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2009年12月24日

映芸シネマテークvol.5『怒る西行』トーク
沖島勲(監督)×稲川方人(詩人・本誌編集部)

 監督、脚本家として長年のキャリアを持つ沖島勲さんが、若いスタッフ数人とわずか数時間のうちに撮り上げた映画『これで、いーのかしら 怒る西行』。先日行われた「映芸シネマテークvol.5」では、来年1月から始まる劇場公開に先駆けて、本作品を上映しました。
 玉川上水沿いの散歩道を歩きながら、監督自らが風景と記憶について語るというこの映画のスタイルは、一見したところ安易に映るかもしれません。しかし、映画の形式や制作形態に縛られることなく一本の映画を撮り上げ、それを劇場公開にまで持っていく軽やかさとしたたかさは驚嘆すべきものです。上映終了後のトークでは、本作に深い感銘を受けたという稲川方人と沖島監督が、この映画の核心と現在性について語り合いました。
(構成:平澤竹識 構成協力:春日洋一郎 写真:中川志都)

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左から沖島勲、稲川方人

稲川 最初に、なんで今回このようなドキュメンタリーを撮ろうと思ったのか、その辺の話から伺えますか。

沖島 この頃は簡単にデジタルカメラでやれるし、ホームビデオ的なものでいいから、劇映画のような手間暇をかけずにやりたいなあと思ったんです。ただ、後から考えてみるといろんな理由があったなということが分かりまして。僕は2年ぐらい前まで熊本の大学に教えに行ってて、その講義録を残しておきたいなという気持ちがあったんですよ。どう見ても少し特殊な授業をやっていて、何か残しておきたいと思ったんですけど、そういうことを何もしないまま終わってしまった。ですから、そういうものを映像でやっちゃうというか、ひとつのパフォーマンスみたいなものとしてやったらどうかという気持ちもありました。他には、僕は「まんが日本昔ばなし」という語りが中心のアニメ番組のシナリオを長いこと書いてきたわけですね。それは声優さんが読むわけですけど、もう喋りたいことは自分で喋ってもいいんじゃないの、という気持ちになったわけです。それから、家の近辺にある玉川上水の風景が「放射5号線」ていう道路の工事でどんどん汚くなっていくんで、少しきれいなうちに撮っておきたかった。そんないろんなことが重なって、やってみようということになったんです。

稲川 最初の試写会のときに見て、いろいろ思うところがあったんですね。というのも、当時は長年住んでいた家を追われるような形になって、どこに逃げ伸びられるか決まらないときだったので、沖島さんの映画を見てかなりくるものがあったんです。その後に行きついたところが羽村という場所で、これはまったくの偶然なんですけれども、羽村は玉川上水発祥の地なんですね。その羽村に移り住んだということもありまして、『怒る西行』を見て考えるところが多かった。今の東京の風景を見る沖島さんの視座が饒舌に語られているわけですけれども、それ以上にこの映画の、この映像の持っている意味がとても現在的に見えたんです。ここ1週間ほど、保田與重郎が戦前に書いた「日本の橋」という論文を読んでいたんですが、今日映画を見ていたらまずそれを思い出しました。「日本の橋」では、万葉期まで遡って日本の橋の来歴が語られるわけですが、そこで保田與重郎がやろうとしたことは日本の近代批判なんです。日本の橋の来歴を語ることで痛烈な近代批判と近代的知識人批判をやっている。沖島さんも『怒る西行』のなかで「冗談みたいな風景」とおっしゃいますよね。我々が住んでいる世界の現在、東京の現在が「冗談みたいな風景」として相対化される、その視座は「日本の橋」とも通じるものがあるなと思いました。

沖島 近年ますますそう感じることが多いですね。若い頃ほど都心には出て行きませんけど、行くたんびに「ちょっとどうかしてんじゃないの」と思います。決して、田舎が好きで都市が嫌いって人間でもないんです。でも、ここまで変な風にいじくりまわされると、ほんとに冗談としか思いませんね。ものには限度があるだろうと。人間は1匹の動物でもあるわけですけど、そういう意味では、人間が住む場所とか呼吸する場所って本当になくなっている。僕は現実らしい生活というものをとっくに諦めてます。自分の幻想のなかだけで生きているような生活をもう何十年も続けてるように思うんですよ。ただ、多少でもいいから「地面」に立ってないと幻想すら生きていけない。これだけ人工的なもので固められてしまうと、精神が呼吸する場所もなくなっちゃうような気がするんです。これは今、田舎へ行くと特に感じますよ。ちょっと古い家があっても「文化遺産」であったり、「ナントカ記念館」であったりして、今生きている家屋じゃない。黒々としたコンクリートやアスファルトの土台の上にオモチャのようにそうした家が立ってるんですね。そんなところには夢や幻想が生きていくための僅かな敷地すら残ってない。もう危機もどん詰まりまで来ちゃったなと、そういう怖さは感じます。

稲川 おそらくそれは、沖島さん個人の心的境遇なのではなく、何かによってもたらされたものだと僕なんかは思うわけですね。幻想空間さえ侵食されてしまったという沖島さんの心的境遇は、何かの力によってもたらされたというのが正しい見方のような気がするんです。つまり、沖島さん個人の境遇に還元できない問題をこの映画は語っていると思うわけですよ。

沖島 この映画を作った一番根本の理由は、そういう「幻想すら生きていく地面がなくなったらどうすんの」っていうような気持ちなんですね。映画を作ってきたひとりの人間としても、せめて1平方メーターぐらいの生きた地面がないと、何かを作る土台を見つけることもできなくなる。まあ、ここで「歌」っていう言葉を使いたくなりますね、「もう歌うことすらできない」っていうのかな。

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稲川 私は先ほど話した今年の夏の出来事に決定的な影響を受けちゃったんですけど、住んでいた場所を追い出されて次の「地面」を見つけなきゃいけない、その過程で相当な危機感を持ちました。僕はその危機感を敵対意識のほうに向けるわけですね。「自分の場所がないのは誰かのせいだ、何かの力のせいだ」と考える。そんな怒りを持ちながら東京の西の果てをトボトボトと歩いていて一番強く思ったのは、小泉政権時代に為していたことがこんな末端で一番露骨に表れているんだなということなんです。今、沖島さんがおっしゃった「人間の地面を奪う」「心的な幻想領域さえ奪う」変化がリアルに反映されてきてしまった。その当時はもう叫び通すか、泣きじゃくるかしかできなかったですよ。そのぐらいひどいことになってるなと痛切に感じられました。そういうときにこの映画を見たので、この風景が映しているものの背後に語られている言葉、それが重要かなと思ったんですね。今、沖島さんが「歌うことさえできない」と言いましたけれども、実際には「歌も奪われてしまった」その先を我々は今生きている気がするんです。歌を奪還するだけではもはや済まない、その前に奪還しなければならないものがあるんじゃないかと。そのぐらい切羽詰まってると思うんですよ。この映画が今後どんな風に語られていくか分からないですけども、そういう流れに抗う力があるということを強く出してもいいんじゃないかなと思いました。

沖島 僕にとってこの映画は、最後の進言みたいなものですからね。僕はこれまで劇映画をやってきたわけですけど、主張がなきゃ劇映画も作れない。フィクションというものは、まわりくどいことをやりながら、ものを言うわけじゃないですか。その楽しさや面白さがあると思うんですよ。一方で「もう、そんなまわりくどいことはやってられない」「もう俺が出てって言いたいことストレートに言わしてもらうよ」っていう気持ちもあった。とにかく直に思いを言いたかったんですね。

稲川 この映画は、風景に対する視座とか、自然と人工といった図式で読み取れる個所もあるんですが、重要なのはそこではないんですよね。沖島さんが饒舌に語る言葉、ある種メッセージとして送る多くの言葉が厭世感の表出ではなくて、もっとポジティブなものとして受け止められるわけです。

沖島 結局、僕を生かしてるのは僕のなかの子供性なんですよ。「自然を感じる力」と言ってもいいかもしれないけど、そういう自然との付き合い方を本能的に習得したのも全部子供の頃なんですね。それがなくなったらおしまいだと思う。だからたしかに、稲川さんが言われたようなポジティブな部分を持ってます。それが自分のなかにある子供性ですね。それはまだ自然に対して感応してくれてるし、ある意味で生々しく自分を生かしてくれてる。

稲川 つまり、沖島さんのなかにある、「生きることに対して積極的である」という意味での幼年性が継続されていて、それは映画のひとつの魅力になっているんだと思います。それがこの映画における沖島さんのキャラクターも作ってるんですよね。どのように自覚なさってるか分からないんですけど、沖島さんのキャラクターがこの映画を支えているところがあると思います。この映画が公開されたときに、沖島さんのキャラクターがひとつのこの映画の力になるだろうということは、まず確信的に申しておきたいところですね。だから、沖島さんのキャラクターをなるべく売るということと、その背後にあるこの映画の真の調べというものをメッセージとして発信していただきたいなと強く思うんです。

沖島 稲川さんとはあまりお話ししたことがなかったんですけど、いつか映画芸術の忘年会のときに稲川さんに言ったことを憶えているんですよ。「映画ってのは哲学だよね」って。僕は、一番重要なのはそこだと思ってるんですけど、そのときに「哲学ってのは詩のことだよね」ってさらに言った記憶があるんです。やはり映画の一番の面白さっていうのは哲学があるってところで、その哲学は詩でしか表現できないものなんじゃないかっていう気持ちがある。映画をやるときの楽しさ、映画にしかできないことをやろうとする気持ちの全てはそこから来てますね。

稲川 その「哲学」が「ポエジー」とイコールになるとは性急には言えないことだと思うんですが、ざっくり言っちゃうと、その哲学というのは、生きることの原理に対して人間の意識や言葉がどれだけ届くかっていうことやるわけですね。ですから哲学は必然的に神学的な要素が入ってくる。そういった構造が沖島さんの映画、とりわけ『怒る西行』には表れている。非常になにげない撮られ方をしていて、しかも4時間ぐらいの間にまわしたデジタル映像をもとに作られていますから、映像自体はいわばイージーですよね。「イージー」というのは消極的な意味じゃなくて、できるだけ軽く風景を撮ろう、できるだけ軽く語ろうという意識の表れとしてあるわけです。その軽さみたいなものがまさに沖島さんのキャラクターに合ってるなと思いました。

沖島 なんとか息ができてるっていうことだと思うんですよ。あれが重くなったら、僅かな呼吸すらできない。言ってみれば、映画のなかで歩く場所も散歩道という自分にとって安全な場所なわけですから、そういう意味では、なんとかイージーに、今依って立つことが可能な地べたを辿っていきたいという思いがあるんですね。

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稲川 そのイージーさを演出してる部分もあるわけですよね。映画のなかで「ロケハンしたときに……」みたいなことをおっしゃってたんで、ある程度は何を語るか準備されていたと思うんですよ。つまり、この映画のある形式はあらかじめ前提としてお持ちになっていたわけですね。今年の4月23日にポッと行ってポッと撮ったわけじゃない。この映画の形式はこうだ、ということは、予め沖島さんおよびスタッフのなかに意識されていたわけですよね。

沖島 物事には頭もあればケツもあるわけですから、当然頭からおしまいまでひとつのペース配分とでもいいますか、生理的に、本能的に自分のなかで計算があるということですね。

稲川 その計算が、「カラスにどつかれた」話をされる冒頭から井の頭公園で「これでいーのかしら」としゃれを言うまでの、この映画の形式を作っているわけですね。そのなかで、いくつも画期となる発言があって、その集約が最後のほうに西行法師の「願わくば〜」という歌について語った後で沖島さんが「リセット」という言葉を使われたところじゃないかと思います。沖島さんが先ほど「映画は哲学だ」と定義なさいましたけれども、西行法師の歌を援用しながら「人間はリセットできるかもしれない」という言葉を見出すところが非常に進歩主義的だなと、進歩的な哲学があるんだなと感じました。

沖島 「リセット」って言葉は、僕には似合わない言葉だと思います。ゲーム世代でもないですし、「リセット」は機械で操作したりするときの言葉ですよね。しかし、あまりいい言葉が思いつかなかったので、「リセット」って言葉になったんです。要するに、人間ていうもののイメージを過剰に持ち過ぎているんじゃないかということなんですよ。人間は動物のなかでも特殊で立派なものだっていうような、近代の頭でっかちな考え方が今の人間の不幸を招いてんじゃないかと思うんです。風に吹かれていれば分かることですけど、自分なんて何者でもない、その辺に生えてる草や何かとそう変わんない存在じゃないかという、そのぐらいの気持ちに近代の人間像をリセットしないと、おそらく人間にとって幸せな時代はもう来ないでしょう。

稲川 ただ、近代の過程で刻まれた歴史的な記憶から我々は逃れられない、そのような意味でのリセットがもはや不可能な近代以後を我々は生きてしまってるわけですね。ですから、沖島さんがリセットと言ったときに、とりわけ90年代以降の我々の生活、我々の世界の歴史的な経験ならリセットできるんだ、という風に僕は受け取ったんです。

沖島 あるいは個人史的に言うと、子供の世界へ戻って、自分の子供性を生かしていくことじゃないですか。ヨーロッパでは、子供は不完全な大人でしかないっていう考え方らしいですけども、僕はそうは思わない。逆に、大人になっていくことでどんどん失われてしまうものがある。近代の人間像がそういうもんじゃないかなっていう風に思うわけです。

稲川 前々回の上映会で女の子たちの映画をやったときに沖島さんがゲストで来ていて、「人間の知覚自体がどっか本質的に変わってしまったんじゃないか」みたいな発言をされましたよね。その発言と『怒る西行』の終わりでリセットの可能性について語っていることが、僕にはどっか交わり合ってるような気がするんです。

沖島 進化論を信じるなら、人間もまだ変形してるわけですよね。どっかでもう変化が起こってるかもしれないじゃないですか。ここまで環境に対して生き辛く感じることが多くなると、それに適応するような肉体も含めての変化、まあ「怪物化」って言ってもいいかもしれないけど、そういうことはもう細胞のなかで始まってるかもしれない。それは大いにありうることなんじゃないですか。

稲川 そうした人間の知覚の変容が人間の歴史や未来に対して必ずしもいい結果をもたらすとは限らないわけですね。

沖島 だと思います。

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稲川 それは今、「価値が多様化している」という意味で無価値な現実のなかに我々がいるときに映画が考えなきゃいけないこと、音楽が考えなきゃいけないこと、絵画が考えなきゃいけないことだと思うんですね。それを放棄してはならないってことを、どうも沖島さんはこの映画で、この映画のリセット論で語っている。それと並行して非常に面白いなと思ったのは、そういった非常にスリムな沖島さんの哲学がこの映画の中央に軸として流れているとすると、つまり玉川上水の中央に哲学が流れているとすると、その脇を平気で地元の人たちが自転車で通り過ぎたり、散歩の人たちが通り過ぎたりしていくことですね。あれが、この映画のダイナミズムだと思うんです。

沖島 あの人らは役割が大きいですね。エキストラ料を払ったら、相当払わなきゃいけなかった(笑)。

稲川 だから、あの人たちを撮りえたのもこの映画の成果じゃないかなと思うんですよ、画面に人を通したっていうことが。

沖島 スクリーンでちゃんと見たのは今日が初めてぐらいなんですけど、風情がありましたね。日傘を差して遠くに去っていく方は原節子さんじゃないのって思うぐらい(笑)。

稲川 それがこの映画のひとつ面白いところですね。映画のなかに予期せぬ人を通してる。それを沖島さんは最終的に「風」という言葉で表現するわけですが、まあ風も通ってるわけですよね。それを撮りえているなと思います。

沖島 ありがとうございます。


『怒る西行』
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演出・出演:沖島勲 撮影:四宮秀俊 録音:川井崇満
出演・編集:石山友美 制作進行:鈴木紳介
YYKプロダクション製作
(2009年/97分/DV撮影)


上映情報@ポレポレ東中野
〈モーニングショー〉
2010年1月3日(日)〜1月15日(金) 10:40〜
〈レイトショー〉
『怒る西行』 2010年1月9日(土)〜2月5日(金) 21:00〜
『一万年、後・・・・。』 2010年1月9日(土)〜22日(金)  19:15〜



posted by 映芸編集部 at 12:00 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする