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2010年10月17日

金子遊のこの人に聞きたいVol.15 
鈴木志郎康(詩人、映像作家)インタビュー 前編 
「職業カメラマンから個人映画の世界へ」

 言うまでもなく、鈴木志郎康は代表的な現代詩の詩人の一人であるが、同時に個人映画の作家としても知られている。NHKのプロフェッショナルなカメラマンであった60年代の前半から八ミリフィルムで個人映画を撮りはじめて、1975年に初めての16ミリフィルム作品となる『日没の印象』を完成させた。古い映画カメラへの偏愛と、身のまわりの愛する家族の姿をおさめたこの作品は、日本の個人映画を代表する作品となり、いわゆる実験映画とも一線を画す独特の作風を確立した。
 その後は、極私的に自己を掘り下げていき、日常に潜む恐ろしいまでの空無を映像に定着した『草の影を刈る』(77)や『15日間』(80)、現代詩人たちの特異な肖像を記録した個人ドキュメンタリー『比呂美――毛を抜く話』(81)、『荒れ切れ』(84)など16ミリフィルムの作品をコンスタントに発表し続けている。また、継続的に映画評論の活動を続けており、『映画の弁証』『映画素志 自主ドキュメンタリー映画私見』の著書がある。2000年代に入ってからはビデオカメラを使用するようになり、身のまわりにいる芸術家や友人を撮ったドキュメンタリー作品や、自己をさらに極私的に掘り下げる映像作品を制作している。
(取材・構成:金子遊 写真:岩崎孝生)

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亀戸の少年時代
――鈴木さんは1935年、江東区の亀戸で生まれですね。いわゆる東京の下町っ子。亀戸十三間通りにあった昭和館で見た『奴隷船』(37)が、最初に映画を見た体験だということですね。ワーナー・バクスター主演のアメリカ映画で、奴隷売買に従事する人たちが船内で叛乱を起こし、アフリカやカリブ海へ行くという内容の映画です。その頃の映画館の雰囲気や、最初期の映画体験について教えて下さい。

 子供の頃の一番古い記憶は、戦時中の南京陥落で祝勝する提灯行列があったことですね。うちに「姉や」というお手伝いさんがいて、ぼくを乳母車で連れて出て行った。そのとき十三間通りの繁華街で喧嘩騒動があった。戦時中の喧騒のなかで、その騒動と提灯行列がもっとも古い記憶の映像として残っています。ぼくは亀戸の商家の出身ですが、明治時代までは農家だったそうです。亀戸は天神様やお寺が多いんですが、江戸時代は亀戸の天神通りまでが江戸で銅座などがあり、その東は田畑で町人ではなく農民でした。うちの親父は、戦前は木炭業をやっていましたが、東京大空襲で店舗も家も焼けてしまった。それで戦前まで貸していた土地の亀戸の駅近くに移り、瀬戸物屋をはじめた。子供の頃は藁で包まれた陶器をほどいて、店に棚出しする手伝いをよくしましたね。
 戦前の5、6歳の頃のことだと思いますが、十三間通りにあった昭和館で『奴隷船』という映画を見ました。子供だから筋も物語は理解できず、印象に残ったのは、映像のエロティックさというかセクシュアルさなんですね。狭い船底のなかで、裸で鞭で打たれたりするシーンがありました。昭和館という場末の汚い映画館で、そのシーンに強い刺激を受けたことを覚えています。小学生のときは同じ昭和館で『エノケンの法界坊』(38)、『フクチャンの潜水艦』(44)、藤田進主演の『加藤隼戦闘隊』(44)や戦争中の国策映画、勇ましい進軍を続ける日本軍のニュース映画を見ましたね。記憶に残っているのは映画館の大きなスクリーンに映された『奴隷船』の奴隷たちの身体、『加藤隼戦闘隊』の軍隊の軍人さんたちの身体のイメージですよね。
 映画をきっちり覚えているのは、疎開先から戻り、戦後に家族と共に焼け野原になった亀戸に住んでからのことです。向島に戦災をまぬがれた「たちばな館」という映画館があり、そこへ通いました。ぼくの家には戦災で両親を失い、集団疎開のお陰で生き残った従兄弟の兄弟がいた。その従兄弟の親戚が押上でミルクホールを経営していた。下町だけど椅子とテーブルが置いてあるモダンな雰囲気で、そこにいつもたちばな館のポスターが貼られていて、ビラ下があったんです。いとこと一緒に入場無料になるビラ下の三角券を貰い、たちばな館へ行くというのが子供の頃の生活のなかにありましたね。たちばな館では黒澤明の『静かなる決闘』(49)、『白痴』(51)を見ています。一日七本立てでしたね。普通の映画が三本、ニュース映画や短編が四本。だから、朝から見に行っても夕方になっちゃう。映画館はいつも混雑していて満員なんです。それで大人たちの腰の辺りを潜り抜けて、スクリーンに近いところへ入っていく。大人の肉体をかき分けていくと、スクリーンには大きな人間の身体のイメージがあり、こちらへグッと迫ってくる。そういうものが映画館の興奮の記憶としてあります。身体的な記憶として蓄積されているんですね。明るい昼間に入った映画館の暗闇から出ると、外は夕日が沈みかけていて暗くなりかけている。亀戸の家まで従兄弟たちと駆けっこしながら急いで帰りましたね。

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――終戦は10歳のときですね。戦前戦中は国策映画や戦意高揚のニュース映画を見ていて、戦後は突然、民主主義を売り物にする映画へとがらりと変わったという記憶はありますか。

 ええ、もちろん。その頃は、焼け跡にやぐらを組んで布を貼って夜上映する街頭映画があって、何回か見に行きましたね。多分、それが進駐軍の文化政策だったんじゃないかな。映画がただで見れると聞けば、どこへでも行きました。錦糸町に本所映画劇場や江東劇場があって、木下恵吾監督の『花くらべ狸御殿』(49)というミュージカルを見ました。それらの映画館では歌謡歌手が来て、映画の幕間に歌うという番組の組み方でしたね。省線電車に乗るのが好きだったんで、有楽町のピカデリーなんかへも行くんだけど、日比谷で不老児狩りに遭いかけたこともあった。
 アメリカ映画といえば、万世橋にある交通博物館の四階の映写室へ毎週のように通いました。アメリカの教育局が提供する、アメリカの家庭生活を描いた短編の文化映画を上映していました。また、そこで、親のいない不良少年たちの更生に尽す神父を主人公にした『少年の町』(39)という映画を見ましたね。その頃はもう中学生になっていたでしょう。孤児院を舞台にした実話なんだけど、少年だけで自治する町を作ろうとして、ミッキー・ルーニーがその町長に立候補し投票をするんです。アメリカでは少年たちも選挙をやるのかと驚きました。アメリカの豊かな生活や民主主義のやり方というのを喧伝する映画を上映していたんですね。アメリカの家庭生活は、焼け跡に住んでいるぼくらから見れば夢のような生活です。映画に洗濯機が出てきたり、サンドウィッチを齧ったり、朝日新聞の朝刊で連載していたサラリーマン家庭を描いた「ブロンディ」という新聞漫画の印象と重なって、アメリカへの憧れというものを持ちましたね。
 ぼくは中学高校と両国の日大一高へ通いました。友だちに吾妻橋の近くにある天ぷら屋の息子がいて、そのお店に浅草六区で働いている人たちが天ぷらを食べに来ていた。友だちは浅草ロキシーの呼び込みの人と知り合いで、浅草六区の松竹系の三つの映画館は無料で入れた。それで毎日のように映画館へ通うようになり、中学から高校時代は、年間200本は映画を見ていました。両国から吾妻橋の友だちの天ぷら屋まで歩いて、それから浅草六区まで歩いて映画を見て、東武線で亀戸に帰ってくるというルーティンでした。大映の母物映画に主演していた三益愛子のファンになって、『乙女の性典』(50)なんかの性典シリーズもよく見ました。映画を見に行くというよりも、とにかく映画館へ行って、かかっているものを見るという感じです。高校時代には浅草六区でストリップも見せてもらいました。踊り子さんに舞台から話しかけられて、凄く恥ずかしい思いをした経験もありますね。

――早稲田大学文学部フランス文学専修に入る前の浪人時代、フランス映画ばかり見ていたということですが、これはまだヌーヴェル・ヴァーグの前の時代ですよね。

 高校二年か三年のときに、数学の先生が転勤してきて親しくなり、その先生がフランス語を習いにアテネ・フランセへ通っていたんですね。高校ではフランス語の授業がないから、一緒に通うようになった。浅草周辺に土地勘があるので永井荷風や向島の下町出身の堀辰雄などの文学作品を読むようになっていた。下町出身でフランス文学をやっているというので、そこに自分自身との不思議な重なりを感じました。その頃、決定的な影響を受けたのは木下恵介の『日本の悲劇』(53)です。ぼくが住んでいる亀戸の焼け跡にオープンセットを組んで撮影しているのを見たことがあり、映画の中の母と息子の行き違いに、個人的にも感じていた精神的な独立とそれを邪魔する母親の愛情という衝突があったんですね。映画を見て、母親のエゴイズムに流されないように、自分の意志を押し通すべきだと強く思いました。
 そんな映画の影響もあってか、日大一高の学生は日大へ進学できるので勉強をしないんですが、その風潮に反抗して他の大学を受験した。だけど、受からなかった。三年間の浪人時代は赤坂離宮にあった国会図書館へ通って毎日受験勉強をしていたんだけど、昼間はフランス語の勉強やバルザックの小説を読み、夜はクラシック喫茶の「らんぶる」で音楽を聴くというような生活でした。そのような流れのなかで自然とフランス映画を見るようになり、この頃から作り手を意識しながら映画を見るようになった。印象に残っているのは、ラディケの長編が原作でジェラール・フィリップ主演の『肉体の悪魔』(47)、それから『花咲ける騎士道』(52)ですね。『悪魔の美しさ』(49)、『夜ごとの美女』(52)、『夜の騎士道』(55)というジェラール・フィリップものを何本も撮っているルネ・クレールの映画も好きでした。恵比寿名画座や神田シネマパレスなどに通い、フランス文学への憧れの延長上でフランス映画を随分と見ました。
 大学は早稲田の仏文に入りましたが、そこは文学青年たちの集まりで、みんな娯楽映画などは見ていなかった。ぼくは大川橋蔵のチャンバラ物や日活の石原裕次郎や小林旭の映画も好きだったから、ひとりで日活映画を見ているときなんかに、映画に登場するキャラクターに大学の友人たちの姿を重ねてみる、という不思議な楽しみ方をしていましたね。子供の頃からそうですが、映画の筋書きとは違うところへ逸脱して、映画を見るいう習癖があるんです。大学時代にゴダールやトリュフォーの映画を見て、フランス語が読めるから「カイエ・ドュ・シネマ」を購入して、ヌーヴェル・ヴァーグの作家たちの作品をチェックして良く見に行きましたね。

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NHKのカメラマンと8ミリ時代
――大学卒業後は63年から78年まで、16ミリフィルムのカメラマンとしてNHKに在籍します。その間、もちろん鈴木さんは個人的に詩を書いていて、詩人として確立します。鈴木さんの『映画素志』という著書によれば、教育番組とドキュメンタリー番組を作っていたということですが、NHK時代について詳しく教えてください。

 NHKへ入ったのは、マスメディアに憧れたというよりは、カメラが好きだったということと、好きだった女性と結婚するために稼ぐということが大きいですね。もう一つは、学生時代から現代詩や他の文章を書いていましたが、大学の友人たちはテレビのディレクターや出版社の編集者になる人が多かった。でも、ぼくの場合はそのような職種だと自分のことばを使う表現と重なってしまう。それで目が悪いのに、カメラマンという職業を選んだんです。当初は先輩が入社していたので、平凡社の編集者になろうと思って就職活動をしました。ところが偶然、NHKのカメラマンの試験が他の試験や面接と重なっておらず、入社試験を受けに行った。そうしたら受かっちゃった。合格した理由はおそらく語学試験が良かったからじゃないかと思います。NHKは六ヶ国語から選べて、ぼくはフランス語を選んだんですね。
 卒業前に大学祭でルイス・ブニュエルの『忘れられた人々』(50)を見ており、文学的にもシュルレアリスムに関心を持っていて、さらにヌーヴェル・ヴァーグを自分たちの映画だと思っていた。けれども、ぼくが職場で撮るように要求されたのは、それらとは全く関係のないものでした。4月に入局して、8月にカメラマンの助手として配属され、6ヶ月間カメラマンの助手として修業を積みました。カメラマンの先輩は大映などの映画会社から引き抜かれて、若手のチーフ助手から一本立ちした人が多かった。NHKが引き抜いたんですね。ぼくは徐々に一本立ちしながら、ドラマやドキュメンタリーの助手を続けました。30分以上のメイン番組はやらせてもらえなかったけど、「明るい農村」という短い番組はカメラマンになった頃に随分やりました。教育テレビの学校の社会科の授業向けのドキュメンタリーも随分と撮りましたね。フィルムは番組ごとに使える量が決まっていたけど、伝票を書くだけでフィルムを持っていって良いので、わりと自由に使えました。それと撮影に関してはカメラマンの自由な裁量に任されており、ハイスピード・カメラを使ってみたり、やる気のある人は色々な実験を試せました。プロのカメラマンになって映画の見方も変わっていき、映像の一つ一つを撮り方などの視点で確実に見るようになりましたね。
 16ミリフィルムの撮影なのでフットワークが軽く、デンスケを持ったディレクターとフィルモのカメラを持って二人で出かけていくという感じですね。その頃は自分が思っている映画を何とかテレビ映像として実現したいと考えていました。でも、ぼくはカメラマンであり、番組を作るのはプロデューサーやディレクターなので、できあがったものには常に不満があった。それでぼくは生意気にも、手持ちカメラでヌーヴェル・ヴァーグ風の映像を撮るんだけど、劇映画畑の先輩は三脚をつけて撮るのが当り前だと思っている。だから「なんだお前、生意気じゃないか!ろくにカメラも扱えないくせに」と怒られ、毎日のように叱られていました。そんなことがあったせいか、64年に広島へ転勤で飛ばされました。その頃は、60年代に日本へ入ってきたアメリカの実験映画は見ていなかったけど、ルイス・ブニュエルの映画やアラン・レネのドキュメンタリーは見ていました。広島の支局へ転勤になり、局内の若いディレクターたちと付き合うようになって、日仏会館や国鉄支社などからアラン・レネや土本典昭のフィルムを借りて来て自分たちで上映会をして前衛映画を見るようになったんですね。

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――その頃から8ミリで個人映画を撮りはじめたんですね。「フィルムメーカーズ」という雑誌のインタビューでは、広島へ飛ばされて天沢退二郎、菅谷規矩雄らの詩誌「凶区」にプアプア詩などを書いていた時期に、「ニコン8ズーム」で8ミリ映画を撮りだしたと言っています。

 ニコン8ズームは広島で買った8ミリカメラですね。NHKで働いているディレクターやカメラマンは局の仕事だけでなく、自分の作品を作りたい、自分の映画を撮りたいという欲望を常に持っているものなんですよ。ルーティンワークばかりだとおもしろくないから、自分の作品を作りたいと思うようになった。広島に飛ばされて、余計に自分の表現で抑圧されているものをストレートに吐き出していく方向になった。プアプアの詩を書いた時も、そういう気持ちで辿り着いた方向だし、8ミリ作品も自分の映画を作りたいという気持ちが強かったということがある。
 8ミリ映画を作るときの手本としたのは、大学卒業の直前に見たロマン・ポランスキーの『タンスと二人の男』(58)という短編です。ぼくの8ミリフィルムの映画はヌーヴェル・ヴァーグの影響で作っているんだけど、劇映画ではなくて、自分の周りにある素材を使って虚構的な空間を作りあげるという感じでした。といっても撮る対象は、結婚して一緒に生活している悦子さんという一人の女性、それから広島の街くらいしかない。それにダブル8の画像は小さくて、16ミリフィルムの職業カメラマンとして働いているぼくには不満でした。それでも、自分の映画製作の要求を満足させようと8本の短編作品を撮りました。
 最初に作ったのは『Eko Series』とでも言うべき五本の短編シリーズ。橋の上を一人の女が歩いてきて、橋の上に落ちている本を見つけると、そこに卑猥なアフリカ原住民の写真があるのに驚く『Eko on the Bridge』(63)。冷蔵庫の中に冷やしておいてある粘土で作った男の首にキスする女を描いた『Eko in Blue Kiss』(63)などなど。あまり成功しなかったけど、自分なりに何らかの「物」が意識下に抑圧されている人間の欲望を引き出してくる、というのを映画でやりたかったんでしょう。一つの発見は、グラビア写真を画面内に取り込むことで、自分の狭い生活空間から映像をもっと広げられると気がついたことです。
 その他にも『宣言』(63〜67)、『NITORISH WIFE―出産之神秘』(63)、『家』(67)という作品を撮りました。69年に「凶区」の同人だった天沢退二郎が結婚し、彼も映画好きなので同人が結婚記念に贈る8ミリ映画を作ることになって、ぼくが撮ることになった。広島大学でフランス文学会があって天沢が広島に来たとき、広島の宇品線という蒸気機関車が走っている路線で、その前を逃げるように走る天沢の姿を撮影しました。それからフィクティヴな物語を作り、同人の藤田治と高野民雄に出演してもらい、天沢退二郎の詩の美しさになっている曖昧性を映像で再現してみようとした。それで天沢退二郎の写真を顔につけた二人の男(藤田と高野)が出没し、抱き合ったりする奇妙な『アマタイ語録』(69)という作品ができたんです。
 この時期の作品で愛着があるのは『やべみつのり』(67)ですね。やべみつのりは東洋工業のデザイン室にいて商業デザインをやっていて、ぼくの初期の詩集「罐製同棲又は陥穽への逃走」(67)の装丁デザイナーをやってくれた人です。後に彼は絵本作家になり、吉本興業のお笑い芸人になった矢部太郎のお父さんですね。彼はマラソンランナーで、正月になると広島から倉敷の生家まで180キロを走って帰るような人だった。あるとき、やべ君が太田川の放水路の河原で「おめんてんてん」と称するハプニングを開いたことがあった。人間の顔を描いた紙袋をかぶる、どうしようもないパフォーマンス。ぼくはこれを8ミリで撮影し、やべ君のドキュメントを撮ろうと思い立ったんです。マラソンランナーのやべ君が夜明けに山の頂上へ登っていくところを撮影し、そこへハプニングをやる光景などを繋いでいった。やべ君の肉体や感情をフィルムに定着し、ぼくとやべ君の間に生まれた気持ちを映画に出した。個人映画を作るときに必要な何かを手に入れた気がしました。そういう感じで映画を撮っていたが、仕事では16ミリで撮影しているので、それと比べると画質が雲泥の差でね。ダブル8の画面は色が悪いし、モノクロフィルムでも粒状性が悪く、8ミリフィルムの画面に飽き足らなくなった。そして東京へ再び戻ることになり、生活の大きな変化によって8ミリ映画を撮ることをやめてしまったんですね。

――鈴木さんの映画作品では広島の被爆者の写真が差し挟まれることが、しばしば見受けられますが、これは広島に住んでいたことが影響しているのですか。

 影響していますね。原爆博物館にケロイドの皮膚の一部が展示されていますが、あれは、かつては人間という存在だったんですよ。あのような場所で曝されていることに、何度見てもショックを受けます。広島の街を歩いていて、被爆者の人たちの手記と重ねて、あの人が被爆したのはここだなどと思ったりしました。ぼくが広島にいた頃は、まだ戦後20年くらいですから、被爆者をヒーローやヒロインにして英雄視してしまう傾向がありました。そのような風潮に対する抵抗はずっとありますね。

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『日没の印象』
――初期の8ミリ時代から、周囲の人物のドキュメントを撮るというスタイルをやっていたんですね。鈴木さんは72年に東京造形大で非常勤講師として教えるようになり、学生たちに刺激もされ、また73年にはジョナス・メカスの『リトアニアへの旅の追憶』(72)を見て、強い影響を受けた。さらに、小さなシネコダックという16ミリカメラの出会いがあったそうですね。そうして極私的な個人映画として再び身辺を撮るようになり、16ミリフィルムの最初の作品『日没の印象』(75)を完成したということです。

 『日没の印象』を撮ったきっかけは映画のなかでも言っていますが、東京造形大学の時間講師になって詩の授業と映像制作の授業を担当するようになったことがあります。映像の方は大学にアリフレックスBLとボウリュウ16の二台の16ミリ映画カメラがあったので、16ミリ映画を作るゼミにしました。若い人たちに映画を作らせて、その制作に立ち会うようになった。そうしたら自分も作りたくなってきた。その一方で、NHKで番組の撮影をやっていましたが、その頃は詩人としてH氏賞を受賞して世間に名前が出ていて、上司とあまり上手くいかなくなっていた。また、ぼく自身の意識のなかで段々とNHKの番組の質を疑問視するようにもなり、あまりプロとして良いカメラマンではなくなっていた。あまりいい仕事にも就けて貰えなくなっていたんですね。
 大学で学生たちに講義する内に、劇場で上映される商業映画と、個人的になされる表現としての映画をはっきり区別して、学生たちに理解させる必要性を感じました。そこで、個人映画を自分なりに理論的に考えてみました。ゼミは誰よりもぼく自身を教育することになったんですね。個人的に作る映画は、自分の職業上の不満を解消するものでも慰めとするものでもなく、自分自身の表現として立派に成立するものです。個人映画は単なる趣味ではなくて、それは商品として上映される商業映画とはまったく別の、商業映画が持ち得ない真実を持っているということを確信するようになった。そんな風に考えるようになったとき、73年にジョナス・メカスの『リトアニアへの旅の追憶』(72)を見て、衝撃を受けたんですね。メカスがまったく個的な動機で、自分の生きている空間でフィルムを回したものが、そのまま映画表現として成立していた。メカスの「私の映画は私のハートビートだ」という考え方に強く影響されました。メカスも詩人ですが、映画を撮る行為が詩を書くような行為と同じなるわけです。そのような確信を得て、16ミリによる個人映画制作を出発することができたんですね。

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――『日没の印象』は鈴木さんの個人映画の出発点ともいえます。カメラへの偏愛が示され、奥さんの麻理さんと生まれたばかりの息子さんの草多君の姿がフィルムに収められていきます。フィルムにパンチで穴を開けたりと実験映画的な要素もあり、タンゴの音楽がかもし出すように、日常へのほのぼのとした愛情に満ちた日記映画になっていますね。

 その頃、中古カメラ屋さんで30年代に作られた16ミリの「シネコダックK」のカメラに出会いました。三万八千円と結構安くて「これで映画が撮れるんじゃないの」と興奮したんですね。同時に、仕事ではエクレールNPRなど何千万円もするカメラでNHKの仕事をしていた。『日没の印象』では、シネコダックの小さなカメラに愛着を感じることが撮影の動機になっています。ちょうど二度目の結婚をして息子が生まれたばかりだったから、アマチュア・カメラマンの意識で身のまわりの、自分が愛情を感じる物事を撮っていきました。『日没の印象』は、印象的な日没を亀戸の団地の窓から撮り、これで映像表現が出来るという決意を語り、最後に窓辺に置いたシネコダックで終わります。映画のなかで、ぼくは古い革張りのカメラを手に入れた喜び、生まれて数ヶ月の子どもと妻を撮る喜び、そして詩を書くように映像作品が作れるようになった喜びを語っています。自分が生活している狭い空間だけで愛情を動機にしてシャッターを押すという映画表現が成立するんだということをやりたいと思い、それを方法として意識していったんですね。
 すべて自分の家のなかで撮影、録音、編集まで出来るようにしました。映写機で上映しながら、マイクを持って磁気テープにナレーションを録音しています。映像は自分の日常生活を対象にして、ナレーションは自分の声で自分の考えを語るという、ぼくの個人映画の基本はこうして構築されました。マスメディアとは違った映像表現の領域を拓き、そこで個人と個人との触れ合いによって、互いに生きていることを共有するという考え方を実践しようとした。『日没の印象』の音楽は、アルゼンチン・タンゴのアルバムから借りました。パンチ穴をたくさん開けて効果を出しているのは、これはホームムービーだから他人には見るに耐えない映像なのではないか、という不安が最初にあったからです。画面のなかをパンチで開けた穴が飛び交っていれば、実験映画的に見えるんじゃないかと思ったんですね。まだNHKに勤めていたので三点パンチや四点パンチを持っていた。あれは、普通は上映用フィルムにパンチしておいて、パンチが出てきたら次のフィルムを用意するという映写技師用のものなんですが、それを使いました。
 その頃、魚眼レンズで撮った写真作品を雑誌「ユリイカ」に連載していました。映画でも写真でもプロの世界では、厳密なフレーミングが求められます。そのようなフレーミングが問題にならないのが魚眼レンズを使う場合ですね。NHKに限らず、映像の世界というのはシステムによって作られていくから、表現であると同時に産業なんですよね。社会的な広がりを持つ映像のマスメディアという役割とは別のところで、個人的な表現として成立する写真や個人映画などの映像を作るという反抗的な精神がぼくのなかにあったんです。それらの写真が集まったところで、荻窪の清水画廊で個展を開いた。その個展会場で『日没の印象』を上映しました。かわなかのぶひろさんや萩原朔美さんが見てくれて、萩原さんは「アンダーグラウンド」という冊子に『日没の印象』について評を書いてくれましたね。

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※写真は全て『日没の印象』より

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posted by 映芸編集部 at 13:49 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする