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2011年04月28日

『美しい術』
大江崇允(監督) 土田愛恵(主演)インタビュー

 6月3日(金)、映芸シネマテークvol.9上映作品が『適切な距離』(11)に決まった。2月21〜27日まで開催された第7回CO2映画祭グランプリの大阪市長賞受賞作である。
 監督は大江崇允。戸田彬弘(監督作『夕暮れ』[09])と二人で映画製作団体「チーズfilm」として大阪・奈良を中心に活動している。CO2映画祭授賞式翌日、こまばアゴラ映画祭にて前作『美しい術』が上映され、大江監督も舞台挨拶のため駆けつけた。
 公務員である自分に馴染めない女と、就職活動をはじめた女。二人の女性の内面的な葛藤と単調な日々を描いた作品であるが、主演女優の存在感を引き立たせる演出が目を引く。映画監督として活動をはじめるまでの経緯、製作の「チーズfilm」とはどのような団体なのか、また『美しい術』の演出について上映後に大江監督、主演女優の土田愛恵の両氏からお話を伺った。映芸シネマテークにて上映される『適切な距離』への思いも聞くことができた。
(取材・構成:中山洋孝)

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『適切な距離』

【チーズfilmについて】

――大江さん、土田さんのお二人ともチーズfilmのかたということで……。


大江 いえ、正確には僕と戸田(彬弘)の二人です。ほかは一応作品ごとに集めてやっているんで違います。でもいつも集まってくれるメンバーといえるかもしれません。それに若干戸田の組とはメンバーが違います。

――チーズfilmの大江さんと戸田さん、そして度々チーズfilmの作品に出演されている土田さんの出会われたきっかけは何でしょうか。

土田 もともと大学の先輩後輩です。先輩の公演を一緒に見に行ったりとか、稽古を見学にいくことも多くて、共演もしましたね。

大江 彼女は戸田の監督した『ヒメオト』(06)から主演をしていて、それに僕も出演したのが三人の出会ったきっかけです。『美しい術』は最初から彼女を主演にしようという意識があったわけではなく、オーディションに来てくれた中で一番良かったし、見てたら選ばざるをえないという、それだけです。
 僕は戸田の処女作(『失われた時を求めて』[04])から『花の袋』(08)までの四作品には全部出演してるんですよ。戸田とは俳優としてたまに授業公演とかで出ているのを見たり、僕のいた劇団(旧劇団スカイフィッシュ)では出演してもらったりとか、映像を撮ってくれたりとかしてて。劇団をやめた頃、戸田の『花の袋』に、この映画は面白い構成になるんじゃないかといろいろ口を出しているうちに、一回映画に本気で関わってみたいなと。プロデューサーというポジションで、戸田と作る側として一緒にやったのが最初の映画との出会いで。一年くらい経って撮影の終わったか、終わりかけくらい、それか始めたときからか「ここで学んだことで映画を撮ってやろう」という意識があった気がします。

――演劇から映画へ入られ、『美しい術』を撮る経緯をお聞きできればと思います。先ほど『美しい術』上映後のトークでは「旧劇団スカイフィッシュ」に所属されていたとのことですね。

大江 はい。ちょうど『花の袋』に関わる直前に自分が劇団に埋没して停滞しているというのが論理的にじゃなく、感触としてあって。とりあえずいまある場から距離を置きたくなったんですね。旗揚げからやっているひとりとして、劇団に所属しているポジションを含め、ずっと同じ場所でやり続けることに窮屈感を覚えてしまっていて。
 03年に旧劇団スカイフィッシュを立ち上げたときは、役割分担とか曖昧なまま組織化することはできないものかなと思っていたんです。あえて組織化しない柔軟な組織というか。この劇団自体、作・演出をする人間が三人(大江、小嶋一郎、菊池開人)いて、その三人で一つのものをつくれないかという試みでした。異質なものをもっている三人が異質なままでいられないのかなっていうのがあって、交じり合いたくなかったんですね。それがいつの間にか台本・演出とかの役割がはっきりと分かれるようになってきて、劇団として前を向き始めたんです。5年後、10年後にまだ演劇をやれている状況をおそらく考え始めたんだなと……会議で話したことは一回も無いんですけど。僕は劇団の将来的なスパンを、どういうふうに売れていこうかとか、策を練るのがかなり苦手です。演劇というよりも組織から逃げたかったんですね。

――旧劇団スカイフィッシュで大江さんはどういったことをされたかったのでしょうか?

大江 最初、暴れたかったんだと思うんですね。僕はある種の暴力衝動みたいなので、創作をしていて。モノをつくっている人間は暴力衝動か性欲か、どっちかがスタートになってるんじゃないかなあと当時思っていました。

――破壊衝動ともいえるのでしょうか。

大江 暴れたいし、壊したい。「壊す」っていうのは演劇的な構造を壊すというのも含めての「壊す」。既存の何かを疑うってことをやりたかったんですよ。「演劇ってこうだろ?」といわれたら「本当にそうか?」。それは『美しい術』を撮っているときも考えていたことです。「なんでカット割らなきゃいけないんだ」「なんでここにカメラ置かなきゃいけないんだ」「カットバックで見せなきゃいけないのか」といいながら撮りました。既存の何かはあっても、本当にそうなのかはやってみなきゃわからない。
 ニュートラルな状態に戻したいという欲求なのかもしれません。ものを壊すって更地に戻したいという気持ちと同じだと思います。いままで歴史とか積み重ねてきたものが本当はどこから始まってるんだろうか。演劇にしろ、映画にしろ、人が生まれた理由にしろ、始まりというものに戻りたくなる。

――劇団が組織として活動し始めたことに違和感を覚えられたようですが、映画をつくるうえでも役割分担は生まれます。大江さんの作品やクレジットを眺めても、映画の構造自体を破壊しようというものは感じられません。映画を撮ろうとされるうえで、創作意欲の変化があったのではないでしょうか?

大江 いや……、無いですね。役割分担とは言っても、結局のところ作品として混じってない。戸田の撮る映画は僕には撮れないし、僕の撮ってる映画はおそらく戸田には撮れない。色分けがされてる、それは結構居心地が良くて。二つの異物が別々に活動して、だけど影響しあって成長している感じが理想だといまは思っています。
 いま思えばスカイフィッシュの頃集まっていた三人は似たもの同士なんですね。根本的に感性の部分で近しいものがあって。僕が映画をやってから一人は就職して、働きながら本だけ書いている(菊池開人)。もう一人は演出家として賞をとりはじめている(小嶋一郎)。三人バラバラにフィールドが変わってから、この一年二年、一旧友として話してると「相当おまえの考えてることわかる」ってなるわけです。「面白いこと言うよな!」って。彼ら二人の言うことは僕にとって物凄く刺激的であったり、ごく近しい何かを感じる。これがもしかしたら上手くいかなかった原因なんじゃないかと思うわけです。似てるから居心地が悪かった。夫婦に近いのかな。そういう意味で役割分担が嫌だったのかもしれなくて。結局、役割分担で作品が滞るのが嫌なんですよ。ひとつの劇団として色がついたら、同じことをやるじゃないですか。戸田と話していてもこの感じは無いんです。お互いの考えてることはまだわかんないし。 時々でもまだそういう暴力衝動は起きますね。今ある自分が積み重ねてきたものを急に全部捨てたい。無性に仲の良い友人と決別したい、とか。悪く言えば自分勝手に、ひとりになりたい。

【暗転について】

――ファーストカットが黒画面で、心の声から入るというのが最も印象的でした。波の音を背景に土田さんが台詞を読み上げていると、急に「ハッ」という声で横断歩道が映されます。でも通行人が何人かいて、カメラも引いているのでどこに土田さんがいるのか一瞬わからない。顔もよくわからない。「眼を閉じる」という声で再び黒画面になり、彼女の声が響きます。雑踏で人にぶつかる土田さんが映され、彼女は振り返り、ここで初めて顔がわかります。彼女は「耳を閉じる」と言います。「耳を閉じる」という演劇でもどのように表現するべきかわからない言葉で再度黒画面が入り、物音も消えます。非常に慎重な始まり方であり、そこに処女作を撮る上での決意のようなものを感じます。


大江 筋が途中まで頭のなかでできていたあたりで、どうやったらお客さんが一番注目する始まり方ができるかなと考えたんですね。
 テレビの影響って強いと当時思っていて。何かが行われているのを眼から情報として捉えるとき、その姿勢は前のめりではなく、どちらかというと椅子にもたれかかっているような受動的な感じになってしまう。僕らの日常にテレビやら映画やらヴィジュアル的なものがあまりに溢れかえっていて、パッパッパッと切り替わる映像なんてみんな見慣れて馬鹿になっている。前のめりにならず引いてても何かわかるように、クリエイターに先導してもらいたい意識が観客は強いんじゃないか。  
 それなら音から始まったらどうなるんだろう。画面はブラックなのに急に「わたしは犬だ」って声だけしたら「ん?」って。「手を伸ばす」という声は聞こえてくる。でも手なんか映ってない。そうするとお客さんは想像せざるを得なくなるんじゃないか。そうしないと前に進めないような状態をつくりたい。  
 あと演劇やってた頃は暗転に対して物凄い魅力を、特に暗転から始まるのが凄く気になっていて。ブラックで音のみから始まる。そういうのに本能的にひきつけられているのかもしれないんですね。  つくった09年は一年間、まったく評価されなかったわけですよ。10年になってようやく認めていただけるかたがチラホラ出てき始めたわけで。09年は大阪の専門学校とか一応いろんなところでやらしていただいて、先生は気に入ってくれたんですけど、反応は鈍くて。その鈍い観客を見ていたときに、関係ないことなんですが、ふと映画って光を見ているんだ、映画は黒の光を放っている、これを見ている観客がいる。ブラックの光なんてありえない、それって面白いと。当たり前のことなんですけど、一番無視されてた頃に思いましたね。演劇の頃から思ってたんですよ、ブラックの照明をつくれないかなって。ブラックの光に何かしら個人的な思いがあるんです。

【彼女の意思と社会の意思とのずれ】

――黒画面で心の声が読み上げられるオープニングから、この映画に出てくる女性たちは自分の内面と行動をうまく一致できません。『美しい術』というタイトルではありますが、彼女達はなかなか「術」というものを身につけられない。この点で大江さんが演劇で考えられていた暴力衝動と結びつくのかもしれません。


大江 人間は自分の意思とは関係ない世界に生きてるんじゃないかと思います。自分がこうなりたい、じゃなく変わっていったり、どんなに泣いてても空は晴れていたりする。最初に彼女が眼を閉じて自分の自由に歩こうとするけれど、どうしても誰かにぶつかって妨げられることで、彼女の意思と社会の意思のずれ、この映画全体を象徴することができるんじゃないかと。  
 ラストで彼女たちはビールを飲めるようになる。あれは自分でも本当面白いアイデアだなあと思っていたんですけど、ビール飲めるようになる瞬間って、急じゃないですか。なんでいきなり飲めるようになったんだろう。あれ結構衝撃で。

――大人になるということですか?

大江 でも大人になるだけが原因か? これって意思と全く関係ないわけですよ。こういうある種の無常観って、僕の中にあって。人間には絶対付きまとっている。思い通りにやりたい人たちが、子どもな人たちが、子どもを貫き通そうとして苦労している人たちが、変わりたいのに変われない、変わりたくないのに変わっちゃう、どうでもいいけど変わってしまう……。変化のバリエーションをたくさん入れたつもりなんですね。  
 社会とのズレという点なんですけど、ニートと公務員で働いている人の差ってなんなのって思っていて。ニートって昔から当たり前にいたと思うんですけど、国が将来的にいま働かないひとを働かせたところで社会がうまく回転するかといえば、しないと思う。結局心の問題なわけで。心が停滞している。心の部分の停滞で、主人公二人は共通している。隣の芝生は青いじゃないですけど公務員の彼女に対し憧れがあるし、公務員の彼女は絵の才能のある彼女に憧れがある。お互いがお互いの良い部分をほしがっていて、そこであがいてしまっている感じを滑稽に描きたかった。

土田 大江さんのオーディションを受けたときに脚本の話を最初にされたんですよ。「演技していただく前にこの本の分析をします」と。人物相関図をつくって説明されて「どう思いますか?」「ちゃんと頭に入りましたね?」というのを経てから始まったんです。そのとき「この女の子は二人で一つなんじゃないですか?」と私が答えたら「そうだよ」とおっしゃってくれて。この二人は、二人で一つ。ただそのプラスの部分とマイナスの部分が、細胞が分かれちゃって二人になっただけで。だからこの作品を見てて、大江さんが撮りたいもの、凄いネガティブな人たちだけど何かが同じなんですよね。最後、同一人物に見えてきて。

大江 初稿を書き始めたときは公務員の女の子一人の話だったんですよ。それが戸田のアドバイスだったかな、無職だろうと公務員だろうと内面で抱えている停滞は同じ、という話をしたいと言ったら、「だったら二人にわけちゃえばいいんじゃないの?」と。でも僕のなかでやっぱり一つだったから、最終的に二人は電話を通じてリンクするわけです。森衣里は電話しながら海に入って「変わりたい、変わりたい」って叫んで熱くなったことで、感情的に昇華されるわけじゃないですか。彼女(土田)何もしてないんですよ。でも「変わりたいね」って電話で応えることで、いつの間にか寄り添った気分になって昇華されるわけですよ。何も変わってないくせに。無茶苦茶なんだけど、映画的に見ればちゃんと二人が終わってる。

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『美しい術』

【「ゼロ」を探しにいく映画】

――この映画では森衣里さんが上司に認められ、土田さんが就職することで、彼女たちの意思と社会の意思のずれは、やや調和がとれたかたちで終わります。しかし上司に認められる様子は描かれますが、「就職できた」というのは土田さんの台詞で語られるのみです。穿った見方をすれば彼女は「就職できた」と嘘をついたのかもしれない。この二人の内面と行動が合致できない不安定さは、実のところ全く解消されてないように思えます。しかもこの二つの変化はクライマックスではなく、先ほどの森衣里さんが海へ、土田さんが学校へ行き、互いに電話で受け答えをするシーン、更にビールを飲めるようになるシーンとつづき、着地点がどこまでも先送りにされていく印象を受けます。黒画面ではじまるオープニング以上に、慎重さを感じさせるエンディングです。


大江 撮影の最初の段階から言っていたことで、非常に捻くれた言い方になるんですけど、この映画はプラスマイナスゼロの映画なんだと。プラス10の映画は凄く幸せになれるもの。マイナス10の映画は凄く不幸なもの。でも、この映画は最初から最後までゼロを突き通す映画にしようと。それは僕が原点を探していると言ったのと近くて。ゼロの状態は、ブラックの状態に憧れたのと近いのかもしれないです。

――ゼロとは何も無いということですか?

大江 「何も無い」状況は存在しないんですよ。矛盾ですし。でも当時から「10を期待して見ないでくれ」と思っていて。これはゼロの映画なんだからちょっと違う見方をして欲しいなあって。

――答えを探さないでくれと?

大江 答えを探さないでくれに近いし、そういう映画無かったのかな? あれば探せる気がするんですけど。僕の言葉で言うとゼロを探しにいった映画で。わざと二人はスタートからゴールまで何も変わらない。凄く高度なことをやってんじゃないかと思うんだけど。
 いまあるものをいまあるまま見たい。それはゼロだと思っていて。無情の世界なわけですよ。自分がどれだけ情に流されて浮き沈みしたところで、結局ビール飲めるようになったりするわけですし。自分でコントロールできない自分が世界にいるわけで。浮き沈みが無いのに浮き沈みがあるって思うのが人生なんだと思っていて。  
 彼女たちは母校が廃校になることで、自分らが積み重ねて存在していたはずの歴史というのがなくなっちゃってるんですよ。思い出は消えない。だけど彼女(土田)は凄い滑稽なことですけど、制服なんか着ちゃったりして、誘われてた同窓会じゃなく、誰もいない学校へいくんです。そこで物質的なゼロを体感する。

土田 「絶対」は無いと私は思っていて。あるべきものが無くなってしまう。学校という絶対的な物が廃校になり、それを目の当たりにする。そこで「絶対」なんて無い事を知るのかなと思いました。絶対なんかない、だからこの映画はゼロなんだ。絶対ってものが何もないという更地をこの映画であらわしたのかなと。

大江 ゼロになることは滑稽なことだと思う。でもゼロをやりたいと同時に、映画で描きたいのは「可能性」だと思っています。可能性が一番のハッピーエンドなんだと。変わったっていう可能性が彼女たちにとって最高のエンディングなんじゃないのと。ゼロであると言えながら、可能性でもある結末を探したとも言える。納得されないかたはいらっしゃったと聞いていますが。

――フレームからあえて身体が半分外れたり、足や手だけしか映さないカットが多いですね。

大江 フレームの外は見えてないけど、お客さんは見ているかもしれない。僕はいつも意地悪なように言うんですけど、映画って何を撮るかじゃなくて、何を撮らなかったじゃないかと。たくさんの撮らなかった画、そこには撮れるけど撮らなかったものもあれば、撮れないから撮らなかったものもある。シーンとシーンの間にどんだけ時間を飛ばすのかもある。ここをおろそかにしたら負けなんじゃないか。僕は何を映さなかったかを重視してる。一番の理想を言うと、絶対に映画では撮ることのできないもの、人間の内面とかを「撮らない」という行為で撮ることはできないかなと。究極の理想ばかり僕は言うんですよ。そこに向かおうとして挫折していくって過程なんですよ、僕にとって創作は……。

――二人の暮らしている家ですが、公務員女性の部屋にしては妙にボロボロですよね。

大江 「心がボロボロということなんだ」と言い張ってますけど、実際はあそこしかなかったんです。僕は基本的にモノ探しとか嫌なんで。サッと決めちゃいたい……。でも普通にあれは映画全体を象徴できているし、あれで良いかなと。

――実はこの映画はかなりの低予算だと耳にしました。失礼な質問かもしれませんが、どの程度かかりましたか。

大江 45万円です。

――さらに失礼な質問かもしれませんが……ギャラは発生しましたか?

大江 無いです。公開の目処とかは、これまでの戸田の作品をシネ・ヌーヴォで上映してもらったりしてたんで何となくありましたけど、45万回収するのって結構しんどくて。実際ちょっとアカにはなった。低予算かわかりませんが、この予算が僕の限界でした。

――戸田さんの場合はどの程度の規模なのでしょうか。

土田 『花の袋』は120万円くらい。いくらかみんなから集めて、終ってからいくらか返してもらいました。みんなやりたいからやる団体なんです。

大江 昨年公開した『夕暮れ』は戸田の故郷の奈良から助成金も頂いて250万(?)ぐらいで撮りました。

【稽古について】

――彼女は「やさしい」と言われ続けますが、それは「優しい」ではなく「易しい」ということだと応えるシーンがあります。夏目漱石の「今夜の月は美しい」という言葉が二度使われますが、これが愛の告白として相手に通じない。言葉の行き違いがこの映画でたびたび生じています。「共通言語の無さ」と言っていい事態かもしれません。そこに先ほどから繰り返されている、ニュートラルな状態になるという大江さんの発言が反映されているように思えます。


土田 「易しい」の話はあの時期大江さんから何度も聞いた話で。友達なので恋愛の話もするじゃないですか。「やさしい人と付き合いたい」って言ったら、「その『やさしい』は『易しい』でしょ」って。大江さんはいろいろリサーチしてるんだと思います。

――主人公の彼女たち二人に比べて、戸田さんや上司、土田さんの不倫相手などの男性陣は、ややぼかして描いていると思います。

大江 いや、ぼかそうとはしてないです。単純に女性二人主人公が居て、そこに焦点をあてたとき、どうしても三番目四番目の割合が落ちちゃう。
 ただ女の人って、男に比べて矛盾いっぱい抱えてると思うんですよ。生理なんて矛盾そのものじゃないですか。関係ないやん、こいつの人生と(笑)。感情にも縛られやすい印象を受けますしね。感情移入して泣くとか、矛盾ですよ。そこが単純に面白いなと思って。自分の意思と関係なく左右されるってなると男よりも女のほうが描きやすいと思った部分はありましたし。女性像を描くときはいまも絶対的な矛盾をこめたいなと。だから男性を差し置いてでも女性に焦点を当てました。

――土田さんが郵便ポストに向かって話しかける場面など、彼女たちの一人芝居のように撮っているシーンが多く感じられました。そのため男性陣の印象を薄く感じてしまったのかもしれません。演出のうえで土田さんが記憶に残っていることはありますか?

土田 いえ、無いです。なにも大江さんは言わないので。やりやすかったんです、演技の面でのストレスは少なくて。
 さっき共通言語が無いって話がありましたけど、わたしは絶対的に大江さんと喋れる言葉を持ってると思ってて。大江監督が私に「こういうふうにして」という言葉はきちんとキャッチできると思って演技をしてたんですね。だから監督と私の間に共通言語があると思ってたんですよ。だから信頼関係が築けてた。「シュッとして」と言われたら、大江さんの言う「シュッと」ができると思う。だから別にあのシーンが難しいとか、どうしようというよりも、自然の流れで演じた感じがして。  
 脚本の段階で、あるシーンの台詞がひとつ決まってなくて。稽古でそのシーンをとりあえずやってみたんですけど、演じてて悲しくなって泣いたら「じゃあそれにしよう」。だからそこが泣くシーンになったので撮影ではちょっと緊張したんですけど。でも特に演技の何をつくるとか、そういうことの指導は無かったですし、難しいとかも無かったですね。しかも役と結構近かったんですよ。近いっていうか理解できる部分が多くって。自分のなかでは一本筋が通ってるんですね。でも他者から見るとコロコロ言うことが変わってよくわからないとか、そういうことが普段でも多いんで。

大江 身体のなかに入ってたんじゃないですかね。「変わる」「変わらない」「変われない」が身体のなかで共存してるから、人の言葉が来たら体が勝手に反応して、左右されてぶれてしまう。でもぶれないようにしようって意思もあって。そういうのが全部身体から出てたのかなあ。

――稽古の期間を長く設けていると聞きます。

大江 毎日じゃないんですけど、二ヶ月ぐらいやってたと思います。身体に何か入っていく感じは欲しいと思っていて。その期間は稽古というよりはディスカッションもしたし、世間話もしたりしたし。俳優は監督に対しコミュニケーションを求めている部分があると思っているので、稽古もしつつ、俳優のそういう部分と接する時間にしてました。稽古でどうしようというよりも、こいつがどういう俳優なのか、それぞれのスタンスを見極める。人に言われたことをやるほうが得意な人もいれば、人から言われたアイデアだとうまくできない人もいるし、その人の演じ方は話してるうちに大体わかってくる。

土田 いまの私は信用できないと演技できないと思っていて。(こまばアゴラ映画祭で)「演技について考える」ディスカッションがあったじゃないですか。そのとき皆さん俳優と稽古しないのかな、俳優とどれくらい連絡とりあっているのかなって凄い気になって。稽古の時間は、演技の稽古も勿論ですけど、監督と自分を愛し合う時間だと思うんですよ。愛さないとできないんです。日常で彼と付き合ったらセックスするのと同じで、もう裸にならないとできないんですね、嫌な部分も見せないと。だから全部をさらけだすには時間が要るので、ちゃんと毎日あって、連絡をとりあって、お互いを理解することで、やっと裸になれる。監督に何してって言われてもできる。信頼関係がないとできない。だからその時間があって良かったと思います。

大江 違うひともいますけどね。俳優によっては真逆のひともいますし。

――それはやはり演劇から学んだことなのでしょうか。もしかするといまのほうが劇団らしい活動をされているのではないでしょうか。

大江 僕は俳優としていろんな現場をまわることが多くて、何人かの演出を見て思ったことなんですけど、俳優って記号化されたくはないし、自分もクリエイティブなことに参加してる実感がほしい。でも本人にそういうつもりがなくても、俳優からしたら記号化させられてるような気がする演出家もいらしたりして、そういう人と一緒にやれないわけじゃないですけど、自分の一部分しか勝負できない。僕はそれをストレスと感じるんです。だからそうはならないよう俳優とやりたいと思っていて。最近稽古しすぎかと思ってますが、自分が俳優のとき稽古大嫌いだけど、演出するとなったらどうしてもしちゃう。

――第二作の『適切な距離』ではどれくらいかかりましたか。

大江 二週間。一日8時間くらいやってたんで、実質『美しい術』と同じくらいやってるんですけど。本当は二ヶ月ゆっくりやりたかったんですけど、CO2って映画祭は締め切りがあるから四ヶ月で脚本から編集まで終えなくちゃいけない。厳しいものがあったんで、やりやすくはしてみたんですけど。でも二ヶ月は稽古というよりも話す時間のために長くしたいんです。一緒に遊びに行ったりしたらいいんじゃないかなって。

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『適切な距離』

【コンビで活動する意義】

――ちなみに同じチーズfilmの戸田さんも同じように稽古の時間を設けられるのでしょうか?

土田 個人的な意見としては、大江と戸田はまったく別物ぐらいの違いは感じます。戸田さんは無茶苦茶稽古するんですよ。役者がもっとうまくできれば必要ないのかもしれないんですけど、戸田監督がわたしを信用できないから信用したくて稽古するのかなと最近思っていて。まだ私らが60点だから100点までいかなきゃと。戸田監督の理想に近づくための稽古。なので期間は長いですし、細かいです。

大江 彼は凄く責任感が強いわけですよ。僕は結構楽観的に全員を責任者にしちゃえというタイプなんですけど、彼は自分が責任者だから、責任とるためにはどうしたらいいんだろうと考えるタイプだと思います。誠実に映画を撮るところには本当頭が下がります。

――お二人が一緒に活動されているメリットはどのような点に最も感じられますか?

大江 僕は彼が異物として刺激にならないと困るというのがあります。「それはちがう」と互いに譲れないものもあるだろうし。自分の中の凝り固まった部分がニュートラルになるっていうか。同じタイプの人だったら一緒にやる必要は無い。
 あと単純に彼は集客ができる。自分には撮れないエンターテイメント性の高い映画を撮って欲しいと思っているし、彼はそっちのほうが得意だから。彼が一般に名前を広げてくれれば、こっちも仕事ができる(笑)。僕は、彼とは違うジャンルのひとに名前を広げていく役割をしてるのかなと思います。今回のこまばアゴラ映画祭に呼ばれるというのもその一つで、戸田とはちょっと違う土壌のひとと知り合う機会を増やす。  
 僕はやっぱり一人の力を信用してないんですよ。個人でしかできない活動は別ですよ、でも映画や演劇の場合、集団でしかできないし、そこで一人でやっていくのは限界があるんじゃないかと思う。いま二人でやってることがいつの日か破綻するかもしれませんが、それまでは何かしら、自己アピールという部分でも異物がいるほうが良いんじゃないかなと。そのほうが背中押してくれる感じがするし。

土田 関わったスタッフやキャストはみんな「チーズfilmは大江・戸田コンビじゃないと駄目だね」って言ってます。戸田は戸田で頭が先行なんで、感情でものを言うし、分析型なんで言葉もどんどん飛んでくるんですよ。でも大江さんがいると中和されて。たとえば戸田の言葉で理解できなくても大江の言葉で理解できたり、二人が違う分、理解できるんですね。だからみんなやりやすい。『美しい術』のときも、戸田さんの意見を聞いたほうが一瞬でわかることがあるし。

――ちなみに普段から映画はご覧になられるんですか?

大江 見ないほうだと、言ってます。全然見たこと無い監督の名前ばっかり飛び交いますよね。シネフィルと呼ばれる方々と話してると、映画に対し敬意のある人達だと思います。

――結局、映画に関わる一番のきっかけは戸田さんになるんですか?

大江 いや、映画やりたかったんですよ。演劇やる前から。テレビドラマ好きだったんですよ。その延長なんですよ。いまはもう日本の映画は観なくなり始めてますけど……。でもアゴラ映画祭で見た作品はどれも面白かったです。

――『適切な距離』を撮るにあたって、自分の中で変化しようとした部分、変化した部分などありますか?

土田 単純に洗練されたし、凄いなと思いました。あと役者がみんな上手かった。それは本当に思いました。

大江 『美しい術』のゼロを探すってのは裏技なわけですよ。もう二回三回はできない。だったら物語を描こう。「映画ってなんだろう」って漠然とした疑問から「物語ってなんだろう」、フィクションの可能性について考えるようになりました。
 これ(『適切な距離』)終わってから、ああ、僕は命の剣を振りかざしてしか映画を撮れないんだと思いまして。一回こけたらもう引退だと。こけるってのは観客動員ではなく、自分のなかで「これは終わったな」っていうことです。CO2では大賞を取りにいきたかったんですよ。シネドライブで『美しい術』は監督賞をいただいたんですけど、大賞じゃないわけですよ。結局何か足りないわけで。CO2の場合は何も賞をとれなかったらやめようと思ってた。もう働こうって。  
 次も自分が100%で挑める映画を撮りたいと思います。


【プロフィール】

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大江崇允:1981年、大阪府出身。20歳の時、近畿大学商経学部より芸術学科演劇芸能専攻へ転部し、舞台芸術を始める。在学中に大橋也寸よりルコックシステムを学ぶ。03年、旧劇団スカイフィッシュを旗揚げ。07年より「チーズfilm」に参加。09年『美しい術』で初監督し、翌年のCINEDRIVE2010にて監督賞を受賞。11年第二作『適切な距離』で第7回CO2映画祭大阪市長賞(グランプリ)を受賞。
チーズfilm公式サイト http://cheesefilm.com/

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土田愛恵:兵庫県出身。女優。舞台出演としてプラズマみかん「遠い音楽」(06 ロクソドンタフェスティバル象印賞受賞)、近畿大学卒業舞踊公演「TURN」(08 創作・出演)。映画ではチーズfilm作品『花の袋』『美しい術』『夕暮れ』(09 戸田彬弘)、佐藤央監督『ミッシング』(10)など出演。ほか「キッズキッチンにおいでよ!」(10 eo光チャンネル)にてレポーター、World of SPY「恋都」PV(10 戸田彬弘)に出演。
ブログ「ココロノキオク」 http://ameblo.jp/akie22/


【告知:映芸シネマテーク vol.9】
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『適切な距離』

監督・脚本・編集:大江崇允 プロデューサー:戸田彬弘 原作:菊池開人 
音楽:石塚玲依 撮影監督:三浦大輔 撮影:櫻井伸嘉 録音:竹内 遊 
美術:寄川ゆかり 衣装:増川智子 メイク:平野美緒 スチール:miyuu 
製作:チーズFILM 
出演:内村 遥 辰寿広美 時光陸 佐々木麻由子 大江雅子 堀川重人
2011年/95分/カラー

「この物語は全て雄司の書いた日記録の再現です」とテロップで告げられ、母子の日記が並行して描かれる。面と向き合わず日記で喪失感を充たす二人の距離は、どのように変化していくのか。ひどく内向的と思われかねない物語に、演劇学科の稽古風景がまた異なる視点を与える。監督の大江崇允は今年2月大阪で開催された第7回CO2映画祭にて、グランプリである大阪市長賞を受賞。確かな演出力で注目を集めつつある。

日程:6月3日
開場:18時30分 開演:19時
会場:coffee & pictures人形町三日月座B1F Base KOM

http://www.mikazukiza.com/
中央区日本橋人形町1-15-5柏原ビルB1F 電話03-3667-0423
人形町駅A2番出口より徒歩1分、水天宮前8番出口より徒歩1分
料金:1500円 ※ 1ドリンク付き
上映後、2Fカフェにて監督のトークを予定

※当日はDV-CAMもしくはDVD上映になります。
※予約は電話、メールにて承ります。下記まで、お名前、連絡先(電話番号/メールアドレス)、枚数をお知らせください。予約にて定員(30名)となった場合、当日券はございません。


主催:映画芸術、coffee & pictures人形町三日月座
予約・問い合わせ:映画芸術 編集部 電話:03-6909-2160
メール:eigei@y7.dion.ne.jp
posted by 映芸編集部 at 06:17 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする