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2012年02月15日

『生きてるものはいないのか』
石井岳龍(監督)インタビュー

 『五条霊戦記 GOJOE』(00)以来、じつに12年ぶりとなる石井岳龍(聰亙改め)監督の長編が公開される。現在、監督が教鞭を取る神戸芸術工科大学を本拠とし、スタッフ・キャストに学生をまじえ撮り上げた本作。原作は、劇団「五反田団」を主宰する劇作家・演出家であり、近年は「夏の水の半魚人」で三島由紀夫賞を受賞するなど、小説家としても存在感を増す前田司郎の同名戯曲である。
 「この作品は『かつてない』『誰も見たことのない映画』であることは間違いないが、『これだよ! これこそ映画だよ!』と思えてしまう」。かつて石井監督の助監督をつとめた緒方明監督が本誌438号に記しているとおり、本作は原作の忠実な映像化に見えて、映画にしか実現できない世界をスクリーンの中に屹立させている。映像と音楽、観念と身体、生と死──これらの相克が物語の理解を超えて迫りくる感覚。これほど稀有な「映画」体験を享受できる機会をみすみす逃す手はないだろう。
(取材・構成:平澤竹識 構成協力:中山洋孝)

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──石井さんの久しぶりの長編が戯曲の忠実な映画化ということにまず驚きました。プレス資料のインタビューでは「初めてですね、セリフを読んでこれは一字一句変えなくてもいいんじゃないかと思ったのは」と仰ってますけれども、これは裏を返せば、自分が映画にすれば原作の舞台とは全然違うものになるという確信があったということでもあるんじゃないでしょうか。

石井 見抜かれましたけど、そうですね(笑)。脚本家の橋本忍さんとかいろんな方が、原作を叩き潰して血のエキスを飲むんだ、そこから映画を再構築するんだ、ということを仰ってますけれども、今回はまずテーマに共感してますから、そういうことは必要ないと思ってました。

──石井さんが最初に見た映画のビジョンはどういうものだったんですか。

石井 これまで自分の一番苦手なことが、生き生きとした会話を書くということだったんです。もともと好きな映画も、ヴィジュアルインパクトと言いますか、映像と音に分解してテーマを語るようなもの、形式的には映画が音を持った瞬間の映画ですよね、フリッツ・ラングの『M』(31)とかカール・ドライヤーの『吸血鬼』(31)とか。「これこそが映画だ」と思っていたぐらいなので、あまり会話というものに重きを置いてなかったんです。
 だけどこの30年間、大学で教えるようになったこともあって、自分なりに映画を見直したんですよね、人に伝えるために。そうすると、山中貞雄さんであるとか川島雄三さんであるとかジャン・ルノアールであるとか、そういう方々の映画は会話にテンポがあって、会話劇を逆に豊かな「映画」にしていく。そういうことが不得意だと思ってきたけど、この原作の戯曲を読んだときに、テーマとかやりたいことに共感できるのに、私には全然できないような会話劇としてやってることにすごく刺激を受けたんです。
 それに低予算映画にとっては、戯曲という表現形式はものすごく力になるんですね。舞台設定が限られてるから、それほどお金がかからない。でも、生身の人間のお芝居というのは俳優さんとの共闘によって作られる。これは低予算で映画を撮らざるをえない僕らにとっては見過ごせない武器なんです。だから、戯曲を映画にするということは、今の私には避けて通れない選択でした。

──そういう戦略的な部分もあって、この戯曲の映画化を思い立たれたと。

石井 それはもちろんあります。今、私が大学にいて、俳優さんに近い年齢の人たちと接してますから、その辺のこともリアリティを持って描けるだろうと思ってました。

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──「リアリティ」という言葉が出ましたけれども、前田司郎さんの原作戯曲はリアルなようで決してリアルではないと思います。今回の映画も、映像の切り取り方、音の付け方、もろもろ含めて見たときに、リアルなようで決してリアルではないですよね。

石井 でも、映画ってそういうものですよね。

──ただ、石井さんのこれまでの作品はもっとフィクショナルなほうに振り切れてるものが多かったと思うんです。今回の映画はかなり現実に密着した形で、映画独自のリアリティを構築しているように感じました。その辺はかなり気を使われたんじゃないですか。

石井 大学でいろいろ見てると、現代の大学というのは神殿のようにも感じたし、この戯曲はリアルなようでいて普遍的なテーマをそこに湛えてると思ったんです。だから、神話のような普遍性をわざとらしくない形で表すために、ある種の空間の刻み方とか映像的な仕掛けが欲しいと思ってました。
 そのときに、どうしても自分が60年代とか70年代に見て好きだった映画の影響が出てしまうんですね。あるいは、特に好きなわけじゃないんだけど、「ああ、こういうふうに影響を受けてるんだ」というようなことがありました。「何が映画か」という部分で染み付いてきたものがあるから、そこはもう自然に出てるなと。なんとかしてこの題材を「映画」にしなきゃいけないというときに、自分の中のありとあらゆる映画的な記憶とか映画的な技術というのが滲み出してると思います。だから、もちろん意図的にやった部分もあるけれども、自然にそうなってる部分もありますね。

──緻密に構築している一方で、状況に委ねてる部分もあったと?

石井 それはいつもせめぎ合いだと思います。実は今回コンテも結構切ってるんですが、たとえ完璧な脚本とコンテがあっても、実際の空間の中で俳優さんに動いてもらったときに、低予算の映画では完璧に世界を作ることはできないんですね。黒澤明監督みたいに「今日は光がダメだから解散!」とか、そういうことはできない(笑)。そういう前提条件を映画の面白さに転化させていくためには、計算されたこととライブ的な一回性の葛藤があるほど面白いと思うんです。周到に用意されたことと、それを超えていく瞬間──役者さんの生身の肉体だったり、そのときの感情の表現だったり──がスパークする瞬間を私も見たい。こっちの計算通りに終わったらつまらないし、「それをどうやって超えてくれるの?」ということですよね。

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──そういう意味では、今回のキャストはキャリアのある方ばかりではないと思うんですが、みなさん非常に生き生きとしてますよね。どうやって演出されたんですか。

石井 それぞれに解釈を委ねてる部分もあるし、面白くなるように調整してる部分もありますけど、できる人たちを選んでるというのがまずありますね。そうしないと、これだけたくさんの登場人物がいたら見分けがつかなくなる。それぞれの人物の個性と会話のテンポをどう上手く出せるかが重要だと思ってました。
 でも、やっぱりテキストがいいんですよ。まず会話がリアルに聞こえるし、無意味なことを言ってるようでも、人物のキャラクターを出しつつ、陰に隠れた人間関係とか、それぞれの人生観をあぶりだしている。そこにトータルな世界観も描きこまれてるから、そのベースさえ外さなければ、役者さんに「もっと行け」とか「早く」「遅く」とか、思い切ったことができるんです。その結果、ベースの部分をも超えた何か、「あれ、こうなったの?」みたいなことがあれば、映画は力を持つと思うんですね。

──それは、編集の過程でということですか。

石井 撮影の本番も編集も仕上げでもそうですね。「こう撮ればこうなる」という計算はもうかなりしてるんで、それだけではつまらない。最終的には「こうしないとダメだ」というところまで自分を追い込んで、編集である種の面白さを見出していく。あるいは音を付けたときに面白さを見出していく。その結果、「ああ、こうなったのか」というところまで行けるかどうかですよね。

──先ほど、テーマに共感したと仰っていましたけれども、今日一番伺ってみたかったところがそこなんです。前田さんは戯曲のあとがきで、「生まれながらに死に続ける人間が何で、私は死につづけていると実感せず、俺は生きていると実感するのか、もしくは実感しようと思うのか、そんな事を考えていました」と書かれています。おそらく石井さんは戯曲がはらんでいるそういう世界観に惹かれたんじゃないかと思うんですが、いかがですか。

石井 人が生きるというのは、たしかに死ぬ瞬間の積み重ねだと思います。映画が面白いのは、それを捉えられるからですよね。永遠の一瞬と言いますか、本物のように見えるけど実は幻影にすぎない瞬間、死んでいく瞬間を捉えられるスリルがある。それが最大の特徴だってジャン・コクトーが言ってたのかな。それはもう、本当にそうだと思います。
 同時に、死は不条理だと思うんですよ。自分が選ばないのに死ななきゃいけない。ものすごく残酷な事実だと思うんですけど、それはどんな人間にも平等に訪れる。その不条理を受け入れることからしか始まらないんじゃないかな、という思いが常々あるんです。それを真面目に語っちゃうと、宗教的になったり哲学的になったりするけれども、それは映画がやることではないと思っていて。今回はそういう自分にとって一番不可解でスリリングなテーマを、前田君がある種の脱力系ギャグの形で提示してきたことに刺激を受けたんです。照れもあると思うんですけど、すごく大事な本音が詰まっていて、その両方を映画ならではの表現に再構成することにものすごく惹かれました。
 今言ってるようなことは例えば、同じように世界の終末を描いた『メランコリア』(11)には全く感じなかったんですね。どうして終末や絶望を描くのか分からない。絶望を描くとしても、『仁義の墓場』(75)のような映画を見ると、私は元気になるんです。ひとりで絶望してるときに『仁義の墓場』を見たら、「参ったあ」と思ったんですね(笑)。あまりにも暗くて重いんだけど、見終わった後になぜか爽快な気分になった。逆に救われたと言いますか、それが映画の力だと私は思ってるんです。だから、この映画で描いたのも、死を嘲笑うことではないし、圧倒的な、平等な事実の照り返しから何を見るかということですね。それをこういう表現でやりたいと思った。そういえば、ルイス・ブニュエルとか川島雄三さんとか、彼らはそういうふうに生や死を描いていたなと思える。それが今回チャレンジしたい、絶対にやりたいと思ったことかもしれません。

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──つまり「世界は行き着くところまで来てしまった」というような、終末論的な問題は決してテーマではないということですよね。演劇では当然、風景を見せられないわけですが、この映画では荒廃した街の風景を最後に見せています。外界の景色を見せることの効果についてはどのように考えていたんでしょうか。

石井 外界の描写は脚本にもあって、それはもっと前に入る予定でした。「外界ではこういうことが起こってますよ」というのを入れないと、狭苦しくなるんじゃないかなと思ったんです。最初は、大学の中でもエキストラ的な人物を一切描かなくていいんじゃないかなと思ったんですよ。でも、やっぱり外界との繋がりはあったほうがいいだろうと。普通に映画化するんだったら、原作の戯曲にあるような駅前の描写とか、そういうものも入れると思うんですけど、それは要らないと。最低限、これが現実と地続きであるということを感じてもらえる程度のリアリティと、自分が狙ってる神話性みたいなもの、それが出せればいいと思ってました。
 今回はああいう映画のルックでしか撮れなかったし、それが僕らのできることの最善だと思ったので、ノーライトに近い形でも撮れる、非常に明るいレンズで人物だけに焦点を合わせていきました。全てのルックを含めて「こういう撮り方でいく」という中で、最終的に彼が見るビジョンとして、ああいう映像があったほうがいいのかなと思ったんです。自分としては、あそこから始まるところもあるような気がしたんですね。それまでの出来事を踏まえたうえで、これを映画表現として要約したら、こうなるんではないかということをやってるのかもしれません。

──ルックの話で言うと、中盤までの人物同士のやり取りはカッティングが非常に細かくて、不安定なリズムで語られていきます。後半は通常の切り返しが増えて、リズムも安定してくると思うんですが、ああいう映像の構成はどういうところから発想されていったものなんですか。

石井 全てはクライマックスから一応計算してるんですけど、空間というのが大事だと思っていたのは確かですね。その人物たちがいる空間をどう表現していくのか。彼らなりの時間の流れ方とか空間の捉え方を示していかないといけないんじゃないかなとは思ってました。

──カメラと人物の距離感が、人物同士の距離感に呼応してるようにも感じました。そのときに交わされている会話が相手の言葉を受けてるようで受けてない、その状態を映像が反射してるように見えたんです。

石井 そうですね。人物同士の距離感とか関係性も含めて、その人たちがいる空間を映画は表現できると思ってました。あれは舞台では絶対できないことですから。ケイスケ(染谷将太)とミキ(田中こなつ)の関係を通してこの映画を見るとするならば、そういうことがとても重要だと思います。

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──忠実な映画化とはいえ、原作の戯曲から変えられてるところが少しありますよね。映画でも戯曲でも、人物たちの死の原因は明らかにされないわけですが、繰り返し語られる都市伝説、「アメリカ軍が人体実験を行なっていた」という噂の舞台になっている大学病院の地下三階を、戯曲では描いていません。ミステリーの核心部分を曖昧にしたまま最後まで押し切る作りだと思うんですけど、映画ではその地下三階を画として見せています。その判断はどういうところからだったんですか。

石井 そこは映画ならではの、観客のイマジネーションをかき立てる部分かなと思ってます。ミキと一緒に地下三階へ降りて、ひとりでトンネルに入っていくマキ(青木英李)という女性がいますけど、彼女は米軍がそこでウィルスを作っているという噂を否定するんですよね、「それは私の学生時代、都市研の子がばら撒いたデマだよ」と。その彼女自身が地下室に入って何かを見ようとする、そういうビジョンが必要なんじゃないかなと思ったんです。そこに解答はないんですけど、映画ならではのフィクションの多重性というか、いろんな解釈ができる謎もスパイスとして内包させることで映画体験の醍醐味を強調しようとしたのかもしれません。

──破れ目のような?

石井 そうですね。私はイメージ的な曖昧な表現が実は好きじゃないんです。はっきりとした解釈があったほうがいい。今回も自分の解釈はありましたけど、それをこう見ろとは押しつけたくないんです。

──この映画を二回拝見したんですが、一度見たときの記憶だとミキのほうが地下三階のトンネルに入っていったと思い込んでたんです。でも見直したら、それがマキだったことに気づいて意外に感じました。

石井 ミキは地下三階でマキに置いていかれて、その後、別人のようになって出てくるんですが、あそこで何かあったんだと私は解釈したんですね。じゃあ、何があったのかということを、映画ならではの表現でできないかなと思ってました。
 私はルイス・ブニュエルが好きだったり、デヴィッド・リンチの『ブルーベルベット』(86)や『ワイルド・アット・ハート』(90)が好きだったり。『ロスト・ハイウェイ』(97)まで行くと、「それはあなたの勝手な妄想だろ」って思うんですけど(笑)、ある種のサスペンスの中に映画ならではの表現が入ってくることはむしろ好きですから、地下三階のくだりはその匙加減を考えながら入れてます。

──ミキは他者を殺す存在でもありますよね。しかも、殺される二人は共に大切な存在を失っている。そこに大きな意味があるような気がしました。

石井 そこに関しては私自身すごく戸惑いがあったし、前田君とも一番話したところですね。俳優さんの解釈もまた違ってると思うんですよ。前田君も「そこに解答を求めちゃダメなんじゃないか」と言ってましたし、この映画で解決できる問題ではないと思ってます。
 最近のイーストウッドの映画はほとんど好きなんですけど、『ミリオンダラー・ベイビー』(04)でイーストウッドがボクサーの女性を安楽死させることに関して、いまだに自分の中で解答を見出せてないんですね。その問題提起は分かるんですけど、それを肯定していいのか、まだ結論が出ていない。それを描くのは、自分にとってはかなり苦しいことでした。

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──最初に「低予算映画の戦略的な一面もあった」と仰ってましたけども、大学を本拠地として映画を撮られた、その可能性や手ごたえについて伺えますか。キャストでもふたり、学生の方が重要な役で出演されてますが。

石井 世代は違いますけど、例えば学生さんが表現したいときに何が大事なのかを問い詰めていくと、昔とほとんど変わっていないという感じを受けました。場所がなかったんだなとか、やればできるという感じだった。だから今回、私がこういう場を作って、そこでできることを示すことによって、リンクしていくことがあるかもしれない。映画はとてもお金がかかるし、それを回収しなければいけないけれども、ある一つのことをこうやってやることは、自分にとっても彼らにとっても刺激になったと思います。真似をしろとは思わないけど、「俺たちもやっていいんだ」とか「俺だったらこうしよう」というふうになればいいんじゃないかな。『爆裂都市』(82)の現場に付いてた緒方(明)君とか阪本(順治)君とか松岡(錠司)君とか笠松(則通)君もそうですけど、その後の彼らの立派な仕事を見てると、「石井さんみたいにしちゃダメなんだ」ってことを見事に反面教師にしていったんだなと思いますし(笑)。

──そんなにムチャをされてたんですか(笑)。

石井 メチャクチャだったと思いますね。それが当時の自分の役割だと思ってましたし、パンクロックと一緒で、表現にとって大事なのは初期衝動でありパッションだと思ってましたから。自分のできることをやるというのはそのときから変わってないんですけど、今は三十何年も経って少しは成長したとは思いたいし(笑)、今自分に与えられている場所で最大限の効果をあげて次に繋げたい。今回はかなり無謀な冒険だったと思いますけど、こういう風にインタビューを受けたりとか、お客さんが見てくれそうな状況になったんで、やってよかったなと思いますね。

──映画の学校を撮影所のようにして映画を作るという流れが生まれてきてると思うんですが、これだけクオリティの高いものができるなら、そういう在り方も現実味を帯びてくるのかなと思いました。

石井 それはシステムの問題じゃなくて、個々の監督の問題であり、作り手の問題だと思いますよ。昔みたいに、こういうシステムだからとか、こういうルールだからってことは、今はないんじゃないかな。とにかく自分たちで作り出していかないといけない。そういうことを、うちの現場に付いた学生さんたちが身をもって知って、次に繋げていってほしいと思いますね。私も自分がやるべきことは分かってるし、それをやんなきゃいけないと思ってます。そういう意味では、作る映画は全く違いますし、作り方も全く違いますけど、新藤兼人さんとか若松(孝二)さんの、今映画を作る覚悟とか姿勢はすごいなと思いますよね。



『生きてるものはいないのか』
監督・脚色・編集:石井岳龍 原作・脚本:前田司郎
プロデューサー:大崎裕伸 撮影:松本ヨシユキ 撮影補:御木茂則 
録音:三澤武徳 美術監修:磯見俊裕 助監督:藤江儀全 俳優担当:西川文朗
編集:武田峻彦 VFX&プロダクションスーパーバイザー:岩谷和行
音楽:石井榛 Main Theme Guitar Played:田渕ひさ子
Music Arranged&音響監督:勝本道哲
出演:染谷将太 高梨臨 白石廿日 飯田あさと 高橋真唯 田島ゆみか
池永亜美 札内幸太 長谷部恵介 師岡広明 羽染達也 青木英李 田中こなつ
渋川清彦 津田翔志朗 芹澤興人 杉浦千鶴子 村上淳
113分/カラー/ビスタサイズ/HD/5.1chステレオ
配給:ファントム・フィルム (C) DRAGON MOUNTAIN LLC. 

*2月18日より渋谷・ユーロスペース、吉祥寺バウスシアターほかにて全国順次公開

公式サイト http://ikiteru.jp/

posted by 映芸編集部 at 13:07 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする