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2010年01月03日

試写室だより・番外篇『マテリアル&メモリーズ』
8ミリ殺人者の凱旋〜誰でもわかる! はじめての原將人
若木康輔(ライター)

 感動とか共感をあんまり評価の基準にし過ぎないほうがいいぜ、と思うのである。
 なんとなればそれは、作品が与える様々な知覚から自分の認識や経験値で整理できるものだけを取り分け、あとは捨ててしまう利害的な行為につながる。もちろん感動も共感も大切だけど、「泣ける/泣けない」が物差しのままなら知覚領域は制限され続けてしまう。よく分からないのにいつまでも引っかかる、そんな部分が実はおいしいのだ。
 よく似た意味合いの記述を、僕はアンリ・ベルクソン「物質と記憶」を読んで見つけた。ベルクソンは(最近までよく知らなかったけど)20世紀哲学のそりゃあもう偉い人なのである。ワタシと同じようなことをかのベルクソン先生も仰っているのですぞ、オッホン。と、後ろ盾があれば自然と物言いも偉そうで、武装のために文献引用に明け暮れる学士さんみたいでよくないのではあるが。
 その「物質と記憶」を引用どころか、インスピレーションの基であると堂々と謳い、タイトルまで倣ってみせた映画を見た。それは今書いたような普通の物差しが全く通用しないもので。なのに見ている間、まるで体内の細胞がスパーッと入れ替わるのが分かるような、鮮やかな再生の感覚がもたらされるのだ。こっちの方が、より本物の感動に近いと言ってよいだろう。
 『マテリアル&メモリーズ』。原將人の、2009年発表の新作である。

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 僕は、10月に開催された「山形国際ドキュメンタリー映画祭2009」に行って、特別招待作品の本作を見た。公式カタログに掲載された正式タイトルは『マテリアル&メモリーズ〜8ミリ3台映写三面マルチライブ映画連作集〜』。……書いてみると、余りに直球まんまなのでかえってよく分からないタイトルね、これ。少し長くなるが、(タツノコアニメ調で)説明しよう!

説明1「作ったのはどんな人?」
 まず、原將人というそろそろ還暦の個人映画作家がいる。よく知らなくてもダイジョウブ、焦る必要はありません。インディーズの世界ではリビング・レジェンドで、むしろインディーズなる言葉はこの人の活動の後を追うように生まれたぐらいなのだが、孤高の存在ゆえ名前があまり世間に膾炙されてはいない。こういう人をなまじ熱い口調で喧伝すると特権的なクサ味が出てかえって敬遠されてしまう。なのでここではなるたけひらべったく、入門ガイドのようなつもりで書き進めたい。少しずつ読んでもらえれば、と思う。

 詳しいプロフィールは、興味を持てるようならば本人の公式サイトなどを当たられたい。とりあえず、村上龍「69 sixty nine」を持ち出せば説明が端的に済む。ケンとアダマは「東京の高校生」が前衛映画祭のグランプリを獲ったのに刺激を受けて自分たちも何かやろうと考えるが、その「東京の高校生」(の約40年後)が原將人だ。
 孤高といっても8ミリ一筋で頑固にやってきたわけではない。原の場合はハンディカムが普及し始めた頃にいち早く『鉄西区』もビックリな9時間以上のビデオ映画を作ったり、35ミリの劇作品を手がけて広末涼子をデビューさせたらまた個人映画に戻ったり、いろいろ往還しながらの活動に特色がある。今回の新作は未発表だったものから新撮まで、全て8ミリで通している点に意味と目的があると原は語っている。上映は必ず原自身によるレクチャーから始まるので、見る人はそこで詳しい狙いを聞くことができる。

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説明2「どうして8ミリが3台?」
 8ミリ映写機を3台並べて上映する。ここが本作の大きなポイントだ。大昔のシネラマやイベント映像のように3面スクリーンで1つの映像という考えではないのだ。
 本作は、セルフ・ドキュメンタリーの始祖かつ個人映画の聖典『初国知所之天皇』(73〜)撮影時のフッテージによる章、ヨーロッパなどを旅した時の映像による章などに分かれている。章立ては上映によって異なるし、新しい章の製作は現在も継続中とのことだが(後述するが同じ形の上映は2度あり得ない点も重要なポイント)、とにかくどの章でも1台につき1スクリーンが独立した3面マルチ上映。
 マルチといっても分割画面のような演出の味付けとはまた違う。3台の映写機が並んで各自勝手に、原の撮った三様のフィルム(それぞれ別の時間と空間)を映し出す。全編がそれで成り立っているのだ。特長が最も顕著な章は、1974年当時の身の回りを撮った映像と、海外2都市の旅日記映像が並ぶ『東京・ベルリン・マラケシュ‘74』。

説明3「画面が3つもあってくたびれない?」
 狙いは面白いようだけど、そんなことしたら、見るほうはややこしいんじゃないか。3つの画面のうちどれに目をやればいいか分からず混乱するのでは……と訝しく思う人がいるだろう。もっともなご意見だが、そこに本作の貴重性がある。時間軸(僕らがふつうの意識の流れだと考えているもの)に沿った同一スクリーン積み上げ式のモンタージュではなく、横に並んだ並列式のモンタージュを見せることで、見る人から時間軸とは外れた別な知覚を引き出そう、現実認識とは離れた運動を意識下から解放してもらおうという、斬新な提示なのだ。なんだかクラクラするような話だけど、見ていると各自好き勝手な3画面を眺めているのが案外、とても心地よい。

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説明4「実際の見た印象はどんな感じなの?」
 『初国知所之天皇』を1度でも見たことがある人には、スローモーション(1秒4コマ)によるマルチ映写の映像がどんなものか、おおよその感じは想像してもらえるだろう。しかし本作は、時間と空間の異なる映像が3つ(少しずつ重なり合いながら)映ることで、ずいぶん印象の違う、発展したものになっている。
 3画面ではなく2画面だった『初国』1994年公開ヴァージョンの場合は、心象イメージと具象スケッチ、レンズを向けた自分と眼前に広がる光景、ヒッチハイクで車を待つ自分と反対車線から見た(誰かにカメラを渡して撮ってもらった)心細そうに突っ立っている自分、という具合に、並んだ2画面が互いの意味を反証し合いながら実存をまさぐっているように見える点に特徴があった。
 ヒッチハイクの車窓からの風景を何度もズームしていたのも印象に強い。助手席からズームアップするとレンズだけが原の身体を離れて、数秒後に到着する地点に先に着いてしまう。ところがズームバックして焦点を戻せば、原を乗せた車は当然走っているから、すでにズームアップを始めた場所より何十メートルも移動している。そこには、前へ進んでいる主体は一体誰なのか、A地点の次は本当にB地点なのか、という根源的な懐疑が、ややシニカルなユーモアとともにあった。これが、『マテリアル&メモリーズ』の『初国』フッテージの章の場合になるともう、A地点の次はB地点でもC地点でも構わないし、また戻ってもいいんだよ、とばかりに全体がニコニコしている。もっと印象が自由なのだ。

 左のスクリーンに、車窓から拡がる海が見える。真ん中のスクリーンには、若き日の原が歩きながら撮影した町と人々。そして右のスクリーンには、道端でヒッチハイクし、停まってくれたトラックへと走る原自身。時間をかけて(スロー映写だから)原がトラックに乗り込む間に、真ん中のスクリーンは自分の表情へカメラを向けた、どこかぽつねんとした自画像になる。そのうち、左のスクリーンは旅の心境をそのつど書いた短歌調のうたのスーパー(テキスト)画面になり、気がつけば、いつのまにか右のスクリーンは車窓になっていて、山の向こうに夕空の雲が美しくにじんでいる。
 ……正確な採録ではないが、大よその雰囲気を字で解いてしまえばこうなる。で、そこに現在の原の、早川義夫から受けた刺激が大きいという独特極まる歌&キーボードと(上映のたびにメンバーも楽器も変わる)伴奏がセットされる。

 ふつう僕ら映画ファンは、(あァ、この画面に作者はこんな意図を仕込んでるな)とか、頭の隅で考えながら見るのが習い性になっている。頭の隅で素早く読解できる人ほど一目置かれる。そのスキルが、3画面とも独立した時間を持ち、密接に関わり合いつつ別個である本作では通用しないのだ。まともな映画ファン的頭脳の働きは放棄せざるを得なくて、しかし、思い切って放棄してしまえばさっき書いた、時間軸とは外れた別な知覚のほうに意識が(ゆっくりと)近づく。つまりはあれこれ難しいことを考えず、まっさらな気持ちで歌を聞きながら画面を眺めているのが一番生産的だということになる。

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説明5「大体、なんでベルクソンなの?」
 ふう。スミマセンが、もうしばらくお付き合いくださいね。原がわざわざ3台の映写機を並べて映写する狙いはだいぶ分かってもらえたと思う。ここからだんだん、どうして〈ベルクソン×8ミリ=今回の新作〉なのかが呑み込めてくるのだ。
 恥かきを恐れず僕なりにまとめてみる。ベルクソンは、現在は過去のとぎれない延長であって、時間という常識的概念で細断できるものではない。全ての事物は「持続の相」のもとにあり、過去はすでに無くなったものではなく我々自身の内部に生きて運動している。そういうことを言っている人だ(……と思う)。
 また8ミリフィルムは、写真乳剤によって色素が塗布されている構造は他のフィルムと同じだが、面積が小さいので粒子のムラみたいなものが出やすい。8ミリフィルム独特のモワンとしたあったかい感じは、多分にそこから来ている。ビデオの色素がデジタル信号によって均一なのとは真逆なメディアなわけで、より心象的なイメージの表現に向いている。

 つまり原は、ベルクソンの言う「持続の相」にインスパイアされて自分自身の過去と現在を集成、自身の中で連なっている記憶の層を表現するために3面映写の連作集を構想し、またそのイメージが時間軸から離れていくさまを効果的に表現する、より最適な手段として8ミリを選択したのだ。ノスタルジイだけで8ミリはいいぞ、生産停止するな! と訴えているのではない。それは、ハードの変遷は不可逆な変化とみなす市場(あるいはマルクス主義だったりするか)への凛とした批判である。ほら、今でもこうして8ミリならではの創作・新しい表現ができますよ、歴史の可逆的な変換は可能ですよ、と実践によってしなやかに主張している。

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説明6「ライブ映画ってどういう意味?」
 ふう、ふう。我ながらけっこうがんばって説明しているが、まだ足りない部分がある。それにしても、なんで自分や家族・仲間がスクリーンを前に歌い、演奏するライブ上映なんだ? という疑問に答えていない。
 「原將人は、あれが分からない。映像だけを見ていたかった」という感想を聞いたことがある。ふつうだったらば、僕もそう思う。 「まあ、本人がやりたいって言うんだからサ。原さんといえば70年代にやった『初国』のライブ上映で伝説作った人だし。好きなんだよ、昔からそういうの」とあけっぴろげにまとめてしまえば済みそうなものだが、ここにも、「持続の相」は心と身体の関わり合いの狭間にある的なことを言っているベルクソンに対する、原の常人越えしたすさまじい咀嚼と実践がある。
 ベルクソンにインスパイアされた新作ならば、ライブ演奏による毎度1回こっきりの上映でなければ意味はない。なぜならば、映し出される記憶はそのつど自分にとっても新しい発見である。現在が過去のとぎれない延長というならば、自分の肉体/パフォーマンスも映画の一部としてみせることで記憶の層の表現は初めて完成する。現在のおのれの歌声が、映し出される記憶=過去を刺激し、その意味や質を変化させ得るさまを表現できる。おそらく原は、そう直感しているからだ。

 上映・映写そのものをライブ化=肉体化することで、映画が人類に与えた新しいイメージ(見られることでは物質に近いが触れられない点では精神に近いもの)の生成を、毎回やり直す試みとも言えるだろうか。僕は冒頭で、普通の物差しが全く通用しない映画だと書いた。実は逆で、『マテリアル&メモリーズ』のほうが、あまりといえばあまりにも、むきだしに映画なのだ。ボクの作った映画なのだからどこまでもボクの血と肉と精神で出来た一部、という作家意識の究極形態でもある。この稿を「試写室だより・番外篇」としたのは非劇場公開作品だからだが、もとから、映画館での上映は想定されて作られていない。本作を前にすると、上映専門施設である映画館すら後付けで考案されたハコに過ぎないと思い知らされて、ゾッとなる。
 しつこいけど、なにせ8ミリ映写機を3台並べ、キーボードやらマイクやらをスクリーンの前に置いて……じゃないと見せられないのだ。ARTってものは複製された時点でPOPに変身するわけだが、本作はどうしたってPOPになりようがない、という時点でも極北に近いだろう。ヤマガタでは、上映の休憩時間中に海外の人たちがしげしげと3台の8ミリ映写機を眺めたり写真を撮ったりしていた。

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 ……概略・コンセプトについて説明するだけで、半分燃え尽きてしまった。
 しかし、ユニークな上映方法であること自体が、原將人の抜き差しならない重要な表現なので、書いておかざるを得なかった。『初国』フッテージ以外の章はどんな映像なのか、それぞれのテーマについて原はどう語り歌うのか、は会場で体感して頂きたい。
 ただ、ちょっと話が逸れるが、僕は以前から書き手があんまり映画を強くお勧めするのは逆効果ではないか、と薄々感じている。行動経済学なる新しい学問を少し齧って、なおそう思った。巷の媒体はどこも「必見、傑作、ぜひ一人でも多くの人に見てほしい」のオンパレード。みなさん良かれと思って書いてるはずだけど、お勧め良品・お買い得品が飽和状態になると消費行動が逆に鈍る、物販の現場における〈選択のパラドックス〉が映画にも当てはまるのでは……と考えてしまうのだ。
 ここらへんについてはもう少し勉強した後また別の機会に述べたいが、『マテリアル&メモリーズ』の場合は、その時の上映だけ、のナマ物なので、安心?してお勧めできる。どこか近くでやらないものか、とただじっと待っている必要はない。原個人とコンタクトを取り、公営のホールなり大学の大教室なりを半日確保しての上映会を行う準備が出来れば、全国のどなたでも『マテリアル&メモリーズ』を見ることが可能だ。2009年の新作ではあるけど、2010年になっても旧作にならず、その都度ナマ物のライブ映画として、本作は立ち現われる。

 ただし、そこにはれっきとした肉体的な制限がある。「これはその場にいる僕の歌と合わせて初めて映画であり、僕がいつか死ねば、その時この映画もこの世から消え去る」と原將人は言っている。映画でライブをやるってのはそういうことだぜ、と言っている。だから本作に限っては僕も、見られるチャンスがあるんだったらぜひに、と強調したいのだ。例え面白いと思ってもらえなかったとしても、他ではおよそ無い映画体験は得られると、これだけは確実にお約束できる。

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 ここまで書けばずいぶんと原將人に惚れ込んでいるようだけど、個人的には原さんのことは、いろいろ困ったところのあるオジサンだと思っている。以前からの知り合いだが(僕はカメラを持たないので弟子とかではない)、家族や周囲を巻き込むのも創作のうちと考えているあたりは、「新世紀エヴァンゲリオン」の碇ゲンドウそっくりだと思ってきた。ただし本人に悪気は全く無く、ただただ永遠の天才少年であり続けているだけ、なのがなお困る。前に僕はこのサイトの映画評で、ドブ専プロダクションのろくでもない仕事をした経験を書いたことがあるが、右も左も分からない20代の僕をそのプロダクションにテキトーに押しつけた大人のひとりが、実は原さんなのだ。
 久し振りに会えば懐かしいけど、今でも原さんに対して恨みごとをぶつけたい気持がある。もし「応援コメントよろしく!」なんてケーハクに言ってこようものなら、積極的にスルーしたい気満々だ。でもね、こうして『マテリアル&メモリーズ』みたいなものを見ちゃうとね。コロッとねじ伏せられちゃうんだな。頼まれもしないのにちくま学芸文庫まで読んでさ、ふうふうしながら長い文章を書いちゃうんだな。

 と言っても僕は結局、この原稿を書くまでに「物質と記憶」を読み通せなかった。だって難しいんだもん。トーシロがいきなり本丸を攻めてもムリ、歯が立たないとよく分かりました。でも、理解しやすいと言われている、「物質と記憶」発表後の講義録「哲学的直観」のほうは(ページ数が少ないから)読んだ。こっちのほうは確かに入りやすい。なにしろここではベルクソン先生、要は直観を妨げているのは常識であり、常識を回れ右させれば事物に対する認識は変わる。それが哲学です、とあっさり教えてくれている。優れた芸術を生み出す喜びを享受できる人の数はどうしても限られるが、哲学(的思考)なら誰でも可能で、生活を温かいものにできると、それこそ常識とは回れ右なことも言っていて。いいことをおっしゃる! そういう風にヒントを与えてくれると助かるなあ、と嬉しくなった。
 『マテリアル&メモリーズ』は、タイトルやコンセプトだけでなく、常識から外れた思考や時間の捕まえ方を得た時の自由な喜びにおいてもベルクソンを受け継ぎ、実践している。哲学書が映画の“原作”になり得ている。

 しかしあれだな。記憶や時間の常識が変わるとか思考の領域が拡がる気分を味わえるとか、あんまり書いているとインナー・トリップの推奨みたいでちょっと誤解を招きそうだ。『マテリアル&メモリーズ』の覚醒感はすこぶるヘルシー。これは最後に書いておかなきゃ。
 常識もひとつの概念に過ぎないのだ、と感じ取ってからだって僕らは日々の生活に戻るしかないわけだが、その生活の端々に柔軟性を与えてくれるのが、映画や読書のいいところだ。知覚の扉は、自分の内側と外側両方に開いている。LSDは現在の日本の法律ではもちろん禁止されているが、原將人は合法なのである。


『マテリアル&メモリーズ〜8ミリ3台映写三面マルチライブ映画連作集〜』
監督:原將人
総計2〜3時間(2009年〜製作は現在も進行中)

原將人公式サイト http://web.kyoto-inet.or.jp/people/hara-mov/

タグ:若木康輔
posted by 映芸編集部 at 11:41 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする