460HPトビラ.jpg

2011年08月12日

相原信洋追悼上映イベント「DREAMS」トーク

photo5.jpg

 アニメーション作家・相原信洋は、60年代にNFBC(National Film Board of Canada)のノーマン・マクラレンや、国内の個人制作する映画作家たちに影響を受け、8ミリカメラで自作の撮影をはじめました。初期は実験的な映画や、セルフドキュメント風の写真アニメーション、手描きアニメーションを制作します。が、「妄動」(74)をきっかけに、それまでの具象的なものから抽象的な作品をつくる傾向を強めます。
 国内外で上映会や絵画展を開催し、多数のアニメーションフェスティバルの招待から、第五回広島国際アニメーションフェスティバル、ソウル国際漫画アニメーションフェスティバル2010の審査員をつとめるなど、これからのさらなる活躍が期待されていました。しかし、今年4月30日に突然インドネシアのバリ島で客死してしまいました。
 5月下旬には、宇川直宏氏主催のもと、松本俊夫監督、かわなかのぶひろ監督、田名網敬一氏、根本敬氏、伊藤桂司氏、あがた森魚氏、木下小夜子氏らが駆けつけ、動画配信サイトDOMMUNEで番組が組まれました。様々なアーティストから、故人を偲ぶ声が出ています。
 7月16日に京都造形芸術大学で行われた、伊藤高志氏、田名網敬一氏、木下小夜子氏、池田亜耶子氏の追悼トークをまとめます。
(協力:京都造形芸術大学 進行:栗田麻子[京都造形芸術大学職員] 構成:岩崎孝正)

第一部 伊藤高志(映像作家)×田名網敬一(美術家)トーク

photo1.jpg
左から田名網敬一氏、伊藤高志氏

―――これより、相原先生と長らく共作のアニメーションをつくってこられた田名網敬一先生と、京都造形芸術大学芸術学部映画学科教授で、京都造形芸術大学の前身である京都芸術短期大学で同じ研究室にいらっしゃった伊藤高志先生お二人のトークをはじめます。

田名網 まず、伊藤さんから、相原くんと出会ったころの話を聞かせてください。

伊藤 九州芸術工科大学在学中に、福岡の自主上映団体の上映会がありました。まだ相原さんの名前も知らず、ただ「実験アニメーション」という言葉に魅かれて一人で観に行きました。それまでハリウッド系の映画や国内の劇映画に感動していましたが、相原さんの作品を観たら仰天して、まさにぶっ飛びました。血が騒ぎ「自分もカメラを持って撮影して、編集しなきゃ」という衝動にかられたんです。それから個人制作をはじめ、池袋の「studio200」で対談するとき、はじめてお会いしました。
 田名網さんと相原さんは、『風の呼吸』(01)から共作をはじめています。非常に個性の強いアニメーション作家であるお二人が、約十年間共作を続けていました。アニメーションは一人のイメージをつくりこんでいく世界ですね。お二人の共作をずっと見続けてきましたが、お互いの個性がぶつかり合うことがなく、いつも生きた作品が生まれていました。60年代から70年代にかけて、自主映画、実験映画が非常に盛んだったころ、相原さんと面識はあったのでしょうか。

田名網 国内外の前衛的な作家の活動を、勅使川原宏さんが東京・赤坂の草月会館で紹介していましたね。オノ・ヨーコさんの洋服に、来場者が鋏を入れていくという有名なパフォーマンス(ハプニング)もここでやりました。現在は大家になっているアーティストたちが大活躍していた時代です。
 国内初の自主上映会と言われている「アニメーションフェスティバル」を久里洋二さんが立ちあげ、僕は久里さんに誘われて草月会館へ出品しました。設立当初の久里実験漫画工房では横尾忠則さん、宇野亜喜良さんなど、当時若かったイラストレーターに門戸を開いていました。僕が行くとみな工房の椅子に腰かけて順番を待っているんです。「ボケッと座ってないで、少しはお茶淹れるとかなんとかしろ」と久里さんに叱られ、「はい」と言ってお茶を淹れていました。それぐらいの時代です。
 僕が草月会館のロビーにいると、笑顔の相原くんが近づいてきて「田名網さんの映画、すごく面白かった」と声をかけてくれました。それが最初の出会いです。

photo6.jpg
『風の呼吸』(01)

伊藤 相原さんは「スタジオ・ゼロ」でアニメーターの仕事をしている合間を縫い、自作の8ミリフィルムをつくっていきます。当時のプロダクションは忙しいのに、すごいバイタリティを感じます。仕事のなかでは抑えきれない、吐き出したい欲望があったに違いありません。
 相原さんは特別な出来事ではなく、自分の身のまわりで素直に感じたテーマを映画にしていきます。よく「自然児」と呼ばれていましたね。口癖のように「作品なんてウンコみたいなものです」と言っていました。制作は日常的な行為で、どこかで排泄していかないと体が壊れてしまうという意味ですね。いきなり言われると「ぎょっ」としますが、とても説得力のある言葉です。制作は特別なことではないというメッセージではないでしょうか。

田名網 相原くんと2001年から2011年まで、毎年1、2本の共作をしていました。ふつうアニメーションの作家が共作すると、些細なきっかけで反目してしまう場合も多いのですが、相原くんとは一度もありませんでした。喧嘩になってしまうことも全くなかったんですね。
 一度だけ、相原くんが怒っていることに気がつきました。編集はいつも大阪のイマジカで行います。相原くんの描いた絵を十分から二分半くらいに編集してしまいました。編集前はいつものようにニコニコしていた相原くんが、ハサミを入れたとたん無口になってしまいます。編集後に「相原くん、飲みに行きましょうか」と誘うと「僕、帰ります」と答えました。「あ、これは絶対に怒っているな……」と感じたんですね。

伊藤 無口になるとまずいですね(笑)。

田名網 つぎに編集する際はそれが頭に浮かび「ちょっとだけカットするけど、いいよね」と聞くと、満面の笑みを見せてくれました。編集した後はどんどん居酒屋へ入っていきます。撮ったら撮りっぱなしのアンディ・ウォーホルのようなやり方が好きなんですね。いらない部分を排除することが耐えられないのでしょう。頭のなかで自分のイメージが構成されているのかもしれません。

伊藤 仲を保つ秘訣があったんですね。共作のきっかけは何だったのでしょうか。

田名網 大学の僕のデスクに、相原くんが描いた原画が30〜50枚ぐらい置いてありました。パラパラめくるとアニメーションの動きになっています。彼と会っても、その原画については何の会話もありません。ふと気がついて、僕は原画を描き、彼の机の上に置きました。すると彼の分厚い原画が、また僕のデスクに置いてあります。「これ、往復書簡でしょ?」と彼に聞くと「うん」と答えました。それっきり原画については話さないんですが、そうこうするうちに、お互いの原画が800枚ぐらいになっていました。「田名網先生、来週は撮影しますよ」と言われ、そのまま撮影に入りました。

伊藤 言葉による会話がいらない関係ですね。

田名網 たとえば「画家のジョルジョ・デ・キリコでつくろうか」とお互いに決めるだけで、どのように料理するかなど打ち合わせはせずに制作していきます。それが『CHIRICO』(08)になるわけです。
 遺作となった『DREAMS』(11)をイメージフォーラム・フェスティバルに出品した後、相原くんはいつものように「ちょっと行ってきますから」とバリ島へ飛びました。今度は「死」をテーマに、画家のジェームス・アンソールを下敷きに絵を重ねてアニメーションにしようと決めていました。僕がちょうど東京の事務所で絵コンテを描いていたとき、大学から「相原さんが亡くなりました」という電話がありました。本当にドキッとしたんです。

photo3.jpg
『DREAMS』(11)

伊藤 非常に暗示的ですね。相原さんの作品に「生と死」のテーマをあらためて感じています。
 私は相原さんがブースで絵を描いている後ろ姿をよく見ていました。でも覗きに行くと、ちがう作業にうつって隠してしまいます。イメージフォーラム・フェスティバル出品の締め切り前になると、相原さんはコマ撮りスタジオにこもって撮影をしていました。何度も「なかに入れてください」と頼んだんですが、一切なかに入れてくれません。そっとスタジオに忍びこみ、ひそかにめくってみたことがあります。相原さんの原画は、一枚だけではどのように動いていくかわからないくらい混沌としています。でも、アニメーションになると非常に秩序を持った動きが生まれていきます。

田名網 アニメーションをつくる際、ふつう綿密な絵コンテや、16ミリなら撮影時にコマを計りますね。でも相原くんはスコアシートさえ見たことがないんです。

伊藤 私も見たことがないですね。

田名網 相原くんは下書きをせずに線を引いていきます。全部アドリブなんでしょうね。出来あがって撮影するとアニメーションになっています。世界でも稀なアニメーション作家ではないでしょうか。前期はラフに見えますが、後期になると線の細かさや滑らかさに圧倒されます。僕の周りでは有名な方がたくさんいますが、天才と呼べる人がいません。でも相原くんは本当に天才だと思います。

伊藤 相原さんの映像を見たときに、一瞬で「相原信洋だ」とわかりますね。一瞬でその作家とわかることは稀ですね。田名網さんにもそれがあります。それくらい強烈な個性を持ったお二人が、言葉のいらない夫婦のような関係でアニメーションをつくっていることに感動します。

田名網 夫婦なんて、もっと陰険な関係ですけど(笑)。

伊藤 喩えが悪いですね。二人には信頼した愛を感じます(笑)。
 70年代は、顔のない娼婦がこちらを見ている『やまかがし』(71)や、肉親のドキュメントの写真のなかに、自分のイラストを折りこんだ『鳳仙花』(73)など、今の作風からするとまったくちがう素材を作品化しています。具象から抽象へうつり、線の運動だけの世界へ変化していきます。私は相原さんや松本俊夫監督に影響を受け、映像作家としての現在があり、また映像の歴史のなかに一つの点として存在しています。でも相原さんは誰の影響かわかりません。影響がまったく感じられない、突然変異のような作品群が残されています。何に影響を受けたのか、その辺りを教えていただけますか。

田名網 僕は以前から相原くんが買ってくるものをつぶさに見ていました。相原くんはピンク・フロイドが好きだったと聞いています。本棚を見ると三枚に一枚はピンク・フロイドのDVDですね。相原くんはビジュアルではなく、音楽からの影響があったのではないでしょうか。ロック・ミュージックが特に好きでしたからね。ミュージシャンの友達も多いと聞いています。

伊藤 ピンク・フロイドをあらためて聞いてみましょう。

田名網 後半は、広島国際アニメーションフェスティバルのディレクターをしている木下小夜子さんと、相原くんの作品の編集を手がけていた池田亜耶子さんと話をします。


第二部 田名網敬一×木下小夜子(広島国際アニメーションフェスティバルディレクター)×池田亜耶子(京都芸術短期大学映像専攻科卒業生)トーク

photo2.jpg
左から田名網敬一氏、木下小夜子氏、池田亜耶子氏

――トークショーの第二部をはじめます。引き続き田名網敬一先生と、広島国際アニメーションフェスティバルディレクターの木下小夜子さん、相原先生の京都芸術短期大学映像専攻科を卒業され、その後、先生と同じ京都造形芸術大学情報デザイン学科の研究室スタッフであり、いくつかの作品の編集を手がけた池田亜耶子さんに来ていただきました。後半は、相原先生の人間味あふれる部分を紹介していただきます。

田名網 木下さんと池田さんは、相原くんとどれくらいの時期に知り合ったんですか。

木下 草月会館で相原さんを、作家のひとりとして遠くから見ていました。私の連れ合いのアニメーション作家の木下蓮三に「自分はこんな作品をつくっていきたいんだ」と会話をしていて、間に入って彼といろんな話をしました。その熱心な印象が頭から離れない状態で、彼の作品をずっと見てきました。

池田 私は京都造形芸術大学の前身の、京都芸術短期大学のオープンキャンパスへ来てはじめて相原先生とお会いしました。京都芸術短期大学の映像専攻科を卒業し、京都造形芸術大学情報デザイン学科アナログアニメーション工房のスタッフとして、相原先生の授業のサポートをしていました。その後、相原先生と一緒の研究室で働くことになって、数作品の編集を手がけました。

田名網 僕は相原くんと音楽やアニメーションの話はよくしていました。が、個人的な話はあまり聞いていません。
 エピソードがあるとするなら、アニメーションの編集の後に相原くんが「天ぷらそばを食べましょう」と言うんですね。「酒を飲むと食べない相原くんが、珍しいな」と思いながら、ついていきました。店でメニューを開くと天ぷらそばに海老が二本のっています。相原くんは店員を呼び、海老二本を指さして「これ食べられないから、一本にしてください。もったいないでしょ」と言いました。店員は、「お店の決まりで、値段が変わっちゃうので出来ません」と困った顔をしました。でも相原くんは「一本にしてくれないと、俺、頼まない」と頑固なんですね。結局、押し通して海老が一本になりました。「やっぱり、この人変わってるなあ」と思ったんですね。
 相原くんと池田さんはすごく仲が良かったと聞いています。相原くんはプライベートな話を池田さんに相談していたそうですね。僕は二人の仲を疑いましたが、単に相談をしていただけのようです(笑)。相原さんはすごく女性にモテていたんですよね。

池田 相原先生は毎朝、喫茶店でコーヒーを飲んでから来校されました。気分が良さそうに「すごくいい喫茶店、見つけたんだよね」と仰り、いつもご機嫌でした。「ちょっと、聞いてよ。ちょっと、まずいよー。喫茶店に行けなくなっちゃった」と、ある日血相を変えて来校されました。「先生、どうかされましたか?」と訊ねると、相原先生が喫茶店のレジへ行くと、支払いを拒否されてしまったそうです。相原先生は「僕、まだ払ってないじゃない。誰が払ったの?」と聞くと、レジの方は「後ろにいる年配の女性からいただいております」と言ったそうです。
 後日、相原先生からナイロン袋に包まれた栄養ドリンクを手渡されました。それまで相原先生から栄養ドリンクをいただいたことがありません。遠慮して「受け取れません」と断りました。相原先生へなぜ私へ栄養ドリンクを手渡したのか問いただすと、実は喫茶店と同じように、コンビニのレジへ行くと支払いを拒否されてしまったそうです。相原先生は「僕、まだ払ってないじゃない。誰が払ったの?」と聞くと、レジの方は「後ろにいる年配の女性からいただいております」と言ったそうです。振り向くと、喫茶店にいた同じ年配の女性だったらしいんです。「池田さん、コンビニにも行けなくなっちゃった。彼女からもらった、栄養ドリンクを受け取ってください」と相原先生は仰いました。特に、年配の女性にモテてらっしゃったエピソードです。

木下 相原さんの作品を見ていると、生と死と、それから性のテーマがあると気がつきます。相原さんの醸し出している部分を、女性は本能的にわかってしまうのではないでしょうか。私と会話するときは女性との関係はおくびにも出しません。相原さんは真面目でもどこか抜けている可愛げさがありました。でも本人は「まかせときなさい。僕が来ましたから」とナイトを演じていました。いつも飄々としていましたが、女性の話になるとうまく煙に巻いてしまうんですね。

田名網 女性関係の話も聞きたいんですが、制作の話に移りましょうか。

池田 相原先生が風邪をひいたときに、よく夢に出ていたトンボを形象化した『MEMORY OF RED』(04)という作品があります。トンボがあらわれる前後に、赤い模様が浮きでています。相原先生はアニメーション工房のデコボコした木の机の上に紙の動画用紙を置き、上から赤鉛筆でフロッタージュしていました。学生たちは人形アニメーションの授業で、強力な接着剤であるボンドG17を使いますが、みな慣れないせいかボタボタ垂らしてしまい、机の上がデコボコになっています。相原先生は机の横にたくさんの紙の動画の束を置かれ、ずっと描いてらっしゃいました。

photo4.jpg
『MEMORY OF RED』(04)

田名網 相原くんは旅行が好きでしたね。一か月後が会期の締め切りにもかかわらず「またチェコ、行ってきます」と言い、いつものように鞄へ絵画用具一式を詰めて旅立ちました。ホテルやカフェなどところ構わず描いて、帰国するころにはすごい動画枚数になっていましたね。
 色彩豊かな斑模様が連続していく『MASK』(91)は、動画用紙を二つ折りにして、片方に描いた模様をもう片方へ転写するロールシャッハテストなどで知られるデカルコマニーの手法をつかっています。「相原くん、膨大な動画枚数があるけど、二つ折りにしていくの嫌でしょ」と聞くと、「田名網先生、あれはデカルコマニーじゃないんですよ」と言っていました。ここで言うのも憚られますが、あれは女性の性器のイメージなんですね。

木下 相原さんの作品すべてに色っぽさを感じていました。「官能的ですね」と伝えると喜んでいました。相原さんは、仕事と並行して年に数本の作品をつくりあげます。一枚の動画用紙に描いた絵を見てもすごい執念を感じます。大学の生徒たちは相原さんのそういうところを見て慕っていた気がしています。私の講演に相原さんが同行すると、必ず「今ごろの学生はおとなしいのよ。いい子なのよ。授業中、全然、リアクションがないから不安になってくるのよ。質問ある人って言うと、全然手を挙げないんだよ。授業が終わると一人ひとり来るんだよ。授業中に質問してくれって言うんだけど」と言っていました。相原さんは「講演で聴き手のリアクションが無くても気になさらずに」と、気づかってくれたんですね。

池田 相原先生は教員生活が長く、授業も苦にならないのだろうと思っていました。でも授業が終わると相原先生から「今日の授業って、みんなわかってくれたと思う? 今日の授業って、みんな楽しかったかな? みんなアニメーションをわかってくれているのか、すごく心配なんだよね」と、疑問を投げかけられることもしばしばありました。相原先生がお亡くなりになってすぐ、卒業生のみなさんがウェブ上で「先生がいたから、今の私があるんです」と書いていました。何の心配もいらなかったんですよとお伝えしたかった。

田名網 相原くんは、ライブペインティングをしていましたね。様々なアーティストのライブペインティングを見ましたが、やはり相原くんが一番うまいでしょう。スピード感と線のきれいさは誰も敵いません。

木下 ペンや鉛筆の持ち方がやわらかくて、筆圧も軽いんですね。彼のライブペインティングを見て、線のやわらかさの秘密に気がつきました。

田名網 短編アニメーション集の「2009-2010 Animations made in one year」の「FLOWER」に、線描の美しさがあらわれています。たとえば『おしろい羽根』(72)は、イカロスのように都会から工場街へ飛んでいき、最期には翼が壊れて落ちてしまう物語です。70年代前半は後期から見比べると、線も、動きもぎこちないと感じてしまいます。初期の実験映画から、後期のドローイング・アニメーションになり、だんだんと自分のスタイルが出来ていったんでしょうね。

木下 相原さんは、「とにかく作家は作品をつくり続けなきゃ」と言っていました。彼はやはり生や死を身近にひきつけて考えていた気がしています。池田さんは相原さんが亡くなってすぐ、夢に出てきたと聞いています。どんな夢だったのでしょうか。

池田 私は二度ほど相原先生が夢に出てきました。亡くなった数日後、「池田さんにやって欲しいのよ。池田さんにお願いしたいのよ」とずっと笑顔で仰っている夢です。二度目はヘルメットを被った相原先生がバイクにまたがり、横で田名網先生が「相原くんさ、戻ってきたいんだよね。じゃあ、ヘルメット取ってくれる?」と仰っている。相原先生は、お亡くなりになって動けないにもかかわらず、力を振り絞ってヘルメットをはずす夢です。

田名網 僕は「相原先生が亡くなりました」と大学から聞き、二、三時間考えに耽っていると、ぼろぼろと涙が出てきました。長い間共作して、彼の印象が鮮明に残っていましたからね。滅多に泣かないのに、やはりショックだったことを思い出します。
 相原くんも、今日はたくさん来場してくれて、喜んでいるでしょう。これを機会に、是非みなさんに相原くんの作品を見ていただければと思います。



『般若心経』
アニメーション:田名網敬一 相原信洋
音楽:佐伯雅啓
2010年 /6分/16ミリ


『FETISH DOLL』
監督:田名網敬一 相原信洋
音楽:あがた森魚
2003年/4分20秒/16ミリ

田名網敬一オフィシャルサイト
http://www.kingofmountain.info/rolling_60s/
posted by 映芸編集部 at 13:24 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする