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2011年04月13日

深田晃司監督『歓待』クロスレビュー 
映芸ダイアリーズ

若木康輔(ライター)

 今回は監督がその道の筋金入りとよく分かっているので、敬意を表する意味でも(具体的なストーリーなどの解析は他の人にお任せして)、作り手の特長を過去の事例に重ね合わせるシネ・クリティック対応の短評をやってみようと思う。
 『歓待』における深田晃司の演出は、あまり調子が良くない時のブレイク・エドワーズを想起させる。
 ……あれれ。どう眺めても、けなしているようにしか読めない。難しい。そうか、知的なイメージのカッコよい固有名詞を選ばないと「想起させる」は一発で効かないのだ。使用上の注意はよく分かった。しかし“あまり調子が良くない時のブレイク・エドワーズ”とは、僕にとってはかつて荻昌弘の「月曜ロードショー」で繰り返し放送していた『ピンク・パンサー』シリーズなんかのことで。映画的記憶というものの初期に当たる。
 懐かしいブレイク・エドワーズ。子どもにはさっぱり伝わらないギャグにやたら手間と時間を割き、ほんとに面白いのか単にうまくいってないだけかすら判断がつかない、半分意識を失いながら見るのが適当なおっとりしたテンポ。映画史基準の代表作、あのオードリーとマンシーニの『ティファニーで朝食を』でさえ、長いパーティー場面はボンヤリしていてヘンだった。それでもどこか優雅な雰囲気だったのは、エドワーズが古い喜劇映画を深く愛しよく研究した人だからだ、と後で知った。
 ひとことで紹介すれば“奇妙な隣人”型のブラック・コメディに属する『歓待』には、ブレイク・エドワーズに通じる乾いた風刺とメランコリーがある。両者を一緒に表現しようとしたら、バランスはどこかしら悪くなるものだ。それでも深田やプロデュース/出演の杉野希妃らは、登場人物が弱い立場に立たされて困れば困るほどおかしい、そのさまは引いて見るほどよろしい、と明らかに確信を貫いている。
 決められた弱者がいるのではなく、誰がいつ疎外され弱者に交換されても不思議ではない。もしかしたら、はなから疎外された場で生きるのが一番の勝利なのかもしれない。高度発達社会と個人の関係をそう感じ取る敏感さがもたらす不安を、毒気のあるスッキリしない笑いという形で告発したのが1960年代の世界的なスラップスティック喜劇のブームだった。そしてブレイク・エドワーズはまさにその潮流から登場し、『ピンク・パンサー』シリーズでヒット・メーカーになった後もなおメランコリックなスッキリしなさ加減が抜けない人だった。『歓待』はその精神を受け継いでいる点で、最近では非常に珍しいタイプの日本映画である。『ざくろ屋敷』や『東京人間喜劇』から、まさか、いきなりここまで歩を進めるとは。
 “あまり調子が良くない時のブレイク・エドワーズ”を、いい意味で使っているのが分かってもらえただろうか。今、こんな贅沢で難渋な例えをさせる新人監督は世界にもそう沢山はいないだろう。なにかというと料金未払で電話を止められていた深田クンに、日本よりもヨーロッパのほうが早く目をかけている。これは凄いことだと個人的にはドキドキさせられる一方、至極当然という気もする。向こうの識者には、主人公の家庭に闖入し疑心暗鬼とトラブルとダンスを持ち込む古舘寛治の明るい暴力性が、ピーター・セラーズ、或いは『素晴らしき放浪者』のミシェル・シモンのように見えて、やはりどこか懐かしいのではないか。

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萩野亮(映画批評)

 逃げた小鳥を探すために、印刷所の小さい娘と奥さんが町の掲示板に貼り紙をつつましく貼っては立ち去るのを見届けると、逆方向へおもむろにパンしたカメラは、その張り紙を剥がし持ち去ってゆくどう見てもあやしい男を写しとる。男がそうして現れた印刷所で、冴えない主人との噛み合わないやりとりが画面手前で交わされるさなかに、同じ画面の奥で印刷作業をしていた所員が、前ぶれもなく卒倒するのを、カメラはつぶさにとらえる。――東京の荒川沿いあたりを思わせる下町の、どこかなつかしい印刷所の「平穏」がどこまでも乱されてゆく『歓待』の「歓待」ぶりは、うえに述べたふたつのショットのうちに、すでに完璧なまでに描きこまれている。ふたつのあくまで異質な出来事がひとつのショットのうちに出会う、ほかならぬその場所でフレームにおける「歓待」がなされている。その手つきはすでに政治的だと思う。
 印刷所をほそぼそと営む夫婦の平穏は、あくまで括弧つきの「平穏」でしかなく、次々に予期せぬ他者(=移民、ホームレス)を迎え入れることでそのことが否応なく露呈してしまう。ここに作家のきわめて犀利な視線がある。ドタバタのコメディを完璧に実践しながらも、このフィルムが存外どろりとした後味を残すのはそのためだ。そっくりなようで別の小鳥がかごに収まることで彼らの「平穏」も取り戻されるが、それは強烈な他者経験によって夫婦の紐帯がより強く結ばれるというような、米国製のスラプスティックがしばしば迎える古典的なハッピー・エンドを意味しているのでは微塵もなく、むしろ正確に夫婦もまた互いに他者でしかなく、括弧つきの「日常」に彼ら(=私たち)がなお進んで回帰してゆくということを鋭く突きつけている。その限りで『歓待』はきわめて現代的なフィルムであり、また日本人による日本人論としても読まれることを求めている。

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金子遊 (映像作家・脚本家) 
 
 深田晃司監督の『歓待』は、文字通り、外国人移民とそれを受け入れる日本人家族の「歓待」をめぐる物語である。
 ジャック・デリダを引用するまでもなく、たとえば、グルジアやチェチェンが属するカフカース地方には「絶対的な歓待」と呼ばれる、客人歓待の伝統がある。歓待する主人と客人が互いの名前を聞いてはいけなかったり、主人が家財を売り払ってでも客を招いたり、仇敵であっても客であれば迎え入れるといった極端な性質があるのだ。
 日本においても主人が「歓待」を欲望することは同じなのか、映画『歓待』において印刷工場の社長である夫は、若い妻が嫌がるのにもかかわらず、よく知らない他者の男を家に住み込み工員として受け入れる。家の主人(父や夫)は無意識ながら、自分の所属する共同体や家での権力を獲得するために、客を歓待することを欲望するものなのだ。
 他者を客として受け入れるときに問われるのが、家や家族の構造である。映画『歓待』に見られるように、出もどりの妹がいたり、前妻の娘を若い妻に面倒を見させていたりする込み入った家族の構造や、それが抱える問題が、他者の存在によって顕在化される。このことによって生ずる心のすれ違いや軋轢が、この映画の物語を駆動する原理となっている。
 同時に「歓待」には絶対的な贈与という、不可思議な性質がついてまわるものだ。この映画でも見られるように、主人は他者の男や金髪の妻、そして不法移民たちを無条件で受け入れ、ときには自分の妹や妻をも「道具」に使って他者をもてなす。若い妻の隠しごとが他者の男によって利用されたり、留学志望の妹がハンサムな外国人とできてしまったり、ということがそれに当たる。歓待においては、主人はそれを客人が思うがままにさせておかなくてはならないのだ。
 やさしくて繊細な日本人の一般家庭が、少々野蛮ともいえる来訪者や外国人を受け入れるときに、どのような反応を示すのか。この映画は、他者を家に迎え入れる「歓待」という特別な力とルールが生起する場面を使って、それを緻密に考察している。外国人の移民であろうが、政治的な難民であろうが、自然災害を受けた被災者であろうが、無条件の絶対的な歓待というものをこの島国に生きる人々が本当に実行することができるのかなどど、そんなことも考えさせられるのである。

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千浦 僚(映画感想家)

拝啓、深田くんへ。
 映画『歓待』の評を書いて、それが合評ふうに載るということなんだそうですが、どう書いていいかわからず、お手紙というか、めちゃ盛ったメールとして書かせていただきます。
 多分僕らの初対面は映画美学校映画祭であなたの作品『椅子』上映時。僕が映写係。でも、あれは退屈だったなあ。すいません。型が先行しすぎてて語られるものが少なかった気がした。でも百分ガッツリ撮るガッツと、登場人物がバルザックだのメルヴィルだのと言ってるのは、妙におさまりのいい器用な短編よりも突破の可能性あるとも思った。ほんのちょっとだけね。
 だから、絵画構成と音声だけでバルザック短編を映画にする、と言ってその頃まだ京橋だった映画美学校地下のMA室に日参する深田くんを見ても、さあどうなるか、と半信半疑。でも、その半分の疑念は気持ちよく裏切られた。『ざくろ屋敷』は傑作でした。ちゃんと演出の方向性があるひとだとわかった。
 そのあと映画芸術のウェブに記事書くグループに誘われて、来たら深田くんもいた、という。そこで、まあ年に数えるほどではあるけれど飲みの席とかがあって話もするようになる、と。僕はさぼってあまり書かなかった(ゆえに「卒業」です)が、あなたはバイト、自作の撮影、「青年団」のこと、と多忙そうながら映画評を書き、さらに、映画界の労働状況を考えるレポート、論を世に問うた。頭がさがります。
 つくった映画『東京人間喜劇』もよろしかった。人間観察と描写の意地悪さがなかなかのもの。しかも本人はそう意地悪とも思っていないらしいのが、またイイ。あなたは、ナチュラル・ボーン・辛辣、だって。
 そして『歓待』ですが、もうこれは立派。画面的なこと、映画史的なことに関してはいいことを書いてくれるひとがいそうなので、そうでないところを話題にします。えーと。こないだたまたまケーブル系の放映でビリー・ワイルダーの『ねえ!キスしてよ』を見直したんですが、すっかり忘れていたんでもうこれは初めて観るも同然だった。どう展開してどうオチるかは観ていて思い出してくるけれど、どうもクロソウスキーの「歓待の掟」をアメリカンコーヒーくらいに薄めてやってるんだコレ、というのには初めて気づいた。そこで際立つのはヨーロピアンながちんこカソリック、ゆえに自由思想バクハツ!とはことごとく違う、アメリカンなピューリタニズムが商業主義にいじられてしとどに濡れる、というあたり。なんつーこと書いてるんだ。どーもすいません。あらすじ語れば、田舎町の作曲家志望の男が偶然その町に来た人気歌手ディーン・マーチンに自作曲を売り込むために、女好きで知られる彼に妻を提供する、とはいえそれらは悪友のそそのかし、お膳立て、作曲男は愛妻家で、奥さんを実家に帰して町外れの酒場のネエちゃんを提供用の一夜妻に雇いいれる……。というのがワイルダー&I・A・L・ダイアモンドのいつものひねり・アンド・ツイストで、ディーン・マーチンは奥さんと、作曲男は酒場ネエちゃんと、その夜はそういうことになってしまう。それがこれだけ物語として引っ張れるのはやはりアメリカ人の表向き一般常識モラルがそういうことに抵抗する粘度を持っている、ということでげしょう。ちょっと脱線しますが近年熟年ラブロマコメみたいなのでハズレのないナンシー・マイヤーズの『恋するベーカリー』を観た時にも、フランス映画やらに比べて恋愛を享受できないアメリカ人というものが、その了見の狭さ、堅さを前面に押し立ててくるとこれは逆に物語になるなあ、と思いました。さて。『歓待』はどうか。そこでむき出される日本人の性生活、夫婦観は!? 不倫フリンとそれを日常の言葉としながらそのリンが倫理のリンだとは誰も思っていないのではないかしら。たいてい宗教のバックボーンがないゆえに、地獄落ちをおそれて身を律するでもなく、明確にアンチで過激に走るのでもなく、曖昧に、狭い人間関係やら、夫婦でも気遣いして気疲れるような事態もあったり、そこから逃避として浮気、でも相手は日常生活圏内、ちょっとだけ世界を拡大すべく夫婦交換めいたこととかになっちゃう、それが日本流ではないでしょうか。イヤねえ、そんな浮気……。何言ってんの、そこがイイんじゃない! その、あわわわ、つい浮気してもうたー、というような日本的美徳をこれからの国際関係や生き方全般に活かしていこうよ、というのがこの映画『歓待』であったと思います。それはまた、ブラジル人と説明されるコーカソイドの外見の妻を連れたあの闖入者の仕掛けがあってこそ、ですが。一軒の家にどんどん人が増えていくのだけれど、そのこと自体の見た目が無性に、無償に、ただ楽しくもある。魅力ある俳優陣の個々の存在、演技が、いい米をうまく炊いたときのように立っているんで、反リアリズムとかコンセプチュアルが、いやみなくふっくらとし、口に含んでパラリとほどけ、噛めばかむほど味わい深く栄養もある。だから、傷つくことがあったとしても開いていくべきなのだ、と伝わってくる。
 あれ、石原慎太郎に入れるなー!っていう字幕は、出なかったか。出てもおかしくない気はしたが……
 ともあれ、深田くん、そういう映画だと思って観ましたよ。楽しみました。面白い映画をありがとう。多くのひとに観られてほしいです。では、また〜。
千浦


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『歓待』
監督・脚本・編集:深田晃司 
芸術監督:平田オリザ プロデューサー:杉野希妃
出演:山内健司 杉野希妃 古舘寛治 ブライアリー・ロング オノエリコ 兵藤公美
配給:和エンタテインメント
2010年/日本/96分/HDCAM/
(C)2010「歓待」製作委員会

4月23日よりヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国ロードショー
公式サイト http://kantai-hospitalite.com/



posted by 映芸編集部 at 14:18 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする