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2011年05月06日

映画館だより『劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』
こんな気持がわかるかい
若木康輔(ライター)

 自分の原則として、映画評は試写で拝見したもののプレビューのみにしている。公開が始まった作品まで書いたら、歯止めが利かなくなる。僕は作文中毒者なので、なんでも好きに書いていいと言われると、ホントにサルのようにいつまでも書き続けてしまう。
 そのマイ・ルールを曲げて、『劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』を下北沢トリウッドでお客として見たその日に、書きたいなと申し出た。DIARYで取り上げないのはもったいないキラキラした大秀作だと思ったのだ。ところが数日経つと、だんだん引っかかりが生まれてきた。ウーン……となっているところにゴーサイン。こうしてまた、グズグズ評が始まる。

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 高校生の時に見たらもっとサイコーだったなー! これが、本作を見終った直後の感想。
 「映画館だより」なので書いておくと、久し振りに行ったトリウッドは働いている方々の気取っていない物腰がまた好ましく、珍しくパンフレットを買った。下北沢の商店街をブラつきながら余韻を楽しみ、中古レコード屋で前から探していた廃盤を廉価で見つけてさらにゴキゲンだった。もちろんロックンロールさね。いい気分で見終ることができる映画は消費活動を刺激するという、ささやかな実例です。

 まず、バカみたいにふつうに説明すると、「神聖かまってちゃん」という若いバンドがいるのである。インターネットの動画配信利用が密接に活動に絡んでいるところが特色で、たちまち話題を集めて10年末にメジャー・デビュー。こうして映画まで作られて、〈テン年代の最重要バンドのひとつ〉とこれから呼ばれるのか、もう呼ばれているのか、今それだけのインパクトは確実にある存在だ。
 僕が彼らを知ったのは10年3月28日放送のNHK「MUSIC JAPAN」。スタジオで「ロックンロールは鳴り止まないっ」を演奏し、ボーカル/ギターの男の子「の子」がしゃにむに駆け回り叫ぶ姿を見て、そっち方面の胸が久々に疼いた。その後に本サイトに書いたレビューのタイトルを《ドキュメンタリー映画評は書き終わらないっ》にしたりして、別分野の書き手としては反応が早かったほうだと思うのだが、まあそんなことはどうでもいい。楽曲の魅力について僕はあまり語れないけど、「ロックンロール〜」は青くて痛くてキャッチーな、疑いもなく今後の日本のロック・アンセム。

 若々しさと心憎いほどの巧い作りがピッタリと噛み合った相乗効果。本作のその特長を愛する人は多いと思うし、これからも愛する人は増えるだろう。
 「神聖かまってちゃん」のメンバーが主役ではなく、彼らのマネージャーやファンが織りなす一種の群像劇である。マネージャーは上司から納得いかない売り込み方を強要されて悩み、大きなハコでのライブの日に自分の筋を通す。ライブ(の同時配信)を待つ人々もその日、それぞれの人生の勝負を迎える。実際のライブを通じて各エピソードの見せ場が一気に重なり合うところの畳み掛けの快感、これは本当に相当なものだ。
 アマ名人戦に臨んだ将棋少女の「ヨッシャー」な勝負手。シングル・マザーの鬱積を吹っ切るように踊るダンサーの快汗。熱くて鮮やか。僕がもしも大手映画会社の企画開発部員なら、嫉妬する。同じ劇的効果をケタ違いの予算と豪華キャストで前からしつこく狙っているのにどうしてこうスパッと決まらないんだ……と頭を抱える。本作はこの先きっと大手のエンタテインメントに刺激を与えるし、それ自体はいいことだ。

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 実は各エピソードの中心人物である彼らはライブを直接は見ていず、どうせ自分の人生は平凡と冷めている(時間に余裕のある)人たちのほうが会場にいる。この皮肉が、すごく面白かった。
 本誌最新号の時評で萩野亮も同じところに注目し、本作はそのユニークさによって「2011年の映画足りえている」と指摘している。ナルホドと思いつつ僕の取り方はちょっと違って、むしろ戦後からの日本人のメディアを介したレジャー受容のリアリティが、ここにきてようやく映画で表現されたという感慨を持った。端的な例でいうと、スタジアムまでは足を運べないけどテレビやラジオでひいきのチームを熱心に応援する、そういう人たちが昔からいかに多かったか。現場(会場や劇場)に駆けつけない者に本物の感動は得られないというテーゼには、かなり興行者の都合も含まれている。「神聖かまってちゃん」の活動を通じて古い幻想を喝破した点を、僕は特に高く評価したい。

 そういうわけで、基本的には本作に対して、ずいぶん好意を持っている。僕がもしも〈応援系〉ライターなら、ツイッターなんかを駆使してこの指とまれ的コメントの雨あられだったと思う。
 しかし、僕がもしも、とばかり書いていて、明らかに逃げているな。そろそろ自分自身の声をよく聞いてみよう。「映画は面白ければ(泣ければ)いいじゃないですか」とのたまう人と会うと決まって体調を崩す、屈折した生理に正直になってみよう。
 率直に言えば、見終った時の快さが日を追うごとにサラサラと、順調に薄くなっていくことへの苛立ち。こちらの胸に疵を残す、もう一歩の何かが欲しかった、に尽きる。

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 本作の個々のエピソードは妙に古めかしい。マネージャーを振り回す上司、将棋少女が棋士になりたいのを反対する父、ひとり息子の気持ちが分からないママ。
 いや、こういう人物が出てきてもいいんだけど、それぞれの無理解は単なる無理解、対話不足にすぎないのが残念。その無理解の強度は、クライマックスで崩れることがあらかじめ分かっているレベルだからだ。さきほどから書いている通り、本作はその見せ方がものすごく巧いのだが、それは数式が分かって問題をスラスラと解ける時の気分に近いもので、カタルシスとは微妙に違う気がする。ほんとうの劇的高揚は問題の解決ではなく、新たな問いの生まれる瞬間に立ち会う喜びだ。
 それに、将棋少女より父親(中村育二)のほうにもう年齢が近いから言うけど、娘がプロの女流棋士まであと一歩のところにきているのに、「女の子なのに」と許さないのはすぐには理解し難い。ふつうのサラリーマンのオトウサンなら、そらもう夢中でしょう。逆に今から後援会員を募ったり年間賞金の計算をしたりしてはしゃぎ、愛を剥き出しにしているほうが、彼女が闘うべき相手になりえたと思う。

 ただ、ここまで書き進めてみて気付いたが、相当に予定調和な展開に不満の芽があるのかと言えば、そういうことでもない。もともと柔軟な人が見れば本作のドラマの締め付けは明らかに弱いのだが、ガンコな人やコミュニケーションが苦手な人にとって、(間違っているのは自分のほうかも……)と認めるのは、それだけで血が出るほど勇気のいることだ。その幅に歩み寄るようにして作られたストーリーなのかもしれない。こう解釈できるだけの、作り手の心優しい感じが本作の端々に滲んでいるのも事実だ。
 そう、実は新しい衣をまとったオーソドックスな半歩の成長劇、と捉えるのが正確に近い映画ではある。歌手とそのヒット曲を題材にしつつ、本人が出てきて歌うのはもっぱら後半だけで、大部分はリサイタルを楽しみにしている少女と家族のふれあいなどの市井のドラマ。これは(力道山のプロレス映画なども含めて)かつてのプログラム・ピクチャーのパターンだった。芸能好きとしては〈昭和の歌謡映画〉の作りが、『おニャン子ザ・ムービー危機イッパツ!』(86)を経て再びひょっこりと蘇っている点をニコニコ愛でたままでいたいシュミ的気持ちは、少なからずある。

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 しかし、それも違うだろうと考えて、ようやく引っかかりが見えてきた。
 ストーリーの縦軸になっている、「神聖かまってちゃん」のマネージャーのエピソード。
 彼は上司から、100万枚をセールスしもっとブレイクするための戦略として、「神聖かまってちゃん」に公共キャンペーンソングを歌わせるよう言われ、悩む。悩んだ末、それは「なんか違う」ということになる。マネージャー役の人はなんと本人自身だそうで、組織の力学に納得しきれないさまを好演している。「なんか違う」を表明する辺りでは、とても真摯ないい顔を見せてくれる。
でも、「なんか違う」と言って、それで済ませてはいけない、と僕は思うのだ。

 上司が提案するコンセプトは、どう見ても省庁の広報のパロディで、はなから失笑される程度のものだ。見ている側からすれば「なんか違う」以前。単に今回は企画のカンどころが大外れだったというだけで、悩むまでもないし、あの戯画をオトナのシステムの象徴みたいに一面的に捉える必要はない。現実の大半のプロデューサーや代理店の人はもっと誠実で、狡猾です。
 ここにマスコミと世間の関係の厄介さがある。コンセプトが時流にもろに当たった、中高生がスムーズに受け入れられるほど巧妙にシュガー・コーティングされたものなら、どうだったろう。それどころか、参加・協力を表明しておかないとネットで叩かれる位の同調圧力の風が吹いていたら、どうだったろう。「なんか違う」とまでは言えても「どう違うのか」を伝えられないマネージャーだと、あ、これならいいっすね、と簡単にうなずいてしまうのではないか、と考えてしまう。
 実のところ僕は、「神聖かまってちゃん」の映画が作られ、メンバーも本人役で出演し、「の子」以外はサマになった演技を堂々としていることに、それこそ「なんか違う」のでは、と一瞬は思った。しかし、映画の作り手とメンバーの間で、大人のビジネス優先の姿は「なんか違う」けれど自分たちの映画は「違わない」、と信じられる何かがあったはずだから(そうじゃなければ作れなかったはずだから)、呑み込んだ。なので、「なぜ違わないのか」を映画のなかで知りたかった。

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 「なんか違う」とお互いに思っている同士だった登場人物は、クライマックスで、それぞれ自分なりの行動で半歩踏み出す。その姿はささやかながら新しいリスタートだと爽やかに読める。ただ、各自勝手に自分で納得しているだけとも映り、どうももどかしい。
 なにも、マネージャーと上司が、父親と少女が、ママ・ダンサーと息子が改めて向き合い、ひしと歩み寄る姿をたっぷりと見たかったわけではない。そうできれば最初から苦労しない不器用でシャイな人達に対する作り手の温かさは、よく理解できる。でも、ベタな描写になろうがなるまいが、それが正しかろうが間違っていようが、「どう違うのか」(なぜやりたくないのか、なぜ反対なのか、なぜやり続けるのか、なぜ腹立たしいのか)内心の叫びを相手にぶつけ、見えなくても確かにある壁を破るところがなければ、ドラマ部分が「神聖かまってちゃん」の歌に拮抗できない気がして仕方ない。人と人の関係は実際問題、とりかえしがつかなくなるところまで壊さないと一から作り直すのは無理なのだ。そこまで見せてくれるかどうかが、歌謡映画とロック・ムービーの紙一重の差ではないだろうか。

 僕が引っかかったのはそのストーリーや展開にというより、ホントの思いはきっといつか伝わる、だって家族だもの式の母性社会的価値観に、この映画が割とあっさり則っている点に対してのようだ。
 共通言語・共通感覚が通用しない相手と向き合う努力をするのは古い人間で、若い世代はドライだからそんなムダなことはしない−という考え方は、実は違っていて、年配の人でも努力しない人は全くしない。共通言語・共通感覚なるものの頼りなさ、窮屈さにとことん幻滅を味わった人が初めて表現行為を求め、コミュニケーションに心を砕くことができる。そこに世代差は無い。本作を見て心がざわめいた中高生前後の人にはぜひ、「なんか違う」で通じる相手としか付き合わない人にならず、「どう違うのか」ぶつける人のほうになって頂きたいと願う。
 言わなくても分かる。そんなムラ社会の安定と温もりに絶望し、それでも希求する地点から歌とビートが生まれる。ロックンロールの衝動とは、エルヴィス・アーロン・プレスリーという名前の少年が田舎の高校でキ××イ扱いされていた時代からそういうことだからだ。


『劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』
監督・脚本・編集:入江悠 企画:直井卓俊 
プロデューサー:布川均 齋見泰正 大槻貴宏 直井卓俊 大野敦子 
野村一英 坪屋有紀 入江悠 ラインプロデューサー:金森保
撮影・照明:三村和弘 録音:清水オサム 美術:原尚子 音楽:池永正二
主題歌・劇中歌 神聖かまってちゃん
出演:二階堂ふみ 森下くるみ 坂本達哉 剱樹人 中村育二 佐野和宏 
三浦由衣 宇治清高 宇野祥平 川屋せっちん・堀部圭亮 野間口徹 
神聖かまってちゃん(の子・mono・ちばぎん・みさこ) 
配給・宣伝 スポッテッドプロダクションズ
(2011/カラー/)

都内(渋谷シネクイント、ポレポレ東中野、下北沢トリウッド、池袋テアトルダイヤ)、横浜(シネマジャック&ベティ)、愛知(シネマスコーレ)、大阪(シネ・リーブル梅田)、福岡(シネ・リーブル博多駅)で上映中 ほか全国順次ロードショー

公式ホームページ http://www.kamattechan-movie.com/


タグ:若木康輔
posted by 映芸編集部 at 16:05 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする