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2011年11月04日

映芸シネマテークvol.10 レポート

 9月2日に開催された映芸シネマテーク『親密さ(short version)』上映後の濱口竜介監督・映画評論家の荻野洋一さんのトークを掲載(開催時の告知)。テクストへの繊細さにおいて際立つ御二人が、言葉を交わし合う。演劇と映画、会話劇をめぐる対話から、現代の日本映画への重要な指摘がなされると同時に、この舞台に関わった人々への賛辞が胸をうつ。
(構成:中山洋孝)

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左より濱口竜介・荻野洋一 ※敬称略

濱口 本日はどうもお越しいただきありがとうございます。まず『親密さ』という作品の経緯を説明させていただきますと、ENBUゼミナールという映画と演劇の学校がありまして、僕は2010年度の映像俳優コースという、役者の授業で講師をやらせていただきました。ただ学生たちは一年ずっと受講してるんですが、僕は最後の三ヵ月だけ受け持って、卒業前の決まりごととしてつくる映画の監督をしました。それが『親密さ』になるわけです。
 実はこの映画はもっと長い作品として完成予定です。今回上映した舞台は第二部にあたる内容で、これはこれで完結していますのでENBUゼミナール全体の卒業上映会に間に合わせようと上映しました。第一部は公演の準備をしてる役者としての彼らにいろんな悶着があったりしながら劇の完成へ向っていく。バックステージものと言ったらいいのでしょうか。第三部はエピローグ的にあるんですけど、劇を終えた数年後の彼らが主人公という設定ですね。あわせると4時間くらいのロングバージョンになる予定です。

荻野 大変な傑作だったと思いますが、たったいまご覧になられた皆さんはいかがでしたでしょうか。非常にテンションの高い、緊張感溢れる、のどにつばを飲み込むのも、少しゴクっとなってしまう、そう思われたかたも結構いらっしゃったと思います。
 ひとつの演劇が上演されているわけですよね。WOWOWやNHK-BSなんかで盛んに演劇の中継はやっているし、佐々木敦さんのHEADSでもDVDを出したりしています。そういう中継番組では、たとえばPARCO劇場ならPARCO劇場へと映像監督がやってきて、いろいろと凝ったスイッチングで舞台を見せてくれるので、上演された舞台とはまた別の面白さが出ている、というものもあります。でもこの映画は演劇の中継映像と様子が違うんです。何が違うかというと、やはりいま上演された作品そのものが、濱口監督によって書かれたテキストであることが非常に大きいと思います。劇を上演する作業の一番の下部構造であるテキストを監督が書き、そこから積み上げられた構造そのものを受け取るかのような凄みがリアルタイムで感じられるわけです。
 観客が映っていましたよね。今にも寝そうな人がいたり、物凄く感動してる顔もあったり、悲喜こもごもでしたよね。一人一人が匿名の観客ではなく、登場人物のABCと名前をつけてもいいくらいの存在感があります。非常に狭い空間なんで、役者にあてられる照明が、観客にもある程度、特に前列にいる人たちには俳優と同じくらいはっきりとあたっていましたよね。非常にドキュメンタリー的なかたちで観客もこの作品の登場人物に取り込まれてる感じがします。もしかしたら、あれがひとつのフロアスタジオであって、そろそろ本番が始まりますっていう合図が鳴って、観客も含めて芝居をしているのではないかという気さえしたんです。ということは、いまの上映そのものも、『親密さ』という作品の、時間的な続編ではなくて、空間的な続編になってる。つまり皆様がここにいらっしゃってスクリーンへ眼を投じましたが、それは二重、三重、四重、五重の視線劇をかたちづくることになるわけで、映画と演劇の融合ってよく言いますけど、これほど特異な融合をした作品っていうのは、私は見たことがないと思いました。
 この作品の上演の形式はどういうものだったんですか?

濱口 中野のウエストエンドスタジオという劇場で一回だけ本当に、お客さんを入れてお金も取って公演をやったんですけど、その前にリハーサルを数回同じ劇場でやりましてそれも撮っていて、最終的にそれを組み合わせているんです。またカメラの台数も限られていたので、公演のときは基本的にすべて観客に向けています。だから皆さんのご覧になった劇自体は、観客の前で上演された劇じゃないんです。公演のときは、映画に出演者として映るかもしれないので、問題あるかたは言ってくださいと伝えてはいました。
 実際の公演はさらに長くて160分くらいあったんですね。そこから25分ほど切って、ショートバージョンということにしてるんです。

荻野 いま私たちの見た2時間というのは、ひとつの線的な流れではなかったということになるわけですか。おそらくノイズを消す作業でうまくならされているから、上演の最初から、最後のオフで流れる挨拶までまったくハサミが入ってない、ひとつの時間の流れを丸ごと提示されてるような感じがしましたけど、実はそうではないんですね。
 喫茶店で男と女が向かい合って別れ話をしてる。これは実に演劇的な装置ではありますよね。最低限のテーブルというセット、最低限のガヤのSEがあって、切り返しがある。これが第一段階の形だったと思うんです。でもこの映画を特徴づけてるのは、やはり舞台の上手と下手の物凄く離れたところにいる登場人物同士がヒソヒソ話で会話してる場面ですよね。人物と人物同士が聞こえてないんじゃないかってくらい離れているのに、密な、親密めいた何かがある。実際演じていて互いに聞こえていたんでしょうか。

濱口 僕も確認しなかったですけどね、一応演技は続いてるんで「聞こえてるんだろうな」と思いながらやってたんですけど。

荻野 お兄さんを演じていた佐藤(亮)さんの言葉は実に、つぶやきっていうんですか、演劇的な芝居とはまったく異なりますよね。あの声が観客に聞こえていたかどうかですよね。監督は上演中どのあたりにいらっしゃったんですか?

濱口 上演の際、一番後ろでカメラの一台を動かしていたんですけど、聞こえるときと聞こえないときはありましたよね。そういうこともあって、稽古中から「もうちょっと声がでないものか」という話は何度かしたんですけど、公演を見ていて「そうか、(大きい声では)できないんだな」、そもそも脚本が小さい声での演技を要求していたんだなと気づいたんですね。彼があの役を演じるためには小さな声が必要で、上演のときは映画で見られるシーンよりも声を遠くまで届けてくれた印象はあったんですけど、それでも随分小さかったと思います。それが演劇という空間にそぐうものだったのかは、今でもわからないところですし、今後このテーマを追いかけて行くときの課題だなあ、とは思っています。

荻野 あのキャラから導き出される声の大きさはこれなんだということですね。いまの演劇の状況を見ると、たとえばチェルフィッチュであるとか、「中野成樹とフランケンズ」とか、いわゆる演劇的な発声を完全にやめてしまって、もう「フランケンズ」だと客席にいると完全に聞えないですよね。時々こうわずかに単語が拾える程度っていう。こういう流れはあるのかなと思いましたしね。

濱口 僕も演劇を一応見てはいるんですけれども、正直どう接したらいいかわからないところもあります。繰り返された修練が、反射を奪っているだけのものに見えるときもあります。ただチェルフィッチュの「三月の5日間」を見たときには、非常に感銘を受けるところがありました。なにか勇気を得たと言ってもいいかもしれません。

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荻野 濱口監督はいわゆる黒沢清とか、青山真治とかもそうですけど、シネフィルがそのまま大きくなって監督志望になっちゃいましたっていうタイプの末裔というか、現在形じゃないですか。まあ、私もかつてはそういう感じだったんですが。つまり浴びるほど映画を見る、誰よりも勝ち誇るように見ながら、そのエキスみたいなものを何とか自分の作品に取りこんでいけないかともがき続ける。これはヌーヴェルヴァーグ以降のひとつの伝統となっていますよね。そういったシネフィリックな監督の一つの精神的な伝統として、演劇を唾棄する傾向があると思います。
 以前濱口監督が京橋フィルムセンターでのトークショーの中で「日本映画は依然として会話劇としては未開拓だ」というようなことを話されていました。そのひとつの解決法として、よくある形式的な実験のひとつに過ぎないんだけど「演劇と映画の融合」があったのではないか。日本映画の会話劇の未開拓部分を探検するためには、演劇をいつまでも忌避していても駄目なのかなとも感じられたのでしょうか。

濱口 僕にも「演劇を唾棄する」傾向というか、どうしても演劇に馴染みきれないものがもともとあったと思うんですけど。2009年に『PASSION』を韓国で上映したとき、お客さんから「この会話劇って演劇じゃダメなんですか」って聞かれて、そのときはムキになって(笑)「映画じゃなきゃダメです」と言ったんです。それはまったく本当なんですけど、一方でなぜ映画じゃなきゃダメなのか、本当にダメなのかというのはそれ以来ずっとありまして。それが演劇で何か挑戦してみようかなと思ったそもそものきっかけですね。ただもちろん、映画史的な「映画と演劇の融合」も頭の端っこにはありました。

荻野 この作品の佐藤さんの演じた衛は、『PASSION』における女教師につながる気がするんですね。観念操作のありかたや、または「暴力を選択しないことを選択しなければならない」というような、ほぼ似たような台詞を吐いてたり。その根幹はどこから来たものなのかを知りたくて。タルコフスキーのリメイク『SOLARIS』(07)をやったときには、あれは増村保造のメチエをタルコフスキーに移植するという試みだったわけですね。

濱口 『SOLARIS』という作品について少し説明すると、黒沢清監督が僕らの先生だったんですけど、スタニスワフ・レムの原作本を渡されて映画化するということになって。つまりタルコフスキーの『惑星ソラリス』のリメイクということですね。タルコフスキーを映画の技法的にはまったく意識しなかったんですけど、これをどう、我々の置かれた環境の中で映画にするのかということは非常に悩ましくて、そのときに「増村だ!」と思ったんですね。日本の会話劇の伝統ってものすごく少ない気がするんですけど、少しいるとしたら増村保造監督と、現代映画社の時期の吉田喜重監督ではないかと思います。ぶつけあう言葉、もしくは本来コミュニケーションのためのはずの言葉が、どんどんコミュニケーションの不可能さを浮かび上がらせてしまう、そんな言葉による会話劇は今の日本でどのように可能なのか、ということには興味がありました。
 そんなことをやっている内に、うまく言うのは難しいんですが、よく言われるような「役者が台詞に魂を吹き込む」というのとは逆の事態がある、ということに気付いたんですね。案外当たり前のことなのかもしれないですが、会話劇ばかり作って来たせいか、最近特に強く感じていることではあります。『親密さ』では、そのことを推し進めてみた、と言いますか。

荻野 演劇と映画の融合、これに対し忌避する感覚について話を戻すと、ロベール・ブレッソンの『シネマトグラフ覚書』という魔の書があるわけですよ。

濱口 そうですね、あの若者を誘い込み……

荻野 演劇嫌いにさせるという恐ろしい書がありまして。映画は撮影された演劇ではない、世の中の映画作品というのは、舞台の上ではなく実際の生活空間のなかでやらせた演劇をカメラで実況中継してるだけだ、こんなものは早く無くなったほうがいい、映画が発展するためには演劇を殺さなければならないのだ……、そんなことを書いてるわけですね。映画志望の若者はヌーヴェルヴァーグからのライン上でこの本を読むことによって、「演劇」というジャンルへの蔑視が出てくる。ああしたブレッソン的な原理主義から、濱口監督が自由になったチェンジの仕方はどうでしたか?

濱口 繰り返しになりますが僕自身も、もともと演劇に対する、と言うか演劇のある種の演技に対する強い拒否感というものはありました。それは今もあります。ただ自分のやりたいこと、自分が映画で見たいことを考えていくと、演劇というのが避けては通れないものとしてある時期出て来たように感じていました。正確に言えば、映画と演劇の関係というのを考えずには先に進めない、という思いがありました。何が同じで、何が違うんだろう、と。
 僕はジョン・カサヴェテスが別格に好きなんです。カサヴェテスが映画の中で見せてくれたものがなければ映画を撮り続けるという選択は決してしなかったと思います。見せてくれたもの、というのをとりあえず便宜的に言えば「感情」です。ブレッソンの映画にも感情は間違いなくあるとは思います。ただ、そのありかが役者、ブレッソン的に言えばモデルとは必ずしも思えないところがあるんですね。
 ENBUゼミで僕自身の抱えている答えの出ない問いとして、「演じること」と「生きること」というのは一体どう違うのか、という講義をしたんです。絶対に同じではないですが、それが渾然一体となっているのがカサヴェテスの映画だし、僕もそれを映したいと思ったときに、カサヴェテスの晩年の仕事のほとんどは演劇が中心であるということにヒントがあるような気がしたわけです。演劇を題材に選ぶことは「演じること」と「生きること」がどう違うか、というテーマを凝縮してくれるところがあるように思いました。ただ一応付け加えると、ブレッソンとカサヴェテスというのは究極的にはものすごく近いのだと感じます。現れ方が違うだけで。

荻野 ジョン・カサヴェテスはスタニスラフスキー・システムをアメリカで実践しつつ、映画にそれを移植するかたちをとってますよね。演劇にもいろんなメソッドがあるわけじゃないですか。たしか震災の直前にパトリス・シェローとマルグリット・デュラスの演劇『苦悩』を、偶然ですけど濱口さんと一緒の回に見ることができました。ああいうフランスの前衛演劇は、散り散りになったテキストを拾い集めるみたいな形式といえます。それさえ濱口さんは吸収し、ひとつの濱口テイストにしてしまうわけじゃないですか。作り手としての濾過装置といいますか、製造するタンクみたいなものにいろいろとグチャグチャと混ぜ合わされたうえで、濱口臭がワーッと出る。なかには増村も入っていますし、おそらくテキストの手厳しさには監督の実体験、生きてきたうえでの記憶みたいなものも束ねられつつ、かたちづくられてると思うんですよね。

濱口 僕には演劇のスキルや知識もない、でも興味はある。いっそ演劇をやってみないと、勉強もしないだろうという気持ちはあったんです。ただそこで、一体何を演劇のテキストに使えばいいかという問題はありました。
 『親密さ』の元ネタは、僕が大学を卒業する少し前くらいにはあったものです。ただ、そのときは最初の兄妹がお墓で会うシーンまでと、最後のシーンくらいしかできなくて、それ以上書けないままずっと放ってあったんです。もうやることもないのかな、と思ってたんですが俳優コースの学生たちと会って、彼らが演技をするためにはどんなテキストがあればいいんだろうか考えたら、あの放っておいた企画が使えるんじゃないかと。そこには、元々当時の僕の感じたことや、記憶が確かに反映されていたんですが、もう僕の年齢や気持ちからはちょっと離れてしまっていました。ただ、その分彼らに合っている気がしたんですね。ただ、どうしても自分の体験なんかじゃ足りませんから、彼らから話も聞いたりしながら作りました。最終的には、それまで書けなかったのが信じられないぐらい、すらすら最後まで行きました。できあがった脚本は結果的には、とても多くのものを彼ら自身に負っています。

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荻野 出てきた俳優さんたちの演技はどのかたも素晴らしかったですね。「上手い」ではない、リアリズムともまったく違う凄みがあったと思うんです。ご覧になった方々もお感じになられたのではないでしょうか。

濱口 舞台の演出は僕ではなくて、映像俳優コースに在籍していた平野(鈴)さんと衛役の佐藤君がやったんです。何で自分でやらなかったかと言えば、彼らの方が僕よりずっと演出がうまいと思ったからです。これは見ていて本当にそう思いました。結果、本当に役者さんたちは素晴らしかったなと。劇場でカメラを回していて、単純に目の前ですごいことが起きてるなと思いましたね。

荻野 クレジットを拝見すると、詩も佐藤さんが書かれたようですね。

濱口 佐藤君には一番最初に読む「花火」という詩を書いてもらってます。

荻野 ということは他の詩はどなたが書かれたんでしょうか?

濱口 ……僕です。

荻野 いやぁ! 凄いですね、あれほどのはなかなか書けませんよ。そう言われても照れるでしょうけど……。濱口さんのテキストの中には、複数形にしようという意志が必ずある。誰かの悩みである、誰かのつぶやきである、それは一人称によるものなんだけど、それが「私映画」に終わらないのは、必ず複数形に拡散しようという広がりがあるからである……、最後に香取あきさんの読むテキストもそういう言葉で終わりましたよね。それにしても彼女はこの映画の大きな果実と言えます。あのかたは本当に性同一性障害なんでしょうか。

濱口 実際に性同一性障害のかたで、改稿をしていく過程で彼女の話を聞いて、一部彼女自身が経験したことを台詞のなかで入れてみたりもしています。

荻野 おそらく彼女は仄かな思いを最初から衛に抱いてる、だから詩の朗読会にも誘ったりしたのでしょう。書き手同士の同志愛みたいなものから、どこかセクシャルなものへの思慕もあると思うんですけど、凄く純なかたちで衛を応援したい心が伝わってくるんですよね。それをツイッターで拡散させようとしている時のバックショット。あのバックショットがいいですよねえ。観客がいるという状況を示しながら、複数性へと拡散するということを示しながら、彼女は身をかがめてうずくまりながら発声してる。あれは力のあるカットだなと思いました。
 ところで始めのほうで実際の公演は160分と伺いました。映画にするにあたって、どのような箇所を削られたのでしょうか?

濱口 実際の公演では、もっと一人一人のアクションや仕草に時間をかけていたんですね。彼らが実際にその気持ちに達するまで、とても時間をかけていました。たとえばゆきえ役の手塚加奈子さんが手紙を書くシーンは、実際は数分間ずっと、観客に背を向けて書いているわけです。観客にしてみれば「なんだ?」って時間なんですけど、役者には必要な時間だった。ただ、これをそのまま映画にしてしまっては、観客は逆に感情的について来れないだろう、という判断で切りました。ほかにもある感情の階段になればいいと思って書いた台詞がたくさんあるんですけど、そのなかには脚本の段階からドラマ的には「要らない」と感じていたものもたくさんあって、演出チームには「消してもいい」と言っていたわけですね。彼らはほとんど消さずに演じてくれたわけですけど、それを改めて削除したりはしています。

荻野 否定って意味じゃないんですけど、唯一この作品の中で気に入らないと言ったら語弊があるんですが……、彼女が手紙を書くアクションは短すぎる気がするわけです。「良い手紙じゃん」と言わせしめた、非常に心のこもったラブレターが実際にあの女子大生によって書かれる労働として示されるのが、映画のような気がするんです。演劇ではどうなのかはわかりません。20秒で書いたものが、読んでみると20分あるかもしれません。そこの部分の「書く」という労働を見てたかったとは思いました。

濱口 だとすれば、勇気の出る話ではあります。荻野さんのご意見は、ロングバージョンの編集の際に参考にさせて頂くかも知れません。

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荻野 今日この場に、公演に関わられたかたもいらっしゃいますか?

濱口 演出の平野鈴さんがいらしてますね。

荻野 演出した側から見て、画面としてもう一回衣を着た状態で別の作品になるのをご覧いただいて、どういう感想をお持ちですか?

平野 それこそ単純に、劇場と映像とでは全然違うものが見えるんだなあと思いました。違うものというか、まったく違う面というか。感じ得るものの種類も違うと思います。監督から「映画のことは考えなくていい。演劇として、ちゃんとお客さんの目の前でやるという事を第一に考えて作ってほしい」というような言葉をもらっていたのですけれど、正直に言いますと、この作品は映像だから伝えられたもの、或いは伝わったものが多いのではなかったのかなという感想を、映像を見てからは抱きました。もちろん劇場だったから感じられたこともあったとは思いますが。…たとえば、佐藤君が観客に背中を向けていたり、うつむいて顔が見えない状態で演技をする場面があるのですけれど、劇場ではそこでの表情なんかは全然見えなかったんです。ただ、映像で見るとそこが抜かれていたりするんで、そこで初めて『こんな顔してたんだ』という発見があったりして。それは嬉しいことでもありましたし、悔しいことでもありました。

荻野 逆に言いますと、今回上映された映画から失われたもの、演劇の上演時にはこんなものがあったのに、というのはありましたか?

平野 私は演劇には往々にして、見ている側と演じている側が協力してつくっていく面が多少ともあるのではないかと思っているんです、個人的にそういった演劇が好みであるということもあるのですけど。劇場には、荻野さんが最初の方で仰っていた、それこそツバを飲みこむのも意識してしまうくらいの緊張感というのが凄くありました。映像で感じるよりももっとあったと思います。だけど私には、その緊張感は観客側が役者側になんだかほぼ一方的に気を使っているようなものに感じたんです。それはもしかしたら劇場で、“その人たち”が目の前に、自分と地続きの場所にいるという状況でなければ得られない感覚なのかなあとは思います。いい悪いは別として、それらはとても奇妙というか、特異な感覚でした。ただ映像ということで、そういう空気感や緊張感のようなものを体感するということは難しいのかもしれないというか、そういう感覚がうまれるのは演劇ならではなのかもしれないとは思います。

――時間も迫ってまいりましたので、最後にいま濱口監督が他に動かしているプロジェクトなどありましたらお教え下さい。

濱口 先だっての東日本大震災を受けて、せんだいメディアテークに「3がつ11にちをわすれないためにセンター」という機関ができました。音声であったりテキストであったり写真であったり、もちろん映像でも何でもいい、復興活動の記録を残していくことを目的にしたセンターです。そこで僕の出身校である東京芸術大学大学院映像研究科も参加したいということになったときに、僕に話が回ってきまして、今はその記録活動をしています。東日本大震災が起きたのが、本当にこの上演が終わった直後くらいだったんですけど、「ぜひ」と引き受けさせていただいて。五月くらいから行き来しながら一昨日くらいまで仙台で撮影してたんですね。向うに滞在というかたちで、五月から六月の間に一回、七月後半くらいから八月いっぱいまで向うにいて、それからも行き来しながら、沿岸部のほうにいる人たちのインタビューを撮っています。【註1】

荻野 今度はそうしたインタビューの声というのが、ドキュメンタリーという形で濱口監督の作品に響いてくる。ましてや大震災という未曾有の事態を受けての言葉というのは、また一段と本質的に異なる言葉が響かざるをえないし、それもぜひ拝見したい作品ですね。

濱口 これは本当に貴重なものなので多くの人に見ていただけるようにしたいなと。

荻野 これはちょっと皮肉になりますけど、濱口監督はすごい作品ばかり撮られているのに、見るチャンスが少ないんですよね。それが濱口映画の欠点というか、「すごいらしい」と聞いても、見たいまま放置状態になってる人がいると思うんです。ロングバージョンができてしまったら、ひょっとするとこのショートバージョンの上映は非常に限定的な機会だったかもしれないわけじゃないですか。そう考えると本日は貴重な機会をいただきましたね。

濱口 こちらの努力不足もありますが……。ロングバージョンは、やはり長いんですが、その分これはなかなか……すごいことになっているんじゃないかなあ、と編集していて感じています。今まで以上にきちんと人の目に触れるようにしたいという思いはあります。そのときショートバージョンは、今後も『親密さ』をより多くの人に届けるためのパイロット版のような役割を果たしてくれないものかな、とは思っています。4時間より2時間の方が多少は見やすいでしょうから。何にせよ、努力します。本日はどうもありがとうございました。


【註1】
※『なみのおと』[監督:濱口竜介、酒井耕/日本/2011/日本語/156分]のタイトルで山形国際ドキュメンタリー映画祭にて上映


『親密さ(short version)』
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監督・脚本:濱口竜介
舞台演出:平野鈴
撮影監督:北川喜雄 舞台撮影:飯岡幸子 加藤直輝 長谷部大輔 
音楽:岡本英之 ギター演奏:浜本亮 
出演:佐藤亮 伊藤綾子 手塚加奈子 新井徹 菅井義久 香取あき 
製作:ENBUゼミナール 
(2011年/136分)


【映芸シネマテーク第11回告知】

『ギ・あいうえおス―ずばぬけたかえうた』
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2011年 56分 監督:柴田剛
日時:12月2日(金) 
開場:19時 開演:19時30分
会場:人形町三日月座B1F/Base KOM
中央区日本橋人形町1-15-5柏原ビルB1F 電話03-3667-0423
人形町駅A2番出口より徒歩1分、水天宮前8番出口より徒歩1分
料金:1500円
上映後に監督を招いてのゲストトークを予定しております。

※当日はブルーレイの上映になります。
※予約は電話、メールにて承ります。下記まで、お名前、連絡先(電話番号/メールアドレス)、枚数をお知らせください。予約にて定員(30名)となった場合、当日券はございません。

主催:映画芸術、coffee & pictures人形町三日月座
予約・問い合わせ:映画芸術 編集部 電話:03-6909-2160
メール:eigei@y7.dion.ne.jp

posted by 映芸編集部 at 18:09 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする