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2011年09月07日

金子遊のこの人に聞きたい VOL.17 
萩原朔美(映像作家)インタビュー 
「天井桟敷の演出家から実験映像の作家へ」

 映像作家の萩原朔美は、舞台の演出家、エッセイストとしてもよく知られている。60年代後半から実験映画を撮りはじめ、70年代以降は、構造映画、映像書簡、映像エッセイなど多様な広がりをみせるスタイルで、長年にわたり日本の実験映像シーンを牽引してきた。また、映像論集「時間を生け捕る」の著者として、70年代以降の個人映画ブームの火付け役ともなった。今回はその膨大な作品群の中から主要な作品をとりあげて、その制作方法や意図などをじっくりとうかがった。
(取材・構成/金子遊 写真/白井晴幸)

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【天井桟敷の演出家として】

――10代の後半、ジャズ喫茶ビザールでボーイのアルバイトをしていて、そこでの出会いから寺山修司主宰の演劇実験室「天井桟敷」の立ち上げに参加したということですが。

萩原 18歳の頃かな、当時はジャズ喫茶のオーナーにでもなろうかな、と思っていて。寺山さんの劇団員の人に連れられて、天井桟敷の事務所へ遊びにいったのが最初です。事務所といっても世田谷の下馬にあった寺山さんの住んでいたマンションの一室でした。そうしたら、寺山さんに「お前、出ろよ」と言われて、劇団に入団とかそういう正式なものは何もなく、そのまま役者として稽古をして本番に突入したんです。役者としての訓練を受けた経験もなかったし、芝居自体にもそれほど興味があったわけではなかったんだけど。
 余談ですが、一緒にボーイをやっていた小水一男(通称ガイラ)は、若松プロに出入りしていました。ジャズ喫茶の先輩に北野武がいて、小水はビートたけしを主役にして『ほしをつぐもの』(90)という映画を監督したこともあります。資金を出したり、プロデューサーも北野武がやってくれて、小水のピンク映画以外での一般映画では初作品となりましたね。その頃、ボーイを一緒にやっていた山崎博も後に写真家で、実験映像を撮るようになりましたね。

――1967年4月に旗揚げ公演となる「青森県のせむし男」(草月会館)で初舞台。9月、丸山明宏(美輪明宏)と共演「毛皮のマリー」(アートシアター新宿文化)での美少年役が話題となったとのことですね。

萩原 最初の「青森県のせむし男」の方は役者といっても、セリフもなく、寝ころがって笑っているだけでした。美輪さんが主演で、その存在感には圧倒されましたね。あと、寺山さんの物づくりの勢いには影響を受けました。当時の天井桟敷の演出は東由多加がやっていたんだけど、彼もある種狂気じみたところがあった。演劇の人たちの凄まじさに圧倒されたって感じでね。そのあと「毛皮のマリー」で美輪さんの息子役に抜擢されて。東由多加が逃げちゃって、それであのときは寺山さんが自分で演出をすることになったのかな。

――演出助手を経て、68年2月の「新宿のユリシーズ」を21歳で演出を担当します。以降、天井桟敷の演出家を務めるようになりました。異例の出世ですね。 代表作に「書を捨てよ町へ出よう」「時代はサーカスの象にのって」などがあります。69年には、かつてご自身が出演した「毛皮のマリー」の演出を行い、ドイツのフランクフルトで開催された国際実験演劇祭に招待されています。

萩原 寺山さんの気持ちはわからないけれど、僕を育ててくれようとしたんじゃないかと思います。その頃は劇団員の人数も少なかったし、こいつにやらせてみようかという感じだったのか。ちょうど10歳上だから、当時の寺山さんだってまだ31歳なんですよね。それがもの凄く大人に見えました。当時30代だった大島渚さん、篠田正浩さん、土方巽さん、石原慎太郎さん、浅利慶太さんなど、寺山さんの同世代の人たちが日本の文化を動かしているように見えました。
 寺山さんの話によれば、浅利さんたちが日本生命を騙して劇団四季をつくるときに、電話帳くらい厚ぼったい企画書をつくって持っていったと、何かの度に話していました(笑)。それが凄いというんですよ。僕が自分たちで雑誌をやりたいと思って、「ビックリハウス」を発刊する前にパルコという企業へ企画書を持っていくときに、その浅利さんのエピソードを思い出しました。電話帳みたいなものは作れませんでしたけど、そういう熱意みたいなものでガツンとやるんだってことですよね。

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――昨年出版された萩原さんの著書「劇的な人生こそ真実」で、寺山修司さんのことを書いていますね。それによると、20代前半の朔美さんを演出家として対等に扱い、演出に関する指示は寺山さんから一切なかったといいます。

萩原 寺山さんが戯曲の作者で、天井桟敷は寺山さんの劇団なんだけど、演出家がどのようにやっても全く何も言いませんでした。20代の頃の僕は本当に生意気で、寺山さんの台本のラストシーンを冒頭に持ってきたことがあった。それを舞台袖で観ている寺山さんは何も言いませんでしたね。僕が寺山さんに信頼されているというわけではなく、演出のやることに一切口を出さないという一貫した姿勢がありましたね。寺山さんが実験映画を撮りはじめて、何本か手伝いました。 最初に撮った短編『檻囚』のときには編集をやりました。現像があがってそのままにしてあるフィルムを段ボールごと渡されて、バシャバシャ切って、適当にならべていったんですが、そのときも何も言いませんでしたね。完全にお任せなんです。今も上映されている作品は僕が編集したままのものです。

――萩原さんが後に実験映画への道を進むことになるのは、この時期に寺山さんの実験映像の制作を手伝っていた経験が大きいんでしょうか。

萩原 いえ、それは全然ないと思います。最初に寺山さんたちとニューヨーク行ったときに、飯村隆彦さん、昭子さんの家にいったときも、飯村さんの『くず』を見ましたが、あまり興味を持てなかった。それから飯村昭子さんとジョナス・メカスが主催するシネマテークへ行って、実験映画を相当数見ましたが、大半の映画はつまらないものだと思いました。演劇はステージの上に人間の生身の身体が出てきて、非常に生々しく、観客との距離の近さがある。それに比べると、実験映画がクールなものに見えたんですね。寺山さんは現代美術にも実験映画にも興味があったみたいですね。ジョン・ケージのイベントに行ったときに、東洋人の男が自分でチラシを配っていた。それがナム・ジュン・パイクだったりして。
 そのときは興味を持てなかったんだけど、天井桟敷をやめるときに「自分には何ができるんだろう、何か自分にできることはないかな」と思って、思い出して実験映画を撮り始めたんですね。退団は70年7月でした。天井桟敷の演出家をやめるときに、東由多加に何かのパーティで「萩原、お前は寺山さんに愛されてるから」と言われて、はじめて「そうだったのか」と気づきましたね。

【初期の実験映画】

――68年に『少年探偵団』(16ミリ・40分)、69年に『留守』(8ミリ・4分)という作品があります。 

萩原 その頃は、天井桟敷に所属していました。出演者はみんな天井桟敷の人たちでした。『少年探偵団』は未完の作品ですが、ひとりの男が幻の月光仮面をさがすという話です。ラストシーンで海にガソリンを撒いて、海をバーッと燃やすところがあります。それで出演者全員がカメラにむかってダーッと走ってきて、レンズを手で押えて暗転するというラスト。それは先に撮ったんだけど、真ん中あたりのシーンが、お金がなくなって撮れなくなってしまった。16ミリフィルムを使っているし、バスをチャーターしたり、何かとお金がかかっていました。そうしたら寺山さんがいきなり財布を出して、そこに入っていた7万円をくれたんです。本当に兄貴分という感じでしたよ。
 自分の作品ってほとんど保管していないんですよ。たとえば『ストーン』という作品なんて見たいんですけど。庭に石があって、そこに雀なんかが来るのをコマ撮りで1ヵ月撮ったものです。その石が最後に空中へ持ち上がり、消えてなくなるという映画です。逆回転で撮ってるんですね。16ミリフィルムの両側にパーフォレーションがあるものを買ってきて、400フィートマガジンに入れて撮りました。最後のシーンは特別なモーターを使ったので、スローモーションで石が持ち上がるようになっています。でも、フィルムがどこにいったか分らないんですよ。

――著書「時間を生け捕る」には、天井桟敷の演出をやっていて、公演は終わってしまうと何も残らないことの虚しさがあり、映画制作を思い立ったとあります。萩原さんをこの時期にアンダーグラウンド映画へむかわせたモチベーションはなんだったんでしょうか。

萩原 天井桟敷は演劇ですから、集団作業だったわけです。ずっとどこかで、ひとりで何かをやりたいという気持ちがあったのでしょう。あと、寺山さんの影響が非常に大きかったので、そこから抜け出して自分で生きていく道を見つけなくてはならないと思った。天井桟敷をやめた後、映画のスタッフをやろうと思ったことがあって、篠田正浩監督に会いにいったんです。新宿の紀伊国屋に入っていた喫茶店で「君は現場ではなく、自分で何かを書いた方がいいよ」と言われました。そのとき、やはり寺山さんのところにいた人間を篠田さんが引き受けるわけにはいかないんだな、と思いましたね。

――映像作家・萩原朔美を誕生させたのは71年の『TIME 時間の痕跡』(16ミリ・15分)でしょうか。腐っていくリンゴを1年間撮影した作品です。

萩原 バナナとかブドウとか他の果物も色々と試してみたんだけど、やっぱりリンゴなんだよね。他のものだと何かが違う。バナナは腐るのが早いんだけど、画的に見られるのはリンゴなんですよ。あと、リンゴを使うと知恵の実だとか、何らかの比喩になり得るんですね。
 撮影は家でやりました。テーブルの上にリンゴを置いて、背景に白い紙をセットしました。白い紙はアームで曲面を描くようにして、リンゴの影が少し歪むようにした。影が変化するように。三脚に買ってきた中古の6×6カメラを据えっぱなしにして、リモートレリーズで1日1回シャッターを押す。ライトは一灯なので、それを点ければ何時に撮影してもいい。それを1年間続けたわけです。1度だけ、どこかに出かけるときに部屋の鍵を渡して、友達に頼んだことがあったような気がします。
 実はオリジナルのフィルムは色々と貸し出したりしているうちに、紛失してしまったんです。イメージフォーラムにもないはずです。現在見ることのできる『TIME 時間の痕跡』は5、6年前に作ったリメイク版です。作品の買い手が現れたのでリメイク版を作ったのだと記憶しています。

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『TIME 時間の痕跡』

――どのようなところで上映され、当時はどのような評価だったのしょうか。
 
萩原 最初に上映されたのは、アメリカン文化センターでの上映でしたね。安藤紘平、榎本了壱、山崎博、僕でやったグループ展でしたね。あとは、かわなかのぶひろさんが主催していたアンダーグラウンド・シネマテークでもやりました。
 『TIME』を見て、谷川俊太郎さんが新聞で書いてくれたんです。ドーンと映画の写真入りで。谷川さんに頼まれて、彼の家にいって『TIME』を上映したことがあった。そうしたら、谷川さんからテーブルの上に置いたリンゴが腐っていくのを眺めている詩を書いたことがあるんだ、と聞きました。それで、エエーッと驚いた。谷川さんは自分では詩に書くだけで、実際にはやってみなかったんだけど、それを実際にやった奴がいるということで気になったらしい。それで、そんな映像作品を撮っている人間がいると知られるようになったんですね。

――『KIRI』(1972年・16mm・7min)は那須高原で撮影したということですね。だんだんと霧が晴れてきて、山が見えてくる。10分間をリアルタイム撮影するという試みは、当時は珍しかったのではないかと思います。

萩原 16ミリフィルムのカメラで、400マガジンで撮ったので、一度撮りはじめたら止められないという条件のなかで撮りました。撮影はプロのカメラマンの人に頼みました。最初は山を撮ろうと思って、画角を決めて準備していた。そうしたら、見る見るうちに霧で山が覆われて、お互いの顔も見えなくなってしまった。まったく見えない状態のなかでスタートしたんです。そうしたら、奇跡的な偶然が起きた。ずっとフィルムをまわしている間に、だんだんと霧が晴れてきて、スーッと山が姿を現したんですよ。よくも晴れたと思いますよ。ああいうことが起きるんですね。
 かなわかさんたちと5、6人で撮影にいきました。遊び半分で、フナイ電気の4分の3インチのビデオもまわしました。フィルムが切れてしまったら、ビデオで回しておこうと思いまして。それが30分のバージョンの『KIRI』(1972年・1/4inch・30min)なんだけど、それも紛失してしまって見られないんですよ。
 同じ頃、江ノ電と江の島の海岸の風景を16ミリ、8ミリ、ビデオ、写真の4種類のメディアで、同じ時間、同じタイミングで撮影した作品があります。それは天井桟敷のシネマテークで上映しました。同じ風景を複数のメディアで撮影したものを上映して見せるというイベント。おもしろいことに、まったく同じ風景を撮影しているのに、それぞれのメディアではどう考えても別物の風景に見えるんですね。16ミリはニュース映画風に映り、8ミリは光がチラチラしたり少し淡い感じだったり。ビデオはやはり監視カメラのような映像になっていた。ビデオで同時録音ができたので、江ノ電の走る音などの環境音をイベントではそのまま使いました。カメラによって写される内容に違いはあっても、映像というものはすでにメディアによって決定づけられているんだ、というのが導きだした仮説でした。8ミリなら8ミリであるということが、すでに内容を決定している。それを表現するために同時に上映したんです。

――今でいえばインスタレーション作品の先取りですね。非常に興味深いです。リアルタイムで撮影したものをリアルタイムで見せるということのなかに、さまざまな時間論が入り込んでくる。それでいて『KIRI』という作品は、不思議と退屈しないというか、見るとはなしに見ていて静かな心持になっていきます。『TIME』のようにコマ撮りでたちあがってくる時間、『KIRI』のようなリアルタイムの時間、それらが示すものは、いかに映画の時間が虚構かということですよね。

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『KIRI』

【ビデオアート/実験映像】

――『日曜日に僕が見たもの』(1973年・1/2inch・30min)は、ビデオで天井の壁にうつった差し込む陽光をワンカットで撮っています。後年の『キライズム』との繋がりもあるし、マイケル・スノウの構造映画の影響もあるかもしれませんね。

萩原 『日曜日に僕が見たもの』っていうのも、あまりにそのままのタイトルなんだけど、あれはもっと長い作品だったのを、思い切り切ってしまったものです。もとはワンカットで30分でした。当時住んでいた部屋の天井を撮っています。いや、退屈だろうなって思って。レンズを変えたりとか、一応退屈しないようには考えてんるだけど。あなたのつまんないとか、長くてちっとも変わんないとか言われたことあるから。最初のかみさんに、非難轟々で(笑)。

――最初キラキラしてる光に目がいって、カメラを向ける。それで、カメラのレンズを魚眼レンズに付け替える。そのキラキラがどこからくるのかなと、窓の外を追っていくと隣家のトタン屋根の上にそれらしきものを見つけるが、再び天井を見上げると陽光は消えてなくなっているという内容です。

萩原 そうそうトタン屋根の雨どいに雫が残ってて・・・。そういうキラキラしたものに惹かれるなんてね、本当に不思議だよね。

――『日曜日に僕が見たもの』は73年、ビデオアートの初期の時代にあたりますよね。機材は何を使っているんですか。

萩原 ソニーのオープンリールだと思うけどね。ポーターパックじゃなかったかな。1/2インチの。デカくて重たくて、肩に背負うだけで大変だよね。ビデオアートの歴史の中でね、誰も書いてないんだけども、ポーターパックを担いでいって海外で使ったのは、天井桟敷が初めてだと思うのよ。ていうのは、ドイツで国際前衛演劇祭があったじゃない。天井桟敷はあれに参加しています。その時に、あのソニーのポーターパックを持っていって撮影をしている。テレビがこんなに小さなカメラで撮影できるって、ドイツ人が「えー!」って集まるくらい珍しかったんですよ。

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『日曜日に僕が見たもの』

――次は『DRAMA』(1974年・16mm・3min)という作品。ライブハウスか芝居小屋か、一つのドアノブをフィックスで撮影し、それを触る人々の手を短いショットの積み重ねやコマ撮りで撮っています。ドアノブが急激に錆びたり、ドアが開いたり。さまざまな人の手がドアノブをなでているようにも見える。最後は空き地でドアが倒れる。物に宿る「記憶」がテーマといえるかもしれないし、それまでの作品とは違う時間論になっています。ナレーションが入っているというのが特徴的です。「人間ってものは過ぎ去っていくものではないか」と。あの声は萩原さんですか?

萩原 そうですね。自分でしゃべったんだよね。音楽は黛じゅんさんの歌謡曲。ドアは梅ヶ丘の自分の住んでた家のドアです。それで最後に空き地になっちゃうところは、自分の家のドアをはずして、空き地に持っていって撮影しました。あれは多分離婚したばっかりじゃなかったかな。だから、離婚の雰囲気が出ているなと思います。

――なるほど。家のドアノブの前に、フィックスでカメラを据え置きにして、いろんな人に来てもらって撮影しているんですね。

萩原 16ミリフィルムだよね、ボレックスを使いました。ドアノブは真鍮の新しいものなんだけど、その前のタイプって色が変わる。ものすごく鈍い色に。最初は金色なんだけど、時間が経つにつれて変わっていくの。僕が昔住んでいた家のドアノブは、古くなったドアノブでした。それを再現できないかなと思ったんだけど、なかなか難しい。そこで人工的に錆びさせたり、ペイントしたりしました。霧の彫刻家・中谷芙二子さんの原宿の家が、昔ものすごい古い家でした。ドアノブも感動的なまでに古くて、写真を撮りました。彼女の家のドアノブをあちこち写真で撮って、何回も何回も開けてるうちにドアノブのせいで壁に穴が開いていた。それを写真で撮ってね、版画の作品にしたこともあったな。
 昔ながらの梅ヶ丘の家のドアノブも、やっておけばよかったなと思って後悔しています。15年くらい経つと色が変わるからね。すごいんだよね、その変化は。ちょっとやそっとの変化じゃなく、重たいじゃないやっぱり。ドアノブのアップを15年やれっていうさ(笑)。人の癖とかも凄いよね。毎日使っている机で、手を置いている場所だけがはげてきたり。その手をコマ撮りで何年も撮っていたらすごいでしょうね。机が段々とはげてくるのが目でわかるようになるまで撮らせてもらうという。

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『DRAMA』

――初期作品に共通しているのは定点観測ってことだと思うんですけど、定点観測で撮り続けることによって出てくる時間や記憶の問題は、どうお考えなんでしょうか。

萩原 なんか、映画っていうのは、結局時間ってものをテーマにせざるを得ないし、あらゆる映画は時間をテーマにしているといえばいえるなって感じを持っていた。映画といった途端に時間をテーマにする、それ以外はないっていう感じ。

――「時間を生け捕る」を読んでいると、実験映画ではなく個人映画という語を好んで使っているようですが。

萩原 実験映画というとそういうジャンルがあるみたいに聞こえて、あまり好きじゃないんです。グループではなく個人で作っているということでいいと思う。今はアートフィルムというのかな。あるいは松本俊夫さんが言うように映像作品ということでいいんじゃないかしら。

【ゼロ年代の作品】

――『映像書簡10』(2005年)では、その年に亡くなられた母親で小説家の萩原葉子さんが残した、部屋のあらゆるところに貼られたポストペットを撮影していますね。とても印象的でした。『その後の母のこと』(2007年)という作品もあるそうですね。

萩原 それも母親をテーマにした作品です。母が亡くなってから、初めて遺品を整理していたんですね。そうしたらとても短い、ちびた鉛筆がものすごい数でとってあった。それから、本当に小さくなるまで使った消しゴムが空き瓶にびっしり保管してあるのが出てきた。それで、それらの消しゴムを蝶々の標本用の虫ピンに差して、箱にきれいに展示してみた。そうすると、ピンがとても細いので、何か白い雲が宙に浮いているように見えた。あと鉛筆の方も同じようにやってみたら、こっちは家のように見える。それで「家」と「雲」というテーマでオブジェにしたんです。それを撮った作品ですね。
 あと母親の遺品のなかから、僕が子どもの頃にはいていた手縫いの帽子や手袋や靴下なんかが出てきたんですね。あの時代、工業製品は少なかったですから。それで感動して、自分の昔の写真を調べてみたら、ちゃんとその帽子をかぶっている。僕が3歳のときに、全裸で帽子だけをかぶって多摩川の土手にいる写真が残っていたんです。そこで、60代半ばになった僕が全裸になって、多摩川で同じ帽子をかぶるというパフォーマンスをしようとしたんですが、ちょっと醜いなと思ってやめました(笑)。

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『キライズム』

――『キライズム』(2008年・ビデオ・20min)はおもしろいですね。冒頭は車にのせたガラスの林檎のオブジェの映像からはじまります。実験映画には光の明滅、ちらちら、キラキラがつきものですが、そればかりを収集した映像作品になっていて、木漏れ日、水面の光などの自然界を撮っています。実験映像というよりも、もっと原初的な目の驚きのようなものをとらえていますね。

萩原 この辺の作品は、イメージフォーラム・フェスティバルに出品するために撮っているんですね。締め切りがないとなかなか完成しないんですよ。透明な林檎のオブジェがあって、それを小田急線のロマンスカーの窓際において見せていたら、本当にきれいだったのね。それで、これから撮る映画には魚眼レンズのように景色が映りこむ、この林檎のオブジェを冒頭に使おうと思っています。

――「携帯水たまり」なる不可思議な物をつくり、萩原さんがそれをいろいろな場所へ持っていきます。いつでもどこでもチラチラ、キラキラを見るためのものですね。それらに目が引き寄せられるのは「生存の欲望」だといっています。

萩原 携帯水たまりは木でつくったオブジェです。ナレーションを文字のスーパーで入れているので、一種のエッセイ的な映画だといえるかもしれません。ラスト近くで、映写機の速度を変えながらスクリーンに映る明滅だけを見せるシーンがあります。映画を見ることも光の明滅を見るということなんですよ。映画では、一見俳優や物語を見ているように思い込んでいるけど、実際は光の明滅を見ている、だから見続けることができるんだ、という仮説を立てたんですね。

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『キライズム』

――その翌年には『キライズムの旅』(2009年・ビデオ・20min)を撮っています。車の窓、電車の車窓、トンネル、外の風景など、外で見つけたキライズムの数々。前作との違いは具体物から離れていき、抽象的な光の模様になっているところでしょう。印象的なのは池、お堀、水面、海の波打ちぎわなどの水の映像表現です。「キラキラしない風景をゆさぶって、キラキラさせたくなる」というナレーションがあり、「ブランコは風景をキラキラさせるためのものだ」と言う。何かキライズムの哲学のようなものがあるのだと感じました。

萩原 この作品は全部ひとりで撮りました。自分がフレームに入り込むときだけは、連れ合いに頼んで撮ってもらっています。オーストラリアに家族で半年間暮らしたことがあるんですが、そのときに『キライズム』の原型となるような、ちらちら、キラキラをたくさん撮っていた。『キライズムの旅』は再編集して、そのような膨大なフッテージをつなげようと画策しています。
 キライズムって何なんだろうって考えますね。作品のなかでは「生存の欲望」といっていますが。三島由紀夫の「仮面の告白」という小説のなかで、幼い頃、お母さんに行水させてもらっている場面があるけど、あそこには盥のふちの水のきらめきが美しい文章で書いてある。水が揺れて、そこに光が当たってきらめく様を憶えていると書いているんです。そういうものが案外、記憶に残るものなんですよ。宮沢賢治の「春の修羅」の冒頭にも、光がキラキラするという描写があるし、港千尋さんの本には、真っ暗な下宿の部屋が灯台の近くにあって、その光が差しこむたびに部屋が明るくなったり真っ暗になったり、というエピソードがあります。すごいキライズムだなと思ってね。

――映画の後半では、アリフレックスの35ミリカメラをのぞくと、ファインダーのなかはすべてが明滅してキラキラしていると言います。つまり、ムービーカメラは携帯水たまりだったのだと。映画は光の乱舞だということですね。ここには映画というものを根源的に考え直すヒントがありますね。

萩原 今ね、劇映画のなかで水の反映や窓の反射などを撮ったシーンをピックアップして、それを学生たちに見せるためにリストを作っているんです。たとえば、雨のシーンのときに、ガラスを伝う雨だれが影となって壁をおりていく雨の影のシーンがよくありますよね。ああいうものを誰がどんな映画で、どれだけ使っているかというものをジャンルごとに集めています。学生たちが自分の表現で使うためのテキストです。これをやっていると、キリがないんですけどね。

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『キライズムの旅』

――『総ては本』(2011・ビデオ・15分)は焼き印で、家のなかのあらゆるものに「本」「萩原朔美」の焼き印を押していくパフォーマンス映画です。萩原さんが「身のまわりのものを総て自分の本にしたくなった」と言って、木、テニスボール、じゅうたん、机、大学の壁、ポット、キッチンの床、パン、位牌、コタツなどあらゆるものを、焼き印を押すことで自分の本に変えていくという内容です。

萩原 焼き印は1本数千円で作れますからね。まあ、焼き印を持って僕が歩いていると、ほとんど誰かのお尻にそれを押し付けようとしている変態おじさんに見えてしまいますが(笑)。家のなかではガス台で焼きごてを温めて、外でやるときはバーナーを使っています。結構、うまく押せないで失敗しているときもありますね。他人の家にいって、机があったりしたら「ちょっと、これオレの本にしてもいい?」って聞いて、焼き印を押して自分の本にしてしまいたい欲望にかられるときがある。撮影は自宅、大学、研究室、学生の家などで行いました。学生の家のコタツを僕の本に変えてしまいましたね。あとはお袋の葬式で使った木の位牌の裏に、焼き印を押しました。なんて、図々しいんだろうね。

――後半になって物体に対して焼き印を押すのではなく、空の風景に対してアオリのショットで焼き印を押していくようになる。ここから少しトーンが変わりますね。ナレーションでは「空にただ本という文字だけを押し続けた」「大空を作者不在の本として読むことが表現の住処だ」と言っています。

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『総ては本』

萩原 目に見えるものは、読まれることを待っている本なのかもしれない。しかし、見ている人が色々なものに焼き印を押されても、それが本だという心持にはなかなかならない。物を見ても、風景を見ても、それらが何か読むものの対象だと思えばいいのではないか、ということを言いたかったんです。雪の結晶の研究で有名な物理学者・中谷宇吉郎博士のエッセイ集のタイトルは「雪は天からの手紙」というんですね。空からの手紙だと思うからこそ、雪の結晶を解読しようとするわけ。最近は自然のなかへ出て行っても、植物の名前なんか全然わからないですよね。自然を読みとる能力自体が薄れていっている。そのような何か、物の見方を提示したいっていうのはあるんですよね。

(2011年8月 多摩美術大学にて)


3DAYSイベント「東京アヴァンギャルドT」
10/9(日)―映像作家・萩原朔美特集―

OPEN/ START:17時/ 18時
第1部:18時〜 特集上映(約70分)
第2部:20時〜 ゲストトーク:萩原朔美 聞き手:金子遊 桃江メロン

上映予定作品:
「TIME 時間の痕跡」72年
「KIRI」72年
「DRAMA」74年
「その後の母のこと」05年
「キライズム」08年
「総ては本」10年

代官山カフェ&バー「山羊に、聞く」
詳細 http://yagiii.com/?p=1860
アクセス:東急東横線・代官山駅徒歩1分
http://yagiii.com/?page_id=19

一般予約1800円 当日2000円+ドリンク(学生各200円引)
※サンキュー3日間通し券 3900円あり(予約のみ)
[予約方法]
tel: 03-6809-0584 (16:00~21:00)
e-mail:info@yagiii.com
posted by 映芸編集部 at 14:43 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする