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2011年06月13日

『まなざしの旅 土本典昭と大津幸四郎』
特集上映「反権力のポジション キャメラマン大津幸四郎」
大津幸四郎(キャメラマン)×鎌仲ひとみ(ドキュメンタリー監督)トーク

 代島治彦監督による『まなざしの旅 土本典昭と大津幸四郎』(10)は、水俣を撮り続けたことで知られる、日本ドキュメンタリー映画の巨人・土本典昭監督へのインタビューと、土本監督や小川紳介監督などの撮影を長年つとめてきた大津幸四郎キャメラマンへのインタビューを主体に、『ある機関助士』(63)『水俣―患者さんとその世界』(71)などの過去作品を多数引用しながら構成されたドキュメンタリー映画です。
 近年、『ヒバクシャ―世界の終わりに』(03)『六ヶ所村ラプソディー』(06)『ミツバチの羽音と地球の回転』(10)など、一連の作品で核や原発の問題を追い続けている鎌仲ひとみ監督は、『六ヶ所村ラプソディー』では土本監督を訪ね、『原発切抜帖』(82)に言及したりと、土本監督への敬意と自身への影響を表現しています。鎌仲監督と大津幸四郎さんは、面識はあれどゆっくりと話した機会がなかったそう。
 国と企業が癒着した構造を持ち、長い間原因を隠ぺいし、補償の認定制度すら政府、審査機関を経なければ補償金が降りなかった「水俣病」。東京電力、政府、マスメディアは情報を隠ぺいし、政治家は原子力政策を推進してきた歴史が、3・11以後、どこか問題が地続きでつながっているように見えてきます。
 今回の対談では、ドキュメンタリーを撮影するとはいかなることなのかまで、核心にせまる議論が繰り広げられました。オーディトリウム渋谷で『パルチザン前史』(69)『水俣―患者さんとその世界』の上映後のトークをまとめます。
(司会:代島治彦 構成:岩崎孝正 構成協力:吉川正文)

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左から代島、鎌仲、大津の三氏

――「反権力のポジション キャメラマン大津幸四郎」(6月3日〜16日)の21本の特集上映を見て、どういう印象を持ちましたか。

鎌仲 日本のドキュメンタリー映画史がそのまま、大津さんの歴史になっています。ドキュメンタリーも時代に応じて変遷していると実感します。大津さんの初期は土本監督と寄りそって撮影して、しだいに多様な映画表現を試みていきますね。

大津 私はテレビ作品を含めると200〜300本撮っています。特集だけ見ても、自分ながらよくこれほど仕事をしたなと思っています。

――土本監督は、国内外を含む原子力発電所の問題にかんして報道された新聞の切り抜きだけでつくった『原発切抜帖』(82)という実験映画を製作しましたね。その切り抜いたスクラップを、土本監督から鎌仲監督は引き継いでいると聞いています。土本監督の意志を継ぐ者として、3・11以後、鎌仲監督があらためて注目されているのではないでしょうか。

鎌仲 土本監督から、「私は水俣というテーマを追い続けることで、作家として幸せだった。あなたは核や原子力にかんする作品をつくっていますね。一生、そのテーマで映画を撮り続けてください」と『六ヶ所村ラプソディー』(06)を撮影中に言われました。でも、水俣が持っている豊かさと、青森県の下北半島が持っている豊かさはまったく別物です。下北半島は悲痛ですが、水俣は豊かさに満ち溢れています。彼ら、水俣に住んでいる人たちの豊かさはどこから来ているんでしょうか。

大津 いちど風評やその他で差別され、水俣病が完全に排除されましたね。新日本窒素肥料株式会社(以下、チッソ)が欺いて「患者さんたちは自分たちが原因で病気になった」と宣伝をした。水俣は、完全に差別されました。地域の中でも伝染病やなんだと謳われ、隣組からも差別されてしまう。極端な話、商店の入り口から入れてくれません。表で店員に「何が欲しい?」と言われ、モノを表に置かれてしまう。店員は「お金はそこに置いてください」と患者さんとの手渡しを拒んでお金を箸でつまみあげる。ハンセン氏病の患者さんたちも似たような差別を受けていました。水俣の患者さんと家族は雨戸を閉じて暗い室内のなかで「生きているのも嫌だ。死のう、死んでしまおう」と言っていた。そこから立ち上がって来たのが、土本監督の映像ですね。

鎌仲 いま「チェルノブイリからの声」という、チェルノブイリ事故にあった被害者の聞き書きを読んでいます。印象的な差別の話がありました。チェルノブイリの汚染された地帯から、被害者の女性が家族と一緒に、お姉さんが暮らす汚染のない町へ避難したそうです。お姉さんの家へ行くと、玄関先で「入るな。家に入れたくない」と言われ、「そのまま追い返されてしまった」と被害者の女性は語っている。福島の場合も、ホテルに泊まるときに「福島県民お断り」と差別されてしまい、また避難した子どもが外へ出たときにいじめに遭ってしまう。

大津 広島と長崎の原爆の被ばく者を10年以上前に撮影しました。「テンフィート運動」という、アメリカが原爆を落とした直後に撮影したフィルムを、日本で買い戻す運動がありましたね。映っている人たちを、一人ひとり、一戸一戸訪ねていくと、差別を恐れて名乗りをあげられずに原水爆禁止運動をやっている運動体があった。放射能が被ばく者を介してうつっていくんですよと宣伝される。女性への被ばくが続き、被ばく二世が生まれ、完全に差別されていく。東京でもつい最近まで自分が被ばく者と名乗り上げられませんでしたね。

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写真真ん中左が土本典昭監督、右が大津幸四郎キャメラマン

鎌仲 被ばく者の人生が壊され、社会の中で生きていけなくなってしまう。被ばくしたことそのものより、日本の社会が彼らに対してなしたことのほうが酷かったんです。たとえば内部被ばくをしていると、すぐ疲れちゃってやる気が起きません。世間からは「ただ怠けたいだけだ」と言われて社会から脱落していきます。政府は内部被ばくを認めずに何の補償もしようとしません。

大津 水俣病の初期症状は、高熱が出てろれつが回らなくなります。また手足がしびれてまっすぐ歩けなくなる。医者へ行くと「焼酎の飲みすぎです。アルコール中毒かもしれません」と診断される。魚介類を食べている人に多いと水銀中毒と報道されるものの役所の補償はない。

――今でも水俣病は認定、非認定の解決がついていませんね。鎌仲さんは現在の3・11以後の福島の状況と、自分の仕事を重ねてみてどうお考えですか。

鎌仲 『ヒバクシャ――世界の終わりに』(03)はイラクの劣化ウラン弾による放射能汚染や、アメリカのハンフォードの風下住民たちの被害状況、また日本の原爆による内部被ばくをした人たちの暮らしなどをキャメラで撮影し、またインタビューしていきます。被ばくは放射能汚染と科学的な関連が認められていません。政府も、原爆の爆心地から離れた方の被ばくに関しては65年間ずっと否定をしてきました。拡散して体内に入っているにもかかわらず、何十万人といる被ばく者を認定している割合は0.8パーセントにしか過ぎません。今の科学技術でどれだけ被ばくしたのかをきっちり数量化する科学的な手立てがありません。私は「完全犯罪」と呼んでいます。チッソの場合は特定の症状が出ますが、被ばくの症状は、甲状腺がん、甲状腺障害、ブラブラなど否定形性症候群といってさまざまな症状が出てくる。被ばく病という名前も付けられないから認定もされない。がんであれば、「タバコ吸っているから、がんになったんじゃないの?」と言われる。福島から出た放射能のせいだと証明する手立てはどこにもありません。

大津 水俣にチッソの工場が出来て、それまで半農半漁で生きていた農民や漁師たちは現金収入があるということで、皆そこで働くようになりました。しだいに工場労働者の地位があがっていき、チッソは国営会社として海外へ進出していく。実はチッソは戦前から排水を水俣湾に垂れ流して公害を起こしていました。組合が補償を要求して、苦情を申しでないことを条件に、チッソは少額ながら補償金を支払う。昭和になり、工場廃棄物を住民の気がつかない段階から海に流しました。「一滴だけ流してもいいや。海は広いから」と、どんどん流していた。工場廃棄物はプランクトンから小魚へ入り、大きな魚はそれを食べる。魚はしだいに動物の口へ入る。猫が障害を起こし、ついには人間が侵されていく。水俣は昭和31年を過ぎ、魚介類が原因の病気が判明していきます。

――鎌仲監督の『ヒバクシャ』は肥田舜太郎さんという医師が出演します。土本監督の『医学としての水俣病』(75)三部作では医師である原田正純さんが出演する。大きな権力を持っている人たちは、自分たちの言うことを聞く医師をつかって完全犯罪を目論もうとしています。映像の力でどこまで立ち向かえるのでしょうか。

大津 原田正純さんは現地へ入りこみ、一人ひとりの患者さんの生活を何から何まで見ていきます。少量のメチル水銀を摂取して症状が出てないにしても、なんらかの人体に影響があれば水俣病の患者です。たとえ5PPMの摂取でも、摂取した期間や、自らの抗体により一人ひとり症状も違っていきます。にもかかわらず、今度は医師会や審査会が出来て「水俣病患者認定制度」をつくる。政府の認定を出来るだけ少なくし、発症が遅くなる患者には、「この量だったら大丈夫だよ、人体に影響はない」とお墨付きを与えてしまう。

鎌仲 2005年にはじめて、アメリカの科学アカデミーが、内部被ばくに関しては0ミリシーベルト以外であればリスクがあるということを認めています。子どもであれば、個体差による内部被ばくでも、のちに病気になる子もいればならない子もいます。チェルノブイリの場合に多数の甲状腺がん患者が確認されていることは周知の事実です。

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大津 チッソは裁判で判決が出たからしぶしぶ補償しました。もしそのまま患者さんが裁判に訴えないとそのまま騙され続けていたのではないか。患者さんが出てきても学者や医師をいかに抱きこむかを含めながらやっていく。裁判に持っていったのも、患者さんたちの自力でやりました。「告発する会」などいろいろ周りの支援もありましたね。しかし判決が出てから患者さんたちはチッソとの自主的な交渉や医療保障を独力でやるんです。東北で同じことが起こる可能性を否定できません。

鎌仲 今回の3・11は地震、津波、それに加えて原発事故がありました。物理的なダメージが彼らを痛めつけ、さらに放射能が降ってきた。二重、三重のハンディを背負っています。被ばくの線量に関して、政府は安全デマを流しています。長崎大学の教授が健康アドバイザーになり「皆さん100ミリシーベルトでも、妊婦でも大丈夫です」と、とんでもないことを講演で言ってまわる。福島の人たちは、自分たちは被害者というより、東京電力とその関連会社、また原子力関係の関連企業の工場を誘致されて、恩恵を受けている事実がある。チッソの社員がチッソを守ったように、手のひらを返したように住民たちが東京電力や関連企業を打つわけにはいかないという心理がある。しかし、それだと「被害者」として立ち上がることが出来ないのではないでしょうか。

――水俣の場合と違うのは、東京でいまこうしている私たちも東京電力の電気の恩恵を受けてこれまで生きてきました。だから加害者としても立ち上がるべきではないか。水俣のとき被害者が孤独に置き去りにされ、訴訟派の人たちが立ち上がっていく。その様子を『水俣――患者とその世界』(71)は描いています。一方で、戦後の原子力政策の誤った道筋のなかで、加害者である我々も、このことにきちんと向き合うべきではないか。

鎌仲 放射能は見えません。東京にもいっぱい飛んできたけど感じません。ジタバタ苦しんでいる患者さんもいないからリアリティがない。ニュースを見ていたとしても、それがどういう意味を持っているのかを理解しなければ、自らのアクションにつながらない。事故を過小評価しようとする権力とメディアの力が席巻していますから「原発事故があったから原発をやめよう」とはならない。被害者が立ち上がり、自分たちの自立した運動として問題に取り組んでいかなければ、救済もないし、サバイバルも出来ないのではないのでしょうか。

大津 自宅へ帰れずに「避難している自分たちは、一体どうなるんだ」と感じている人たちがいると思います。福島第一原子力発電所をつくったとき、補助金を行政に一括して支払い、住民は、東電から直接的にはお金をもらっていない。ただ、恩恵を受けていた地方の人たちを雇い、原子力発電所のなかで危険な仕事をさせる。東電や関連企業に勤める人間たちが声を上げられないようにされてしまう。

鎌仲 海外ではMan Made Disaster(マン・メイド・ディザスター)と言われ、人災と認定されています。マスコミは人災だとアナウンスしなければならないのに、矛先がにぶい。東電の広報部はマスコミに接待費を支払っていた事実がありますね。いまは政府と各社の動向窺っているのではないでしょうか。

――ただ水俣の場合も御用学者たちが原因は水銀じゃなく、戦争中に落とした爆弾なんだという説を述べます。今回の事故も原子力の御用学者たちが翼賛体制をつくり、覆い隠そうとしているのではないでしょうか。

大津 訴訟派が本格的に闘いはじめるのは、水俣病の公式の発見から数年経っています。それまで水俣病は原因がはっきりせずに抑えられていました。水俣工場付属病院院長だった細川一さんが「猫400号実験」をすると水俣病を発見する。細川さんの実験は即座に中止され、結果に関しては一切の口外をしないと決められた。細川さんはそのあと町医者になって別の研究をしていきます。声をあげて何かやろうとすると、必ずそこに潰す者が現れて弾圧されてしまう。学者の場合、田舎の医学部出のヘッポコが「水銀が原因」と言ったって、信頼できないと言われる。派閥の中でも人身攻撃に近いような差別がある。

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土本典昭監督

――『不知火海』(75)では不知火海の漁師たちの姿を通し、資本や権力に対して、自分たちの心の強さや、やさしさを探っていきます。差別や、善や悪で分断するのではなく、私たちにとって何が大事なのかということが見えてくるような映画のつくりに到達していく。

大津 最新式の家電設備をととのえた御殿を建てた患者さんが登場しますね。「こんなもの建ててもな、何にも生きがいもないんだ。漁出ていたときが一番、幸せだったんだ」と言う。あれだけの御殿をつくったのは、自暴自棄だったというか、一種のニヒリズムだったのではないかと思います。

鎌仲 『六ヶ所〜』では土地を高く買ってもらい、シャンデリア付きの邸を建てた方がいました。しかし計画が無くなってしまい、約束された工場は来なかった。旦那は出稼ぎに行き、家庭が崩壊していくということがたくさん起きました。

大津 不知火海の近くの住民は水俣の訴訟派の人を非難していた人たちです。水俣病を差別していた人たちは、水俣市の人だけではなく、もっと広い。実は600ppmというものすごい水銀で死んでいった人が隣にいるにも関わらず、漁師たちも自分たちは安全地帯にいると考えて、患者さんを差別していく。ふと気がついたら、自分たちが侵されていると気がつく。訴訟派が勝ったところから、新しい訴訟派が生まれてくるという悲しい差別の構造があります。

――10年後、20年後の福島の人たちがどうなっているのか、思いを巡らせなければいけないのではないでしょうか。

鎌仲 『医学としての水俣病』三部作での調査、研究、記録は本来なら国がやるべきなんです。しかし国はこれまでのマニュアルにもとづいた調査しかせず、ひどいところになると検査をしない。これまでのようにマスメディアと共謀して情報の隠ぺいをはかるかもしれない。情報の開示や必要なサポートは国に要求しなければならないし、彼らがやらなければ、私たちがやってしまうことが必要ですね。

大津 水俣の地方の中でまた差別していくという同心円の差別構造があります。東北でいうと、「日本人のやさしさ」「団結力」を大々的にアピールし、こんな国は世界でもないんだと持ち上げる。住民の本音に蓋をしてしまう。

鎌仲 アメリカやヨーロッパでの事故だったら、今ごろ何万という訴訟が起きるはずです。日本のなかで、地震、津波、被ばくにあった被災者を、どれだけ助けていけるのか。いちど『ヒバクシャ』を水俣で上映したことがありました。関西から水俣の人たちを助けるために移住してきた人たちが上映会に来てくれました。公害や水俣病患者のために自分の人生を変えて水俣に引っ越して、人生を捧げている人たちの姿に感動したことを覚えています。

――私たちが文明の進化や前に進むことばかり考えてきたときに、立ち戻る場所として、土本監督や大津さん、鎌仲監督が撮られた作品群がある気がしています。

鎌仲 私は、子どもを被ばくさせて死なせてしまうような社会はだめだと思います。私はそんな社会を変えたい。そうすると、映画を撮影する場合、誰のために、何のために映画をつくるのかが、根本から問われていきます。

大津 3・11のような大きな社会問題になった場合、本能的に穴を掘っていく人が必ず現れますね。周りの人たちは、「偏っている」と言う。要は穴を掘っていった人たちが見た真実が映されているかどうかが問われていくんです。

鎌仲 今の社会は綺麗なもので覆われていて、社会的な問題は見えにくいんです。小川紳介監督が撮影していたようなあからさまな問題ではない。今は様々なところに深い問題があるにも関わらず、穴を掘っていかないと見えてきません。

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大津 鎌仲さんと違うのは、僕は絵をつくることに夢中になるんです。社会変革という大きなことではなく、自分の意識そのものを変えていく。その過程を映像に定着出来て、見る人が何かを感じてくれればいい。

鎌仲 私の映画は、つくっていくプロセスの中で、私自身がいろんな発見をして、様々な扉を開けていく過程が映されています。皆さんが見ているうちに、意識が変わってしまうことを期待しています。後のアクションはその人に任せています。

――鎌仲監督は基本的には目の前で起きている出来事を、先入観を持たずに撮っていきますね。編集でも素直につなぎ、撮った順で見せています。

鎌仲 映画づくりはまっさらな気持ちで、ゼロからはじめていきます。以前まで撮影したものを忘れて、先入観を持たずに対象を見ていく。自分のなかに何かあると、目の前の人にテレパシーのように伝わってしまいます。何も期待せずに、あるがままを撮影したい。だからものすごく時間がかかります。

大津 私はオモテを撮るのはあまり好きでなく、ウラのほうにどんどん興味が湧いてしまいます。レンズ越しだと美しいものが汚く見え、汚いと言われているものが美しく見える場合がある。汚いものをいかに美しく撮れるのか注意を払っています。調査しても、すべて捨てて裸で見ていきます。レンズを覗いたら爛熟した違う絵になるかもしれない。レンズ越しの現実が、撮っていくうちにだんだんと変わっていきます。これが映画の持っている魅力ですね。

――カメラマン独特のポジションですね。監督(演出家)としてはどう思いますか。

鎌仲 テレビ業界だと「こっちから歩いてきてください」「仕事をしている風にしてください」など、平気で演出します。私は一人ひとりの癖や、不器用さを丁寧に見て、話に耳を傾けていきます。そのうち対象と自分が深く結ばれていくと、だんだんと変化が起きてきます。

大津 土本監督がよく「映画はつくるものではなく、生まれるものだ」と言っていました。一人の人間や、物事を撮影していくと、そのうち光るものが見えてくる。その光が撮れたとき「ああ、映画が終わってもいいかな」と思います。

鎌仲 撮影をはじめていくときには白い目で見られていた相手から、だんだん一緒に映画をつくっていこうとする連帯感が生まれてくる。「私のことをここで撮ったら」とか、また別の人が「なぜ彼女を撮って、私を撮らないの」なんて言われます。

大津 水俣に住みこんで撮影をして、夜になると玄関にあがりこんでくる住民がいました。「あそこの家で撮影して、どうしてお前、俺の家に来ないんだ。あそこでは10分撮ったよな。俺の家では20分撮れ」と言われる。そうなったらいただきです。

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8ミリを構える大津幸四郎キャメラマン

――土本監督が大津さんを評した文章を抜粋します。水俣シリーズは「ドキュメンタリーキャメラマンとしての大津幸四郎のピークを形成している。そうした映像を見るとき、私はいつも『ああ、はねたな』『ああ、針が振り切ったな』と思う。編集者の私には、鋏を入れれば血か体液が出てくるほど、怖いフィルムになっているのだ」とある。どう現場で大津さんが撮っているか、演出家として見ている。「いけてるな」と思って眺めていたものが、実際に編集するときあらためて見ると、やはりすごいフィルムになっている。鎌仲監督は、岩田まきこさんというカメラマンと長いこと組んでいますね。鎌仲監督にとってカメラマンはどのような存在ですか。

鎌仲 現場では私より偉い人です(笑)。岩田さんも演出力のある方なので、共同作業になります。ただ人間関係の作り方やロケーションの設定は厳しく要求されます。でもお互いのあうんの呼吸があって、勝手に撮ってもらっている場合もありますね。彼女はカメラマンとしてすごく計算が高い。カメラマンとして強烈な個性を持った人で、冷徹な眼差しを持っています。

――いい相棒や、恵まれたスタッフワークでの撮影がいい映画をつくりますね。土本監督と大津さんは『パルチザン前史』で初めて組みます。最初から波長が合いましたか?

大津 おたがいに「胡散臭いな」という第一印象でした(笑)。『パルチザン前史』だと京都大学に入った時点で滝田修を見つけて撮影していきます。土本監督はかつて都学連の副委員長だったこともあり、学生たちを見てどんどん興奮していきました。これを撮ってほしいとは言わずに「フィルム持って行って勝手に撮りなさい。オレはこっちで撮るから」と言って帰ってきません。しばらくして「やっぱり駄目だな、オレは」なんて言いはじめる。そういうところから打ち解けはじめましたね。土本監督は岩波映画製作所にいた時から柔軟な考えが出来ていた人でした。ありもののイメージを作らないで、だんだんと出来ていく。黒木和雄監督はイメージを固めていく人で、その点で映像派でしたね。小川紳介監督は自分のイメージを割合鍛えようとしていました。

――土本監督は「『パルチザン前史』があって良かった。大津さんと一緒に組んで良かった。これで水俣へスムースに入れたんだ」と証言しています。

大津 『パルチザン前史』のラストで、滝田修さんと共謀しながらパルチザン軍団五人が肉体労働をするというのは、土本監督のフィクションですね。滝田修の理想像を撮ってみたかったんです。その後、水俣にこわごわと『パルチ〜』のフィルムを持っていきました。「本当に売れるのかな?」と思っていたら、患者さんたちは手を叩いて喜んでくれました。「名刺がわりになったかな」と思いましたね。

――土本監督は、晩年にパーソナルドキュメンタリーである『みなまた日記』(04)を撮影します。デジタルの時代になり、撮影から編集まで一人で仕上げて監督になる作家が多いですね。しかし土本監督はそれに答えを出さずに亡くなってしまいました。「これから、どうなっていくかわからない。僕は集団制作が好きだから、スタッフワークが大事だと思っている。やはり確かな目が入らない作品はだめだ」と言っていました。これから映画をつくろうとしている人に対して、大津さんからメッセージをいただければ。

大津 一人でこつこつとつくるのは、孤独な作業でそれなりに敬服します。しかし、自分に溺れてしまう可能性があり、映像の豊かさがどうしても欠けてしまう。『みなまた日記』を見て、もし僕がカメラを持ったらもっと突っこんだ映画になったのではないかと少し残念でした。土本監督とは前後に最後の喧嘩をしてしまったんです。水俣を撮るときには、必ず酒が入ります。これは相手に酒を飲ますということではなくて、相手と話をしていくときにどうしても酒が入る。前から酒好きではあったんですけど、酒にとらわれてしまった時期があったんですね。精神的にかなり異常で、アルコール中毒に近い状態ではなかったかと思います。突然、彼は映画をつくろうということになり、興奮して、やがて狂いはじめた。自分の中でどんどんイメージが増殖し、耐え切れなくなったのかもしれませんね。僕に向かっても感情をぶつけはじめていき、この関係を維持してはだめだろうということで別れました。映画監督(演出家)は、どこかで自分のイメージを壊していきます。壊していくなかで増殖していき、どこかでパンクしてしまう場合がある。あらためて作り直せばいいんだけど、頭のなかだけでパンクすると、悲惨な状態になってしまう可能性がある。

――最後に鎌仲監督、お客さんに対してメッセージを。

鎌仲 いまは技術的にすぐれたビデオカメラがあります。でも小川監督や土本監督の映画を見ていると、機材やテクノロジーとしては不自由にもかかわらず、自由さや豊かさが、より制約されているはずの機材を使っていた映画の世界にあらわれています。機材が便利になったからとは言え、いい映画がつくれるわけではない。その背後に、作品に向き合う気持ちや、いろんな困難を乗り越えていく方法が、映像のどこかに現れてくる。私はそこから今も学び続けています。

大津 ある制約を突き破ろうとする自由さを持っていないと、だんだん野放図に広がっていく。そうすると拡散してしまい、作品をつくるときはある障害になってしまうのではないか。もう一つは、一人で孤独につくるのではなく3人ぐるみで孤独になって欲しいんですね。つくるのは絶対に孤独な作業なんですが、1人だとかなりしんどい枠が出来てしまう。孤独を舐めあうのではなく、お互いが孤独でありながら切磋琢磨するような作業に徹して欲しいですね。




『まなざしの旅 土本典昭と大津幸四郎』
映画美学校2008年度ドキュメンタリー・コース高等科コラボレーション作品
代島治彦監督:2010年/カラー・モノクロ/DV/89分

オーディトリウム渋谷にて6月3日(金)〜16日(木)モーニング&レイトショー
11:00/21:10

特集上映「反権力のポジション キャメラマン大津幸四郎」
オーディトリウム渋谷にて開催中


6月13日(月)
佐藤真との仕事(障害のある人びととの対話)
13:00-/16:00-『まひるのほし』1998
14:50-/18:40-『花子』2001
19:40-トーク:代島治彦(映像製作者)×大津幸四郎

6月14日(火)
ジャン・ユンカーマンとの仕事(世界と日本への視線)
13:30-/16:30-『チョムスキー9.11』2002
15:00-/18:00-『映画 日本国憲法』2005
19:20-トーク:ジャン・ユンカーマン(映画作家)×大津幸四郎

6月15日(水)
熊谷博子との仕事(まちと暮らしを記録する)
13:00-/16:10-『ふれあうまち』1995
14:10-/17:20-『三池終わらない炭鉱の物語』2005
19:10-トーク:熊谷博子(映像作家)×大津幸四郎

6月16日(木)
若手映画作家との対話(2)藤原敏史(彼岸=向こう側の時間を写す)
13:00-/16:00-『フェンス 第一部:失楽園 第二部:断絶された地層』2008(163分)
19:00-トーク:藤原敏史(映画作家)×葛生賢(映画批評家)×大津幸四郎

■入場料(入替なし)
一般:1400円 シニア・大学生:1000円(最終回割引:各料金から200円引き)
※トークは、本特集の半券をご提示いただいた方のみご入場できます。

http://a-shibuya.jp/archives/445

posted by 映芸編集部 at 12:23 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする