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2011年12月23日

第18回大阪ヨーロッパ映画祭レポート 後編 
神田映良(映画批評)

 ヨーロッパ映画というと、眉間に皺を寄せて鑑賞する「アート」というイメージが一般的なのかもしれないが、今回上映された作品は、そうしたイメージを破る、愉しむものとしての映画が多かったように思う。ポスターやパンフレットの表紙に使われているのも、『ヘアードレッサー』のヒロインが、明るい照明を浴びて笑顔でポーズを決めている姿で、ここからも映画祭の志向している方向が分かるというものだ。尤も、実際にはこんなシーンは作品中に無いのだが。
 また、やはりヨーロッパらしいと思えるのは、人種にまつわる話題の豊富さだ。とにかく、一国の映画の中にも自然に他国の存在が介入してくることが多い点が日本映画との決定的な違いであり、「ヨーロッパ」という地理的概念で各国の映画作品をまとめて観ることの面白さもそこにあると言っていいだろう。国同士が地続きであることの意味は、島国日本でこそ、より実感できるものがある。

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ナタリア・ベルベケによるサイン会

 『アイルランドの事件簿』では、ブラックジョークとして人種ネタが頻出するが、その種のジョークは日本では、芸人・鳥肌実のネタくらいでしか滅多にお目にかかることは無い。警官ボイルは、FBI捜査官が黒人であることから、彼をスラム出身と決めつけるし、捜査会議では、捜査対象が白人だと知って驚き「密売人といえば、黒人かメキシコ人だ」。自分を殺そうとした殺し屋が事件の真相をペラペラと喋ったことについて、「コロンビア人を雇うべきだったな」。他、バートランド・ラッセルの出身地についての言い合いや、「クロアチア人は怒りっぽい」といった台詞など、人種ネタはふんだんに散りばめられていた。
 『ヘアードレッサー』では、ベトナム人密入国者との関わりや、ヒロインが店を構えるのが元中華料理店、更にはライバル美容院の、若くスラリとした美貌を誇示してくる厭味な店員が東アジア系であったりと、ヒロインの周囲に展開するドラマはほとんどアジア人絡み。『アマドールの贈り物』はヒロイン自身が移民なのだが、これは当初スペイン人にするつもりが、介護の仕事に就いているのは95%が移民であるという現実によって設定が変化したという。監督は、ヒロインの生命力や、老人が新しい命に場所を譲ることの比喩として、移民という設定を肯定的に捉えているようだ。主演女優のソニア・アルマンチャはペルーの貧しい地域出身で、演技の教育は受けていないようだが、身振り手振りが大仰になりがちなスペイン人の演技と比べて、繊細な要求に応えてくれたと監督は語り、映画そのものが「移民」の存在によって生命を与えられたようだ。
 移民といえば、『6階のマリアたち』では逆にスペイン人が移民としてフランスに来て家政婦を務めている。主人公の妻が友人たちから「スペイン人家政婦はお勧めよ」とアドバイスされるのだが、その理由は、権利意識の強いフランス人と比べて「彼女の望みは日曜に教会へ通うことだけ」という「慎み深さ」にあり、「田舎の出の方がいいわよ」と、無知で都合がいいスペイン人という扱い。「スペイン人だけど……清潔なの」などという台詞が発せられることからも、スペイン人をどう捉えているのか知れるというものだ。
 『オランダで一番強い男』では、ルーク少年の母が同僚に「父親はスペイン人ということにしたら?」とアドバイスされて「スペイン人に赤毛はめったにいないわ」と答えると「じゃ、旅のアイルランド人は?」と返される。『チャットルームの恋人』では、クリーニング店の若い女性店員を誘惑した男性客が、ロシア人なのにオランダ人を装っている。『闇を生きる男』では、ベルギー内のフランス語圏とフラマン語圏との言語的差異や意識の違いが表現されている。
 異人種との関係に加えて気がつくのは、アメリカ合衆国の存在。『アイルランドの事件簿』では、アメリカのサイコサスペンスという映画ジャンルそのものが意識されている。『こころの部屋』のエドモン老人の息子はアメリカへ赴任しようとしているし、『ヘアードレッサー』のカティの娘はアメリカ留学の意思を、母と別れた父にだけ知らせて母には黙っている。『サラの鍵』の女性記者ジュリアはアメリカ人で、彼女が追うサラの足跡、そしてジュリア自身の帰るべき場所もアメリカ。アメリカは、何らかの理想形を体現する国、或いは新しい未来がそこで開かれるべき場所としての象徴性を担っている。赴任先、或いは留学先がアメリカ以外のどこかであれば、その場所へ行くことの具体的かつ特殊な意味合いが生じるだろうが、アメリカであれば、ほとんど「新天地」を表す記号として抽象的に機能してくれる面もあるのだろう。
 普段、劇場で上映されるアメリカ映画の多さは、毎日がアメリカ映画祭といった感じであり、どこよりもアメリカという国の、個々別々の映像に多く触れているはずなのだが、却ってそのせいなのか、アメリカは、特に映画の中では一種の空気として存在している印象がある。この点はヨーロッパでも日本でも、あまり変わらない面があるのかもしれない。

 22日は、「エコDAY」として環境問題特集が組まれた。上映された三本の映画はどれもドキュメンタリー作品だったが、エコ云々を抜きにしても、ドキュメンタリーとしてのアプローチがまるで異なる点が興味深かった。

『100,000年後の安全』(2010年・デンマーク、スウェーデン、フィンランド、イタリア/監督:マイケル・マドセン)
 ドキュメンタリー映画ではあるのだが、ほとんどSF映画でもある。いや、写された現実がSF的なのだ。映像が美しい。闇に浮かぶ地下の掘削現場。『2001年宇宙の旅』張りに、機械の動作にクラシック音楽を被せたシーン。雪の白と、灰色がかった緑の葉が、世の終末を思わせる風景。だがそうした映像がSF的だというのではない、インタビューシーンで「十万年後の安全」について語る関係者の言葉がSF的なのだ。十万年とは、原子力発電所の放射性廃棄物が無害になるまでに、最低でも必要な期間。その最終処分場「オンカロ」がフィンランドの地下に建設されることが決まった。十万年は、30世代である。それゆえ、インタビューシーンの言葉は多分に空想的になる。「未来の人類が進歩しているとは限らない。原始人のように退化しているかもしれない。彼らは科学を重視しないかもしれない」、「オンカロを埋葬場と思ったり、財宝が隠されていると考えるかもしれない」などと「かもしれない」尽くめの未来を想像する関係者たちの中から、恐ろしさを伝える為の普遍的な伝達手段として「ムンクの“叫び”は良い例だ」という言葉が発せられた時には、どう受けとるべきか戸惑わされた。ラスコーの壁画が意味することさえ今の人類には不確実な話なのだが、ムンクは十万年も有効な表現に達していたのだろうか。
 「過去には、一万年保たれた建造物すら無い」という言葉が不安をかき立てる。また、作品中に登場する監督は、終始、未来の人類に向けて語り続けるのだが、この映画そのものは、複製を繰り返すことで十万年もつことができるのだろうか。劣化の無いデータとして保存されていったところで、データの再生手段がどこかで途切れるかもしれない。この映画そのものが、十万年間忘れられずにいるという、困難なことを要求しているのだが、まさにそれこそが、「未来」と現在の断絶という闇を開いてしまう。オンカロがどういう施設なのか未来人に知らせる為の標識は、言葉や文字の変化を考慮して絵で表現されているのだが、それはもはや古代の象形文字のようであり、宇宙人に向けたメッセージのようでもあり、その不可能とも思えるコミュニケーションの試みは、時空の感覚を混乱させる。そうして、「何も標識など立てず、オンカロを隠匿し、未来人の好奇心に触れさせないのが最善」という、コミュニケーションの拒絶という案にも説得力が生じてくる。そうしたアイデアを聞いているうちに、彼らが相手にしているのはそもそも「人類」なのか?という根本すら揺らいでくる。放射能の危険と共に噴出する恐怖、それは人類の断絶という深淵だった。本作の冷たい映像美は、この非現実的な現実への批評性として見るべきだろう。

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『行動せよ!』(2010年・フランス/監督:コリーヌ・セロー)
 政府が、農地に使用すべき種を指定し、それ以外は違法としていること。大学で土壌学や微生物学が教えられなくなり、そうした知識を持たない学者が農薬使用を支持していること。一元化された価値観が押しつけられて、多様性や選択肢を奪われていく農業の現実には衝撃を受ける。特に、肉を餌として与えられた豚が、共食いをしてしまう為、子豚の時点で予め尻尾を切られていたり、母豚が子豚を食うので隔離されていたり、他の豚に食いちぎられて耳がボロボロになっている光景には背筋が凍る。
 だが、『100,000年後の安全』がオンカロ関係者への取材によってその寒々とした現実を浮き彫りにしたのとは逆に、取材対象者が反体制的な人物に限定されており、一面的かつ一方的な印象は拭えない。特にラストでの、取材対象者たちの朗らかな笑顔を次々と映していく演出には違和感を覚える。農薬万歳と言っているような人々も、同じような表情で笑うことだってあるはずなのだが。現実を多角的に検証する姿勢より、監督自身の好悪の感情がそのまま映像化された感がある。これは、あのマイケル・ムーアより問題がある。ムーアの場合、一応は対立する立場の人間にも取材していることに加え、些か強引な巨漢としてのムーア自身が画面を占領しているのが観客の目にも見えるので、映画の主観性についての観客の判断材料になる。だが『行動せよ!』は、監督の主張、スタンスが画面を満たしながらも、監督自身は単なる視線という透明な存在と化している。
 いったん立ち止まって対象を見極めようという姿勢が欠けているのは、映像そのものの振舞いからも察せられる。そのいい例が、農地を追われた人々が集うスラムを撮ったシーン。カメラがその光景をパノラマ的に一望させようと横へ振るのはいいのだが、動きが早すぎて、肝心の光景がぶれている。全篇に渡ってカメラは運動をやめず、インタビューシーンでも、被写体の人物に寄ったり退いたり忙しい。訪ねた場所で猫が喧嘩していたり山羊が見つめていたりすれば当然カメラをそちらへ向け、あれを見て、これを見て、あらこんなのもあるわ、といった調子のお喋りカメラで、カット割りもやたらに細かい。いや、農家の生活空間を捉えるという姿勢はいいのだが、取り敢えず一瞬でも映せば見せたことになるとでも思っているかのようで、あまりに主観的かつ多動症的。他者に映像を見てもらおうという配慮や繊細さがもう少しくらいは欲しい。土を掘りすぎて土壌をダメにするような農業のやり方は男性的だとか、かつて農業は女性を中心にしていたとかいった、エコフェミニズム的主張の是非はともかくとして、この映画のそのものも、ひたすら自己の目的達成の為に対象を掘り起こしていく制作姿勢。

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『危険なレシピ』(2008年・フィンランド/監督:ジョン・ウェブスター)
 二酸化炭素の排出によって地球に負荷をかけるのを止めようと、石油を用いないオイルフリーを一年間実践した監督一家の記録なのだが、この監督はじめ、妻も幼い兄弟も本当に穏やかで優しい印象なのが救いだ。というのもこの監督、計画の提案からその貫徹への意志に至るまで、恰も『未知との遭遇』の、UFOにとり憑かれたお父さんのように、唐突かつモノマニア的なのだ。ちょっとしたアイデアを試してみないか、といった調子でソフトに提案している印象だった監督が、徐々に計画を徹底させていこうとする姿は、ちょっとしたサスペンスでさえあり、最初から怪しすぎる『シャイニング』のジャック・ニコルソン父さんが斧を振り回す姿よりも不気味。監督の提案はかなり唐突で、観客も妻と同じく「何なんだ、急に……」と戸惑わされる。計画をしぶしぶ了承しつつも理解ある姿勢を見せていた妻も、徐々にストレスが爆発寸前になっていく。
 彼女が夫に反抗するのは、自分の為ではなく二人の息子の為だ。子供たちがパーティをするのを直前に知らされた妻は、早朝に起きだして買い物に行く。事情を知らず、何事かとカメラを手にした監督の前に帰宅した妻は、「おやつがニンジンだなんて可哀相でしょ?」と、タブーを破ってお菓子を手にしている。塩の歯磨き粉では虫歯になると聞いたらしい彼女は、フッ素入りのチューブ入り製品を子供らに使わせて、どういうことだと戸惑う夫に対しても一切悪びれる様子はない。ガソリンの使用を減らそうと、自家用車を禁止にするシーンでは、車の前で「お産のときもこれで病院に行ったのよ」と哀しげだったが、その後しばらくしての友人との会話では、時間のかかるバス使用も「子供との時間が増えたわ。話が尽きないの」と嬉しそう。子供たちへのクリスマス・プレゼントの包み紙がみすぼらしいと嘆いて涙するなど、妻の喜怒哀楽の多くは子供たちの為にある。尤も、監督がそうした場面ばかり編集したのかもしれないが。クリスマスツリーの飾りからプラスチック製のものを外そうとする夫に対しては、子供たちと共に反逆。しかし、「神聖な日なんだから」というその言葉には、「神聖さ」などというものがプラスチックに左右される事態とは何なのかと、ふと疑問に感じなくもない。
 石油の使用が当然視される世界への違和感を覚える箇所は幾つかあり、特に、製品自体に石油が使われていなくとも、ビニールで包装されているせいで買えない物が幾つも出てくるくだりでは、そこまで徹底されているビニール包装こそ異常に思え、監督の異常さが霞む。一家を乗せたボートが、エンジンを使わず監督の手漕ぎで、這うように進む場面では、近くを通ったボートから、故障なのかと声がかかる。だが、家族がボートの上で向かい合って座り、夫の肉体労働による、いわば手作りのスローな時間を共有する姿は、エンジンを使って疾走していく人々よりも豊かに思えた。
 妻の顔に疲労の影が濃くなっていくにつれ、監督は独裁者として指弾されるようにもなる。だが、彼の異常さ以上に、石油を拒むというただそのことだけでその生活を異常なものへと追い込んでしまう、選択肢の無いこの世界もまた些か異常なのだろう。一年間の計画から解放された一家の晴れやかな顔、DVDを買ってもらった息子の「プラスチック大好き」という笑顔、この幸福感が石油依存なのだという現実への違和感は、このラストシーンを思い出すたびに胸に引っかかる。そういえば『行動せよ!』で、農家に押しつけられたものとして紹介された作物は、石油製の薬品を必要とする種類だった。

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 上映作品についてはこういったところだ。最後に、映画祭全体を振返ることにしたい。
 まず、冒頭に続き、会場について。またホテルを褒めるんですかと言われそうだが、ホールの椅子は実に座り心地がよかった。いや、何も特別な椅子というわけでもなく、ただクッションが柔らかかったという程度の話だが、プレスとして一日潰して映画を観る為に座り続けると、この椅子の柔らかさというのは、肉体的な負担という点で、まさに天地の差がある。これが、薄いクッションくらいしか付いていないようなパイプ椅子に一日座ることになると、固い椅子が尻の骨に当たり続けて、仕舞いには耐え難くなり、ちょっとした拷問のようにさえなる。尾てい骨にヒビが入ったんじゃないかと、半ば本気で心配になってくるほど。敢えて言わせてもらえば、映画祭に於いては、作品の選定の次くらいに重要なのが、椅子の座り心地かもしれない。落ち着いて映画に集中できただけでも有難いことではある。これならいくらでも座っていられるな、と喜んでいたのだが、そうなると今度は、会場でのイベントの少なさが物足りない。
 ゲストトークでもコンペでも何でもいいのだが、その日その時のその場に居合わせた人間だけが遭遇する、何が起こるか分からないライヴ感を味わうという意味では、もう一工夫欲しいところだ。途中から女性司会者が壇上に立つようになったのだが、これは普段の僕なら、特に必要とは認めない要素だ。だが、司会者が加わることで一気に、今この場にいて映画祭に参加しているのだという実感が増す。ヨーロッパからゲストを呼ぶには、地理的な距離もあって難しいものがあるのかもしれないが、ならばヨーロッパの事情に詳しい専門家なり何なりを呼んでもいいし、時間的に都合がつくならネット中継でのゲスト出演を求めるなど、何らかの方法が無いものだろうか。
 個人的には、賞の選定のようなイベントはあまり重視していなかったのだが、会場のライヴ感を増すという意味では悪くないのかもしれない、と考えを改めた。映画に対する価値観は様々なので、賞を与えたり与えなかったりで作品を分け隔てるような行為はどこか疑問がつきまとうものだが、賞の結果に一喜一憂することで、自分なりの価値基準を確かめるというのも、これはこれで意味はある。今回、そうした引っかかりの無いままに映画が次々と上映されていく時間を過ごした結果、個々の映画に触れた実感はあっても、会場の空気に触れたという感覚の方には寂しいものがあった。映画のスクリーンはあらゆる時のあらゆる人に向けて開かれた窓なのかもしれないが、ひとつの限定された時間と空間を共有するという感覚からは遠い。限定されているのは、映画の上映される場の方であって、その場の密度をどれだけ高められるかが、映画祭の、観客の思い出としての濃度に直結しているはずなのだ。

*前編に戻る

大阪ヨーロッパ映画祭公式サイト http://www.oeff.jp/
タグ:神田映良
posted by 映芸編集部 at 17:09 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする