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2011年04月10日

大阪アジアン映画祭レポート 後編 
神田映良(映画批評)

 各作品の上映後の質疑応答やセレモニーでは、当然の事ながら通訳を介してやりとりが交わされたのだが、客席では、通訳を待たずゲストの話に直接笑い声を上げる方もいて、舞台のみならず客席もまた多言語の空間となっていたようだ。何度か観客から、作品内で用いられた言語に関して、直接その言語を理解した上での質問が投げかけられた事や、『アンニョン...』の質疑応答で、タイ人と思しき観客が「既に三回観た」と発言していた事には驚かされた。英語字幕付きで上映された作品も多く、日本語字幕と合わせて三つの字幕が付けられた作品も少なくない。やはり、共通言語として中心的な位置を占めていたのは、参加したアジア各国の言語ではなく、英語だった。質疑応答では、日本語との通訳しか用意されなかったが、各国からの参加者が集ったクロージング・セレモニーでは英語の通訳が、全ゲストに向けての通訳者として参加。登壇者の発言の後、各国語の通訳による日本語訳に続いて英語訳が為される形で、ほんの短い発言が木霊のように繰り返される場面もあった。

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 また、作品そのものに於いても、劇中、英語がコミュニケーション手段となっている場面が目立った。『アンニョン...』のタイ人と韓国人、『カイト』のインド人とスペイン人、『マジック...』の日本人と韓国人、『雨夜...』のイギリス人と中国人、といった異国人同士の会話に用いられていたのは英語。『いつまでも...』では、シンガポール人の父親が、娘の婚約者である台湾人青年について「英語も話せない奴だ」と不満を漏らすシーンがある。中でも印象的なのは『ハウスメイド』の、上層階級の一家が娘の誕生日を祝うラストシーンで、台詞が突然、英語になっていた事だ。幼少期からの英語教育に熱心であるらしい韓国の教育事情の反映なのだろうが、金で美を手に入れた整形美人が全て同じような顔になるのと同様、経済発展という形で富を手に入れる事は、英語圏と同質化していく事でもあるのかもしれない。必ずしも観客に伝わりやすい表現ではないが、或る喪失と引き換えに変貌する韓国社会を端的に感じさせるシーンだった。
 こうした光景を目にすると、ハリウッド映画で外国が舞台になった際、いつも都合よく英語を話す人物が登場するのも、ご都合主義というよりは、ひとつの現実なのだとも思える。その一方、『恋人...』で「そごう」が待ち合わせ場所になっていたり、『踊れ 五虎〈ウーフー〉!』(監督:チウ・ケン・グアン/マレーシア)の、「安田大サーカス」のクロちゃんを思わせる主人公が、両親に日本旅行をプレゼントすると宣言したり、『いつまでも...』で雪の富士山を舞台にした幻想シーンがあったりと、我々日本もひとつのブランドとして消費されている現実もまた目の当たりにする事となり、妙なむず痒さを覚えもした。また、『アンニョン...』は韓流ドラマに夢中の女性をヒロインに据え、韓国を舞台にしていたが、『いつまでも...』では、ヒロインの恋愛妄想を聞かされた女性が「あんたの話と韓流とがごっちゃになっちゃって…」と言う台詞がある。日本も巻き込まれた韓流ブームがこうした形で描かれる事で、思いがけず同時代的な「アジア」の空気が吹きつけてくる。加えて『アンニョン...』では、主人公がヒロインに対し「なんだ、タイ語が話せるのか」と、韓国人と区別がついていなかった事を仄めかす台詞を吐く。そのヒロイン役のヌンティダー・ソーポンは、上野樹里にそっくりなのだ。『カイト』ではインド人の主人公が、人質にとったトラック運転手に対し「メキシコ人かと思ったら、インド人なのか!」と、急に愛想がよくなる。人が世界中を移動する現代にあっては、言語こそが、人が自らの身体と共に抱えて移動する、心的な国境線として機能している事が痛感させられる。先述した、英語という一言語の国際語化も、こうした現実を踏まえた上で捉えかえされるべきなのだろう。

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『踊れ 五虎〈ウーフー〉!』

 コンペティション部門の新設と連動してか、来年度からはシネアスト・オーガニゼーション・大阪(CO2)と一体化されることが、クロージング・セレモニーに於いて、実行委員長の上倉庸敬氏から発表された。ここまで日本の作品には触れずにきたが、CO2の助成作品とも相通ずる、ひとつの問題を感じた作品がある。特別招待作品『臍帯』(監督:橋本直樹/日本)は、橋本が過去にプロデュースした『トニー滝谷』の市川準監督を思わせる、静謐さの中にピンと張った空気が流れる作風。かつて母に棄てられた女性、ミカが、新たな家庭を築いて平穏に暮らす母を観察し続けた末、一家の娘である綾乃を誘拐し、薄暗い閉鎖空間の中、互いに飲まず食わずのまま無言で対峙する。椅子の他は何もないその空間は、おそらく胎内の暗喩だろう。実際、臍帯(=臍の緒)を思わせる縄が天井から垂れていて、そこから落ちる水滴を巡る二人の格闘シーンもある。一人用の椅子に座るミカと、幅広い椅子に一人で座らされる綾乃。追いつめられた綾乃の激しい呼吸だけが響く、空虚な空間。回想シーンでは、少女時代のミカが公園のブランコに一人座り、他の子が遊ぶのを見つめる光景など、彼女の孤独が描かれていて、それと同じ思いを綾乃に味わわせるのが、ミカの復讐の一環なのだと理解できる。
 冒頭の、ミカが母を遠くから観察しているシークェンス中、一瞬、母と目が合ったかのように思えた後、母が室内の誰かに声をかけ、結局はミカに気づいていない様子のシーンがある。この時、ハッとして木の陰に身を隠したミカが、再びそっと身を現わす仕種によって、彼女の母への思いが感じられる。しばらくミカの視点によるショットが続いた後、母の視点のショットへと移った際の、綾乃がその母に向かって、木々の間から出かけの挨拶を送るカットの挿入は、母から見られる事のなかったミカとの差異を感じさせると同時に、綾乃がこれからミカの立場に置かれる事を予期させる。ミカが遠方から見つめる家族の会話が途切れ途切れに聞こえる事で、ミカと家庭の幸福との距離を観客に「聞かせる」演出など(そのニュアンスは、映画祭用に挿入された英語字幕に多少損なわれてはいたが)、静かな水面を微細な波紋で揺さぶるような表現には唸らされる。

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『臍帯』

 だが、先述した臍帯の暗喩らしきものや、母子の関係性も含め、演出全体が抽象的に過ぎる点は気にかかる。回想シーンでは、ミカの視点ではない客観的なショットを採用しているせいで、「見つめる」事で孤独を表していた序盤との隔絶も生じている。またミカには生活感がまるで感じられない上、棄てられた孤独に苛まれ続けた事の表現だとしてもやはり、飢えと渇きに対して耐性がありすぎるので、復讐だけが目的のアンドロイドのように映じてしまい、母に対する湿っぽい執着心を抱えている事にそぐわない。ミカが電話越しに母の経歴を淡々と暗誦するシーンは、黒沢清監督の『蛇の道』で香川照之が検死報告を朗読するシーンを思わせるが(監禁による復讐という点も共通している)、ミカ役の於保佐代子の演技に依存しすぎであり、鬼気迫るものは感じ難い。ラストシーンでの、母がミカを抱え、下半身が血に塗れた、明らかに流産の暗喩であるカットに至っては、恰もポーズをつけた人体で「愛」とか何とか書いてみせるのにも似た恥ずかしさが漂う。
 こうした、些か抽象的に母子の葛藤劇を描く傾向は、先のCO2の助成作品にも見られたが、即席で「根源的な情念」らしきものを描くための便利な設定として利用されているようにも見える。自ら殻を作っておいてから、それを突き破ろうと格闘する姿を自演してみせる自閉性は、他者や社会への関心の薄さの裏返しなのではないか。『臍帯』でも、回想シーンでミカが児童養護施設で暮らしていた事が示された際、施設の職員や他の子らは全く登場しない。これが、母から棄てられたミカの孤独を表す演出なのは分かるが、ミカの拒絶の対象としてすら他者の身体が消去されているのは、演出者の方がミカを客観的に捉えず、その病的な執着心と同化してしまっている証しだろう。
 来年度以降のOAFFが、こうした「母性のディストピア」(宇野常寛)のクリシェを再生産する「アート系」の邦画が押し寄せる場とならない事を切に祈る。時には「母」が「恋人」に置き換えられた構造の作品もあるが、ひとつ屋根の下で世界が自閉してしまう事態は変わらない。何も、社会的意識を前面に出す映画の方が上等だと言いたいのではない。例えば『ハウスメイド』で描かれたドラマの背後で、経済格差がひとつの動因として働いていたように、社会的な背景や、第三者的な他者との関係は、私的で内面的な感情の襞を描写するに際しても、それに血肉を与えるものなのだ。邦画でも、『ソラニン』のような作品にはそれが見られたではないか。

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『臍帯』

 最後に、やはりこの事に触れないわけにはいかない――。11日のそのとき、ABCホールでは『リベラシオン』が上映されていたのだが、暗闇の中、突如、会場が揺れ始めたのだ。徐々に揺れは激しくなり、背後からは物がぶつかる音も聞こえ、客席でも小さなざわめきが起こった。しばらくして揺れも収まり、そのまま上映も滞りなく続行されたが、スクリーン両端のカーテンだけはしばらく揺れ続け、地震の強さを物語っていた。当初は、壇上のゲストが、予想外の事態を和ませようと冗談を発する場面もあったが、その後、舞台裏では事の重大さが認識されたらしい。司会者から「大変な被害に遭われた方々がおられる中、不適切な発言があったかもしれず、お詫びいたします」との謝罪が為された。宮城を震源地とした、大規模な地震が起こったという説明もあり、思ったより深刻な状況らしい事が覗えた。その後のウエルカム・セレモニーでは、三人の選考委員や、コンペティション部門、特別招待作品のスタッフ、キャストらが舞台狭しと並び、一人一人挨拶を行なったのだが、地震の被害に対するお見舞いの言葉も聞かれた。
 それでもなお、筆者が事の重大さを本当に知ったのは、帰宅後にニュース映像を目にした時だった。ABCホールは免震構造を備えた建物だというが、未曾有の非常事態のさなか、「『リベラシオン』の拙さに地球が怒っているのだろう」などと呑気に揺られていた自分は全く現実から遊離していたのだと、被害状況を知るにつれて痛感させられる事になった。ABCホールの最終日には、義援金の募集も行なわれたが、日本はおろか世界中が震撼している中、一日中ホールに閉じこもって映画を観続けていた事の隔絶感は、そのまま「映画」と「現実」の間の隔絶であるかにも感じられた。
 映画界では、震災とそれに伴う災害を受けて、『唐山大地震 想い続けた32年』、『世界侵略:ロサンゼルス決戦』、『サンクタム』等、災害を想起させる映像を含む作品が公開延期となった。そうした中、特に象徴的に思えたのは、津波シーンを冒頭に含む事で上映中止となった『ヒア アフター』だ。劇中で、主人公である霊能力者のジョージが行なう霊視の殆どは、死者が生者に、死んだ自分を含めた過去への執着を断ち切るように促す言葉を伝えるものだった。当のジョージも、死者の声から逃れ、ディケンズ作品の朗読を聴く事に慰めを見出していたし、生きた朗読者本人に会いに行きさえする。その一方で彼は、親しくなった女性にその能力を告白したのを悔やみ、「時間を元に戻さないか」と提案するが、結局、二人は元の関係ではいられなくなる。冒頭の津波に遭った女性にしても、ニュースキャスターとしての地位や、かつては政治に向けられていた自らの関心事も、過去のままではいられなくなった事を痛感する。決して後戻りのできない「時間」。それを視覚的なスペクタクルとして描いたのが、津波の、押しとどめようのない流れだったのではないか。終盤でジョージは少年から、未だ自覚せざる恋心を、まるで予言のように指摘され、最後には、死者(=過去)ではなく自らの未来を幻視する。作品は、津波によって人が引き離されるシーンから始まって、未来へと流れる時間が人を引き合わせる結末を迎える。その津波シーンは、現実に起こったスマトラ島沖地震による津波がモデルだというが、発生した2004年12月から経た「時間」が映画による描写を可能にしたとも言える。その当の作品が、この度の地震による津波という「現実」の回帰によって上映が中断された事には、「映画」が現実という地盤によって支えられた脆弱なものである事を痛感せずにいられない。

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 その一方で我々は、津波で船舶や自動車が軽々と流されていく映像などを眺めながら、「まるで映画のようだ」という感想を禁じ得なかったりもする。映像を見るという経験に於いて、フィクションと現実とは互いに浸透しあう関係にある。それ故に、現実の光景としては未曾有のものであろうとも、映画を通して既にそれは見慣れた光景でもあるという矛盾に引き裂かれざるを得ない。その事は、映像に接する人間の感性にも影響を及ぼさずにはいないだろうし、何より、被災地以外の人間は、連日の報道に費やされた膨大な映像と言葉の波という形でしか、被害を知る事はないのだ。
 また、核兵器の脅威という「現実」に迫ったドキュメンタリー映画『カウントダウンZERO』も、原発の事故に配慮して公開延期となった。映画以外でも、目黒区美術館で開催予定だった企画展「原爆を視(み)る 1945-1970」も中止された。表現というものは元より、寝た子を敢えて起こすような行為なのだが、日本を一斉に支配した自粛ムードは、平時から人々が、映画なり表現なりを真剣に捉えていなかった裏返しのようにも思える。筆者自身、この状況に於いて何が適切なのか、明確な答えが未だ出せずにいる。我々はあらゆる意味で、用意ができていなかったのだ。今、その事について改めて思考する事は、震災の犠牲者を悼み、被災者を気遣う事と矛盾してはいないはずだ。再び「時間」に押し流された将来、今度は逆に、この震災を題材にした映画が撮られないとも限らないが、映画を自粛する事も、制作する事も、我々が映像といかに接するべきかに関しての、思考停止の結果として行なわれるべきではない。同時に、個々人がそれぞれの倫理に従って、或る映画を観るか否かを決定する自由も、安易に手放すべきものではないはずなのだ。
posted by 映芸編集部 at 17:14 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする