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2011年12月19日

第18回大阪ヨーロッパ映画祭レポート 前編 
神田映良(映画批評)

 第18回目も無事に終了した大阪ヨーロッパ映画祭。メインの会場となったホテルエルセラーン大阪は、白を基調とした、清楚な印象。上映が行なわれたエルセラーンホールは、木を多用した温かみのあるホールで、白とガラスによる潔癖な雰囲気のあるホテルの中にあって、その温もりに安らぎを覚える。シンプルなデザインのホール内で、天井のシャンデリアの繊細な造形と透明感は目を愉しませる。ホールのすぐ傍にあるエスカレーターを一階下りると、ワインやジュースなどが無料で振舞われている。広い窓から街の景色を見下ろしながら寛げば、ホテルならではの優雅な心地になれる。
 と、延々とホテルを褒めて何が嬉しいんだと思われるだろうが、正直なところ、映画祭そのものの「祭り」としての中身については、あまり語ることが無い。エルセラーンでは、ホールでの上映と並行して、バンケットルームでも上映とシンポジウムが行なわれていたのだが、ホールでその時だけの作品が上映されているタイミングで、裏番組的に行なわれているバンケットルームのシンポジウムには行くことができなかった。一応はホールの方がメイン会場という位置づけのはずだが、ゲストは何人か登壇するのみで、賞の選定なり何なりのイベントも無かったので、やや淡々とした進行ではあった。
 純粋にヨーロッパ映画の紹介に徹した感のあるこの映画祭。ならばまずは肝心の、個々の映画の評価を先に行なうことにしたい。

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『ヘアードレッサー』上映時のホール内

『チャットルームの恋人』(2010年・ルーマニア/監督:アレクサンドル・マフティ)
 チャットを通じて、互いに知らぬ間に浮気心の相手となり合う夫婦。冒頭、演奏旅行に出る夫ガブリエルの準備に追われる夫婦のシーンでは、後ろ姿や足許ばかりが映され、また二人がチャットを行なうシーンでは、顔を捉えたショットでも目の下からしか映らない。どこの誰でもあり得る匿名の存在としての二人。こうした、被写体の切り取り方による演出が巧い。演奏シーンでピアノの前に座るガブリエルのカットでは、彼が演奏していると思いきや、彼は譜面をめくる係として演奏者の傍らにいるだけ。怪我で演奏からは引退しているのだ。妻ガブリエラも、男性と心理学の国際会議について話していると思ったら、実はクリーニング屋として彼に「シミがとれましたよ」と報告している。彼女も家族の為に心理学者の夢を諦めたのだ。その一方、ガブリエルはダンサーの女性に言い寄られ、ガブリエラは例の心理学者の客に誘われる。二人はその誘惑を拒むのだが、チャットで展開する浮気心には、別の人生への憧れという意味も込められていたのだろう。
 文字で交わされるチャットの会話が果物売場に次々と現れる、半ば幻想であるシーンでは、その場に居合わせている夫婦が、互いの存在に全く気づいていない。また、妻が風呂に入っているところへ夫が小便をしに入ってくるシーンに漂う、冷めた空気。皮肉なことに、チャットで二人が直接会うことを約束し合った後の、二人がベランダで煙草を吸うシーンでは、親密な雰囲気での会話が為されるのだ。禁煙していた二人が煙草を吸う、つまり今まで我慢していたことの解禁は、チャットによる浮気と重なって見える。
 遂にチャットの相手を知ってしまった夫婦は、チャット恋愛をリアルに続行しようとはせず、むしろ相手も自分も婚外恋愛に没入していたという事実の方を決断材料にしたらしく、それぞれ別の道を歩み始める。だが、演奏者として復帰したガブリエルの姿を確認したガブリエラが静かに去るラストは、苦味や皮肉よりも、爽やかな甘さが残る大人な終幕だった。

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『アマドールからの贈りもの』(2010年・スペイン/監督:フェルナンド・レオン・デ・アラノア)
 原題は単に『Amador』。これはヒロイン・マルセラが世話する老人の名だ。冒頭、花を強奪するという野蛮さと可憐さが相俟ったシーンから始まるが、マルセラもまたそんな女性だ。給料を受け取り続ける為に、アマドールの死を隠し、遺体の腐臭を何とかしようと、扇風機をガンガン回し、花の芳香用のスプレーを吹きかけまくるマルセラ。白いシーツ越しに何やら遺体から液体が滲み出ているのが見えたりと、状況はグロテスクなのだが、マルセラはアマドールを物扱いしていたわけではなく、むしろ二人の関係は良好だった。夫に妊娠を秘しているマルセラの腹に手を触れたアマドールは、「君の場所を私が空けておこう」と胎児に声をかける。彼が想い人に向けて書いたらしい手紙にも、「死んでもまた誰かの赤ん坊として生まれてくる」と書かれてある。生と死が交錯するように、腐乱死体と花が入り混じり、金銭的な事情と愛情とが接し合う。
 劇中で最も会場の笑いを呼んでいたのは、罪の意識に苛まれるマルセラが、教会で神父に相談するシーン。「死んだ人をこの世に引きとめているんです」、「毎日彼と会っているんです」と涙ながらに訴えるマルセラの真意を知らぬ神父は「そこまで想われて彼は幸せです」、「この世に引きとめることで貴女の助けにもなっている」などと魂のレベルで話をする。また、遂にマルセラの行為を知ったアマドールの娘は、遠い目で亡父を懐かしみつつ、生前の彼が年金から援助してくれていたことを告げ、「いい仕事ぶりよ。そのまま続けて頂戴」。その、父の愛を回想する表情には一点の曇りもない。生前アマドールが、無神論者の友人の言葉として紹介していた「神が恥ずかしいときは雲に隠れるんだ」に沿って、何度か青空に浮かぶ雲が映るが、そうした「恥ずかしさ」は、金銭という地上的な事情によって雲散霧消する。善悪では計れぬ人情を、繊細さと大らかさで肯定する映画だった。

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『ログアウト』(2011年・ポーランド/監督:ヤン・コマサ)
 コマサ監督は、その姓からして日系人なのだろうか、全篇に日本の文化がちりばめられている。高校生のドミニクが、級友の悪ふざけで大恥をかかされるシーンでは、柔道練習中に股間を刺激されたせいで、出てはいけないものが出てしまうし、その噂が広まったせいで引きこもる彼がチャットで知り合う少女シルヴィアのアバター(ネット上の分身)は腕に芸者のタトゥー。彼女とドミニクによる、アバターを介した海中ラヴシーンでは唐突に日本語歌詞の甘いラヴソングが流れて観客を驚かす。ゴス的雰囲気を濃厚に匂わすポーランド映画にサブカルとして挿入されるクールジャパンはクールかつ不思議。
 ドミニクの父は政府で働き母はデザイナーとして働き、共に家には不在がち。ドミニクは、端正な顔立ちながらも自尊心が膨張しきったクールなドラ息子であり、その性格は繊細というよりヒステリック。彼が惹かれていくシルヴィアは自殺願望者の集まる仮想空間で女王様のように君臨している。自殺願望とネットという共通項のある中田秀夫監督の『Chatroom/チャットルーム』のイメージがあったせいで、シルヴィアはドミニクを操って玩んでいるのかと思いきや、結局そうした裏は無い。ドミニクとのビデオチャットでのシルヴィアは、彼女の部屋の暗さや、映像にかかるノイズ、顔を覆う透明なマスク(これ自体、意味深なアイテムだ)と顔のタトゥーによって、幾重にも他者との壁を設けているが、それでいてそのピンクの髪も含めた異相は、特別な存在としての自分をアピールしてもいる。だが、最後にドミニクの死を知らされた彼女は、そこで初めてシルヴィア側の視点になったカメラに追われながらネットカフェの外、白日の下に出て号泣するという形で、平凡な一少女としての素顔を露わにする。
 親子でのオペラ観劇シーンから始まる本作のラストでは、ドミニクの両親が、今度はそれぞれ離れて舞台を見つめており、母は浮気相手の男と堂々と一緒にいる。画面(=舞台)を見つめるうちに人間関係が変化していく物語の暗喩というべきか。『チャットルームの恋人』のラストの演奏会シーンと酷似しても見えるが、別れを選択した夫婦の間にそれでも一片の優しさが感じられた『チャットルームの恋人』とは異なり『ログアウト』は、「死にたくない。母さんを呼んでよ」と泣き叫んで死んだドミニクを初め全員が、他者とのつながりから強制的にログアウトされている。

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『闇を生きる男』(2011年・ベルギー/監督:ミヒャエル・ロスカム)
 映画祭のパンフレットに掲載されていた粗筋にある「ホルモン犯罪」「ホルモンマフィア」といった聞き慣れない言葉が、謎めく魅力を放つ。その中身は、牛に違法なホルモンを注射して太らせて売る連中の話なのだが、彼らの縄張り争いなり何なりが、黒々と香ばしいドラマを展開してくれるのかと思いきや、コメディリリーフ的な車修理の二人組が、殺人に使われた車のタイヤをどうこうしたなどという方向へサスペンスが持っていかれ、それと並行して描かれる、少年期に睾丸を失った主人公ジャッキーがホルモン注射で雄性を維持する苦悩の物語は、サスペンスとはほとんど絡まない。
 この作品、端的に言えば、致命的なまでに「牛」が足りない。ホルモン注射によって牛のような体格となり、過剰な雄性を持て余すジャッキーは、牛の群れを見つめつつ「俺はこいつらと同じだ。子や群れの為に生きることがない。その本能を失ったんだ」と心情を吐露するのだが、こうしたシーンを充分に生かすには、ひたすら太らされて死を待つしかない牛たちの姿をもっと映しておくべきだ。屠殺シーンも無く、牛肉は既に「あとは適当に切ってフライパンにのせて焼いてね」という状態に加工済みで登場。最後に運命に抗おうとして警官に殺されるジャッキーと牛の宿命が重なることもない。なんなら『地獄の黙示録』の暗殺シーンをあからさまに模倣した屠殺カットを挿入してくれてもよかったのに。

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『オランダで一番強い男』(2011年・オランダ/監督:マルク・デ・クルー)
 母子家庭で育った少年ルークは、母から聞かされてきた父の武勇伝で、父はオランダ最強の男だと信じるように。そんなとき、町で力自慢大会が開かれ、その出場者である怪力男を自分の父だと考えるようになる。ファニー・フェースな彼の、絵に描いたような少年性は、その赤毛や、彼が劣等感を抱いている「チビ」な身長と併せて魅力があり、どこか『スターウォーズ』のルーク・スカイウォーカーのミニチュア版といった容姿。そんな彼が恋するのは、留年してしまった背の高い美少女。ルークが脅えていたイジメも、少女が「ボディガード」となり早々に簡単解決。母が父について話していたことが嘘と知ったルークが家出した際も、少女はずっとついてくる。彼女は母親代わりなのだ。ルークは、少女からキスを求められても躊躇してしまう。家出したルークが少女の寝室で一緒に寝ていても、性的なドキドキ感があまりに薄い。少女は性的対象というより彼の保護者なのだ。
 『闇を生きる男』ではないが、本作でも牛が雄性の象徴として登場する。少女の家は農家で、少年を誘って牛の精子の採取を覗きに行く。牝牛の模型に乗っかる牡牛。一方、怪力男は「俺の精子は死んでいる」と、そもそも子が作れないことを告白するのだが、ルークの父はなんと精子提供者で、ルークは人工授精で生まれたのだ。ルークの雄性への憧れは木っ端微塵となった格好。だからといって「俺はあいつらと同じだ」と牛を見つめてニヒルに呟いたりはしないのだが。
 この、あちこちに精子を提供していた男は、突然現れたルークに困惑するのだが、ルークとの関係をドライなまま終わらせず、最終的にはフレンドリーな雰囲気で「兄弟」たちが集合するラストが温かい。だが、怪力男が父ではないことが判明するのがあまりに早いのは少し物足りない。幾つものシーンを積み重ね、彼とルークの関係がより密なものに発展してこそ、真相が発覚してからのドラマも盛り上がるはずなのだが。

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『6階のマリアたち』(2011年・フランス/監督:フィリップ・ル・ゲー)
 株式仲買人のジャン=ルイが、同じ建物に住み込むようになったスペイン人家政婦たちとの交流を深めていくこの作品は、まず建物の空間性が面白い。ジャン=ルイの家に新しく雇われたマリアは、初日に有能さをアピールしようと、他の家政婦たちの支援を求めるのだが、窓からマリアに声をかけられた家政婦が、他の部屋の家政婦へと声をかけ、更に他の部屋へ、と窓から窓へ声が行き来する。それぞれの家で一人、仕事をしていた家政婦たちが、声をかけ合うことで、広々と開けた空間を獲得する。彼女らの逞しい生活力が感じられるシーンだ。また、ジャン=ルイの住まいと、家政婦たちの暮らす6階は、扉ひとつ開けてその上へと階段を登ることで簡単に連絡する。家政婦たちの住まいは狭苦しいのだが、その狭さが互いの密な関係を演出する。
 物語の舞台はド・ゴールの時代。フランコ派に両親を殺された、左翼的なスペイン人女性や、ジャン=ルイの息子二人が左寄りの教師の影響を受けている様子など、資本主義の権化たる株式仲買人ジャン=ルイの存在を揺るがす価値観が挿入される。マリアに執拗に言い寄った給仕にジャン=ルイが金を渡して「もう帰っていい」と告げると「なるほど、紳士方の猟場か」と皮肉られる。
 そうしたブルジョワジー的振舞いを為してしまう中年男の哀しみはいいのだが、家政婦たちの使うトイレの詰まりを直す為に業者を呼んだり、家族との連絡に国際電話を使わせてやったり、祝い事の為に特別なワインを開けて振舞ったり、株投資を勧めたりと、彼の親切は終始、経済的優位を前提としたもの。また、彼の妻は、亡き義母の部屋の模様替えに反対する老フランス人家政婦に「恩知らず」「奥様が大奥様を殺した」と批難されてクビにしたりと、彼女自身も息子たち同様に世代間での価値観の変化を生きている。そんな彼女にもそれなりの物語が紡がれて然るべきなのだが、映画はジャン=ルイが人間的幸福を言わば「投資」で手に入れる過程に終始する。家政婦たちと活き活きと暮らし始めたジャン=ルイを見た妻は、夫への愛情を甦らせもするのだが、エピローグ的なシーンでのジャン=ルイの「離婚した」という一言で済まされてしまう。ジャン=ルイが妻にセックスを求めるシーンも、直前にマリアの行水を見てしまったからであり、喜ぶ妻の愛が虚しい。妻の扱いが冷たすぎるので、家政婦たちへの援助も、何か金の使い所を見つけて喜んでいるだけにも見えるのが難。

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『アイルランドの事件簿』(2011年・アイルランド、イギリス/監督:ジョン・マイケル・マクドノー)
 人種ネタを絡ませたブラックユーモアを全面に展開するが、最終的には「毒」よりも、奇妙にセンチメンタルな後味を残す作品。アイルランドの、一見すると長閑な町で展開する殺人事件と麻薬取引。『ホテル・ルワンダ』での主演が印象深かったドン・チードルが、FBI捜査官として登場。町の少年は「行動科学課?」と訊ねるが、麻薬捜査官だと答えると「つまんねぇの!」。相棒となる警官ボイルが、精神病院に入院している母を訪ねるシーンでも、「その人って、行動科学課?」。チードルと本来は無関係な殺人事件の方も、被害者の口に聖書が押し込められていたり、壁に血文字で謎の数字が書かれていたりと、『セブン』風のサイコサスペンスを匂わせつつも、結局これらには特に意味は無く、肩透かしで終わる。アメリカ映画的なものを求めながらも、そうはならない可笑しみが、町の人々のみならず作品そのものにも漂う。だが、思わせぶりな伏線を全て、「混乱させる為にやった」、「酔いにまかせてやった」などといったナンセンスで呆気なく片づけるのは、主人公たちが試行錯誤を繰り返して謎を解こうとする努力が充分に描かれていてこそ驚きと笑いが生まれるのだが、劇中、これらの謎は課題として前面に出てはこない。結果、観客としても「え?!」ではなく「なぁんだ」で終わってしまうのが惜しい。
 それよりも、ボイルのキャラクタリゼーションこそが最大の魅力。捜査会議で、悪気も無さそうに人種差別発言を口にする田舎者らしさを見せながらも、容疑者のうち一人が殺害されていることを瞬時に推理。捜査中にも拘らず休日をとって娼婦と遊ぶ一方で、賄賂を提示されても受けとらない。冒頭の自動車事故シーンでは、若者の遺体からヤクを奪って舐めるが、そのとき呟く「ママが哀しむぞ」という台詞は、ボイル自身が母を大切にしていることから推しても、本当にママを哀しませない為にヤクを遺体から離したのだとも思える。そんな彼が生死不明となってしまうラストシーンでは、ボイルとの会話を回想するチードルに、甘い哀愁さえ漂っている。

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『こころの部屋』(2010年・スイス、ルクセンブルク/監督:ステファニー・シューア、ヴェロニク・レモン)
 偏屈な老人エドモンを世話している看護師ローズは、生まれてくるはずだった子の為に用意していた子供部屋をそのままにしており、夫に促されても、新たな子を作る気になれないでいる。エドモンは、息子がアメリカへの転勤を目前にしている。ローズもエドモンも、子の喪失という同じ空虚に苛まれているわけだ。或る日、ローズが遅刻した日にエドモンは、観葉植物に水をやろうとして転倒してしまう。ローズの上司に「歩行の妨げになる」と指摘された観葉植物は、しばらくしてローズとエドモンが部屋を訪れると、枯れてしまっている。「看護」という「仕事」が、却って老人の生活空間から生命を奪ってしまうのだが、死産の哀しみがいまだ癒えていないという理由で休暇をとらされたローズは却って、エドモンを自宅に住まわせたり、手作り料理でもてなしたりと、看護師としての職分を越えた関係になっていく。ローズが女友達から預けられた子に、優しいお爺さんとして相手をするエドモンの姿は、彼も本当ならよき父として息子の相手ができたのではないかと感じさせる。そして、子供らがあの空虚な子供部屋に入ったことがきっかけでエドモンは、「居心地がいい」と、その部屋で寝るようになる。ローズが過去の流産で味わった胎内の空虚はそのまま子供部屋の空虚として残されていたのだが、そこをエドモンが満たす。胎児と老人が入れ替わるこの構図は、奇しくも『アマドールの贈り物』によく似ている。
 結局エドモンは、亡妻の思い出を追うようにして寒山に向かい、そこで生涯を終える。当然、ローズは嘆き哀しむのだが、その死は必ずしも悲劇的とは言えない。むしろ彼は、自身が最も安らげる場所へ赴いたのであり、あの子供部屋同様、老人にとって死の空虚は「居心地がいい」のだ。この老人による死の受け入れがあるからこそ、ラストシーンでローズが再び妊娠している姿を見せることができるのだ。

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『ヘアードレッサー』(2010年・ドイツ/監督:ドリス・ドリエ)
 おデブ体型のヒロインが、周囲からの偏見に負けずに奮闘するコメディタッチの映画といえば、タイトルの類似性からも『ヘアスプレー』を連想するが、本作のヒロインであるカティは、愛くるしい「おデブちゃん」が巨体に似合わぬダンスを披露する『ヘアスプレー』とは全然違う(エンドロールで、思い出したように唐突にカティがダンスしはするのだが)。毎朝、ベッドから出る為に難儀して紐を引っ張って起きているのはいいが、全裸で寝ている彼女の重荷としての肉、巨大な乳房や尻を全て晒させる監督の目はシリアスだ。肉の塊の上の顔も、愛嬌があるというより美人で(土屋アンナにホルモン注射をしたようなイメージ)、なおさら肉の重量感が見ていて辛い。
 体型が「美的でない」と言って面接で落とされた美容院の近くに店を構えるというプロットからして、店同士の対決を期待するのが人情だが、結局カティは開店すらできずに終わるので美容師としての実力は分からぬまま。カティの娘が友達の少女とライヴに行こうとするシーンでは、カティが「そんな髪で行くの?」と少女の髪を整えてやるのだが、当の少女からの「あなたのママって凄い!」といった反応は皆無。散髪ボランティアとして通う老人ホームでも、老婆の髪型を変えてイメチェンを図るのだが、老婆は「まぁ、20歳は若返ったわ!」といった反応も見せぬまま、お亡くなりに。結局、カティの仕事に満足げだったのは、ハゲ頭を洗われながら自慰に耽っていた爺さんだけだ。
 こうした、見せるべきカットが何なのかに無頓着な演出が目立つ。典型的なのが、カティが路上の手品師の実験台になるシーン。二つの椅子の上に寝かされたカティは、椅子をひとつ外されてもそのまま浮かんでいるのだが、案の定、体重を支えていたらしい椅子が壊れて落下する。カティの主観ショットで、空を見上げていたのがガタガタと落ちるカットで描写されているが、落下の光景を観客が目の当たりにしてこそ、笑いが生じるはずなのだ。

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『サラの鍵』(2010年・フランス/監督:ジル・パケ=ブレネール)
 この作品は、今月17日から日本で公開予定。大阪ヨーロッパ映画祭では先行上映となった。60年前のフランスに於けるユダヤ人迫害への加担を描いた作品。フランスが国家的にナチスに協力していた事実は、95年にシラク大統領が演説で明らかにしたことで、国民に衝撃を与えたという。この、歴史に埋もれた事実の発掘というテーマは、ユダヤ人一斉検挙の日に弟を納戸に隠して鍵をかけた少女サラが、弟を救おうと奮闘する姿や、60年後、サラの足跡を追うことになる女性記者ジュリア、この二人のヒロインの、忘れられようとしている存在を救おうとする懸命さに託されている。
 圧巻は、検挙されたユダヤ人が集められた、室内競輪場のシーンだ。トイレも無く、競輪場の隅が排泄の場所として使われている光景。絶望して自死を選ぶ女性。半ば死んだように、観客席に横たわるユダヤ人たちを捉えた俯瞰ショット。有刺鉄線を握る手に滲む血や、サラが、何枚も重ね着した服を脱ぐシーンでの、どの服にもユダヤ人を示す六芒星が胸に付けられている光景など、極限状況でのドラマは、的確なカットによって描かれる。
 ほっそりとした体型で、金髪の、どこか繊弱な印象のあるサラが懸命に生き抜き、弟の許へと急ぐ姿は健気だが、成人した彼女は一転して、硬質な冷たい美しさを放ち、無口で謎めいた女性へと変貌を遂げている。その姿は、あの室内競輪場でサラたち家族が出会った、知恵を使ってそこを抜け出した女性に、面影が似ている。少女サラにとって、自らの力で強く生き抜くあの女性は、理想だったのではないか。収容所でサラが脱出を試みる際も、競輪場の女性がそうしたように、敵方の人間と言葉を交わすことで、その状況から脱しようとする。両親と離れ離れにされたサラは、その時点で既に、自分がそうありたいと願う自立した女性への第一歩を、早くも歩みだしたのだ。
 興味を引くのは、ジュリアの妊娠という挿話だ。夫が出産に抵抗することで、これもまたジュリアの闘う課題となるのだが、サラの足跡を辿るジュリアに新たに宿った生命、これは『アマドールの贈り物』や『こころの部屋』で描かれていた、古い時代を生きた者と、これから生まれ来る命の交替という主題と相通じる。この対比によって、過去から未来へ永劫に続いていく時間という、直接的には画面に映しえないものが刻印されることになる。

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(C) 2010 - Hugo Productions - Studio 37 -TF1 Droits Audiovisuel - Franc e2 Cinema

 ここまで、日本初上映作品を中心に、その内容を振返ってきた。既に、幾つかの作品の間に共通項が見出されているが、後篇ではまず、これらの作品全体を通して見えてくる傾向について考えてみたい。

*後編へ続く

大阪ヨーロッパ映画祭公式サイト http://www.oeff.jp/

『サラの鍵』は銀座テアトルシネマ、新宿武蔵野館ほかにて全国順次ロードショー中
http://www.sara.gaga.ne.jp/
タグ:神田映良
posted by 映芸編集部 at 16:43 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする