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2012年02月20日

細谷隆広インタビュー
川向こうの映画館で(前篇)

 いまや伝説の名画座と言われる、自由ヶ丘推理劇場、大井武蔵野館、中野武蔵野ホールなどで支配人を務め、一部の映画ファンからタコ支配人の愛称で親しまれた細谷隆広氏。彼がそれらの映画館で組んだプログラムはシネマヴェーラ渋谷や銀座シネパトスなど現在の名画座の先駆けとも言えるものであった。その活動は旧作の上映だけに留まらず、自主映画やピンク映画を積極的にバックアップし、イベントを開催するなど広範にわたり、現在の映画界に少なくない影響を与えた。その細谷氏が昨年、長年務めたアルゴ・ピクチャーズを退社し独立することになったので、それを機に三十年以上にわたる映画屋人生を振返っていただくことにした。幼少期からの映画体験や支配人時代の思い出、映倫事件や『靖国』騒動のときの裏話など、その濃密な人生を存分に語っていただいた。前篇、後篇に分けてお送りする。
(聞き手:磯田勉、稲川方人 取材・構成:春日洋一郎、伊藤宗之)

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細谷隆広氏、元中野武蔵野ホール前で

稲川 小さいときからのお話をお聞きしたいんですが、まずお生まれから教えていただけますか。

細谷 生まれは1955年の10月5日です。高校のとき、大学に入ったら学生運動をするのかなと思っていたら、もう下火になっていて、どこに行きゃいいんだという世代ですよ。金子修介、山本政志、長崎俊一、黒沢清と同じあのPFF(ぴあフィルムフェスティバル)がまだなかった頃の世代です。

磯田 もともと映画は好きだったんですか。

細谷 いや普通ですよ。普通みんな好きじゃないですか。「若大将」行ったり「ゴジラ」行ったりね。小学校は千駄木小学校だったんですが、教室で『東京オリンピック』(65 市川崑)や『裸の大将』(58 堀川弘通)、『私は貝になりたい』(59 橋本忍)とか観てました。

稲川 オリンピックのときは9歳?

細谷 オリンピックのときは文京区の千駄木にあった親父が勤めていた会社の社宅に住んでいました。千駄木小学校の頃だと、川向こうと呼ばれる線路の向こうが田端で、東京スタジアムとかがあって。本当に学校の先生から「線路の向こうに行くと危ないから絶対に行っちゃいけないよ」と(笑)。そういう時代でしたからね。その後、小学6年のときに千葉県市川市に引っ越すんですけど。その当時、上野から都電が走っていて、その界隈はいっぱい映画館があって、下町の小学校だったから、団子坂下にある映画館で『人類SOS! (トリフィドの日)』(62 スティーヴ・セクリー)とかイヴ・シャンピ監督の『頭上の脅威』(64)とか東宝の「若大将」シリーズとか、そういうのを親父とときどき観に行っていました。

稲川 映画館で一番通っていたのは、近くの千駄木劇場ですか。

細谷 上野東宝にはよく行きました。そういうところで怪獣物や『どぶ鼠作戦』(62 岡本喜八)とかを観てました(笑)。小学校6年ぐらいになると、いままでは日本映画しか観なかったのに怪獣物では飽き足らずに、上野東急で『帰って来たドラキュラ』(68 フレディ・フランシス)、『ブリット』(68 ピーター・イェーツ)の2本立てを観ましたね。その当時の洋画は、TY(東宝洋画)チェーンとSY(松竹洋画)チェーンというロードショーおちの映画を2本立てで観られる系列の劇場があって。わしら日本映画ばっかり、怪獣物ばっかり観てたけど、これからはアメリカの洋画だと(笑)。そういうのを封切で観てる最後の世代ですからね、60年代末の。

稲川 新宿、渋谷は行かなかったんですか。

細谷 その頃は全然行かなかったです。中学に入ると本八幡からは意外に銀座が近いからそっちに行ってました。それこそ『シシリアン』(69 アンリ・ヴェルヌイユ)とか『いちご白書』(70 スチュアート・ハグマン)とかその手の映画をね。当時の普通の映画ファンですよ。

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稲川 本八幡にいたのはお父さんの仕事でですか。

細谷 親父が社宅じゃなく本八幡に家を建てました。なんで家を買えたかっていうと『戦場にかける橋』(57 デイヴィット・リーン)じゃないけど親父が会社からインドに派遣されて、インドの鉄道工事の監督をやっていたんです。その当時1年半くらいインドに単身赴任していると、お金を遣わないし、給料もいいしで、それがなかったら家を建てられませんでしたよ。もしかしたら、インドに弟がいるかもしれないんじゃないかな(笑)。

磯田 晩年にお父様にお会いしたんですけど、殿山泰司にそっくりでしたね(笑)。

細谷 似てる似てる(笑)。

磯田 お父さんは映画が好きだったんですか?

細谷 はい、小学校6年で『ブリット』なんかひとりじゃ行かないから。

磯田 ひとりで行くようになったのはいつ頃からですか。

細谷 本八幡に住んで、中学生のときに銀座界隈にひとりで行きましたね。『女王陛下の007』(69 ピーター・ハント)とか。

稲川 銀座だとロードショーも多かったでしょう。

細谷 ロードショーは日比谷映画とかみゆき座とか。でも名画をかける並木座とかまでは行かなかったですね。まだ中学生だし。そうこうしているうちに、世間ではやくざ映画ブームが起きて(笑)。

稲川 やっぱり観始めた。

細谷 ここから普通じゃなくなってきます(笑)。中学生がやくざ映画に行くということで。地元が本八幡で八幡文化、八幡スカラ座というのがあって、八幡スカラ座は東宝のTYチェーンの2本立てをやって、八幡文化は松竹系と東映系を交互にやっている映画館だったから、そこで最初に観たやくざ映画が『新網走番外地 嵐を呼ぶ知床岬』(71 降旗康男)かな。千葉だから東京地区と違って東宝とか東映、松竹、大映(ダイニチ映配)がごちゃごちゃになっているから、そのときになぜか東映の『新網走』と『やくざ刑事 俺たちに墓はない』(71 鷹森立一)と勝新のダイニチ作品『顔役』(71 勝新太郎)の3本立てだったんです(笑)。

稲川 すごく濃い(笑)。

細谷 そこからアウトローの世界に。その頃は、もう高校生でしたね。『仁義なき戦い』(73 深作欣二)が公開される前で「網走」シリーズも客が入らなくなって翳りが見え始めててね。

稲川 じゃあ、そのとき逆に辿り始めるわけですね、60年代のヤクザ映画を。

磯田 それまで洋画を観てた少年には、やくざ映画はどうだったんですか?

細谷 同世代は洋画ばかりだから、やくざ映画観ても話す相手がいないんだよ。その分、優越感には浸ってました。

稲川 本八幡の高校のときに映画サークルとかは作らなかったんですか。

細谷 ないです。高校のときには最初、卓球部に入っていました。高校が習志野高校でスポーツが強くてわたしと同じ学年に掛布(雅之)がいましたよ。だから、スポーツをやらないといけないんだけど、野球やサッカーはできないから、卓球だったらなんとかなるかなって、1年間やりました。でも、ある日部長に部室に呼ばれて「今度県大会あって勝たなきゃいけないんだ。細谷わかるだろ、お前がみんなの足を引っ張ってるんだよ。だからやる気はあるみたいだけど、そろそろ辞めてくれ」「えー!?」って(笑)。それがリストラの第1回目で(笑)。やっと卓球やっている女の子とかと仲良くなれるかなと思ったら、戦力外通告を受けて(笑)。でも、頭下げて「辞めてくれ」って言ってたからね。本当に迷惑かけてたんだなあと、卓球部に(笑)。

磯田 でもいまも卓球そこそこうまいですよね。映画のなかでも披露してますね。

細谷 『アナーキー・インじゃぱんすけ』(99 瀬々敬久)ですか。あれは卓球の腕でキャスティングされましたから。それで卓球部を辞めて、映研がなかったから郷土史研究会に入りました。あるときなんでここには映画研究会がないんやと思って、郷土史研究会の部室が体育館の2階あたりにあって、そこに全然使っていない映写室があったから乗っ取って根城にして、家にある映画のポスターを貼りまくって、ひとり映研を作りました。そしたらみんなに「何これ!?」って言われて(笑)。俺は「いいじゃん。みんな映画観ないの?」って(笑)。結局、1週間くらいでひとり映研は挫折して(笑)、そんな感じですね。やくざ映画観ながら、石井隆の劇画とかを読んでましたね。周りには読んでいる人いませんでしたけど。

──映画仲間とかはいなかったんですか。

細谷 千葉大に行ったやつがひとりいましたね。そいつは東宝映画ファンでね。いまはなき船橋東宝に、そいつとよく行ってましたね。

稲川 その頃の東宝映画で好きなものってありました?

細谷 その当時は『赤頭巾ちゃん気をつけて』(70 森谷司郎)よりも同じ庄司薫原作の『白鳥の歌なんか聞えない』(72 渡辺邦彦)のほうが好きで、本田みちこなんかにかぶれてました。あと『卒業旅行』(73 出目昌伸)を観て山添多佳子にファンレターを書きました。返事がきたんですよ!『卒業旅行』はマーク・レスター主演のめったに上映される機会のない映画ですけど。

磯田 やっぱりマイナーな映画ですね。洋画では何を観てましたか。モロにアメリカン・ニューシネマの時代ですよね。

細谷 『イージー・ライダー』(69 デニス・ホッパー)、『真夜中のカーボーイ』(69 ジョン・シュレシンジャー)とか『スティング』(73 ジョージ・ロイ・ヒル)を封切りで、そういうのは普通にみんな観てましたから。『アルファヴィル』(65 ジャン=リュック・ゴダール)を日劇文化で観たり、仏映画も追いかけてました。その当時丸の内東宝、新宿ローヤルとか新宿シネパレスとかにもアメリカのアクション映画を観るために通っていましたね。ホモがいっぱいいたな(笑)。

稲川 行くのに勇気いりましたよね。

細谷 席に座らずに立ってるって(笑)。シネパレス系って多かったですね。蒲田パレスとか。アクション映画ってそういう人が多かったですよね。その頃はマカロニ戦争映画とか流行ってましたよね。『戦場のガンマン』(69 フランク・クレイマー)とか『地獄の艦隊』(69 ポール・ウェンドコス)とか『激戦地』(69 ウンベルト・レンツィ)とか。

稲川 二度と上映されない映画ばかりですね。

細谷 本当にカスばかり(笑)。そういうのが好きなんだけど。

磯田 成人映画は観ていたんですか、ロマン・ポルノとか。

細谷 観てないよ。観始めたときは主に錦糸町でした。東京楽天地のいちばん奥で右側に東急の2本立てチェーンがあって、左側が日活ロマン・ポルノ3本立てをやる映画館で。

稲川 それは70年代中盤以降ですね。高校2、3年になったらピンクとか観ちゃうと思うんですけど、洋ピンとかも観なかったですか。

細谷 洋ピンも観なかったですね。ロマン・ポルノでは文芸坐に話題になった神代(辰巳)さんの作品を追いかけたりしたけど、封切は錦糸町で観たり。総武線沿線だから飯田橋くらら。そういう近場で観てました。小岩あんぐら劇場には行かなかったですね。ピンク映画館じゃないけど、随分前に閉館になった、あの当時は上野駅とか東京駅とか列車の待ち時間に観る映画館があったんだよね。八重洲スター座とか。それと八重洲観光ホールとか。そこで『栄光への5000キロ』(69 蔵原惟繕)を観た。細長い映画館でしたね。駅からすぐだし、上映途中からも気軽に入れた。

磯田 上映途中から入るんですよね。外回りの人が時間つぶしに観るような。新橋文化や新橋ロマンが最後ぐらいじゃないですか、そういう劇場は。

稲川 その頃は映画で将来なんとかしようとは考えていなかったんですか。

細谷 ただの映画ファンでしたよ。映画ノートみたいなものは作っていました。前田陽一監督の『喜劇 昨日の敵は今日も敵』(71)が好きで感想とかをノートに書いていました。みんな1回は作りますよね(笑)。

──普通に大学に行ったという感じなんですか。

細谷 一浪してたときの春休みに観た映画が『大脱獄』(75 石井輝男)と『ウルフガイ 燃えろ狼男』(75 山口和彦)と『アメリカン・グラフィティ』(73 ジョージ・ルーカス)。あの当時の東宝、東映はたいがいは観ていて、いつもひとりで観ていました。一浪で専修大学に入ったら、その頃大学の映研で映画を作るのが流行っていて、何かの上映会で実家近くの千葉工大の映研と知り合い、やっとわしにも地元の映画仲間ができたんです。その後、大学時代にサイゼリヤができたんです、本八幡に第1号店が。それで、サイゼリヤって朝までやっているから、千葉工大の映研と映画の話してて(笑)。サイゼリヤってメニューも値段もいまと同じなんですよ。カウンターとテーブルが3つぐらいある小さいイタリアンレストランで、蝶ネクタイつけたお兄さんが器用な人で、いろいろな人が注文しても全部1人で相手をしてやっていました。サイゼリアが青春でしたね、大学時代は。まさか、全国チェーンになるとは思ってもみなかったです。映画の話をするときはサイゼリヤが、僕の人生では外せない場所なんです。

稲川 作る側にはならなかったんですか。

細谷 専修大学の映研でも作っていて、スタッフとしては手伝っていました。でも、作るのは才能がいるしね。千葉工大でも作る人間はいたんだけど、その当時みんな8ミリでやっていて、完成させるより、作ることのほうが面白くって。専修大学の映研のときはPFFの前身の上映会(ぴあシネマブティック)がイメージフォーラムでやっていて、そのときにわしらの専大映研の映画と石井聰亙とか黒沢清の『しがらみ学園』(80)とかが上映されていて。みんなレベル高かったよね。

磯田 その人たちの映画を観て負けたって思ったんですか(笑)。

細谷 わしらはしょせん川向こうだって感じでした(笑)。その当時、みんな8ミリを作ると小椋佳とかユーミンをバンバン使ったり、だいたいわかるじゃないですか、あの当時って、海に向かって「バカヤロー!」ってやったり(笑)。くさい青春映画。観るテレビは「俺たちの旅」でね。

磯田 じゃあ、その頃は細谷さんも髪を伸ばしていたんですか。

細谷 うん、ベルボトム履いてたよ。

磯田 その頃に東宝撮影所でバイトを始めたんですよね。

細谷 大学の3年かな。

稲川 そのバイトって何をやってたんですか。

細谷 東宝撮影所が小田急沿線だから専修大学の学生課に制作助手のバイト募集が貼ってあって、「やった!」と。でも、地元の学生は行こうとしないんだよ。行ったのはわし1人。時給はすごい安かったけど。でも、いい経験になりました。その後、何の役にも立たなかったけどね(笑)。その当時の同期が河崎実と君塚良一なんだよ。制作の学生バイトのやることは、スタジオのときにセットで監督が「よーい」って言ったら、本番を知らせるライトを点ける。本番なのにライトを点けなかったら勝手に人が入ってきちゃうから。ロケのときは同行して弁当を配ったり、スタッフの吸い殻拾い、あとヤカンでお茶汲み(笑)。市川崑でいえば『火の鳥』(78)『女王蜂』(78)で、岡本喜八は『姿三四郎』(77)『ブルークリスマス』(78)、森谷司郎は『聖職の碑』(78)あたりとかです。そのときにわしらの学生アルバイトのボスが、知る人ぞ知るソロモン。

磯田 元東宝俳優の広瀬正一さん。

細谷 『キングコング対ゴジラ』(62 本多猪四郎)でキングコングの着ぐるみのなかに入っていた人で、それが落ちぶれて東宝撮影所の掘っ立て小屋に入って雑用をやっていました。その当時はソロモンとか知らなかったから、全然カリスマ扱いしていなくて、「うるせーな、このおやじ」って思ってて。昔のスタッフからは親しくされていたけど、やらされていることは雑用だからね。その腹いせが学生バイトにきて、厳しかった。いま思えば、ソロモンに昔の東宝映画の話を聞いておけばよかった。でも、良い時代でしたよ。

稲川 それは何年くらいやったんですか。

細谷 2年くらいで、卒業するまでやっていましたね。

磯田 “映画村”の活動に参加したのはいつ頃なんですか。

細谷 大学の頃だね。白井佳夫解任だから76年か。入谷映画村運動というのがあって、その頃だね。上森子鐵という総会屋がキネ旬の社長をやっていた頃に、編集長の白井佳夫さんが左翼的な広告に名前を連らねて解任された事件があったんですよ。映画ファンとしてはそれがおかしいなということでちょっと話題になったんです。当時、銀座映画村から派生した入谷映画村とか青山映画村といって映画好きが集まった団体があって、その人たちが中心になって白井佳夫解任に対して抗議運動をしていたんですよ。何回目かの抗議運動のとき、山根成之監督の『同棲時代』(73)の上映会にはじめて行って、映画村の人たちとそこで知り合いました。その当時抗議運動とか流行りで、他にすることもなかったから、竹中(労)さんの「浪人街通信」とか映画の自主上映会を手伝っていました。映画村の人たちとはいまでも付き合いがありますよ。

磯田 前田陽一監督や小林信彦さんをゲストに招いた上映会は伝説的ですね。

細谷 それは小林信彦さんの短編集「袋小路の休日」に入っている「根岸映画村」という小説にそのときのことが書かれています。あの当時は各地にいろいろな映画村があって、ゲストを呼んで上映してということをやっていましたね。
映画村の“村民”には池田敏春監督(故)の元夫人、ロマン・ポルノにも出た大崎裕子さんがいたんですよ。その当時は大崎さんはわしらの映画仲間だったんだけど、あるとき、「今度ロマン・ポルノに出るよ」って言って、それが池田さんのデビュー作『スケバンマフィア 肉刑』(80)だったんです。そのときは「わしらの中から女優が出た」って言って大さわぎになった。そしたら池田敏春夫人になっちゃったんですよ。

──大学を卒業してからはどうしたんですか。

細谷 普通に就職試験を受けて新卒で武蔵野興業に入りました。東宝撮影所でバイトして業界は見てるから、「現場は大変だなあ」と思って。現場は完全にタテ社会じゃないですか。だったら、映画館の仕事なら映画をただで観られるしということで。

稲川 武蔵野興業に入ってどこに配属されたんですか。

細谷 入社してからすぐコヤ(劇場)に配属されました。自由が丘の武蔵野推理劇場に。その頃は洋画の2本立てをやっていて、そのときに伝説の番組師・石井保支配人がいたんです。推理劇場に行って初めて会ったときは怖かった、あの人角刈りなんだよ。松方弘樹みたいな感じで(笑)。

稲川 その頃はまだ市川にいたんですか。

細谷 その頃は荏原中延に住んでいました。そのときに洋画の特選2本立てでマニアックなものをやっていてね。推理劇場って名前だから最初はミステリー映画とかを中心に。石井さんの補助をしながらいろいろやっていました。その後、日本映画をやり始めたのが、石井さんが本社に戻り、阿部志馬さんという元大映の助監督で女優の梅村蓉子の息子さんが来たときですね。梅村蓉子さんの旦那さんが武蔵野興業の重役で、そのツテを頼って来たんです。石井さんのあとその阿部さんが支配人になって、わしが洋画よりもたまには日本映画をやってませんかと言って、薬師丸ひろ子の特集で『野生の証明』(78 佐藤純彌)と『ねらわれた学園』(81 大林宣彦)を上映したら大当たりしたんです。2本立てでその当時ありえない、一日に千人くらいのお客さんが来ましたね。近くに自由が丘劇場ってヒューマックス系の映画館やオークラ系のピンク映画館があって、推理劇場でメジャーな映画をやれば入るだろうと思ったんです。でもそれだけじゃ面白くないから、その後マニアックなプログラムを組んだんですよ。

──入社してどれくらいでプログラムを組んだりしたんですか。

細谷 2年目あたりからです。阿部さんが支配人になって、ほぼ全部わしがやっていました。阿部さんは元現場の人間だから、現場の人間が映画館に行くってことは人生を捨てたようなものだから、お飾りみたいな感じで来てたんで。番組のほうは細谷に任せると。

稲川 フィルムの交渉からやったんですか。

細谷 フィルムの交渉は「これやりたい」って言ったら、支配人が配給会社に交渉してみたいな。その後、オールナイトも始めました。レアな『水爆と深海の怪物』(55 ロバート・ゴードン)をやったり。

磯田 その頃、そういうマニアックな特集をやっている映画館は他にもあったんですか。

細谷 ありましたよ。三軒茶屋映劇と池袋の文芸坐もあるし。

稲川 その中でも変なものをやっていたのは、やっぱり推理劇場でしたよ。変な匂いがしてたからね。

細谷 結構、スプラッシュ(※1)的な都内未公開映画をやってましたから。リチャード・レスターの『ローヤル・フラッシュ』(75)とか『マイウェイ・マイラブ』(74 クロード・ワッタム)とかね。でも、スプラッシュが全然入らないんだこれが(笑)。
その当時流行ってた『タクシードライバー』(76 マーティン・スコセッシ)と『ミッドナイト・エクスプレス』(78 アラン・パーカー)はコロンビア映画2本立てで、どこの名画座で上映しても入った。名画座でブームに火をつけた映画なんですよ。昔ありましたよね、ロードショーで人が入らないのに、名画座で入るっていう、ヤノット・シュワルツの『ある日どこかで』(80)とかもそうですよね。ロードショーでコケたけど名画座で火がつく。そういう時代でしたね。

磯田 ビデオソフトのない頃でしたから、観るには映画館に行かないと。

稲川 推理劇場には何年いたんですか? 

細谷 推理劇場(自由が丘)には20代の間はいました。そういえば、27歳のときにシナリオ学校に通っていたんですよ。高田馬場にYMCA(※2)があって週2回夜のコース。「シナリオを勉強するんや」って(笑)。

──書いたものはどういう内容ですか。

細谷 恥ずかしいものです(笑)。メチャクチャ恥ずかしいですよ。その当時流行ってた『フォロー・ミー』(73 キャロル・リード)のパクリみたいなものを、大体わかるでしょ、探偵と若い女の(笑)。

磯田 それで大井に移動になったのはいつですか。

細谷 30歳くらいかな。大井に行ったときにライバルは並木座と文芸坐だから、そうじゃないものをやろうと。それであんなカルトな映画館になっちゃった(笑)。

稲川 それは戦略的に意識なさってたということですよね。

細谷 そうですよ、メジャーな映画をやっても仕方ないし。並木座は小津(安二郎)とか成瀬(巳喜男)だし、こちらはカスバな町だし、武蔵野館に行く間にソープはあるわ、シャブ売ってるような人ばっかりだし(笑)。そうやって生き残っていくしかないなと。

磯田 名画座が衰退してゆく80年代に、しかも山手線の外に。あれいつできたんですか。

細谷 81年です。でも、最初から名画座ってところが凄いよね。ふたつの映画館の営業をやっていましたが、1階の大井ロマンは洋画で、2階の武蔵野館が日本映画です。

磯田 『ジョン・フォードのギデオン』(59)とかやっていましたよね。伝説のIP映画(※3)。新東宝映画って細谷さんがやるまではほとんど上映していなかったんですね。

細谷 当時、武蔵野興業に元国際放映の人がいて、それで「新東宝の映画なら国際放映と話つけてやるわ」ってことだったんです。自分でプリントを国際放映(※4)に車で取りに行って、カビが生えているようないろいろなプリントを映写室に持って来て、まず上映できるかできないかテストしてみて、そんなところからやっていたんですよ。いまじゃありえないことですが、プリントが倉庫に捨てられていたかのように、放置されていました。あの当時は自分でプリント運びもやって映写もやりましたよ。なんでやるかっていうと自由が丘にいたときは、そのときの映写のおっさんたちっていうのは、上映中は暇だから、つい酒を飲んじゃうんですよ。だから、アル中が多くて、掛けてる間にぐびぐび飲んで、とうとう自由が丘で『エイリアン』(79 リドリー・スコット)のときにお客さんから「映ってないよ」って(笑)。そしたら映写技師の三宅さんていう人が酒瓶と一緒に倒れてて、病院に運ばれて行きました(笑)。そのときから映写もやらなきゃっていうことで。
そうそう、大学のときに映写のバイトをしていたんです。東宝でバイトする前ぐらいに習志野映画劇場で。そのときに映写を覚えたんです。その映画館の映写技師はおじいちゃんがひとりで、しかも入院しちゃうからやってくれないかって。高校の同級生がその映画館の支配人の娘で、それなりに可愛い子だったし(笑)。いまから思えばすごいですよね、大学生に映写をやらせちゃうんだから(笑)。しかも35ミリの(笑)。いまは駐車場になっているという習志野映画劇場ですけど。

稲川 最初に掛けたのは覚えていますか。

細谷 「トラック野郎」とか「寅さん」なんだけど、なぜかロマン・ポルノだと『団鬼六 薔薇の肉体』(78 藤井克彦)。そのときはロマン・ポルノをよく掛けていましたね。いまだから言いますけど、随分映写室でヌキましたよ(笑)。

──大井のときはひとりでプログラムを決めてたんですか。

細谷 そうですね。小野(善太郎)(※5)君が来てからはふたりでやっていたような気がします。

稲川 そのときの自意識として、わしちょっと面白いことやっているという意識はありましたか。

細谷 お客さんが付いてて嬉しいなというのはありましたね。でも、その前に大井ですよ。本当にサウスブロンクスみたいなすさんだところでしたから、嬉しいも何もありません。

磯田 常に川向こうの(笑)。

細谷 結局、川向こうの映画館ですからね。嬉しいと言うよりも……。だから、雨の降った日に1日中「人が来ねえな」って受付で待ってるのが、いまでも夢にみますよ。

磯田 私見では大井武蔵野館が映画好きに注目されるようになったきっかけは86年に開催した新東宝特集だと思うのですが。 

細谷 そうですね。あのときは「新東宝ゲテモノパラダイス」と銘打って、大当たりしたんです。いまラピュタ阿佐ヶ谷のオーナーの才谷(遼)さんにチラシにわしのイラストを描いてもらったりしたんですよ。

磯田 イラストに描かれたキャラクターがすでにタコ親父になってましたね。

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当時のチラシ 提供:磯田勉氏

稲川 自由が丘と大井で細谷さんの名前は定まったよね、業界的に。

磯田 新東宝、石井輝男、江戸川乱歩とかはだいたい大井が火付け役になったんですよね。

細谷 ゲテモノやカルトものばかりで名前が売れましたが、川島(雄三)やったり、増村(保造)やったりもしました。

磯田 だいたいいまの名画座、ラピュタ阿佐ヶ谷とかシネマヴェーラ渋谷とか神保町シアターのプログラムの原型ですよね。

細谷 文芸坐と並木座はまっとうな映画しかやらない。陽の当たらない映画を発掘してお客さんが来るようになったんですよね。『拳銃(コルト)は俺のパスポート』(67 野村孝)の上映で宍戸錠さんを呼んだこともありました。

磯田 その後、大井から中野武蔵野ホールに移動になるんですね。

稲川 中野武蔵野ホールは87年の立ち上げからですか。

細谷 そうそう、立ち上げるんで「細谷来いよ」って、会社のほうに言われた。

稲川 映画館の設計の段階から関わってたんですか。

細谷 もともと中野武蔵野館って名画座だったんですよ。その敷地をホテルにして、そのときに余ったスペースを貸しホールにしたんです。そう。最初、中野武蔵野ホールは貸しホールだったんです。そこを芝居小屋にしてたんですけど、結局、設備を考えずに作ったただのホールなんで、舞台もないし、小道具とか大道具を入れるところもないしとすごく設備が足りなくて。それで「映画館にしよう」と言うんで、作り変えたんですよ。あの当時渋谷のユーロスペースがあり、新宿のシネスク(シネマスクエアとうきゅう)があり、そういうかっこいい単館と違ってすごく情けない映画館で。なにせホテルのホールを改造して映画館にして、ロビーがないんだもん。あそこわしが来るまで本当に、雨が降ると吹きさらしになってたんで、屋根を付けたんですよ。その屋根を付けたのが、アングラ劇団「発見の会」の美術の人なんです。そういうアングラな人脈ですよね。

稲川 最初からそういう作りの劇場だったんですね。

細谷 最初やったのは覚えてるけど、なぜか『ビリィ・ザ・キッドの新しい夜明け』(86 山川直人)をムーブ・オーバー(※6)でやったんだと思う。そのあと『緑の光線』(86 エリック・ロメール)をやったんだよ。

磯田 その頃ってミニシアター系の劇場というと。

細谷 シネヴィヴァン六本木、シネスイッチ銀座やユーロスペースも当然あったし。そんな後発でこんな場末のところでやってもね。その当時の中野はというと、中野名画座や成人映画館の中野光座という古い映画館があるくらいで、場末感が漂ってましたね。吉祥寺みたいに若者文化があるわけじゃないし。

磯田 中野ブロードウェイもいまみたいにサブカルのメッカというわけではなくて、中野は飲み屋街のイメージでしたもんね。

細谷 ブロードウェイでチラシ撒きをやって、社長に褒められたよ。「よくチラシを撒いてくれた」って。だって客が来ないんだからチラシを撒くしかないだろうっていう。『緑の光線』なんかやっても客来ねえよ(笑)。それで、最初にロードショーをやったのが『森の向う側』(88 野村恵一)だよね、村上春樹原作の。そのあと『追悼のざわめき』(88 松井良彦)かな。伝説の名画座、上板東映の名物支配人小林(紘)さんとの付き合いでね。中野をやるときに上板東映の小林さんが「何かやるんだったら、手伝うよ」って言ってくれて。『森の向う側』にしても小林さんからで。小林さんは上板東映を潰してからもいろいろなスタッフ、キャストから慕われてたんで、話はすごい来てたんですよね。

磯田 『追悼のざわめき』がすごく当たったために、インディペンデント映画に力を入れ始めた。

細谷 インディペンデントの発信地というか、洋画のインディペンデントの映画館はあったけど、日本映画の自主映画を掛ける映画館っていうのはあんまりなかったから。それも大井の発想と同じように、ほかの映画館と差別化するためにやったことで、中野でほかと同じことをやってもお客は来ないんだしということでやったんですよ。

稲川 一応、武蔵野興業の社員なわけじゃないですか。

細谷 ちゃんと給料もボーナスも出ましたしね。会社はお客さんが入れば何でもいいよという。ピンク映画で言えば、カラミを映しとけばなんでもいいよと同じですよ。とりあえず、映倫審査だけはちゃんとしろよと。

磯田 それがあとになって問題になるわけですが。『追悼〜』のあとのヒット作というと『鉄男』(89 塚本晋也)ですか。

細谷 『鉄男』だね。『鉄男』はいきなりレイトショーで2カ月ロングランやっているんだよ。

──塚本さんとはどういう繋がりがあったんですか。

細谷 元をただせば『鉄男』ってジャパン・ホーム・ビデオのVシネマなんです。それで、ビデオの発売日が劇場用のポスターに書かれていて「えー」って思いながらも、それをステッカーで隠して宣伝してたんです。それが天皇崩御の頃ですよ。天皇崩御で映画館が1日休んだときに武蔵野ホールで試写をやったんですよ。あれも上板東映の小林さんの紹介だったね。最初、小林さんから「こんな監督がいるんだ」って、「でも、ビデオが出ちゃうんだけど、どうしようか。映画館で掛けたいんだけど」って。その当時、劇場にそういうのが掛かるスペースって武蔵野ホールしかなかったんだよね。

磯田 そういう風に映画を掛けていくと、評判が伝わって、作品がどんどん持ち込まれて来るようになりましたか。

細谷 つまらない映画ばっかり来てね。

磯田 一応、いい話に持っていこうとしてるんじゃないですか(笑)。

細谷 いい話ないよ。登竜門的な感じで、その当時、他で断られた映画が、ここに来るようなのはありましたね。テアトルさんから断られ、ユーロさんからお断りされてっていうのもいっぱいありましたよ。

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──韓国映画とかもやってましたよね。

細谷 いまはすごいですけど、当時韓国映画を掛けるところはほとんどなかった。最初にやったのは『鯨とり コレサニヤン』(84 ペ・チャンホ)で、そのあと、イ・チャンホの『暗闇の子供たち』(81)と『馬鹿宣言』(83)とかをやって。日本に持ち込んだのは「発見の会」。それも正規の輸入じゃなくて、『風吹く良き日』(80 イ・チャンホ)なんて荷物と一緒に持ってきたっていうんだよ。それで、「発見の会」の押し入れにずっと寝かせてたって、ありえないよ(笑)。かっこいいこととかすごいことをやったわけじゃなくて、密輸入ですね(笑)。そこから始まった武蔵野ホールの韓国映画の歴史というのがあって、そのあと『金日成のパレード 東欧の見た赤い王朝』(89 アンジェイ・フィディック)に結びつくんです。

──第3金曜日とかに何かやってましたよね。

細谷 やってました、「レイトレイトショー」。ひどいですよね、ただ単にみんなで酒を飲みに行くだけの会。最初、「サード・フライデー・ナイト」って名を付けてやってました。レイトショーが終ったあとに自主映画をみんなで持ち込んで観るという。「つまんないのは最後まで観るのをよそう」とか言ったんだけれど(笑)。

磯田 大半がレイトショーにも掛けられないような映画。

細谷 いいよね、どうしようもない映画ばっかりで(笑)。

磯田 薔薇族映画もレイトショーでやってましたよね。

細谷 「女性のための美少年映画の楽しみ」とか言ってね、女の子が来るように。廣木(隆一)さんの『ぼくらの季節』(83)とか。あれは入った。

磯田 『ドキュメント'89 脱原発元年』(89 小池制人)やウカマウ集団(※7)の特集上映をやったり。ほかにも最近銀座シネパトスでやっているようなひし美ゆり子や桜井浩子の特集や「アングラ主義宣言!」と題した人気特集から、若松孝二と若松プロ、足立正生、金井勝や城之内元晴作品の実験映画の特集までやっていますね。ほんとうにいまの名画座のプログラムってだいたい細谷さんがすでにやっているんですよね。

──中野武蔵野ホールといえば木村(健二)さんという伝説の映写技師の方がいらっしゃいましたよね。

細谷 いまもまだ浅草中映と浅草名画座でやっているよ。木村さんはいま武蔵野ホールのときよりも生き生きしてるって。あの人、武蔵野ホールにいた頃はまだ童貞だったんですから。まだ40代後半だったかな。当時、わたしが高円寺に住んでいて、高円寺の牛丼太郎の隣りにピンサロみたいなのがあって、木村さんがその前に立っていて、「木村さんどうしたの」って聞いたら、「入りたいんだけど、入れないんだよ」って(笑)。それで、わしが酒を飲んで2時間後ぐらいにそこに行ったら、木村さんがまだいて、「木村さん、まだいるの」って言ったら、木村さん「う〜ん、う〜ん」って。「お店閉まっちゃいますよ」って(笑)。でも、木村さんも遅刻ばかりしてね。そうだよ『自転車吐息』(89 園子温)のときは遅刻したんだよ。1回目上映できなかったときがあって。なにか自主映画の連中は打ち上げばっかりやっていたんです。木村さんていつも手品とか花火とか持ってて、女の子に「わー、木村さんかわいい」とか言われてテンション高くなってるんだけど、その日は木村さん花火を持ってきてて「じゃあ、駅前の公園で花火をやろう」ということになって、駅前でバンバンやって、中央線を止めたことがあったな。

一同 (笑)

細谷 悪い連中が集まってたよな。だから、「レイトレイトショー」なんてあったしね。「レイトレイトショー」ってその悪い連中とちょっと遊びたかったんだよ。

──ピンク四天王というのはどういう形で出てきたんですか。

細谷 アテネ(・フランセ文化センター)の「新日本作家主義列伝」(※8)は何年だっけ?

──93年です。

細谷 瀬々(敬久)さんから始まったんだよ。瀬々さんと知り合ったのは、ちょっとワケありで、前の嫁さん繋がりなんだよね。前の嫁さんが京都で自主上映会をやっていて、そこに京都大の瀬々が来ていて、それで嫁さんから紹介されたような気がする。

──「新日本作家主義列伝」というのはどういう経緯で始められたんですか。

細谷 あれは映像イベントの企画・製作をするスタンス・カンパニーとかから、海外の映画祭でピンク映画がいろいろ取り上げられてるから、じゃあやろうよと。最初の音頭取りは瀬々さんで、瀬々さんとやり取りをしてやったんですよ。その当時まだアテネ・フランセに暴れん坊の安井豊氏がいて、安井君のところに話を持ち込んで、「新日本作家主義列伝」というのは安井豊がたしか付けたと思う。ピンク映画を作家で売ろうという。ピンク映画のタイトルを変えて掛けるというやり方にしたんだけど、それは監督としては抵抗がある、あるんだけれども、パッケージは変えたいという思いがあって、二分化してたんだけれどもね。あのとき、劇場で公開時のタイトルを出さないと「ぴあ」とかで紛らわしいし、お客さんが行ったら「え、これ前観てたじゃん」ということになるから、そういうこともあってふたつタイトルを表示したんですよ。

磯田 その前から中野でそういう特集としてはやってなかった。

細谷 やってないね。

磯田 90年の中野武蔵野ホールの番組をみると「在日朝鮮人映画の突破口」という特集で瀬々さんの『課外授業 暴行』(89)が入っていたり、レイトショーで「エキサイティング佐藤寿保」という特集をやったりしているんですが、それとは違う回路で表に出していこうという試みですね。その頃はまだピンク四天王という言葉はなかったんでしょう。 

細谷 もちろんなかった。地方の映画館主が国映のお客の入らない映画監督4人を四天王って呼んでたのかな、一部で。

磯田 その蔑称みたいなのを逆手に取ってあえてピンク四天王という名称を打ち出した。

細谷 チラシに四天王って載ってたっけ? 瀬々さん、佐野(和宏)さん、トシキさんで最後寿保さんの順番で上映した。すごいですよ、瀬々さんのチラシなんて本人がバイクに跨がっている写真でしたからね(笑)。

磯田 おもいきり作家で売ろうということですよね。これまた狙いが当たってお客が入りましたね。

細谷 いま思うと佐野さんがいちばん入ったんだよ。佐野さんの映画は感情移入しやすいじゃない。わかりやすいし。海外でもこの4人がいろいろな映画祭に行くことになったしね。結局、ピンク映画の監督たちが、自分たちが映画を作ってもピンクの劇場でしか観られない、そうすると自分たちの作家性が認められないというジレンマで方向性を探していた時期だったんです。そのときにどこか陽の目を見たいということで、突破口を作ったんですよ。

磯田 「新作家主義列伝」という名称はピンクに限定しないで、もうちょっと広がりをもたせようと考えていたんですか、細谷さんと安井さんの間では。

細谷 違うよ。最初から四天王のこの4人の監督でやろうということは決まっていたし。

磯田 あとで鎮西尚一、常本琢招、大木裕之といった四天王以外の監督たちも取り上げましたね。

細谷 あれは四天王がヒットしたんで、「新作家主義列伝」をシリーズ化したってことですよね。

磯田 「新作家主義列伝」はシネマアルゴ新宿に移ってからですか。武蔵野興業を辞めたあとですよね。

細谷 そうです。そのときはもうシネマアルゴ新宿にいました。その前に中野武蔵野ホールから新宿武蔵野館に行って、そのときに例の映倫事件というのがあったんですよ。
(後篇へつづく)

[註]
※1 スプラッシュ:東京や大阪などで公開されず地方のみで公開された映画をこう呼んだ。『センチメンタル・アドベンチャー』(82 クリント・イーストウッド)もそのひとつ。

※2 YMCA:キリスト教青年会。専門学校などを展開している。

※3 IP:インターナショナル・プロモーション。72年に設立された水野晴郎主宰の洋画配給会社。

※4 国際放映:新東宝倒産後にその制作部門を受け継いだ会社。旧・新東宝作品の著作権の大半を保有している。

※5 小野善太郎:元大井武蔵野館支配人。細谷さんのあと、閉館時まで支配人を続けた。

※6 ムーブ・オーバー:ある劇場で公開終了した作品を別の映画館でかけること。

※7 ウカマウ集団:ボリビアでホルヘ・サンヒネス監督を中心に60年代半ばから映画の制作、上映活動を行ってきたグループのこと。

※8 新日本作家主義列伝:アテネ・フランセ文化センターで93年に行われたピンク四天王の作品の連続上映会。これがピンク映画が一般の劇場にかかるきっかけになった。その後も継続して四天王以外の作家も特集している。

*後篇へ
posted by 映芸編集部 at 14:49 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする