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2011年07月11日

『超・悪人』と映像を模倣する映像
萩野 亮(映画批評)

 乱雑にカメラが床に据えられると、その当のカメラに向かって何やら過剰な自己アピールを始める怪しげな男のすがたが大きく映し出される。夜のマンションと思しき一室の、限られた照明のなかでこちらを見据えるサングラスの男は、ひとりでにテンションを上げてゆく。やがて男自身によってふたたび乱暴にカメラが構えられると、見渡す先の部屋の隅に縛られた若い女のすがたがある。
 白石晃士監督の新作『超・悪人』は、これまで106人の女をレイプしてきた問答無用の「超悪人」が、107人目の暴行を経て、記念すべき10周年の日に108人目の女に手をかけようとするまでを描いている。仮借ない暴力描写と、フェイク・ドキュメンタリーの手法はこれまでのいくつかの白石作品においても際立っていたものだが、今回の作品では「恋愛」という要素が大きく加わっている。それにしても、こんな映画は見たことがない。

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 劇映画の歴史は、カメラをひた隠しにしてきた歴史でもある。スクリーンで展開される物語(絵空事)に観客の意識を集中させるには、それがカメラによって撮られたものであるという事実をまず忘れさせる必要がある。そうして役者の「カメラ目線」は禁止され、カメラ移動は自然で流麗なものこそが要請されるようになった。古典映画の達成とは、まずもってカメラの存在の否定にほかならない。映画前史としてのカメラ・オブスキュラが暗箱であったように、カメラは一種のブラックボックスとして、たえず映画の不可視のプロセスに位置してきた。それは大半の劇映画にとって、いまも変わらない自然(=制度)としてある。
 フェイク・ドキュメンタリーがまず告発するのは、劇映画におけるそうしたカメラの否定性にほかならない。映画がスクリーン上に現れるためには、その映像がカメラによって撮影されていなければならないという当然の帰結をフェイク・ドキュメンタリーは暴き出す。そこでは実際にカメラが廻っている(=ドキュメントされている)という状況設定がなされることで、一般的な劇映画が目指すのとはまるで異なるリアリティが構築される。
 百年余の劇映画の歴史のなかで、さしあたりヤコペッティ(*1)を嚆矢とするフェイク・ドキュメンタリーは、その境界的な表現手法ゆえ、あくまで周縁的・挑発的な位置に留まり続けているが、その歴史は、おそらく模倣されるべきドキュメンタリーというジャンルの成熟を待って開始されたと考えられる。「フェイク」とひと口にいっても、主にインタビューや資料映像とナレーションで構成するもの(*2)もあるが、ここで本稿が問題としようとしているのは、あくまで劇映画のひとつの手法としてのフェイク・ドキュメンタリーである。

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 こうしたフェイクの試みで興味深いのは、ベルギーに突如現れた怪作『ありふれた事件』(91)である。このフィルムでは連続殺人鬼の、しかしどこか憎めない奇人物ブノワが次々に人を殺してゆく有り様が、映画の撮影クルーによってフィルムに収められる(という状況設定がなされている)。アメリカの写真家ウィージーの『ネイキッド・シティ』(45)を思わせるような路地の暗闇とけばけばしいライトによってとらえられているのは、突発的な暴力の瞬間である。カメラが実際にそこで廻っているという擬制(フィクション)の構造が、その瞬間をつぶさに観客に目撃させる。ウィージーは夜の大都市を徘徊し、事件が起きると誰よりも早く現場に駆けつけ特ダネをかっさらったといわれているが、『ありふれた事件』の撮影クルーは、殺人鬼に同行するゆえ、その「ありふれた」瞬間をつねに撮影することができた。つまりこのフィルムは、ウィージー的な事件写真の臨場感をそのままフェイクの画面に持ち込んでいる。こうした「事件」への臭覚は、はるかに白石映画に継承されているといっていい。

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 しかしこの手法が近年ふたたび注目を集めたのは、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(99)の大ヒットをもってだった。映画大学の卒業制作として、魔女伝説を追ったドキュメンタリー映画の撮影中に、森で迷子になるクルーを主観映像によってとらえたこのフィルムは、その後現在も隆盛するPOV(Point Of View)映画の先駆となった。POV映画は、観客を視点の持ち主に同一化させ、彼/彼女の味わう恐怖をあたかもそのままに「体験」させる。製作費300万円という低予算が公開前から話題となり、いわば巨大な宣伝費を投入する70年代以降のイベントとしてのハリウッド映画の経営戦略が、こうした体験的な映像特性とうまくリンクして、このフィルムは徹底してイベント的に消費されたといってよい。こうした主観映像がディズニーランドなどのアトラクションにも応用されている(あるいはこちらのほうが先か)ことを考え合わせれば、より事態は明確になるだろう。ハリウッドは、『ブレア・ウィッチ』で『食人族』(83)の話題戦略を反復したのと同様に、さらに『パラノーマル・アクティビティ』(07)でほとんど同じことを繰り返しているが、これらの作品は、フェイク表現としては、「モンド映画」の領域にあった『食人族』の手法を、首尾一貫したPOV映画としてホラーに応用したことに尽きる(*3)

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 こうしたPOV映画の隆盛は、これらの作品を並べてみればわかるように、主としてホラー映画の領域で局地的に起きている現象である。白石晃士もまた、『ノロイ』(06)に結実する一連のホラー作品でまずフェイク表現を磨いていったのは、それが「恐怖」という体験的なものを表現しうる格好の手法だったからにほかならない。けれども白石映画が『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』などと異なるのは、POV映画の限定的な視点を相対化し、いわばリミックスしてみせたことにある。
 現時点での最高傑作だと思われる『オカルト』(09)は、フェイク表現を現代日本におけるテロリズム(渋谷のスクランブル交差点での爆破!)へとドライヴさせるばかりか、吉祥寺の空にUFOさえ出現させてしまうわけだが、『ノロイ』から『オカルト』へと至るなかで明らかになるのは、それまで映画が組みこんではこなかった映像領域を画面にもたらしているということである。それはホームビデオだ。
 心霊現象、未確認飛行物体、宇宙人etc…。こうした「いかがわしいもの」は、むしろ素人が撮影するホームビデオのなかに映りこんでいる。心霊写真やUFO映像が空恐ろしいのは、素人が撮影するカメラの前を「偶然」横切るからにほかならない。白石映画は、こうした素人撮影のホームビデオがとらえてしまう「いかがわしさ」を、フェイクの手法によってそのまま取り込んでしまう。『ブレア・ウィッチ』や『クローバー・フィールド』などにもこうしたホームビデオ的な側面がないわけではないが、POVを徹底する画面には、偶然映ってしまうモノ(対象)よりも、視点の持ち主の主観(意識)こそが主として描きこまれていたといっていい。その意味では、POV映画とは、デカルト以降のきわめて西欧近代的な「主体」をまさに視線の主体とする映画群なのであり、西欧の観客にこうしたフィルムがウケるのは半ば必然的な事態であるともいえるだろう。

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 白石晃士のフィルムには、こうした主体への信仰が存在しない。『ノロイ』にせよ『オカルト』にせよ、複数のカメラによる映像がリレーされ、優劣なく画面上にリミックスされている。そこには「受難する唯一の主体」(とその物語)は存在せず、ひたすら複数のカメラの前を横切る「いかがわしいもの」があふれるばかりなのだ。そうして虚実の皮膜はいたって軽やかに融解してゆく。『オカルト』においては、全篇が間違いなくフェイクとして撮られていながら、しかしそこに映されている新宿や吉祥寺の街は明らかに現実のものなのであり、あるいは特別に呼び寄せたというカラスの集団飛来とそれに驚く渋谷の若者たち、タクシーの運転手との何気ない会話といった細部は、仕掛けこそしてはいるがすべて演出されたものではなく、人々のそのままのリアクションを記録したものである。これらはすべて等質につながれている。カメラをもつ主体の意識に何ほども関係なく、カラスとテロリストと吉祥寺とUFOは「現に」共存しうる。だからこそ『オカルト』は、あの信じがたくポップな地獄のヴィジョンにまで至ることができたのだ。

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 昨年より始まった「青春H」につづく「青春H2」シリーズの一本として制作された『超・悪人』は、ヴァイオレンスの要素こそあるが、恋愛映画、ないしは青春映画として見られるものである。映画史のいち辺境としてのフェイク・ドキュメンタリー史においては、すでに述べたようにホラー映画がいまなお主流であり、恋愛映画として実現している例はおそらく世界的にもほんのわずかしかないだろう。そのわずかな作例のひとつが、同じ「青春H」シリーズの第一弾として撮られた怪作『making of LOVE』(古澤健監督)である。撮影中に主演女優に恋してしまった映画監督のセルフ・フェイク・ドキュメンタリーともいえる作品に仕上がっているこのフィルムは、けれども白石作品ほどに状況設定は厳密でなく、というよりも途中からフェイクをあっさり捨ててSFに到達してしまう。これは『第9地区』とまるで同じ構造である(余談だが、終盤、丘に全裸のふたりが登場する場面は、TV版「失楽園」の川島なお美と古谷一行のショットと完全に同じだとわたしはずっと主張している)。

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 これに対し『超・悪人』は、映画とは別種の映像領域をここでも取り込むことによって、恋愛劇をフェイクとして最後まで貫き通している。それはAVである。レイプもの、盗撮もの、処女もの、とこのフィルムの三つの濡れ場はすべてAVの文体(映体)で撮られている。ここではホームビデオに映りこむ物体の「いかがわしさ」ではなく、ある種のAVのもつ「生なましさ」こそがなぞられている。それゆえ『ノロイ』や『オカルト』がもっていた、次の瞬間に何が起きるのかわからない不穏さにこそ欠けるが、それに代えて恋愛感情というやはり不定形のモノこそを、『超・悪人』は映し出す。それがもっともあらわになるのは、やはりフィルムの中心をなす「悪人」と「ミームンちゃん」との終盤のカラミのシーンだろう。このパニック障害のいたいけな処女を演じた高橋真由美の演技が、まれにみる圧倒的なリアリズムに達していることをまず指摘しなければならないのだが、彼女の演技を成立させている、AVの文体模倣によるフェイク表現こそがわたしたちの文脈では重要である。
 映画における性表現がソフトな描写で成り立つのに対し、AVは基本的にハードコア・ポルノであり、修正こそあっても局部の描写を辞さない。つまりAVには映せないものがない、という信憑がここで作品と観者とのあいだに生まれる。このことがAVの「生なましさ」の根幹にある擬制(フィクション)の構造なのであり、『超・悪人』は、そうしたAVの文法をリミックスすることによってその「生なましさ」をフィルムに取り込んでいる。そうした「生なましさ」を画面に突出させながら、同時に社会から見捨てられた男女ふたりの奇跡的な恋愛のドラマとして、ふたりのセックスは描かれている。

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 ここですこしフェイクの文脈を離れるならば、『超・悪人』における悪人・江野祥平は、白石映画における、まさに「悪人の系譜」の先頭にいる。江野を演じた同じく宇野祥平による『オカルト』の江野祥平、『超・暴力人間』(10)における「暴力人間」、さらに大迫茂生扮する『グロテスク』(09)の「謎の男」。これらの悪人たちは、例外なく突発的に暴力をふるう身勝手な男たちであり、半ばコミュニケーションのひとつの手段として暴力を用いている。『オカルト』の江野にもっともリアルに表されているように、彼らはしばしば社会的底辺に生きる生活者であり、多分にデフォルメされてはいるが、これらの悪人たちは、現実に起きる不条理殺人犯の実像にもっとも接近しているようにさえ思える。『超・悪人』のラストシーンが感動的なのは、悪人である江野が、ひとりの処女との出会いにおいて、むしろ悪を通過して恋愛を選び取る瞬間が映されているからであり、その迫真性は本家『悪人』(10)と比べるべくもないだろう。

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 白石晃士のフェイク・ドキュメンタリーは、多様化する映像環境をそのままに反映して、みずからのフィルムに巧みに組み込んでゆく。ここで比較対象としてあげるべきは、おそらくすでにふれた『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』や『REC』(07)などPOV映画ではなく、全篇を監視カメラの映像(の模造=フェイク)でつないでみせた『LOOK』(07)であり、YouTubeの映像などを駆使したデ・パルマの『リダクテッド 真実の価値』(07)であるだろう(*4)。新しい映像領域が生まれてくれば、それだけフェイク・ドキュメンタリーの領域も拡大されることとなる。社会のオモテで流通する映像を模倣すること、それは現代社会そのものに裏側から接近することでもある。『オカルト』や『超・悪人』は、一級のエンタテイメントでありながら、同時に巷にあふれる映像への、映像による批評行為としても成立している。そうした巧緻にして貪欲な模倣術こそが、白石映画の尽きせぬ現代性にほかならない。

(*1)グアティエロ・ヤコペッティ(1919−)。『世界残酷物語』(62)などで「モンド映画」の開祖となる。
(*2)ロブ・ライナー『スパイナル・タップ』(84)、ピーター・ジャクソン『光と闇の伝説 コリン・マッケンジー』(96)など。wikipediaによれば、「フェイク・ドキュメンタリー」と同義で用いられる「モキュメンタリー」は、ロブ・ライナーの発言によって大衆化したとされる。
(*3)ハリウッドが制作したフェイク・ドキュメンタリーのなかでは、怪獣映画を一個人の視点から語り直した『クローバー・フィールド HAKAISHA』(08)と、ゾンビ映画を現代化してみせた『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(08)が特筆される。『第9地区』(09)は、前半に打ち立てたフェイク構造が結局はメロドラマに回収されてしまう点で、フェイク・ドキュメンタリーとしては方法的な弱さを露呈している
(*4)『LOOK』については別のところですでに論じたことがある。
 http://archive.mag2.com/0000116642/20081015181743000.html




『超・悪人』
監督・脚本:白石晃士
撮影監督:古屋幸一 録音:中川究矢 編集:宮崎歩 造型:倉谷結衣 スチール:内藤基裕
出演:宇野祥平 高橋真由美 清瀬やえこ しじみ 久保山智夏
制作プロダクション:東京レイダース 製作:アートポート
2011年/日本/カラー/90分/ステレオ/ビスタサイズ/DV
配給・宣伝:アートポート  (c)2011アートポート


【上映情報】
7月16日よりポレポレ東中野にてアンコールレイトショー
連日21時00分より

7月23・24・26・27・28日、名古屋・シネマスコーレにて上映
連日20時20分より

8月23日〜9月5日、札幌・蠍座にて上映
上映時間等の詳細は劇場(011-758-0501)まで

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タグ:萩野亮
posted by 映芸編集部 at 17:43 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする