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2009年11月06日

闘うドキュメンタリー映画時評(2)
「山形国際ドキュメンタリー映画祭2009」
金子遊(映画批評家)

スケッチ・オブ・ヤマガタ
 去る10月8日から15日にかけて、2年に一度のドキュメンタリー映画の祭典「山形国際ドキュメンタリー映画祭」が、山形市において開催された。映画祭は一つの怪物的な現象であろう。山形市民会館大ホールと小ホール、山形市中央公民館、フォーラム、ソラリスの他、山形市の各所においても関連イベントが開催された。その全貌をたった1人で語り尽くすことはできまい。その姿は既にさまざまな評者によって語られているし、これからも語られていくであろう。以下は、その声たちの渦のなかに、自らの声をも重ねたいという誘惑に勝てずに筆をとったものである。
 ドキュメンタリー映画の現在を切る、などという大それたことが出来るはずもないが、この世界で随一と言われるドキュメンタリー映画祭に出品された映画群を目撃してしまうと、そのような大言壮語をつい弄したくなってしまう。少なくとも、ドキュメンタリー映画の現在を巡る、いくつかの提起と論点を周到に組まれたプログラムのなかから感得することができた。

『包囲:デモクラシーとネオリベラリズムの罠』
 今年、大賞にあたるロバート&フランシス・フラハティ賞を受賞したのは、カナダのリシャール・ブルイエット監督による『包囲:デモクラシーとネオリベラリズムの罠』であった。3時間40分に及ぶこの映画を要約すると、次のようになるか。

 2008年のリーマンショックでは、アメリカの銀行と金融機関が立ち並ぶウォール街が揺さぶられ、国家の主要な銀行でさえ崩壊直前までいった。その世界中に波及した危機の主な原因は、金融の民間部門における規制緩和政策であった。その背景には、金融市場において規制を緩めれば緩めるほど、その活力は強まると広く信じられてきた一つのイデオロギーがあった。2008年の金融危機は、この理論の紛れもない欠点を示したが、驚くべきことに、アメリカ経済を沈ませかけた規制緩和という無責任な行動に対しては、大きな批判が寄せられることがなかった。
 経済用語における「ネオリベラリズム(経済的な自由主義)」という思想、つまりは拘束されることのない自由市場という概念は、いつから、どのようにして世界中を席巻し、支配的な思想となったのか。自由競争の旗のもとに行われる経済優先政策や、ネオリベラリズムの基盤をなすエリート主義や帝国主義の原理と起源の醜悪さなど、その歴史と現在における諸問題をノーム・チョムスキー(言語学者)、イグナシオ・ラモネ(「ル・モンド・ディプロマティーク」編集主幹)、スーザン・ジョージ(IMFや世界銀行の動向を批判する政治学者)、ミシェル・チョスドフスキー(オタワ大学政治経済学教授)ら、13人のアメリカ、カナダ、フランスの知識人へのインタビューを通じて浮かび上がらせる、という野心的な作品である。

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 インターネットで「新自由主義」の頁を参照してみると、簡単にいえば、それは市場原理主義の思想に基づいて、小さな政府、福祉や公共サービスの縮小化、公共事業の民営化、規制緩和を推進することだという。もっと短くいえば、共産主義と対極の経済思想ということで、グローバル資本主義と社会における貧富の差を推し進めているものだということだ。ジョージ・W・ブッシュの新保守主義、小泉純一郎による構造改革も、この経済思想の範疇に入るものであろう。アメリカと日本において2つの民主党が政権をとり、新自由主義的な経済政策への反省を基本政策として打ち出している現在では、まさにタイムリーな1本であったといえる。特に現代の日本社会が直面している格差の問題などを考える上でも、大いに参考になる映画である。

多様化するドキュメンタリー映画
 『包囲:デモクラシーとネオリベラリズムの罠』では、インタビューによって構成されたネオリベラリズムをめぐる議論が延々と続くのだが、これが不思議と退屈しない。こちらは日本語字幕をずっと追いかけているのだから、ちょっとした経済学の本を静かな心持ちで読んでいる具合である。そのような意味では、35ミリフィルムかと見まがうHDカメラによって撮影されたモノクロ映像も戦略として成功している。画面内に色彩などの余計な情報が入っていない分、映画のなかにおける議論に意識が集中できる。
 国内でここ数年相次いで劇場公開された『ダーウィンの悪夢』や『ジャマイカ 楽園の真実』のようなグローバル資本主義を批判するドキュメンタリー映画を見ていたが、そこで俎上にあげられる多国籍企業、世界銀行、IMFなどの国際機関の何が問題なのか、経済学的な知見までは知らなかった。時々はこのような非常に勉強になるドキュメンタリー映画を見たいものである。

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 公式ホームページなどの情報によれば、監督のリシャール・ブルイエットは1970年にカナダのモントリオールで生まれた、インディペンデント系の映画作家である。これまで週刊誌で映画評を書いたり、ケベックの配給宣伝会社で10年間働いたり、多分野のアートが展示できるイベントスペースを設立して、映写技師を兼ねながら毎週シネクラブを開いたり、短い実験映画やドキュメンタリー映画を自分で製作したりと、随分と苦労を重ねてきた人物のようである。だからという訳ではないが、これだけ重厚な作品を生み出したのだから、素直に応援するべきだという気持ちにもなる。
 しかし『包囲:デモクラシーとネオリベラリズムの罠』こそが、今年の山形国際ドキュメンタリー映画祭を代表するような1本であったかといわれると、途端に自信がなくなってしまう。たとえば、大賞ではなくて、最優秀賞や優秀賞といわれれば納得できる。世界中のあまりに多くの地域から多様な映画が集結しているために、映画同士をほとんど比較することが不可能であり、大賞というものを決めるのが難しくなっているのではないか。あるいは大賞というナンバーワンを決定すること自体に意味がなくなっているかもしれない。おそらく、それはビデオ技術の利便性によって進行した、ドキュメンタリー映画制作の少人数化・個人化と関係しているのであろう。そして、大賞を決めることが無意味に見えるほどドキュメンタリー映画が多様化・個人化していることこそが、実はこの山形国際ドキュメンタリー映画祭という怪物が持っている魅力なのではないかと感じた。

映画に(反)対して ギー・ドゥボール特集
 『包囲:デモクラシーとネオリベラリズムの罠』のように、映画で論文を書く試みは、ジャン=リュック・ゴダールらのいくつかの作品にも見ることできる。論文的な映画は、クリス・マルケル、アニエス・ヴァルダ、松本俊夫、金井勝らが試みてきたエッセイ的な映画と並び、ハンディなビデオカメラの高性能化を利用して、もっと作られて、もっと公開されてしかるべきだと思われる。
 しかし、今回の映画祭で特集が組まれたギー・ドゥボールの『スペクタクルの社会』(‘73)を見てしまうと、『包囲』ですら物足りないものに思えてくる。比べること自体が愚かだという誹りを免れえないが、ニュース・フィルムやアメリカの西部劇を引用しながら、資本主義社会をスペクタクル化という視点から捉えなおしていく『スペクタクルの社会』と、すでにある経済学的な知見をインタビューで構成する『包囲』とでは、未知なる思考へと分け入っていくスリリングさがまるで違う。

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 同じギー・ドゥボールの最後の映画作品『われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火で焼き尽くされんことを』(‘78)を見ながら、映画らしさとは一体何なのかと考えざるをえなかった。これは「既成の映画やニュース映像、テレビ番組やコマーシャル・フィルム、コミックスや写真などを転用した映像にかぶせてドゥボールの声だけが響く」映画である(「スペクタクルを盲目にする」木下誠)。私たちにあらゆる手段でイメージとして与えられる「偽の生」にドゥボールは抵抗したわけだが、その高度にメディア化された社会を逆手にとって、彼は批判を映像による引用の織物として提示している。
 この映画でドゥボールが差し出しているのは、彼自身の血の色をした自伝的な生であり、青春である。その断片の集積からなるナレーションは時に抒情的ですらある。映画や映像の引用によって、己れの人生を語るという戦略には目を見張るものがあるが、逆にそのように映像を「転用」することでしか、高度な資本主義社会に生きる私たちは自分を語ることができないのか、という苦さをも残す。映画という産業は、資本主義社会が産みだした産物に他ならない。私たちはそれを徹底的に利用し、それに塗れることでしか、その向こう側へいくことができない、と言っているかのようだ。満身創痍で闘い続けるドゥボールの姿に、暗闇でひっそりと涙を流したのは私だけではあるまい。

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『ナオキ』
 映画においてスペクタクルというと、何かスケールの大きい大作映画を思い浮かべそうなものだが、ギー・ドゥボールのいうスペクタクルとはそれだけに留まらない。例えば、ある人がメディアを通じてスターやセレブになることもスペクタクル化であるし、知識人が影響力を持とうとしたり、書物を商品化して有名になろうとするときはスペクタクルに身を捧げなくてはならない。スペクタクルは私たちが住む社会のどのような側面にもあまねく偏在し、それなしにはコミュニケーションすら取れない状態になっている。ドゥボールの言葉を借りれば「スペクタクルとはメディア的なものの過剰にすぎないのかもしれない。このメディア的なものは、それがコミュニケーションの役に立つものであるからには疑いなく良い本性を持ったものであるが、ときおり過剰な状態になるのである」(『スペクタクルの社会についての注解』)。だからこそ、ドゥボールのもっとも「映画らしい」映画は、スペクタクル化された社会を逆手にとり、映像の引用によって自らを語る試みとなったのである。スペクタクルに身を捧げているか否かという指標は、どこまでが「テレビ・ドキュメンタリー」であり、どこからが「ドキュメンタリー映画」であるか、という私たちの疑問に答えるものにもなり得るだろう。

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 NHKのハイビジョン特集シリーズ「東京モダン」のために作られた『ナオキ』(市民賞受賞)のことである。ビデオカメラによる撮影が主体となっているドキュメンタリー映画では、記録媒体がフィルムであるか、ビデオ技術であるかという問いは、もはやほとんど意味をなさない。テレビ番組用に製作された作品でさえ、スクリーンに投影されて製作者本人が「これは映画だ」といえば映画になる。テレビ番組を「映像作品」と呼んで「映画」と区別するという慣習は、ドキュメンタリー映画においては通用しなくなっており、この先この制度は越境的に解体されていくことであろう。
 極端な例でいえば、『泣きながら生きて』はフジテレビの「金曜プレステージ」の枠で2006年11月に放映されたものだが、2009年11月末には劇場公開される。それだけドキュメンタリーのジャンルでは、映画と番組の間の垣根は低いものとなった。国内でも森達也、想田和弘、大島新らはテレビ・ディレクターであるし、多くのドキュメンタリー作家が番組ディレクターも兼ねている。撮影用カメラ、記録媒体、編集技術も、映画とテレビにおいてさほど変わるところはない。だからこそ問われるのが、ドキュメンタリーの世界において、何が映画的であり、何がテレビ番組的であるのか、ということだ。
 『ナオキ』は「映画らしさ」と「テレビ番組らしさ」を同居させた過渡的な作品である。公式カタログのプロフィールを読むと、『ナオキ』を監督したショーン・マカリスターは映画学校を卒業した後、BBC、チャンネル4、NHKなどで映画を作ってきたとある。原題は『JAPAN : A Story of Love & Hate』という、いかにもテレビ番組的なタイトルであるが、これもプロデューサーに強制されたものではなくて、監督のセンスなのかもしれない。私が山形で見ることができた作品のなかでは、『ナオキ』は抜群におもしろい作品であったし、地元山形の市井の人が主人公になって山形において撮影されたということもあり、観客も数多く入って上映も盛り上がっていた。

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映画らしさとテレビらしさ
 『ナオキ』のテレビ番組らしさは、実はその完成度の高さにある。言いかえれば、メディアとしての達成度の高さというか、メディア的なものの過剰にある。この作品は、かつてバブル期にバーを経営して成功し、いまはワーキングプアになって郵便局でアルバイトをしている50代のナオキさんと、昼は会社員として働き、夜は水商売のアルバイトをしている20代の恋人の関係をとらえている。日本の現在をとらえた社会の切り口がシャープであり、また年齢差ゆえにセックスレスの関係でありながら兄と妹のように同居を続ける二人の関係も、観る側の好奇心をかき立てる。そこに、カメラを持ったイギリス人監督が入っていくという、たった三人の狭い世界でありながら、一人ひとりの人物がカメラの前で本音を語り、修羅場を演じつつも、一つの愛情のある関係が描かれている。まったくもって、かゆいところに手が届く、見事なつくりだという他はない。
 それにもかかわらず、テレビ的過ぎて食傷気味に思える特徴も多々ある。自己暴露的なナオキさんが赤裸々に私生活をさらすところが作品の魅力だが、そこには作品の企図に合わせている様がうかがえる。自分の役を演じる役者なのだ。また、あまりに典型的な人物の特徴は、現実の人物像や関係の複雑さを排除しており、真実味のない作り物めいたところがある。さらに気になるのは、監督が日本社会にむけているエキゾチズムの視線である。郵便局内におけるラジオ体操と朝礼がいい例だ。日本社会が持っている馬鹿馬鹿しさを批評的にすくっている面がある一方で、その裏の精神構造にまで踏みこんでいないために単なる戯画化に終わっている。

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 要するに『ナオキ』という作品は、ドキュメンタリーとして或る人たちの現実を提示しているのだが、それは作り手が面白くみせるために「構成」した、過剰にメディア化された現実なのである。もっと大げさにいえば、この小さな劇が観る側にとって面白くて仕方がないのは、スペクタクル化されているからである。最大公約数の観客を惹きつけるように、あらかじめよく練りこみ、現実を用意された構成へ当てはめていく作品の周到さは、暗闇で映画としてスクリーンに投影されるときに、その弱点を曝けだし観る者を白けさせかねない。私たちが「映画らしい」と思う体験は、むしろ暗闇のなかで分かりえないものの存在に圧倒されたり、未知なるものの前で何とか理解しようと思考を巡らせることの方ではないだろうか。よく構成された物語よりも、作り手の思い込み強かったり、物語としての破綻があったりした方がかえって映画らしく思えることがあるのもそのせいだろう。
 それにもかかわらず、『ナオキ』が映画として成立していると思われるのは、次に何が起こるかわからない未知のものに開かれている瞬間があるからだ。酒を飲み、カメラの前で話すうちに、今まで口にしたことのない想念が、若い恋人の口から矢継ぎ早に出てくる。また、ナオキさんがカメラを持った外国人の取材を利用して、若い恋人をつなぎ止めようと様々な策を弄するとき、そこにはカメラが介在することによって変容した2人の関係に新たなフェーズが立ち現れている。監督はそれらをも織りこみ済みで撮っているのかもしれないが、彼が企図したものよりも、それを超出している正体不明なものの方がスリリングで映画らしさに満ちている。作りこまれて完成度の高い作品にほど、観る側というものは繊細に反応し、小さな綻びが気になるものだ。これからもドキュメンタリー映画の世界において、映画とテレビは益々クロスオーバーした状況に突入していくであろう。はたして私たちの観る側の目には、この未知なる状況へ突入していく準備ができているのだろうか。


『包囲:デモクラシーとネオリベラリズムの罠』
監督・脚本・編集・調査・製作:リシャール・ブルイエット
撮影:ミシェル・ラモト
録音:シモン・グレ
音楽:エリック・モラン
2008年/カナダ/ビデオ(HD)/160分

『ナオキ』
ディレクター・撮影:ショーン・マカリスター
取材:橋浦太一
編集:オリー・ハドレストン
音楽:マシュー・ホッグ
音声:中村豪仁
映像技術:水沼治久
国際共同制作:Tenfoot Films、BBC、NHK(日本放送協会)
2009年/イギリス、日本/ビデオ(HD)/110分




posted by 映芸編集部 at 21:22 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする