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2011年02月16日

『ミツバチの羽音と地球の回転』鎌仲ひとみ(監督)インタビュー

 山口県上関町祝島、スェーデンを舞台にした『ミツバチの羽音と地球の回転』が、東京・渋谷ユーロスペースで2月19日から公開される。生物多様性とエネルギー問題をテーマとしたドキュメンタリー映画で、本作はこれまで、山口市をはじめとした全国各地ですでに100回を超えて自主上映されてきた。その映画が今回、東京・渋谷の映画館で公開となる。日本と海外を往還するドキュメンタリー作家の三部作『ヒバクシャ――世界の終わりに』(03)『六ヶ所村ラプソディー』(06)『ミツバチの羽音と地球の回転』(10)から、自身が映画作家になるまでの話を聞いてきた。
(取材・構成:岩崎孝正 取材:金子遊)

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【映画を撮り始める】

――鎌仲監督は早稲田の第二文学部卒業ですね。映画と言えば二文というイメージがあります。はじめから早稲田の第二文学部を受験しようと思っていたんですか。

 私は富山県の出身ですが、高校を卒業したあと東京に出て就職していました。経済的に自立を果たしていたんです。しかし職場の人間関係がものすごく狭くて、大学に行き直して人間関係を拡大しようと思いました。でも親が大学へ通うことに大反対。「大学に行ったら婚期が遅れるじゃないか」という理由で(笑)。「どうしても行くんだったら、自分で行け」と言われました。昼間に通うと大学の学費が高くて自分ではとても払えないんです。朝から夕方までいろんな仕事をして学費を納めていました。私の第一作である『スエチャおじさん』(90)は、17万円しかない当時の給料のほとんどを注ぎ込んで、4年間かけてつくった映画なんです。私は皆さんに、最初は借金して映画を撮ることをオススメしています。

――1本目の映画は、どういう経緯で撮影されたんですか。

 在学中に探検部にいて、以前から惹かれていた土地であるインドネシアのバリ島に行ったんです。大学時代一人旅の計画を立てて、インドネシアの250の島々、2500kmを縦断しようと思っていました。当時は映画を撮るという発想はまったくなくて、ルポでも書こうかなと思っていました。ところが探検計画が頓挫して、探検の代わりに、映画サークルにいたボーイフレンドの撮影を手伝っていたら、8ミリフィルムは意外と簡単に撮れることを発見したんです。当時としては最新式のサウンド8ミリだったんですが、「私は映画に向いている」と確信しました。
 それで、もう一度、探検を映画でやり直そうと思ったのですが、16ミリのカメラはものすごく重くて、音が一緒に録れず、スタッフもたくさんいないと撮れなかったんです。ヴィム・ヴェンダースが『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(99)でキューバの街並みを撮っていたのは、小型のビデオカメラがあるから出来ているんです。当時はテクノロジーが許しませんでした。ロード・ムーヴィーなんてお金がなければ出来ないと気がついたんですね。そこで移動しながらではなく定点観測的な映画にしようとバリ島を選びました。

――ドキュメンタリーは当時、劇場でかかるようなものでは無かったんですよね。

 その頃はドキュメンタリーという呼び方すら定着していない時代でした。「記録文化映画」なんて言われていた(笑)。原一男監督の『ゆきゆきて神軍』(87)が大ヒットして、マイケル・ムーア監督の『ロジャー&ミー』(89)が出てきて、ようやくドキュメンタリーが劇場公開される土壌が出来たんです。ドキュメンタリーを興行的にどのように見せるのかは、今も昔も大きな課題です。
 今回の『ミツバチの羽音と地球の回転』の場合もそうですが、前回の作品から培ってきた草の根のネットワークのつながりがあり、皆さんに自主上映をしてもらっています。映画館は限られているから、やりたい人たちが好きな会場を選んでやります。レストランやカフェなど、やる気さえあれば、いろんな場所で上映できるんですよ。

【カナダ国立映画製作庁へ】

――カナダに留学したときのことをお聞かせください。モントリオールにある「カナダ国立映画制作庁(National Film Board of Canada/以下NFB)」に滞在したんですよね。

 当時は映画に携わっている人たちが、雪崩を打ってテレビやビデオに向かっていた時代でした。でも、フィルムで映画表現をするスキルが半端なのに、ビデオにはまだ行けないでしょ? カナダを選んだのは、フィルムの映画制作のスキルアップをしようという目的があったんです。フィルムって本当に技術が必要ですから。当時フィルムは高価で、1分20秒分の映像を撮って現像するだけで1万円ぐらいかかってしまうんです。でもカナダに行ったら私たちが今ビデオを使うみたいにフィルムをガラガラと回して撮影をしていました(笑)。
 NFBのスタジオで、私を呼んでくれたキャサリン・シャノンというプロデューサーを頼っていきました。ところが知らない女性が腕組みをしながら待っていて、「あんた、何しに来たの?」なんて開口一番言われた。ちょうどスタジオで権力闘争があって、キャサリンはライバルに蹴落とされたところでした。国からものすごい予算が落ちてくる保守的な撮影所で、頭の硬い人がたくさんいたんです。私は外の独立系のプロダクションの若手作家たちや、インディーズの若手の実験的な作品をサポートしていました。それでNFBの機材、現像場、編集室をゲリラのように使いながら制作していたんです。

――カナダではどういう勉強をされていたんですか。

 私は映画の学校にまったく行っていないんですよ。映画の理論とか、古今東西のテクニック、作品論、そういう理論的な部分はほとんど現場の叩き上げだったので無いに等しいんです。モントリオールにはいくつかの大学でフィルムコースや、シネマテークが充実していましたが、私は日本で見れないような古い名作をたくさん見ていたんですね。世界中の映画が古い新しいを問わず、カナダ1ドル(130円)ぐらいで見られるんです。実はフランスへ行くかカナダにするか迷っていたんですが、カナダでは英語の字幕付きのシネマテークがありました。奨学金で好きなことをしていいと言われていたので、勉強する意味ではすごくよかったですね。2年ぐらい楽に暮らせました。モントリオールは物価が安かったから、ほとんど稼ぐ必要は無かったんです。でも、そうこうしているうちにお金が尽きてしまいました。

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『ヒバクシャ』

【ニューヨーク時代とNHKでの制作】

――それからニューヨークに行って、市民運動団体の「ペーパータイガーTV」に参加されるんですよね。

 お金が尽きたから出稼ぎに行ったんですよ(笑)。ニューヨークには大きな日本人コミュニティがあって、日本人が経営しているプロダクションもあったんです。日本人ジャーナリストが映像関係で仕事のできる窓口があって、ユダヤ人が経営をしているNHKの下請けのアメリカの会社、「ハイリー・プロダクション」を紹介されました。そこで番組を2本ほどつくりました。
 その会社は、大体30分ぐらいの枠の番組をレギュラーで請負っていたんです。『ニューヨーカーズ』という番組だったんですが、取材して、企画書を書いて、取材交渉をしてと、何もかも1人で仕事を進めていっても、カメラマンに2日か3日くらいのお金しか出してくれなかった。編集マンもつけてくれない。翻訳や選曲も全部自分でやって、なんとか30分の番組をつくりました。日本に帰ってきて語り草にしているんですが、その時もらえたギャラが10万円(笑)。えっ、桁が違うんじゃないの? 領収書の桁を何度も確認しました。

――9割ぐらいプロダクションが持っていっちゃっているんですか。

 抗議したら、「やりたい人はいっぱいいるのよ」なんて言われた(笑)。番組はBSで流れましたが、その会社は嫌気がさして辞めました。それで、世界の草分け「市民テレビ」(市民メディア)を作っている「ペーパータイガー」を、「市民ラジオ」提唱者で映画評論家の粉川哲夫さんに紹介されました。80年代後半に「ペーパータイガー」を始めたのはD・D・ハレックという、メディア・リテラシーやメディア・アクティビズムを専門にした方です。粉川さんに、「ニューヨークに行ったら是非、D・D・ハレックに会いなさい」と言われたんです。

――メディア・アクティビズムは歴史が深いんですね。わりと最近に使われだした言葉という感覚があるんですが。

 メディアの有り様はテクノロジーにものすごく影響されていますね。アメリカのメディア・アクティビズム運動はケーブルテレビと一緒に発達したんです。街中にある電線は社会のインフラで、私たちはこれにアクセスする権利があります。電線は公道にあるからパブリックなもので、それは私たちにも一定の権利があるとD・D・ハレックが示唆したんです。後にパブリックアクセス権といって法律にもなる。州や自治体もアクセスを保証しないケーブルテレビには営業をさせなくなりました。
 「ペーパータイガー」はマンハッタンに拠点があって、教育機関、機材、編集室、スタジオなど全部タダで、市民が希望すれば使わせてくれたんです。私は貧乏だから住所不定で、マンハッタンを転々とする生活でしたので、誰かの住所を借りて登録して、ケーブルテレビが提供する機材を全部使っていました。どうやって番組をつくるか分らない市民もいたんですが、教育スタッフが全面的にサポートをしていました。出来たものは、36チャンネル、48チャンネルある内の1チャンネルを市民用にあけてあって順番に放送するのね。

――鎌仲監督は、全共闘世代が敗北した後で、政治なんてカッコ悪いと言われていた時期に青春時代を送った世代だと著書で仰っていました。ニューヨーク時代で、政治的なものを違うかたちで学びなおして撮るようになったのでしょうか。

 確かに、政治から自分を切り離されるという、目に見えない圧力が空気としてのしかかっていました。でも私は探検部に入っていたから、東南アジアやタイに行くと人身売買があり、幼児売春をするツアー観光客の日本人がたくさんいるのを知っていました。それらの矛盾に向き合い、映像をつくるとき、どういうテーマにしていくのかがドキュメンタリーは問われます。何のために、誰のために作るのかという問い掛けは駆け出しの頃、余り無かったように思いますが、ほとんどの日本人の映画作家は、芸術性やクオリティーの高い、自身の作家的な欲望を満たす作品を作れば良いと思っている。それがシネフィルなど映画好きの人に受けいれられる狭い土壌をつくっています。もちろん私自身も映画作家として自分がつくりたい作品をつくるためのスキルアップが必要だと思っていたんです。
 でもニューヨークに行ってみると、普通の市民が既存のメディアに対して欲求不満に陥っていました。アメリカのメディアはプロパガンダを流して、普通の人たちの権利を抑圧し、少数者を踏みにじり、弱者の声を封印し、より強い者が得をするような情報を正当な理由をつけて垂れ流しています。どんなに市民運動をやっても、人々の意識を「こうなんだろ?」と大きなメディアの力が洗い流していきます。国民健康保険が本当に必要な貧乏人がプロパガンダに騙されて、「国民健康保険反対!」というデモをさせられてしまうんです。だからこそ、普通の市民が自らメディアを作る必要があったし、そうでなければ対抗出来ない仕組みになってもいました。

――日本に帰ってきた理由を教えてください。

 まったくお金が無くなってしまった(笑)。いよいよホームレスになってしまった。当時は黒人女性のエイズ患者を撮ろうと思っていました。エイズは白人で、ゲイがなるものというイメージが流布され、人々の意識が固定化していたんです。当時、ゲイの家に泊まって歩いていました。ニューヨーク市民はゲイじゃなければ人間じゃないと言われていた(笑)。マジック・ジョンソンがエイズをカミングアウトして、意識が非常に高まっていた時代です。同じく同性愛をカミングアウトしていた写真家のロバート・メイプルソープがアートシーンに多大な影響をもたらしていました。まさに、エイズ、ゲイが時代を席巻していたんですね。
 日本に帰って来て、フィルムに対するこだわりはもう無くなっていたんです。カナダに行ってからろくに自分自身の作品と言えるようなものを作れていませんでした。だから何でもいいから自分の作品をとにかく作りたいという渇望がありました。「ペーパータイガー」の市民たちがやっていたことは、テーマはいいんだけど技術が足りないから多くの観客を獲得できない。私は修行を積んでいるからスキルはある。「ペーパータイガー」のような視点やテーマを日本のNHKのなかでやったら面白いんじゃないかと思ったんです。つまりNHKのようなマスメディアでは決してやらない企画とテーマを持ち上げて、番組にして流せば毎回600万人以上の人たちが見ます。それに価値があると思ったんです。

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『六ヶ所村ラプソディー』

【『ヒバクシャ――世界の終わりに』(03)】

――それから、NHKの番組として、『ヒバクシャ――世界の終わりに』を撮影するんですよね。

 私の処女作から現在まで9割の作品の撮影を担当した岩田まき子さんの息子が、白血病になったと聞ました。それを聞いてから、ふと「イラクの子供たちが白血病です」という貼紙が気になって説明会に行ったんですね。そこで、イラクに関するメディアの操作、プロパガンダがあるんじゃないかと直感しました。それで、「グループ現代」の当時、社員カメラマンだった家塚真くんや録音スタッフと一緒に、イラクへ行ったんです。

――1990年代当時のイラクは安全でしたよね。

 1991年は湾岸戦争があり、その後もずっと米・英軍の制圧下にあり、空爆が日常的にありました。1998年の時点は、今よりずっと安全でした。それでも劣化ウラン弾が使われたかつての戦場に行く許可をとるのは大変だったんです。イラク軍の将軍が戦車の墓場に連れて行ってくれたりして。1998年の取材はNHKから予算をもらって行って、その後、映画にし直すために再度、イラクに行ったんです。2002年はどの組織にも属さないただの馬の骨だったんで、許可を取るのがすごく大変でした。2001年に9・11が起きて、私は閑かなイラクの日常を撮りに行こうと思っていたのにあれよという間にアフガン爆撃からイラクに矛先が向いて、イラクは世界中から取材ラッシュが押し寄せていたんです。だからずっと待たされました。

――マンスール小児病棟では、ラシャという少女が白血病で亡くなってしまいますね。

 子供は白血病になって治療しないとすぐ死んじゃいます。抗癌剤だけあっても助からないんです。抗生物質を投与して、無菌状態をつくって感染を防ぎ、輸血など様々な手をほどこすんです。つまり抗癌剤だけじゃなく、他の高度医療のバックアップがないと白血病は治らないんです。
 医療に関しても、国際プロトコールがあるんです。でも何故か抗癌剤をイラクに輸出してはいけないという経済制裁を国連機関がやっていました。加えて最新の医療情報も入れてはいけなかった。イラクのお医者さんたちは最新のプロトコールも知らないんです。医療の基本となるインフラはぼろぼろでした。白血病は2年間に渡ってコンスタントに治療しなければならないんだけど、当時のイラクでは抗癌剤が無いから絶対に助からないんです。お医者さんは何も出来ずにごまかしていくしかありません。でもイラクの両親たちにしてみれば、経済制裁される前までは、医療サービスは無償だったんですよ。治療できずに子供を死なせるというのは本当に辛い。

――湾岸戦争を起こしたサダム・フセイン政権への経済封鎖、経済制裁で実際に困るのはそういう庶民、病院レベルなんですよね。

 経済封鎖をすると結局、独裁が強まる。それは当時からいろんな人が言っていました。でもアメリカは制裁をやり続けるという矛盾が横行していたんですね。サダム・フセインは独裁者の悪人で、独裁政権は武力攻撃をしてもしょうがないという世論をつくるために国連機関を利用しました。イラクに行った人なら誰でも、実際のイラクと報道されている中身にいかにギャップがあるかわかります。
 でも一つの番組のなかでアメリカの巧妙な情報戦略をすべて暴けるかというと、暴けません。ただ矛盾した現実、不条理の現実があることを、具体的に伝えることは出来ます。NHK側は「そんなのは、これまで自分たちが放送してきたのと違う」という感覚で、すごく抵抗がありました。
 マスメディアは一旦固定したイメージをさらに固定する装置として働いています。本当のことを伝えがたいマスメディアの壁に、イラクに行ったおかげでぶつかることが出来たんです。それでマスメディアとはお別れをしました。

――鎌仲さんご自身が被曝なさったのは1998年のときですか。

 1998年のときは「砂漠の狐作戦」で劣化ウラン弾を含む爆撃に遭遇しました。確かに汚染地帯にも行っています。40日間汚染地帯で飲み食いをしていました。12月の最後の4日間の空爆はトマホークや劣化ウラン弾などが確実に使われています。シェラトン・ホテルの対岸がサダム・フセインのパレスでした。私は丸々4日間ミサイルが投下されるバグダッドにいて、劣化ウラン弾を含んだ煙を吸い込んでいました。被曝した原因は、風や食べ物、または水からかもしれません。でもたとえそれでガンになったとしても科学的に関連付けて証明することはできないんです。
 劣化ウラン弾の微粒子はたばこの煙より小さく、吸い込めば身体のなかから被曝します。全ての人が同じように病気が出るわけではなく、統計によると確率論的に出てきます。例えば白血病になる確率は世界的に一定の標準があります。発症率は10万人中に5人など様々です。でも、内部被曝をすると個体差によって、風邪を引いていたり、遺伝子的に弱い部分があったら、何年か後にガンになる確率が通常より高まると言われています。

――『ヒバクシャ』『六ヶ所村』『ミツバチ』と三部作になっていますが、一貫して反原発を問い続けるというテーマがあります。それはご自身の被爆体験があるのでしょうか。

 一貫して反原発を問うているわけではありませんよ。『ヒバクシャ』のときは、原発のことを全く知りませんでした。最後に劣化ウラン弾が原子力産業のゴミで、そのゴミで兵器を作りながら核の平和利用だと嘘をついていると気がついたときに、次の作品を作らなくてはならないと思いました。『ヒバクシャ』はヒバクの本質を描いた映画です。イラクの子供たちを死に追いやっていたのは劣化ウラン弾や経済制裁でしたが、そもそも劣化ウラン弾が原子力産業のゴミなら、原発を取り上げなくてはならないでしょ。それで『六ヶ所村ラプソディー』から、原発の勉強をはじめたんです。今はものすごく詳しいけど、まだ浅いんだよね。

――『ヒバクシャ』もそうですが、撮り方として、日本、イラク、アメリカなど、いろいろな地区を分けて撮りますよね。旅して横断して、いろいろな視点を入れます。

 メディアによって意図的に形作られてしまう思い込みや既成概念を壊したいと思っています。人々のなかにある意識の壁は、国境や言語、対人関係など様々ありますが、それをカメラはひょいと簡単に乗り越えられます。日本のなかだけ、アメリカのなかだけで撮っても、問題を解決に導くような新しい世界観をうまく提示出来ません。『ヒバクシャ』をNHKの番組にしたとき、イラクのことを伝えてみんなに共感してもらおうという狙いがありました。でもみんな、するっと身をかわして、イラクの惨状、子供たちが死んでいくという不条理に関して、ほとんど誰も自分とはつながっていると受け止めませんでした。

――だから、映画版にしたときは、メッセージ性を強くした。

 その問題と自分自身がつながっている、当事者であると思ってもらえないとしょうがないんです。『六ヶ所村』も、電気エネルギーを使っている私たちはつながっているんです。そういう当事者性を提示していかないと問題は解決せず、ただ作品としてつくっているだけじゃ意味がありません。この映画を見て、自分自身が加害者だと気がついた後にアクションがなければいけないんです。私もあなたも、当事者として考えなければいけない問題なんです。

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『ヒバクシャ』

【『六ヶ所村ラプソディー』(06)】

――青森の六ヶ所村では地元の反対運動の方たちとの出会いがあります。どのような興味で六ヶ所村に行ったんですか。

 日本各地の54基の原発から出てくる放射性廃棄物は全て六ヶ所村に運ばれています。日本はエネルギー政策として原子力政策を推し進めていますが原発に関する情報はほとんどブラックボックスに入っているんです。六ヶ所村に生きる様々な立場の人から話を聞けば、核、原子力と共に生きる内実が見えてくるんじゃないか。それが『六ヶ所村』のコンセプトでした。
 『ヒバクシャ』を上映した女性がオーストラリアのウラン鉱で働く人たちと、平和巡礼をするという企画を立てていたんです。「鎌仲さん北海道から六ヶ所村に行きますから、六ヶ所で会いませんか?」と言われ、小さいカメラを一人で持っていったのが、2004年の3月です。六ヶ所村に着くと霙が降りみんな身体が冷えきっていて、そんな私たちを受け入れてくれたのが、菊川慶子さんだったんです。菊川さんの所に、牛小屋に30人ぐらいで転がり込んで泊まらせてもらったんです。

――六ヶ所村の反対運動は続けられていたんですよね。

 撮影し始めたとき、反対運動は菊川さんと他に数人だけが細々とやっていた。グループはあちこちにあるんだけど、1986年当時に比べれば本当にささやかな運動です。公然と反対と言っているのは5、6人しかいない。

――1986年当時の運動がもっと知られていれば、今とは違う状況になっていたと思いますか。

 1986年なんて、青森の六ヶ所村に行こうと思ったら電車もないからアクセスが難しかったんです。巨大な核施設を他のどこにも持っていきようがないわけだから、経団連も、経済産業省も、国家も、全部決めて、総力を傾けて地元の人たちを罠にはめたんだと思います。メディアにとって最大のスポンサーは電力会社だからメディアにとって六ヶ所村の問題を扱うのはタブーになってしまったんです。長くブラックボックスに入れられたままだったと思います。

――1999年の東海村JCO臨界事故が記憶に新しいですが。

 あれは臨界事故で、漏れたというのはちょっと違うんです。1986年にチェルノブイリが爆発して、放射能が1万メートル上空までばらまかれた。地球上をグルグルと放射性物質が拡散して、あちこちに飛び散りました。これが俗に言う「死の灰」です。でもJCOはフタをしたまま、中で臨界になりました。しかも原発じゃないから、フタは開いているんですね。そうすると中性子線というものすごい強い放射線が360度に出続けます。放射性物質がそこにとどまりながら、周囲の人は強い放射線を浴びてしまいます。
 しかもJCOのときは国もメディアも避難勧告を間違えていました。本当は、遠くに行けば行くほど放射線は減っていくんだけど、屋内にとどまりなさいと報じました。放射能が飛び散ったときに、屋内に入って、ガムテープを貼って、それを吸わないようにしなさいというのが、チェルノブイリの事故のときの対処の仕方でした。放射線が出ている臨海事故の場合は遠くに避難しなきゃいけないのに、そこへとどまれという間違えた指令を出しました。国も間違えたし、メディアも間違えたんです。知識がやはり足りない。ヒバクとは何なのかも教育されていないのが現実ですから。

――原発問題はタブー化しているんでしょうか。

 電力関係、政治家も結託して圧力をかけています。また、経済産業省、資源エネルギー庁が国策ということを掲げています。戦後、日本は原発推進という政策をとってきました。年間数千億円規模の国家予算を原子力官僚たちが管理しています。官僚たちだけで出来ないから、政治家をまきこんで確保しなければなりません。協力態勢にある政治家、原発が欲しい電力労連、電力会社、町おこしをしたいと思っている地元住民、すべてを巻きこんだ産業なんです。
 例えば上関原発は2基で9000億円します。これが9000億円プラス3.8%分は電気代に上乗せして請求していいと法律で決まっています。投資は確実に返ってきて、しかも経済産業省が原子力開発予算の6000億円もあるなかから、毎年建てたご褒美に1000億円、2000億円が電力会社に出ます。一粒で、二粒、三粒も美味しい。設備投資した予算も、結局はエネルギー開発予算という税金で補填されます。懐が傷まないし、反対派も電気代を払ってくれる、独占市場ですから。これ以上儲かる仕組みはないのでしょう。

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『六ヶ所村ラプソディー』

【『ミツバチの羽音と地球の回転』(10)】

――祝島でも構図は同じだと思います。島民は平均年齢が75歳、約500人。若い人たちが食べていける場所にしようと、原発を誘致するんですね。

 最近になって、祝島は離島としてはじめて、自然エネルギー100%で行くと宣言しました。山戸孝くんはそうしたいと思っていたんです。原発の電気があなたたちにも送られているんだよと、中国電力から言われるのも癪にさわっていました。電気代が中国電力に行くのではなく、島の自然エネルギー会社に落ちればお金はそこへとどまりますよね。自分たちで発電すればいいんです。隠岐島では日本でつくった世界最新の性能を持った冷凍機を導入したんです。イカの刺身を冷凍すると、自然解凍しても鮮度、旨味が落ちないんですね。祝島でも2000万円くらいの冷凍機を買い、漁師の採る海産物を加工して売ればいいんです。隠岐島は大阪や東京から200人くらいの若者が帰ってきてやりはじめました。それがいま年商2億円になっています。エネルギーの自立を希望ある島おこしの起爆剤にしたいですよね。

――その一方で、あなたたち500人が反対しているせいで、みんな迷惑しているんだよという言い方もありますよね。

 ついこの間まで、漁業補償金を半額しか払っていなかったんです。祝島の埋め立てが認可されれば残りの半額を払う約束でした。お金を欲しい人たちにしてみれば、「お前たちが反対しているからお金がもらえないんだ」という分断作戦を謀ったのね。上関には八つの漁協があって、祝島だけ反対していました。彼らは法律を変えたりしてあの手この手を使ってきます。独立していた漁協を県漁協が無理やり合併吸収して、県漁協は補償金を祝島が受け取らないから、漁業保証協定を合意なしに勝手に結んでしまった。それでも祝島は最終的に受け取らないという決議を決めました。しかし受け取ってもいないのに補償金の所得税を払えと嫌がらせを言ってくるんですね。

――原発は長島の田ノ浦にできるんですよね。なんで、祝島の人たちが一番抵抗しているんですか。

 祝島の人たちは島からま東の方向にある田ノ浦に向かってお墓をつくり、太陽も田ノ浦から昇ってきて、家の窓も田ノ浦に向かっているんです。漁師さんたちは沿岸で漁業をしますが、田ノ浦が稚魚を育てる環境があるからこの海域が豊かになっている。原発を作る前に埋め立てたら、漁場は失われてしまうんです。最近、民主党の議事録が出てきたなかで原発推進議員が会議のなかで「とっとと上関原発を建てなさい」という檄を飛ばしていました。本当に分かってないんです。その会議でのエネルギー庁部長がこんな風に言った。「温排水が出るので反対しているそうだけど、環境影響評価を見てもそんな心配はない。しかし、反対派は聞く耳を持たないんだ」と。その環境影響評価がおかしいと4つの学会が正式に抗議しているんです。

――『ミツバチ』は、どういう経緯で撮りはじめたんですか。

 『六ヶ所村ラプソディー』を瀬戸内アースデイをやった若者たちが祝島で上映してくれて、はじめて祝島に出かけていったのが直接のきっかけです。島の人達のキャラクターが素晴らしく、風景も美しく、なによりも28年も環境をお金に換えないと、反対運動を継続している底力に感動したんです。

――『六ヶ所村』では推進派の方たちが出てきますよね。

 六ヶ所村の推進派がなぜ私の映画に出てくる気になったのかというと、『六ヶ所村通信』というビデオレターを観たからなんです。映画の制作中に中身をバラしてしまうということをこれでやっていました。祝島の島民にも同じように『ぶんぶん通信』というビデオレターを見てもらいました。「あ、ちょっとテレビとは違うな」とわかってもらえたんですね。ビデオレターをつくる目的は二つあって、なるべく早くこのことを知らせ、広めていくために、より多くの方にこの映画の存在を知って欲しいことと、映画は2年間かけて、350時間も回して、2時間だけ見せるなんていうのは、ものすごい浪費でしょう。リアルタイムに伝えていける、それが今のメディアのフットワークの軽さなんです。映画にすればいいというものではない。私の作っている目的は、映画を完成させる以外にもあるんです。

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『ミツバチの羽音と地球の回転』

――『ミツバチ』の上映は2010年6月からしているんですよね。

 山口市の県庁前の教育会館からはじめました。一番先に見せたのは祝島ですが、それは試写みたいなものでした。そうでなくて、市民が実際に上映運動するという形では、山口県からはじめました。作っている最中からネットワークでつながった市民グループにお願いしていたんです。

――草の根の上映ネットワークはどのようにして出来たんですか。

 『ヒバクシャ』から始まっているんです。『ヒバクシャ』は本当に借金をしてつくっていた映画で、お金がありませんでした。ちょうどイラク戦争が近づいてきて、頼みもしないのにマスコミが、私の映画を記事にしてくれたんですね。経済的に辛いなかでつくっていたので、この映画が出来たときに上映してくれる方には、本来なら10万円なんだけど割引しますと言いました。貸し出し料金を前払いして欲しいと、映画が出来上がってもいないのに宣伝したんです。それから250団体の市民グループが代金を振り込んでくれました。それで製作費が随分と助かりました。完成させるとその人たちがすでに上映する予約をしていたから上映活動もスムーズに走り出しました。映画を見に来て、各会場で上映会をすると、「私もやりたい」という人が1人や2人ぐらい出てきます。私は上映会に参加するので、「こうやればいいんですよ」とその場でレクチャーします。それから、次々と上映のネットワークがつくられていきました。時間はかかるんですが、日本の各地で『ヒバクシャ』は400ヶ所、『六ヶ所村ラプソディー』は650ヶ所で上映されました。

――上映をお願いする市民の方たちと出会って、次の取材先やテーマが決まったりするんですね。

 祝島もそうだったんだよね。テレビと違い、直接のフィードバックがあるからすごくいいんです。映画がどう伝わるのかテレビではわからないけど、実際生で見せていくと、直接的に響いてきます。毎日、映画祭みたいなんです。
 山形ドキュメンタリー映画祭に行くと映画館を使って上映しますが、私のスクリーニングのチャンスは2回しかありません。会場は100人、200人ぐらいで見ますが、すごくクールに映画を見る人たちが集まっています。でも地域に行って自主上映をやると、主催者はより多くの人たちに見てもらいたいという熱意があって、地域のなかに入っていって、チケットを1枚1枚売って、なぜこの映画を自分たちがやるのか、この映画は一体映画はどんな映画なのか、今祝島に何が起きているのか、原発の意味とは何なのかということを話すし、何度もミーティングをします。それで、地域のなかでやっていくことによって、彼らのネットワークも出来あがります。

――ネットワークが強くなっていくんですね。

 地域での出会いも生まれます。『ヒバクシャ』は、平和運動や反核をやっている市民グループの方たちが多かったんです。『六ヶ所村』は生協、子育て、色んなことをやっている人がつながりあっていきました。同じ地域のなかで知らない者同士が、同じことを考えているということに気がついて、つながり合って重層的なネットワークが出来あがる。鎌倉や湘南では政治家になる人も出てきます。都内で『ミツバチ』を見て立候補を決めた女性が、3人いるんです。私はこれを「民主主義のエクササイズ」と呼んでいます。

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『ミツバチの羽音と地球の回転』

――映画では祝島だけでなくスウェーデンでのエネルギー事情を扱っています。祝島だけのパートだけだと、外へ開いて行かないと思うんです。スウェーデンとどうやって祝島の状況が重なっていったんですか。

 最初からスウェーデンを撮ろうと思っていました。私の頭のなかで、祝島とスウェーデンをドッキングさせると科学反応が起きるに違いないと思ったんですね。『ぶんぶん通信NO.1』ではすごくドラスティックにつないであるから、乱暴な感じになっています。有機的に映画のなかで融合するには何かジャンプボードが必要でした。
 祝島の孝くんはすごく不器用な青年だから、胸の内を話してくれないんだけど、一年も付き合っていると徐々に考えていることが見えてきます。実は環境エネルギー政策研究所所長の飯田哲也さんをものすごく尊敬していました。自分でも自然エネルギーのことをネットで調べていて、デンマークのサムソ島を「いいなあ」なんて見ているんです。私はそんな彼を見ていて「なるほど、彼の中には反原発だけじゃなくて、自然エネルギーへの渇望があるな」と思いました。私のなかに元々あった持続可能な自然エネルギーの構想が、孝くんと重なった瞬間でした。これでようやくスウェーデンに行けました。

――スウェーデンでは地方分権が進んでいるんですよね。

 スウェーデンの場合は問題提起が行われると、国よりも県、県よりも町、町よりも村、つまり当事者に決定権があるんです。地方分権も民主主義も成熟しています。投票率も80%以下には決してならないんですね。スウェーデンは持続可能な社会の作り方を広めているんですよ。持続可能な社会が切り口で、エネルギーや福祉をはじめとしたすべての分野で実践されています。
 映画にも登場するトルビョーン・ラーティーはアフリカ、アメリカ、南米、南欧など方々呼ばれて講演しに行きます。「ナチュラルステップ」のカール・ヘンリク・ロベールが理論を、トルビョーンが地域での実践を担っています。この両輪が実現可能なモデルとして、世界に受け入れられていっています。環境を保全していくことが、経済価値に反映されるという社会をつくっていかないと、ただただ環境破壊して儲けるというこれまでと変わらないやり方になってしまいます。スウェーデンの人たちは自分たちだけじゃなくて地球規模で見ているんですね。自分たちの国だけが持続可能でも、他の国が今のままだったら持続不可能です。つまり利他的でなくてはいけないと言っているんですね、大人なんだ。
 祝島は、目の前の原発を止めるという28年間の反対運動でもう手が一杯だった。たった500人の小さな島が国策や大企業に立ち向かっているんですから当然です。自然エネルギーで持続可能な社会にするという構想は島起こしの一環です。これから年老いていく、おじいちゃんやおばあちゃんが島でどういう風にハッピーに暮らしていけるか。原発反対だけではなくやっぱりエネルギーを自給していきたい。自然エネルギーを導入することで過疎化を食い止める何らかの手だてになるんじゃないかという発想なんです。

――『ミツバチの羽音と地球の回転』というタイトルには、どのような意味が込められているのでしょうか。

 ミツバチは持続可能性の象徴、つながり合う生き物でもあります。蜜をとるけど破壊しないし、花へ受粉していきます。ミツバチがいる生態系は健全なんです。ミツバチは目指すべき、来るべき未来の、世界の持続可能性を象徴しています。
 もう一つは、現代人には誰かに任せておけばいいという意識が根強くあると思います。自民党が悪い、民主党が悪いと愚痴を言う前に、それを選んだ我々が悪いんですよ、本当は。私たち自身が一人ひとりが、誰かがやってくれるのを待たないで、いま未来をつくりましょうと。一人ひとりが持続可能な存在に、自分自身がなればいいんです。
 すべての自然エネルギーは地球の回転によって産み出されているんですよ。地球を外から見るような大きな視点と、目の前の蜜をとるというエネルギーを生み出す現場の活動を、複眼的に見ながらやっていくと、運動もまた個人の確執を超えて持続可能になっていくんじゃないでしょうか。
 英語のタイトルは短くて「ashes to honey」なんです。文明が自然を焼きつくして灰にしてきた環境を、ミツバチたちの暮らすの持続可能な社会へと変えようという願いを込めました。

*写真提供:グループ現代、鎌仲ひとみ

『ミツバチの羽音と地球の回転』
監督:鎌仲ひとみ プロデューサー:小泉修吉 
音楽:shing02 撮影:岩田まきこ、秋葉清功、山本健二 録音:河崎宏一、服部卓爾 
助監督:豊里洋、南田美紅、齋藤愛 編集:辻井潔 
制作・配給:グループ現代 
2010年/カラー/デジタル/135分



『ヒバクシャ 世界の終わりに』『六ヶ所村ラプソディー』連続上映
2月5日(土)〜2月25日(金)@渋谷アップリンク 
『ヒバクシャ』 http://www.uplink.co.jp/factory/log/003859.php
『六ヶ所村ラプソディー』 http://www.uplink.co.jp/factory/log/003858.php

『ミツバチの羽音と地球の回転』
2月19日(土)〜 @渋谷ユーロスペース

公式サイト http://888earth.net/index.html

posted by 映芸編集部 at 12:25 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする