てもらって初めて「映画」になる。作家偏重主義の「作品」と商業第一主義の「商品」の二極化。この不幸な状況を変えて行くためにも、その中間の「映画」がドンドン作られて欲しい。「傑力珍怪映画祭」「トリウッドプロジェクト」など、確実にそういう事を意識した活動も出てきている(これらについては、また改めて別の機会に書かせていただきたいと思う)。「お金がない」「時間がない」という事が免罪符となり、特定の人間や組織が犠牲や負担を背負って行く状況には限界がある。経済的にも潤わなければ続ける事ができない。伝える事、観せる事にももっと意識を高めなければ。その点でも各映画学校や映画学科が現代の撮影所になりうるのか。共に模索したいと思う。なんだか『谷中暮色』の話から逸れてしまったが、観ている最中そんな事ばっかり考えていた。
 そもそも五重塔が焼失したのは、放火心中が原因だという。谷中の歴史にフィクションで挑むなら、それくらいの覚悟が必要だったということだろうか。柏湯はその後、外観を生かしたギャラリーとして活躍していた。あの日ポケットに忍ばせたタイルも、コースターとして今もそばにいる。久しぶりに谷中に行きたくなった。

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『谷中暮色』
監督:脚本:編集 舩橋淳 共同脚本:根岸彩子 撮影:水口智之 
照明:関輝久 音楽:ヤニック・ダジスンスキー
出演:野村勇貴、佐藤麻優、加藤勝丕、小川三代子
製作:ENBU ゼミナール、Big River Films
配給・宣伝:Big River Films
2009年/日本/107分/HD / パートカラー / 1:1.77 / ステレオ / 日本語

10月31日(土)より、シネマート新宿にてモーニングショー
公式サイト http://www.deepinthevalley.net/jp/
タグ:加瀬修一
posted by 映芸編集部 at 19:48 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする