無題.png

2011年03月18日

映芸ダイアリーズ 2010日本映画ベストテン&ワーストテン 
金子遊、深田晃司、加瀬修一、平澤竹識

金子遊(映像作家・脚本家)

ベスト
1 ONE SHOT ONE KILL〜兵士になるということ(藤本幸久)
2 キャタピラー(若松孝二)
3 BOX 袴田事件 命とは(高橋伴明)
4 三島由紀夫・赤報隊(渡辺文樹)
5 時をかける少女(谷口正晃)
6 TOYO.DISPLAY(かわなかのぶひろ)
7 夢ばかり、眠りはない(佐々木友輔)
8 アヒルの子(小野さやか)
9 making of LOVE(古澤 健)
10 ベオグラード1999(金子 遊)

ワースト
1 悪人(李 相日)
2 告白(中島哲也)
3 おとうと(山田洋次)
4 アサルトガールズ(押井 守)
5 アウトレイジ(北野 武)
6 ゴールデンスランバー(中村義洋)
7 座頭市 THE LAST(阪本順治)

 イベントレポートからはじめよう。
 2011年2月19日の土曜日に、新宿ロフトプラスワンの「日本映画ダイスキ!」というイベントに出演した。他の出演陣は山下敦弘、向井康介、轟夕起夫、森直人、直井卓俊と豪華メンバー。 主催が「映画芸術」の編集部にいたことがあり、現在はキネマ旬報にいる平嶋洋一さんということで、2010年日本映画ベスト&ワーストの総決算をやりたいが、みんな価値観が似ているので少し異質な人間を、ということで私に白羽の矢が立ったものらしい。個人的に盛り上がったのは、平嶋さん、森さん、轟さん、私の四人で登壇した第1部。キネマ旬報ベストテン、映画芸術のベスト&ワースト、個々人のベストを発表して(ワーストを公開したのは私だけだった)、その後でトークバトルへ入った。『悪人』『告白』を積極的に評価をしたのは森さんと轟さん、ワーストに入れたのが私ということで、必然的に「映画芸術」的な立場を引き受けつつ、両話題作を難詰することになった。
 映画は誉める立場よりも、貶す立場の方がたやすいし、強い。そう実感した。轟夕起夫さんは評判通りの人格者で、彼の「『悪人』は現代版『飢餓海峡』なんですよ」という一言で話はついたようなものだったが、議論としては森さんが社会学的な郊外論を持ち出して、『悪人』を疲弊する地方を描いているとして擁護した点が興味深かった。確かに『悪人』の深津絵里は国道沿いの紳士服店で働き、生まれ育った家も学校も国道沿いにあるという設定だ。紳士服店というのは郊外論の対象となり得るが、問題は『悪人』では深津絵里が自らのセリフで「私、この国道のまわりを出ていない人生なんだね」という意味のことを言ってしまうところである。説明的なセリフだというだけでなく、例えば『国道20号線』の消費者金融への往還の風景に比べたら、この映画で扱われる「地方の疲弊」「国道」「郊外の風景」が記号に過ぎず、いかに人間の実感が不在であるかが見てとれる。もっと言えば、秋葉原通り魔事件の加藤智大を現代の永山則夫として描こうとした風景論映画の傑作『夢ばかり、眠りはない』と比べたら、『悪人』の長崎の漁村と佐賀の国道を往還する風景に、どれだけの深い企図があるのだろうか。私はそのようなことを喋ったのだと思う。
 2010年の日本映画に私が見たのは「システムの全面化」という現象だった。それは何も悪名高いメジャー映画、製作委員会方式、シネコン現象のことだけではなく、映画のキャラクター造型と物語構成の問題として感得されるようになってきた。『悪人』では一見、妻夫木聡が演じる長崎の漁村に住む男が、突発的な怒りに身をまかせて女性を殺しながらも、出会い系で出会った深津の前では人間的な面を見せるという人間ドラマとして成立しているかのように見える。しかし、彼に罪と罰の葛藤があるわけではなく、ただ突発的に殺人を犯しただけであって、彼はむろん善人でも悪人でもありうる。岡田将生が演ずる一面的な性格の悪役と併せて考えてみても、個々の人物が物語構成のシステムに従属し、物語を転がすためのキャラとして布置された単に不出来な映画に見えた。
 むしろ、『告白』の方が色々と問題がある。先のイベントで森直人さんが「いま『告白』はCMのような映像を使っており、映画としては認められにくいかもしれないが、10年後には先駆的な映画として評価されているだろう」と言っていたことには頷ける。しかし、その先には「システムの全面化」、つまりは映画に登場する人物がよくできた物語システムのために配置されるキャラと記号にすぎなくなる、そのような良質なシステムがあるだけなのではないか。松たか子が演じる女教師のキャラも、娘を殺されて生徒たちに抱く復讐心も、HIVウィルスも、加害者の少年のノイローゼも、どれもCMのなかで「キャラが演じる葛藤」にすぎないように見える。キャラの性格、トラウマ、人物設定はすべて交換可能であり、より強く客を惹きつけるのであれば、どのように変えてもいい。これが『告白』の持つCM的な映像感覚、スローモーション効果、よくできた原作小説とシナリオ、アニメのようなモノローグの手法といった先駆的な手法が導く先なのではないか。
 私たちが抗おうとしているのは、映画の物語を消費物として強い商品に仕立てるための、キャラクター造型と物語構成の効率の良いシステムである。私が2010年に見て最も心を動かされた映画、藤本幸久の『ONE SHOT ONE KILL 〜兵士になるということ』は、それぞれ固有の存在であるべき人間が、ノースカロライナの海兵隊の新兵訓練所に集められ、訓練を受けるうちに非人間化され、海兵隊システムの一部の兵士として仕立て上げられるプロセスを映像化している。そして、彼らが沖縄に駐留し、イラクやアフガニスタンに送り込まれていることは言うまでもない。これは実際の世界で駆動しているシステムだ。
 私がベスト10に並べた映画は、どれもこの作り手にしか作ることができない固有の映画であり、質の高さや低さ、おもしろいつまらないの問題はあっても、他のキャラや設定と交換不可能であるような固有の魅力を持った人物が登場する映画である。誰が若松孝二 のように『キャタピラー』を製作・配給し収益をあげることができるだろう。誰が渡辺文樹のように『三島由紀夫・赤報隊』のような陰謀論で昭和暗黒史を撮ることができるか。『時をかける少女』に登場するB級のSF映画をつくる青年、『アヒルの子』の小野さやか本人、『making of LOVE』で主演を果たした古澤健、そして『ベオグラード1999』。これらの映画は、絶対に効率の良い物語システムからは生まれない夾雑物である。他の誰にも真似することのできない、その作り手、その物語、その登場人物における固有性。そんな当然のことが稀少だと思える時代に、日本映画は入りつつあるのではないだろうか。


深田晃司(映画監督)

ベスト
「宮下公園ナイキ化【テントの封鎖が始まる】」他、宮下公園にまつわる一連の映像群。
http://www.youtube.com/watch?v=shj1W8pAO7s

 昨年もあまり映画を見られなかった。なので今、白紙の原稿を前に途方に暮れている。言い訳をすると、映画を作っていたからだ。
 書いて、撮って、つなぎ、人に見せていたら、一年が過ぎていた。ありがちなことだが、「映画労働者」は往々にして映画を見ていない。その非常識な忙しさに映画館に足を運ぶ暇も気力も折られ、仕事がないときは金がない。自分の携わった作品すら見ていないスタッフもざらにいるほど、文化の渦中にいるはずの人間が非文化的な生活を送っているのだ。結果、きわめてアンテナの感度の低い、現場人間ができあがる。これは大いに問題である。
 ・・・・・・などと、単なる自分の怠慢を一般論にすり替えてみたとて、原稿は一向に埋まらない。むむ。
 しかし本音の話、最近映画評を書くたびに複雑な気持ちになる。一抹の罪悪感を感じるようになってきたのだ。作り手の端くれたる私の書く映画評は、結局は私自身の今そこにある問題意識の確認作業になり、私にとって映画とは何か、演出とは、映像とは、物語とは、何か何か何かといった迷路のような思考の試行錯誤に、不幸にもたまたまそこに居合わせた映画たちが付き合わされるはめになるのだ。
 それでもええじゃないか、と言われる。確かにええかも知れないのだが、問題は私が昨今の日本映画の「ある種の傾向」に疑問を感じ、若手にもベテランにも、大作にもインディーズにも無差別的に不満たらたらである点だ。自分の未熟さを棚にあげ、得体の知れない違和感に背中を押され噛みつきたくて仕方がないのだ。これはもう狂犬である。犬が人を噛んだところでニュースにならないのは世の理だけど、噛まれた方は不愉快千万だろう。不幸中の幸いは、私は「そんだけ言うなら手前で撮ってみやがれ」と言われれば、一応見せられるブツは持っていることだろう。吐いた唾は自分に返る。そのときは覚悟して差し出します。
 駄文が過ぎたが、そういうわけでベスト・ワーストと言われてもろくに見ていないので答えようもないのである(本当はワーストにあげたい映画がたくさんあるというのは内緒である)。しかも私は映画を新作のうちに見ようという意識が極端に低い人間なので、ついつい公開から一年二年三年と過ぎてしまう。濱口竜介監督の『PASSION』は素敵な映画だったなとか『愛のむきだし』の前半は面白いけど後半はちょっとどうかなとか色々あっても、見事にタイミングを外しているのである。
 仕方がないので、昨年見た映像でもっとも刺激的だったものを素直にベストに挙げたい。東京は渋谷、宮下公園にて撮られた数々の映像である。
 渋谷駅すぐ近くにぽっかり空いた閑静な広場として親しまれている宮下公園は、一方で多くの野宿者が生活する場所としても知られる。そこがネーミングライツによって、ある企業が管理する有料の公園に改修されることに決まったのだ。それとともに行政による野宿者の排除が始まり、それに反対する市民やアーティストが宮下公園に集うようになった。
 結果、この都会の小さな公園は、不透明な行政の政策決定システム、広場の公共性、野宿者の生存権など、賛否を越えて、非常に多くの問題を問いかけてくる思想空間と化したのだ。
 「そこにある問題」を可視化するため、また行政の圧力に抵抗する武器として、多くの映像が動画投稿サイトに発表されたが、なかでも、野宿者自身にビデオカメラを渡し、撮影技術についての簡単なワークショップを行い、彼らの生活空間が「撤去」される様子を野宿者自身が撮影できるようにした美術家藤井光の活動は印象的だった。
 そこに映された映像は、カメラと被写体と撮影者の有機的な関係をダイレクトに伝えると同時に、100年の間ある種の資本的優位性に依拠した映像製作というシステム、その特権の上に胡座をかいていた作り手様の地位と自尊心が、21世紀に入ってますます進むビデオカメラの技術向上と低価格化の中、もはや前時代的な遺物に過ぎないことを露わにしたのだ。王様は裸になったのだ。
 これからは、私たちはなぜ映画=映像を作るのか、ひとりひとりがその意義と価値を世界との関わりのなかで模索することを否が応にも求められることになるのだろう。
 そういった視座に立ったとき、翻って日本映画を眺めると、いかにその多くが現代性ならぬ「現在性」を欠いてしまっているかに気づかざるを得ないのだ。
 と、こうしてつらつらと連ねた言葉は、返す返すもすべて自作へと戻ってくるのでぞっとするのである。昨年撮らさせていただいた新作映画『歓待』を、今は閉鎖されてしまった宮下公園の目の前の映画館にて上映させてもらえることになったのには不思議な巡り合わせを感じた。
 果たして私は、私と、私をパチンコ玉のように小突き回していく世界との関わりの中で映画が作れているのか、ぜひ劇場で確認してもらえると嬉しいです。
 最後に、今回の東北地方太平洋沖地震で被害に遭われた方々に、心よりお見舞いを申し上げます。

映画『歓待』。2011年4月23日よりヒューマントラストシネマ渋谷ほか、順次全国にて公開。
http://kantai-hospitalite.com/


加瀬修一(ライター・プランナー)

ベスト
1 アヒルの子(小野さやか)
2 ヒーローショー(井筒和幸)
3 ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う(石井 隆)
4 堀川中立売(柴田 剛)
5 キャタピラー(若松孝二)
6 カラフル(原 恵一)
7 アウトレイジ(北野 武)
8 ライブテープ(松江哲明)
9 これで、いーのかしら。(井の頭) 怒る西行(沖島 勲)
10 犀の角(井土紀州)

ワースト
・君と歩こう(石井裕也)

 映画館にいるほんの僅かな時間に支えられた2010年。前のめりになって観ていた作品を選んだ。鼻水も拭わず、地団駄を踏みながら決死の覚悟で突き進む小野さやか。彼女の変化に戸惑いながらも受け入れようとし、それでも「親」としての体裁を保とうとする両親のギリギリのせめぎ合い。兄姉の葛藤。尊厳とは何かを考えさせられる。過去と向き合い、今を捉えなおすことで未来を切り開こうとした『アヒルの子』には、忘れていた感情を掘り起こされ、否が応でも自分自身と向き合わされた。彼女のあの怒りと哀しみに満ちた目が、6年の時を超えて微笑みに変わり、笑顔で劇場に立つ姿も含め、「映画」であり、劇場での「体験」だった。ただ引っ込みがつかないというだけで、ドンドン負のスパイラルに巻き込まれて行く様が恐ろしい『ヒーローショー』。大都市近郊というよりも、千葉のチンピラのタチの悪さが的確に描かれていたことを、千葉出身の僕はイタイほどよく知っている。所詮田舎に戻ったところで、充実した生活や安心なんて逃げ場はない。また那落迦があるだけだ。のどかな空気の中で鳴り響くピンクレディーの「SOS」がさらに暗澹たる気持ちにさせる。あんな奴らと絶対関わりたくないと思わせるキャストも素晴らし過ぎた。佐藤寛子演じる〈れん〉の美しさがひたすら哀しかった。彼女の内に秘めた激情と狂気。そんな女にどうしようもなく魅かれる中年男の純情。『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』は、「黒い寅さん」だ。振り向くはずもない女に命を張っても、結局男は堕ちきれない。味気ない日常で、また運命の出会いを待つ。「何でも引き受けます」と。デタラメさと誠実さ。『堀川中立売』は既存の枠組みを打ち壊し、そこから軽快にはみ出して行く。そのエネルギーは、世界をまるごと受け止めながら、見事に時代と斬り結んでいた。善意と悪意に満ち満ちた世界は、ひとりのヒーローが維持しているんじゃない。何でもない市井の人々が構築しているんだ。『キャタピラー』が一点集中で描いていたことは、「これが戦争だ」ではない気がしている。食欲、性欲、自己顕示欲、支配欲。人間の欲は深く哀しい。しかしその欲が生きるバイタリティーとなる。そのことを肯定しているのではないだろうか。欲を本能的に受け入れた妻は生き、思想・思考で受け入れ切れなかった夫は死ぬ。反戦、反権力、猟奇趣味以上に言いたかったことは、つまり「これが人間だ」だと思う。肉まん。鍋。何かを分かち合うという行為が、自分と他者を意識させながらも、言葉以上に「何か」を通わせ、生きることに繋がる。それを真っ直ぐ丁寧に描いた『カラフル』。劇的とは大掛かりなものではなく、日常の些細な事象をどう感じるかだと思う。ただ逆に言えば、それが生きづらくするということも十分に考えさせられる。「貧乏クジばっかりだよ」と、もはやシステマチックにスパイラルに巻き込まれる『アウトレイジ』の虚無。「大きなお世話だよバカヤロウ」よりも、若頭の水野や幹部の安倍に「逃げろ」「逃げろ」と繰り返す大友の姿に、今の北野武の心情が透けて見えるようで興味深かった。『ライブテープ』は、終盤になって前野健太さんに問いかけられた松江監督が「映画とか音楽とか…、なんか感じたかった」というどこか照れくさそうに発した言葉の僅かなブレが、何度観ても「ライブ」を感じさせる。日常と黄泉を「思想」が繋ぎ、散歩して語るだけで「映画」になる『これで、いーのかしら(井の頭) 怒る西行』。この境地に至ることは到底できないが、突き抜けることで自由を得られるということに希望が持てた。だからラストでイスからずり落ちながらも、気持ちよく笑える。「愛するものに名前をつけよ」ってなんの台詞だっけ?そんなことを思い出した『犀の角』。初々しい役者の肉体が、ボーイ・ミーツ・ガールに説得力をもたらしていた。背中で泣いている崇。青春は切なさの集積だ。同じボーイ・ミーツ・ガールながら似て非なる『泥の惑星』のゴツゴツした肌触りも良かった。でもここは、川ア龍太くんに「上手い」よりも「面白い」脚本家になって欲しいという願いを込めて。ワーストは『君と歩こう』だけをあげた。生徒と教師。駆け落ちして、その立場と年齢の差をどう越えるのか。ラブストーリーかと思ったら、人情噺だった。だとしたら、もっと正面から娯楽でいいんじゃないかな。ギャグや踊りがそのままズレて散漫になってしまった。ラスト、あそこで終わるんではなくて、始まるのではないかと思う。そこからが監督の考える「情」が立ち上がったのではないか。次回作で是非そこを観たい。
 毎年ベスト&ワーストに参加するのが辛い。でも何やかや映画の話をクソ真面目にできることを幸せだとも思う。来年の今頃もそんな無駄で豊かな時間を持てたら嬉しい。もう何度もいった言葉をいま一度繰り返したい。1本の映画で世界は変えられないけれど、1本の映画を作る事、観せる事、観た事で、人ひとりの人生が変わる事はある。映画はそんな力を持っている。そう信じている。


平澤竹識(「映画芸術」編集部)

ベスト
1 堀川中立売(柴田 剛)
2 ばかもの(金子修介)
3 告白(中島哲也)
4 パレード(行定 勲)
5 さんかく(吉田恵輔)
6 ただいま それぞれの居場所(大宮浩一)
7 スイートリトルライズ(矢崎仁司)
8 扉のむこう(ローレンス・スラッシュ)
9 ヘヴンズ ストーリー(瀬々敬久)
10 これで、いーのかしら。(井の頭) 怒る西行(沖島 勲)

ワースト
・桜田門外ノ変(佐藤純彌)
・ボーイズ・オン・ザ・ラン(三浦大輔)
・SRサイタマノラッパー2〜女子ラッパー☆傷だらけのライム(入江 悠)

 自分にとって、映画はずっと人生の地図みたいなものだった。だから仕事上の立場を離れれば、映画の中に人生を見たいと思ってしまう。とりわけ今の人生を。そんなふうに思うのはたぶん、自分が今の時代環境に強く支配されていると感じるからでもあるだろう。ただ、2000年以降というのは、映画に投影しにくい時代なのかもしれない。人と人がぶつかり合うことはまれで、対立や葛藤はネットに沈潜して表面化することがあまりない。だから、リアリティに準じればドラマにしづらく、動きのある映像に置き換えることも難しくなる。逆に、映画的な表現を追求すれば、ある程度のリアリティを犠牲にせざるをえない。
 『堀川中立売』はしかし、映画的な躍動感をもって鋭利かつ巧妙に現代を描き切っていると思った。今は“敵”が見えない時代だが、それは善と悪の境界が曖昧になったせいでもある。にもかかわらず、この映画では勧善懲悪という旧来のドラマツルギーが踏襲されており、そのダイナミズムが奔出している。そんな離れ業が可能なのは、妖怪と陰陽師の戦いが物語に導入されているからで、ここでヒーローとなるのは陰陽師に操られたヒモとホームレスの二人。むろん彼らにその自覚はない。さらに、打倒すべき悪として設定されるのは、匿名性に身を隠す集団心理(両目にボカシの入った人たち)と資本主義というシステムそれ自体(その権化としての妖怪)である。つまり、ここでは善も悪も個人に還元されることがなく、だからこそわれわれはクライマックスの勝利に快哉を叫ぶことができる。善と悪がうやむやになっても“正しさ”は存在するのだと、この映画から教えてもらった。
 『ばかもの』は大学生の成宮寛貴が歌う「アポロ」で幕を開ける。1999年。ちょうど自分も大学生だった。内田有紀に捨てられてアル中となり、他人を傷つけては自分も傷つき、家族の優しさに惨めさを募らせて、ますますアルコールに耽溺していく。そんな成宮の姿をまるで他人事とは思えなかった。“確かなもの”が見つけにくい時代、きっと成宮は愛という“確かなもの”を打ち砕かれて、自身が拠って立つ場所を見失ってしまったのだと思う。だから一方で、投資家となった中村ゆりは宗教という“確かなもの”にはまり、修行と称したリンチによって殺されてしまうのだろう。時折挿入される写真と川柳だけじゃ時代の描写が半端だとする向きもあるかもしれないが、自分は成宮の歩みと、その合わせ鏡である中村の顛末に今(に至る十年)を感得することができた。そして、成宮が十年越しに切り結ぶ内田との絆に嘘のない希望を見た。愛という言葉にはつい胡散臭さを嗅ぎ取ってしまうけれど、この愛だったら信じられる。
 『告白』を見ながら、いろんなことが頭をよぎった。ホリエモンや亀田兄弟のような異端を持ち上げてはバッシングに走るマスコミのこと、他人との関わりを拒絶しながらもミクシィやツイッターで繋がりを求める人たちのこと、そして秋葉原で事件を起こした若者のことも。人間が描けていない、幼稚すぎるという批判を何度も耳にした。しかし、今はもう人間が“人間”でなくなっているか、あるいは幼稚すぎる時代なのだと自戒も込めて思う。その失われた人間性を回復するための足がかりとして、自分はこの映画を支持したい。だから、松たか子が娘を殺した生徒に仕掛けたのは復讐ではなく、「他人の痛みを知れ」という教育の実践なのだと受け止めたし、そのために“教師”として設定された松が最後に「なーんてね」と言う必要があったのだと理解している。ただ、この映画におけるHIVの描き方については、その危うさをしっかりと肝に銘じておきたい。
 吉田修一は他者との距離感のなかに現代を描出する術に長けた作家だと思うが、その点において『パレード』は、吉田自身が脚本に関わった『悪人』以上に、吉田修一的な世界を映像化していたのではないか。思えば、行定勲という監督は『贅沢な骨』『ロックンロールミシン』『今日のできごと』などの初期作品でも今を描くことに執着を見せていた。“大切な人を失った者の痛み”という一貫した主題を描く傍らで、現代にこだわった作品も撮り続けてほしい。
 『さんかく』の監督は、現代的な意匠を映画にちりばめる才人だと思う。前作『純喫茶 磯辺』ではその才能がキャラクターの造形やエピソードの細部にばかり発揮されている印象があったが、今作では、高岡蒼甫が小野恵令奈の「ストーカー」になって初めて、自身の「ストーカー」と化した元カノ田畑智子の痛みを知るという物語のなかにも、現代的なテーマがしっかりと織り込まれていた。
 『ただいま』は表向き、介護保険制度の不備をただすドキュメンタリーである。制度の規定ではサービスを受けられないお年寄りはどうなるのか、映画はその問題を追及しながら、現場で活き活きと働く20代、30代の姿を捉える。宅老所「井戸端げんき」の代表をつとめる伊藤さん(元引きこもり)は「苦手な人には無理に優しくしなくていい。その代わり、情が湧いたお年寄りには徹底的に優しくするように」とスタッフに言うらしいが、本作もまた、建前を排した低い目線で対象を捉えることに徹している。現代的なドキュメンタリーというと、フェイクドキュメンタリーなどそのスタイルにばかり目を向けがちだが、本作のような視点のあり方にも現代性は宿っている。
 夫婦のダブル不倫を描いた『スイートリトルライズ』について、ある女性が「結婚に夢を持つ自分にとってはホラー映画のようだった」とコメントしていた。そのように物事を一義的に解釈して、規制をかけたりする風潮が蔓延しているのが今の世の中だという気がする。だから、互いに裏切りを犯してもなお、そこに愛情のようなものを認めて関係を継続していく夫婦を描いたこの映画は、とても大事なメッセージをはらんでいると思う。生は死のなかに、美は汚穢のなかに、愛は憎しみのなかにあるのだ。
 『扉のむこう』は引きこもりを題材にした劇映画である。主人公の少年は動かず語らず、家族は葛藤を胸にしまいこんで、この問題にフタしようとする。だから、この映画には可視的な動きの要素がない。けれども、長廻しの撮影が素人俳優を活かし、厳格なフレームが画面に強度を与えることで、こちらの視線を釘付けにする。母親が部屋にいる少年に呼びかけた後、少年が扉を叩いて応じる、その振動を捉えたクローズアップがある。激しく執拗な扉の揺れに母親の戦慄を感じさせながら、少年の心のふるえをも表現する演出に唸った。
 『ヘヴンズ ストーリー』の物語に果たしてこれだけ長大な時間が必要だったのか、復讐する者とされる者が相討ちに終わる以外に両者の決着を見出すことはできなかったのかというわだかまりは残る。しかしそれでも、監督の無謀ともいえる挑戦と、その真摯な姿勢にはやはり喝采で応えたい。
 『怒る西行』を2009年の末に見たとき、いくらなんでも手軽に作りすぎではないかと思った。それなのに、2010年が終わった今もまだ、この映画のことが頭から離れないのはなぜだろう。それはおそらく、自分の思考が前提としている映画や世の中のありようが、ここでは疑いを持って語られているからだ。「これで、いーのかしら?」という問いかけを、これからも忘れずにいようと思う。
 他にも、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』、『ゲゲゲの女房』、『海炭市叙景』、『アメリカ−戦争する国の人びと』には志ある作り手の気迫を見たし、『結び目』『イエローキッド』『ランニング・オン・エンプティ』『乱暴と待機』『ロストパラダイス・イン・トーキョー』『ソラニン』には新しい作り手の台頭を感じた。そして、『トロッコ』、『春との旅』、『孤高のメス』、『BOX 袴田事件 命とは』、『パートナーズ』、『犀の角』では、その確かな作劇術に裏打ちされた語りを堪能することができた。
 ワーストに挙げた映画は、つまらない映画とイコールではない。ただ、その映画が内包する問題について語ることに多少なりとも意味があるのではないかという思いから、ここに挙げさせてもらった。
 『桜田門外ノ変』は「国のために命を懸けた若者たち」という一点のみに特化して、水戸の脱藩浪士を悲劇的に描いている。しかし、彼らの政治的な立場を描くことはせず、観客がその行為の是非を問うことは禁じられている。国のために命を捨てることが、このような形で美化されうるなら、あらゆるテロや戦争がその対象となるだろう。
 『ボーイズ・オン・ザ・ラン』は、監督の資質にぴったりの原作にもかかわらず、その資質がほとんど活かされていないところに不満を持った。この人が演劇で表現していた毒気はどこへ行ってしまったのか。海外では舞台の演出家が監督した場合にも、その個性が作品に反映されているが、日本でそうした例が少ないのはどうしてなのだろう。ともかくYOUが演じたソープ嬢の役には脱げる人をキャスティングしてほしかった。
 『SRサイタマノラッパー』は、それほど遠くない距離にもかかわらず、東京へ出ていく度胸のない“埼玉の”ラッパーという設定が、映画に多彩な表情を与えていた。ひるがえって今作では、舞台である群馬の細部が捨象されてしまい、単に“地方”というイメージのなかだけで語られているように見える。監督が「寅さん」のように「SR」をシリーズ化したいと望んでいるのは知っていたし、私的な表現に向かいがちな若手の中にあって普遍的な表現を目指す姿勢は好ましいと思う。しかし、「シリーズ化」が「パターン化」になってはいけないだろう。パターン化とはつまり標準化、一般化することで、普遍化する作業とは似て非なるものであるはずだ。

posted by 映芸編集部 at 12:37 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする