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2011年08月24日

『わたしたちの夏』
福間健二(監督)インタビュー

 福間健二監督は新作『わたしたちの夏』の中で、かつて日本人が直面した被爆体験を、今を生きる非当事者の視点から捉えなおそうとしています。そこで採用される手法は一筋縄ではなく、見方によっては難解な印象を受けるかもしれません。しかし前作の『岡山の娘』と同様、解体と構築の意志が強くせめぎ合うような世界観や、登場人物たちの生々しい実在感は、同時代の日本映画には見出すことが難しいものです。ごく少数のプロフェッショナルなスタッフを中核として、学生たちと共に作り上げられたという本作の現場に、監督はどのようなビジョンを持って臨んだのでしょうか。このインタビューでは、映芸ダイアリーズから、映画作家で批評家としても活動する金子遊さん、そして映画監督の深田晃司さんに聞き手をお願いして、福間ワールドの深層に迫りました。
(聞き手:金子遊 深田晃司 進行・構成:平澤竹識)

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金子 今回も前作の『岡山の娘』(08)と同じく夏の話ですけれども、そこに戦争と原子爆弾というテーマが加わっています。ただ、3.11以降になると二つの原子爆弾を落とされたということが、少し違った意味合いを帯びてくると思うんです。その辺りのことはどう考えていますか。

福間 偶然ですが、実は去年の今日(8月11日)からこの映画の撮影を始めたんです。その一ヶ月くらい前から準備を始めたという、いわば速攻企画ですよね。7月初旬の、もう一ヶ月後には撮影に入るというときに、素材的に一番使えるものは何なのかと考えて、「日本の夏」ということを思いついた。日本人は65年くらい、夏の暑さの中で戦争を思い出すということを空疎に続けているところがありますよね。普段は忘れてるのに、7月の下旬からNHKが戦争の特集番組を放送して、今まで知られてなかった真相が出てきたりする(笑)。結局、この映画はそれに乗ってるんだけど、本当にそれでいけるのかというのが相当心配なわけです。映画の冒頭のナレーションでも、日本人は「水をください」という一言に違う意味を持ってるんだと言ってるけれど、実際のところはそうでもない。それを意識してるのは「はだしのゲン」を読んでるときだけかもしれない(笑)。
 ただ、ひとつ夏をくぐるたびに、ひとつ夏をくぐった日本人の表現があると思うんですよ。去年の夏に若松さんの『キャタピラー』(10)が公開されましたが、あの映画は8月15日の終戦を描く日本映画の典型的な映像を全部使ってますよね、かなり稚拙に。それに対して自分のやれることがひとつはあるのかなという気はしてたんです。そういうことを編集の過程で改めて考えていくなかで、最後に3.11が起きた。僕はあのとき、たまたま日本にいなかったんですよ。外国から戻ってきて、日本人がこれをどういうふうに受け止めてるのか、自分とのギャップも気になったんだけど、東北、福島から離れてるところでも人々ははげしく動揺していた。当事者じゃない人たちが、大きな事件や出来事から何かを受け取るというのは、『わたしたちの夏』で考えたことと繋がってきたなという気はしました。

金子 「水をください」というのは最初、被爆者が発した言葉として千景のモノローグの中で紹介されるんですが、映画は森に迷い込んだ千景にサキが水を渡すというラストを提示します。あの飛躍が震えるほど素晴らしいと思うんですね。原爆を素材として扱うときに、政治的なメッセージという形じゃなくて、これだけ考え抜いて使われているのは珍しいですよね。

福間 日本人にとって「水をください」は「はだしのゲン」なんだよね。だけど実は、それ以前に原爆の詩だったら峠三吉もあるし、原民喜もある。「はだしのゲン」から峠三吉、原民喜という流れが、単にメッセージ的な表現から深いものを持った表現へ遡っていく感じになると思う。やっぱり原民喜がすごいんだと感じるところで、キノコ雲の映像が使い回されてる状況に対して、自分が何かやれるんじゃないかなという思いはあったんですよ。それでまさに去年の今日、小原早織が原民喜を朗読するシーンを撮ったときに「これでいけるかな」という手応えは感じました。

金子 千景にサキが水を渡すのは、千景の元恋人でサキの父親である庄平が死んだ後のことですよね。つまり、何の繋がりもなくなった世代の異なる二人が一瞬だけ繋がり合う、そこで「水をください」という言葉が肯定的なメッセージとして引っくり返るわけですが、あれだけの飛躍があると、挑発的すぎて観客からは疑問符や不適当だという声すら出てくるかもしれませんね。

福間 昔、『殺人者にラブ・ソングを』(72)というB級アクションがあって、「ここからカーチェイスかな」と思うと、その前に車を爆発させちゃうんですね。それでいいんだよ、という感覚がどこかにあるんですよ。カーチェイスを見せるために退屈になっていくような映画がほとんどだから。
 千景とサキが気持ちを通じ合わせるときにも、その過程にいろんなドラマがありうるよね。でも、「意外と千景さんは私のこと分かってくれてたんだ」とか「サキちゃんにも実はいいとこあるんだ」みたいなことは、テレビで毎日やってるドラマと同じだからやらなくてもいいと。千景が夢の中からなのか、とにかく自分がどこにいるのかわからなくなったところから、サキに電話をして水を持ってきてもらうというのを最後に用意しておけば、途中のそういうドラマは見せなくてもいいという確信の下にやってるわけです。

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金子 電車に乗っている千景の映像に被るモノローグがありますよね、写真を始めて数年後に広島を撮ったら、先輩の写真家から「ヒロシマに触るな」と言われたという。あのエピソードは千景というキャラクターにとって重要なのかなと思いました。

福間 というより、僕自身にとって重要な部分ですね。ああいうところで千景さんは、僕が30年近く映画を撮りにくいと思っていた感覚を背負ってるわけです。簡単にヒロシマを撮れる人もいるんですよ。でも僕の場合は、そういうものに簡単に触れていいのかという葛藤があって、今回はそこから一歩踏み出そうという気持ちがあった。「原爆に触るな」とか「8月15日に触るな」と言ってる自分の声に対して「触っていいんだ」と。当事者じゃなくても、それから表現者としていろんな理屈を積み重ねていなくても、そこに触っていいということをやりたかったんです。

深田 その触り方がとても倫理的だなと感じました。若松さんは『キャタピラー』で大きな戦争観みたいなものをドンとお客さんにぶつけるようなやり方をするわけですよね、良くも悪くも最後にキノコ雲を出しちゃうような。ただ、僕らが戦争を思い出す場合には、現代から過去を考えてくしかない。この映画の千景とサキは二人とも戦争体験のない世代で、その距離感のもどかしさもよく出ていると思いました。

福間 戦争に対する日本人のナイーブな感性と世の中で起きてる問題が乖離してるような気がするんですよ。だから、ナイーブな感性は大事にしていかなくちゃいけない反面、いろんなことが複雑に進行してるのをとらえたい感覚もある。そこをどう表現したらいいのか、今回は自分にとって嘘がない形でやれば、ある程度はそういうニュアンスが出るかなという感じでやっていました。
 撮影前の時点では、参議院選挙で民主党が負けた後で、ナイーブに言えば、鳩山も菅も全然信頼できないという感覚があったと思う。と同時に、そんなところに本当の問題があるのかという感覚もあったんだけど、映画ならその両方をやれるんだよね。

金子 サキの恋人の名前が「ナオト」なんですよね。シナリオには「タロウもユキオも金を持ってるか持ってないかの違いだけだ」みたいなサキの台詞がありますけど、それが2010年の夏の実感だったということですか?

福間 まあ、ひとつの遊びですけどね。「ナオトとつきあってる意味が分からなくなった」というのが恋人同士の台詞としてあるんだけど、それは当時の日本人の多くが思ったこととたまたま同じ表現になったということでいい。ただ、「タロウもユキオも〜」という台詞となると、作者が意識して介入してる言葉すぎると思ってカットしました。
 あの辺はだいたい小原早織のアドリブなんですよ。「女々しい男の子が多すぎる」という言葉も、彼女が今の男子に抱いてる感情だと言うんで、そのほうが「タロウのバカ、ユキオのバカ、ナオトのバカ」というシナリオにある台詞よりは強いかなと。だから、サキのキャラクターには小原早織の意見が結構反映されていて、千景さんのほうは僕と晶ちゃんが一緒に作っていった感じなんです。

深田 その話を聞いて思ったんですけど、エリック・ロメールは『友だちの恋人』(87)という作品のときに、ヒロインのエマニュエル・ショーレと二年間くらい定期的に会っては映画と関係のない話を延々して、そのときの彼女の言葉をどんどん台詞に反映していったそうなんです。それで面白かったのが、ロメールは「彼女の言葉が自分の考えや意図に反していても、それは真実だからそのまま入れる」と言ってるんですね。それはいわゆる即興の台詞ではないけれども、そうすることであるドキュメント性がフィクションの中に混じりこんでくる、『わたしたちの夏』からもそういう豊かさを感じました。それはどの程度、意識的にやられていたんでしょうか。

福間 だから、ドキュメンタリーの「本当」とも違うし、芝居で台詞を言ってもらってるのとも違う。「嘘」なんだけれど「存在する」場所というか、ユスターシュなんかそうだよね。『ママと娼婦』(73)は完全に劇映画だけれど、ほとんど全部が「本当」に見える。なかなかああいうのは撮れないけど、そういう感じは目指してましたね。

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深田 千石英世さんの授業の様子なんかは、小原さんの実像に近いように見えるんだけど、そうなると原民喜についての話とかも、本当に彼女がそれを読んでいる子なんじゃないかとも思えてくる。立花サキと小原早織の境界が非常に曖昧になっていく感じが、僕にとってはすごく面白いところでした。

福間 今回は彼女だけじゃなくて、学生スタッフと一緒に仕事をしてたから、できるだけ彼らのアイデアを入れようという思いがあって、どんどんアイデアを出してくれとは言ってたんですよ。それが前提としてあるんだけど、まあ、彼女も自分なりに考えて嘘をついてくれてるわけですよね、僕が意図してるようにかどうかはともかくとして。それって、アンナ・カリーナ的と言えるかもしれない。アンナ・カリーナは結局、即興芝居をしてないでしょう。ゴダールが望むような即興芝居を「演じて見せてる」と思うんだよね。

金子 前作『岡山の娘』のときは、映画の冒頭にインタビューで登場する女の子(西脇裕美)が、その後、みづき役として映画の物語に登場することで、現実世界から虚構世界へのスムーズな移行が図られてましたよね。今回はワシントンホテルに集まる外国人の風景を撮りながら、千景のモノローグに入っていく。その導入が面白いんですが、なぜなのかなと思うんですよ。福間さんが現実のリアリティのすぐ隣に映画の世界があるということを強調したいのか、それとも深田さんが言うような、現実とフィクションの境界を曖昧にしていくということを目指しているのか。

福間 『岡山の娘』のときは苦肉の策だったところが結構あるんですよ。ああいう構造になった一番の理由は、みづきを演じた西脇裕美が当初はみづき役ではなかったからなんですね。別の役を演じているのに、その尺も使わなければ映画が成立しない状況だった。ということは、映画の中にみづきを演じてる以外の彼女が存在しなきゃいけない。それを成立させるために、ああいう構造にしたんです。だから、諏訪(敦彦)さんがやっているような、「演じる人」と「演じる役」が同時に存在しているということを、最初から意識していたわけではありません。それが出ている部分をわざと使おうということだったんです。そういう部分も使おうとなれば、『岡山の娘』のような構造にならざるをえない。今回はそれがある程度、意図的だったわけですね。それでどこまで行けるのかというのは、編集に入るまで分からないところがありました。
 僕は現場でほとんど画面を見てないんですよ。やっぱり監督は人間と向かい合ってなきゃという思いがある。だから、千景とサキと庄平の三人を撮るうえでも、とにかく「生きてる」感じになっていればOK。それが役の上でなのか、そうではないところでなのか、監督としても分かってないところがあったかもしれない。この映画では、リハーサルして芝居を作ってキャラクターに嵌める、監督が結果を予め作って俳優の芝居をそこへ持っていくということは全くしてないんですよ。そんなことはしちゃいけないって、どんな演技の本を読んだって書いてありますから。でも実際には、日本映画の現場でそれを分かってない人が多いよね。

深田 そこら辺は僕も現場に入ると強く感じることで、いざリハーサルをやろうとすると、スタッフが最初から俳優にキャラクターに従うことを求めてしまうんですよね。「こういう演技だったら、ちゃんと仕事をしてるよね」というレベルの芝居を待ってるんです。そういうスタッフ側が持っている固定観念がとても強くて、それを打ち崩していくのはすごく大変なことだなと思いました。
 『わたしたちの夏』の演出を見ると、そういう固定観念に対する揺さぶりを強く感じます。映画ファンが安心する演技というものから遠い芝居をみんながしている。ナマの小原早織さんがいきなり顕わになってしまう瞬間、一般的なフィクションの映画のスタッフから見ると「この俳優、仕事してないじゃん」と言われるような瞬間が積極的に採用されているという、その面白さはありますよね。

福間 本当にそれは、日本のドラマや映画のある部分を作ってる人たちに考えてもらいたいところですね。AKB48の写真をバーッと見たときに、誰も「生きて」ないですよね。宮アあおいや蒼井優がいいのは、そうやって作った表情じゃない、抜けた表情が出せるからでしょう。彼女たちがすごくいいとは言わないけど、ひとつの映像表現としてその差は大きいよね。宮アあおいだったら、そういう抜けてる部分、芝居をせずに存在してしまっている瞬間をたっぷり出せるのに、みんなそれを潰して撮ったり繋いだりしてる。だから、大した映画がなかなか出来ないんですよ。

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金子 『わたしたちの夏』で言うと、千景役の吉野晶さんはプロフェッショナルな俳優ですし、ナマな部分でのノイズみたいなものを出さずに、比較的安定した演技をされてますよね。

福間 演技論で言うと、晶ちゃんの芝居はマーロン・ブランドやジェームス・ディーンがいたアクターズ・スタジオ・メソッドですよね。そのメソッドにも一長一短あって、僕はアクターズ・スタジオ以来の「自然に見える芝居」の嘘というのも感じてるんです。その傾向は『人のセックスを笑うな』(07)とか深田さんの『東京人間喜劇』(09)とか、若い女の子があるリアリティをもって存在してるというタイプの、最近の映画にまで繋がってると思う。でも、そうじゃないんだ、映画はやっぱり見せるんだというね、「存在する」だけじゃなくて「見せる」というのはどういうことなのか、それを考えながら撮っていったところはありました。だから、まず90分の映画を作りたいと思ったときに、90分というのはどういうことなのか、それは「見せる」ということなんだと。そこで晶ちゃんのやり方とぶつかったところはありましたね。

深田 僕が『東京人間喜劇』を撮ったときは、脚本に予め書かれた部分と、俳優に委ねて俳優自身の言葉を話してもらうところがあったんですね。映画の場合は、そこにカメラが存在するという最大の嘘があるわけで、俳優がカメラを意識していることが露呈してしまったカットを敢えて使ってみたりとか、そういう揺さぶりをなんとか映画の中に入れていこうと思ってました。だから、『わたしたちの夏』ぐらい徹底してやっているのを見ると、ああ、なるほどと思います。

福間 映画には今言ったようなこととは別にいろんな要素があって、一方では「いい顔」を撮らなくちゃいけないとも思うんですよ。言ってしまいますが、晶ちゃんは撮影のとき、41ぐらいになってたんだよね。僕は彼女が24、5のときに出会って、「いつかきみの主演映画を撮る」と言ってたんです。女性の20代半ばから40代までというのは大変な時期ですよね。でも、そういうなかで彼女なりに自分の魅力を保ってきてくれたということに対して、感謝の気持ちを持って撮らなきゃなあという思いがありましたね。

――この映画の三人が纏っている空気感、虚構世界への馴染み方というのが微妙に違いますよね。庄平役の鈴木常吉さんは歌手ですし、皆さんの出自も異なります。その辺りのあんばいについて、キャスティングの段階からどのように考えていたんでしょうか。

福間 僕の映画では「芝居」を撮りませんからね(笑)。むしろ、それぞれがいい画を作ってくれればいいという思いがあるんで、違ってるほど面白いかもしれないんですよ。本当に込み入った日常生活を描いていくような、深田さんの『歓待』(11)みたいな芝居をやらせたら、この三人では大変でしょう。だけど、僕の映画では基本的に路上で立ち話をしてる程度ですから。オリヴェイラも結局それでしょう。存在を並べて撮ってるだけで、芝居は撮ってない。でも、これで映画を成立させるんだという監督の意識が強く働いている。若松さんの『キャタピラー』も、なんというか、これは嘘だらけの芝居だけど、監督がそこで成立させる場所というのを信じてるから成立してるんですよね。

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――『岡山の娘』のヒロイン役の子も今回の小原さんもすごく良かったと思うんですが、演技経験の少ない若い女性を演出するうえでの秘訣が何かあるんでしょうか。

福間 短期間の撮影という条件もあるから、コントロールしきれない部分もあるという前提で撮ってるんですよ。そのコントロールしきれない部分を編集でどう活かすかということをいつも考えます。『おわらない物語 アビバの場合』(05)という、ひとりの少女を9人の女優が演じてるアメリカ映画があったじゃないですか。極端に言うと、僕はあれでもいいと思ってるんですね。多重人格ということではなくて、ひとつの役柄をひとりの俳優が演じなくてもいいという考え方なんです。この映画のサキも、登場したとき、お父さんと話してるとき、大学で話しているとき、それぞれに全然違うんだけど、ひとりの女の子としてだんだん魅力的に映るような感じになってくれてればいいなと思ってました。

金子 千景の他に友人のまり子(松本雅恵)という女性が出てくるじゃないですか。どうしてこの映画では、アラフォー女性を描こうとしたんでしょうか。まり子は女優を目指していて、オーディション会場で「なに、あのおばさん」って言われるシーンがあったり、人間としては確かに面白い年代なのかなと思ったところはあったんですけど。

福間 その辺りは吉野晶の投影でもあるんですよ。彼女は瀬々(敬久)君の『汚れた女(マリア)』(98)に主演してるけれども、そのあと女優としてもうひとついい仕事をするチャンスがなかった。そういう時間を映画にも出したいけど、あまり直截的にやるのも嫌だから、その部分をまり子に引き受けてもらおうかなと考えたんです。
 ただ、社会がアラフォー女性をどういうふうに遇していて、そこにどんな問題があるのかという描き方はしたくなかった。『悪人』(10)のように、社会の中で冷遇されてるからこういう人間なんだ、という描き方はもう50年古いと思うわけ。それこそ、トリュフォーが批判した古いシナリオですよね。それは何か社会性があるように見えるんだけど、そうじゃないんだと。千景さんがどう生きていくかというときに、あの雑貨店の収入で将来どうなるんだという現実的な不安もあるけれども、それよりもっと大きな悲劇のなかへ連れ出したかったんです。要するに、人間のことを社会のせいにするなってことなんですよ。それが人間の描き方のポイントなのに、『悪人』はそれをやってる。社会が悪いというのはもっと別の形でやらなきゃ。

深田 映画の中で人物が抱える葛藤というのは、脚本の手管でもあるわけじゃないですか。葛藤があって、その原因があってというふうに物語を作っていく、それはもう一昔前の作り方なんだという考え方にはすごく共感します。『わたしたちの夏』でいいなと思うのは、登場人物とかテーマとか詩の朗読とか、いろんなモチーフがどんどんスクリーンに投げ出されていく、でもそれを福間さんが一本の線として結び付けてしまわないところです。「もっと大きな悲劇なんだ」という点も、大きな悲劇を感じてる人間には共感できるけど、それを感じてない人たちにまで押し付けることはしない。そういうところが、21世紀の映画だなと感じました。

金子 『急にたどりついてしまう』(95)だったら伊藤(猛)さん、『岡山の娘』では信三、今回の庄平もそうなんですけど、いわば一貫して「ダメ男」を撮られていますよね。

福間 映画を見た人には、こういうダメなお父さんが好きなんですか?って言われちゃうかもしれないんだけど、僕の気持ちですよね。お父さんになってしっかりやっていくぞっていう人に対して、はっきり言うと抵抗がある。「偉そうに言ってても、いい加減な子供をたくさん育ててくれたな」というのが本音ですよね。全共闘世代とか言いながら、家でどういうお父さんだったのかと。そういう人たちよりは、庄平のような男のほうがずっといいと思ってるわけです。
 人間の存在としても、軽いマゾヒスト的な感じがいいと思ってるんですよ、特に男に関してはね。それが女性に生きる余地を与えていくでしょう。やっぱり女子は怒ってもらわなくちゃいけない。女性に怒ってもらう場所を作ってあげられる男性がいいですよね。

金子 千石先生の授業にサキが出ているときに、最近読んだ小説の感想を言いますよね。映画の中でタイトルは伏せられてますけれども、長嶋有の「サイドカーに犬」に関しての感想を言う。その小説の設定が、かつてのサキと千景の状況に酷似していて、サキはそのストーリーが面白くなかったと話します。つまり、この映画では物語を通して何かを伝えるというよりも、メタ的な構造の中でダイレクトに解釈というか意見を言ってしまうわけですよね。

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福間 あれはきわどいところなんだけど、表現というのはどこかで批評的なものも含まなきゃいけないだろうと。そうした場合に、ポストモダンのときに言われたメタ性、自己言及的な閉じこもりよりも、他者の作品に触れるということが批評の根本ですよね。だから、文芸批評の引用のレベルであればアリかなと思ったんだけれど、どうかなあ。結局、小原早織があの小説に対する批判を、授業に出ている一人の学生の存在として言えてるということが、現実にある風景としてそれを撮れたということが、重要だったんですね。あれが成立しなかったら苦しかったかもしれない。あとは偶然も重なっていて、千石英世はたまたま長嶋有作品についても批評を書いてるんですよ。彼の中にそういう蓄積があったうえで小原早織の話を聞いてるから、ちょっと深みがありますよね。彼女が言ったことに対して、彼の言葉がうまく迎えてくれてるという感じになってると思う。
 あの辺は、シネマ・ヴェリテ的な手法で、小原早織はあの小説についての感想を少しずつ変えながら三回喋ってるんですよ。それを編集してるんだけど、秦(岳志)君の編集がまたうまいんだよね。こんなになっても大丈夫?という撮り方をしてるところがたくさんあったんだけど、「ドキュメンタリーに比べれば楽なもんですよ。だってホンがあるんだもん」って(笑)。だから、あのシーンなんかはとくにホンがあるうえでのドキュメンタリーですよね。

金子 秦さんが福間さんのかつての教え子で、さらに佐藤真さんの作品など、ドキュメンタリーの映像編集者でもあるというのは大きいですよね。

福間 佐藤真さんはドキュメンタリーのあり方を問う人だったけど、そういう人と一緒に仕事をしてきてるから、彼は映画のあり方自体が揺らぐ部分についての理解があるんですよ。
 また、小川(武)さんの音が入ったところで、映画がもうひとつ深くなったという気がします。映画における音というのは完全に嘘なんだよね。橋本文雄さんの本(「ええ音やないか - 橋本文雄・録音技師一代」)を読んでも、本当の音はほとんど本当の音に聞こえないと書いてある。今回は本当じゃない音をどう入れるかというところで悩みましたね。小川さんはちょうど『マイ・バック・ページ』(11)をやった後で、あの映画は今の日本映画が技術的にある程度の仕事をすれば、このぐらいが最高だという部分が出てると思うんですよ。でも、控えめだよね。小川さんもそれをくぐり抜けた後だから、「これは大胆にやっていいですよ」と言ってやってもらいました。

金子 この映画はカメラマンの鈴木一博さんとの関係性があったから撮れたと他のインタビューでも話されてましたけど、鈴木さんとの作業についても聞かせてください。

福間 彼は廣木(隆一)さんみたいな「映像派」、つまり映像的にはいいセンスを持ってる監督に対して、中身を与えられるカメラマンなんですよ。鎮西(尚一)さんの『スリップ』(09)もそうだし、安藤(尋)君の『blue』(01)もそうなんだけど、普通は逆でしょう。映像のほうを、それだけをカメラマンに頼る。そうじゃないんだよね。ここが一段、普通のカメラマンより上だという気がします。

金子 カメラはCANONのEOS-5Dですか?

福間 そうですね。『結び目』(09)を見たときに、一眼レフデジカメのムービー機能でこれだけのことができるんだと驚いたんです。あれはニコンの一眼レフでしたけど、緑とか本当にきれいに撮れる。それを今回はやってもらおうと思ってました。

深田 僕の『歓待』(11)という映画もEOS-7Dで撮ってるんですけど、全体的に7Dの癖をできるだけ抑えて、きれいに整える方向でやったんです。『わたしたちの夏』は5Dならではの個性を全面的に活かしていて、その面白さはすごく感じました。

福間 5Dらしい画のよさはよさとして、35ミリの映画らしい画を意識しながら撮ってもらったところもあります。というか、撮影終わったところで、そういうことだってことになった。カラコレの段階でもう少し複雑になってきますが、5Dにしても7Dにしても、それ特有の画というのはあるんだけど、35ミリで撮られてきた「いい画」の積み重ねというのを映画史は持ってるわけでしょう。それに対して、「もう違うんだよ」とは言えないですからね。

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――この映画には、写真として撮られた静止画と動画のストップモーションとしての静止画が共存しています。スチールカメラで動画も撮れるようになった時代に映画をどう規定するのか、という問いかけが福間さんの中にあったのかなという気がしたんですが。

福間 映画は「ムービング・ピクチャーズ」と言われてるように、動くのが当たり前と思われてるんだけど、なぜ動かなくてはならないのか、そこにも大きな問題があるんですよね。つまり、写真に対して映画は何ができるのか、あるいは映画に対して写真はどういう意味を持つのか、それを考えたいところがあるんです。
 映画は動く画としての面白さを100年ぐらい追求してきたわけだよね。だけど、それはある意味ではやり尽くされてる。そうじゃなくて、もっと大きな意味でゴダールみたいに絵画から映画史を考え直すこともできるわけでしょう。僕が映画を作るときも、絵とか写真に対する意識を持って、それを必ず使いたいという気持ちがあるんです。今回は千景が写真家という設定だから、動いてる画でやったことに対して、それをなぞるようなスチールを入れるんじゃなくて、なぞらないことで引っかかりを作りたいと思ってました。

深田 僕が共感できるのは、福間監督の映画では映像と音が同じ重みを持って共存しているところです。逆に、映画は元々サイレント時代に映像だけで語っていたんだから、映像だけで語れないとダメだよという言説には疑問があります。だとしたら、映画の音声というのは映像の従属物にしかならない。この映画では、映像の音も詩の朗読もナレーションも、物語のための歯車にはなっていません。見る人によっては、まとまりがないと感じるところかもしれないですけど、僕としてはそこがすごく面白かったんですね。

福間 小津(安二郎)という人は初期にサイレントを撮って、画が動き、フレームも動くという面白さもやって、それからフィックスだけになっていく。そこで正面カットが映画の中心になって、間に写真のような風景ショットを入れたりするわけでしょう。サイレントから撮ってきた小津が、最終的にあそこにいたことの意味をどう考えるかということなんですよね。サイレントからここまでの変化をどう意識できるのか。例えば、小林(政広)さんの『愛の予感』(07)のように、サイレントからの時間を感じさせるのはすごいことですよ。今はだいたい、みんな「これが映画だ」という概念が狭すぎる。僕はサイレントからアダルトビデオやミュージックビデオまで含めて「映画」だと思います。

――カメラマンがいる物語の中で静止画が使われているというときに、例えば庄平の写真だったら千景が撮ったんだろうという解釈が容易なんですが、風景の写真がインサートされた場合、これは千景が見た風景なのか、それとも作者の視点なのか、判別が難しくなりますよね。

福間 映画の中で使ってる写真は全部、鈴木一博カメラマンに撮ってもらってるんだけど、千景が撮った写真ということをそれほど意識しないでもらったんだよね。彼は「自信がない」って言うんだけど、鈴木一博という映画カメラマンがスチール写真を本気で撮ったらどれだけの実力が出るのか、今回はそこで勝負してもらいました。でも「自信がない」と言いながら、いい写真がたくさん出てきたんですよ。

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金子 ただ、観客は千景が撮った写真として見ますよね、彼女が写真家という設定ですから。

福間 整合性を求めたときの嘘というのもあると思って、そこは居直ってるわけですよね。逆にスチールが入る場所を前後の編集で用意できたら、そこは何を入れてもいいと。そこが「世界」の入れ場所だという意識がまずあって、それは説明を補う場所にもなるんだけど、あんまり説明のほうでやるとつまんなくなるでしょう。ツネ(鈴木常吉)さんの歌の内容とそのときに映る景色の画も全然合ってないんだけど、あれで夜のネオン街の写真なんて入れたら……。

深田 カラオケの映像になっちゃいますからね(笑)。

福間 だから、整合性からは思い切り遠くていいという意識でした。あと、編集作業のなかで監督が編集マンに勝つのは、やっぱり自分の生理的なものですよね。小津は編集で5コマ切ったりするんですよ。そんなの5/24秒だからよく分からないんだけど、それが6コマじゃダメなんだよね。最終的に「これでいい」という判断は今の自分がそう感じたってことだけじゃないですか。

金子 瀬々さんがコメントで書かれているように、僕も庄平が死んでから後の20分がこの映画の全てと言ってもいいくらい濃厚なシークエンスだと思いました。映画を二回見てシナリオと照らし合わせて、ようやく自分の中でも整理ができたんですが、今回の映画はあの「映画でしか不可能な経験」というものを作るためにあったと思います。あそこはほとんどイメージ通りにいってるという感じでしょうか。

福間 イメージ通りじゃないですよ。あそこにこそ、カメラマンと編集と音響のスタッフがいい仕事をしてくれたということがよく表れてると思う。自分のイメージだけで死の世界はこうだとやってもゴダールの『アワーミュージック』(04)には勝てない。僕はカット割りもそんなにできないから、最後の森のシーンで決めたのは、縦の構図か横の構図かということぐらいなんですよ。あの撮影では、鈴木一博が持ってる美意識をまず最大限に発揮してもらいました。
 夢の世界へ落ち込んで、そこから還ってくるというのは、台本で書いたら大したことじゃないんですよね。だけど、それを映画的な緊張感を持ってやるにはどうしたらいいのか。NHKの「自然のアルバム」でもあのぐらいのカットは撮りますよ。だけど「自然のアルバム」の画をいくら持ってきても映画にならない。それは何なのかっていうところですよね。

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――そろそろ最後の質問に移っていただけますか。

深田 福間さんについてインターネットで調べると、1982年に行なわれた藤井寛さんとの対談のテキストが出てくるんですが、そこで若者論を語ってらっしゃるんですよね。福間さんはそこで「18才そのものがすでにね、なにものかである、世界に対して、主張しうるもの、反抗的な、攻撃的なものを過激に持っているということからはじまらないとね」と語られています。『岡山の娘』にしても『わたしたちの夏』にしても若いスタッフやキャストと一緒に仕事をされているわけですが、若者に対する印象というのは当時と変わりましたか。

福間 それはいわば僕の勝負どころで、僕は自分の18歳を信じてるんですよね。映画もロック・フィーリングで撮ってますから(笑)。ロックンロールとかパンクとかをめちゃ信じてるから、若者を覗き見する必要がないんです。『人のセックスを笑うな』とか『ハチミツとクローバー』(06)はかなり「覗き見」になってるけど、僕の場合はもっと内側から若者を撮れるという自信があるんですよ。
 かつての藤田敏八さんの青春映画が、いい作品なんだけど、どこか生ぬるかったのは、やっぱりおじさんが若者を撮りにいっちゃってたからだよね。そうじゃなくて、18歳を撮るなら1956年のプレスリーを撮ればいいんだという確信でやってるんです。今回、僕は早織ちゃんを覗きにいってないです。僕がやれるのは早織ちゃんに恋することで、そういうところには強い自信がある。要するに、1970年代の半ばにパンクが出てきたとき、僕はセックス・ピストルズもクラッシュも全然大丈夫だったけど、僕らの全共闘世代はパンクが理解できなかった、それでもうおしまいなんですよ。つまり、3週間でギターを弾けるようになってスターになるってことのかっこよさが分からない。あの「18歳という爆弾を抱えていろ」というのはそういうことなんです。

金子 福間さんには最初に『青春伝説序論』(69)という序論にあたる映画があり、その後に青春4部作を撮ってるところなんです。『急にたどりついてしまう』があり、『岡山の娘』があり、今回の『わたしたちの夏』があって、撮影済みで編集中の『あるいは佐々木ユキ』という映画があります。この4部作で映画作家としてのひとつの輪が閉じるような気がしています。それは言いかえれば「日本ゴダール派」と呼称してもいいような作品群のことです。

福間 結局、トリュフォーもゴダールもロメールも若い女の子を撮るというところから抜け出せていないけど、ヌーヴェルヴァーグって結局それなのかな。

深田 『岡山の娘』のときの宮台真司さんとの対談もネットで見られるんですけど、映画を撮るときは若い女の子をひたすらジッと見る、それが楽しいということを福間さんがおっしゃっていて、結局そこなんだと(笑)。

福間 そこですよね、結局は(笑)。僕は本当にこの女の子を撮りたかったんです、という気持ちをまず出したい。この世界の蜜の部分、それがあることへの、ありがとうという気持ちです。



『わたしたちの夏』
監督・脚本:福間健二 
撮影:鈴木一博 編集:秦岳志 音響設計:小川武 挿入歌:鈴木常吉 
出演:吉野晶 小原早織 鈴木常吉 千石英世 松本雅恵 川野真樹子 
籾木芳仁 小林賢二 河野まりえ 室野井洋子 木太仁美 西山雄二 赤塚若樹
2011年/日本/89分/HD/カラー 配給:tough mama 宣伝:contrail
(C)tough mama

8月27日よりポレポレ東中野にてレイトショー、全国順次

公式ブログ http://tough-mama.seesaa.net/

【イベント上映】
『わたしたちの夏』公開記念「触発オールナイト!」
〜福間健二を『わたしたちの夏』へと向かわせた作品群〜
日時:9月3日(土)23:15開場/23:30開映(6:21終了予定)
場所:ポレポレ東中野
〈上映作品〉
『岡山の娘』監督・脚本:福間健二 2008年/HD/92分
『アワーミュージック』監督・脚本・出演:ジャン=リュック・ゴダール 2004年/35ミリ/80分
『愛の予感』監督・脚本・出演:小林政広 2007年/35ミリ/102分
『結び目』監督:小沼雄一 脚本:港岳彦 2010年/HD/91分
※福間健二による各作品解説あり。
posted by 映芸編集部 at 13:53 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする