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2012年03月05日

映芸ダイアリーズ 2011日本映画ベストテン&ワーストテン
深田晃司、中山洋孝、平澤竹識

深田晃司(映画監督)

ベスト
○ ピュ〜ぴる(松永大司)
○ ショージとタカオ(井手洋子)
○ ギ・あいうえおス -ずばぬけたかえうた-(柴田剛)

○ サウダーヂ(富田克也)

○ わたしたちが歌うとき(木村有理子)
○ 君へ。(西村晋也)

○ 終わってる(今泉力哉)
○ Peace(想田和弘)

○ わたしたちの夏(福間健二)

ワースト
○ 「青春H」の制作・企画システム。あるいはそれを取り巻く映画状況。



 順番は順不同です。相変わらず、映画を新作のうちに見る習慣が身につかず、このベストの周縁には死屍累々と未見の話題作が広がる、公平公正からおよそ遠いラインナップです。

 『ピュ〜ぴる』『ショージとタカオ』はともに被写体の魅力を存分に伝えてくれるドキュメンタリーでした。もちろん、それだけでいい映画、ということにはならないでしょうが、撮影対象の世界に安易に土足で踏み込まず、しかし靴を揃えて正座したそのうえで執念深く食らいついていった監督の姿勢につくづく頭が下がりました。
 『ギ・あいうえおス』については本誌にも書いたので割愛しますが、楽器を持たないこのバンドの次のライブが楽しみです。

 『サウダーヂ』の魅力は決して目新しさではなく、愚直に取材を重ね、まっすぐに社会と人間に向き合ったその泥臭さにあるのだと思います。それが新鮮に映るぐらい、いつのまにか多くの映画が象牙の塔の嗜みになっていたのでしょう。

 『わたしたちが歌うとき』は、冒頭のピアノ室に至る少女ふたりの距離感の伸縮と空間の切り取り方にまずやられました。また、短編の尺で何ができるか、扱えるモチーフの限界と可能性をしっかりと見極めた点も、「No Name Films」という気鋭の監督が集った企画で同作が白眉となった要因なのだと思います(なおAプロは未見です)。

 『君へ。』は、ややもするとセンチメンタルな題材を前に常に一歩引いた視座を保ち裁いていく監督の手腕に、良質なプログラムピクチャーを見たような充実感がありました。特に、中盤の少年と少女の視線がすれ違う「振り返り」の場面が圧倒的に美しく、この何気ないショットが見れただけでも大満足。

 『終わってる』、ラストの収斂が良かったのどうか迷うところですが、俳優を一瞬一瞬どちらに揺れるか分からない魅力的な動物としてスクリーンに映し出せる今泉監督の才能は希有だと思います。ラストの赤子と大人の俳優が同じ地平で不可解な存在である映画。

 『Peace』(想田和弘監督)、日本でヒットするドキュメンタリー映画の多くが驚くほど社会との繋がりが薄いパーソナルドキュメンタリーであることに一抹の食い足りなさを感じるなか、一筆描きのような軽快さで監督の親族を追いながら、周到な構成によって社会を透かしつつ存分に観客との想像力の綱引きを楽しんでいた『Peace』の存在は心強いと思いました。
 『わたしたちの夏』、映画はもっともっとぐちゃぐちゃに、映画以外の得体の知れない何かに化けて欲しい。そんな焦がれるような欲望を掻き立ててくれる、青年のように瑞々しい映画。映画は所詮、産まれてたかだか100年ちょっとしか経っていない幼年期の芸術なのだ。

 他にも『−×−(マイナス・カケル・マイナス)』(伊月肇監督)、『婚前特急』(前田弘二監督)など同世代の映画の活躍にも(勝手に)強く励まされました。

 なお昨年中に目にして面白いと思った作品で今年(2012年)の公開作だったものを駆け足で以下に記します。なんかいろいろ大事なのを書き落としてそうだけど。

 『聴こえてる、ふりをしただけ』(今泉かおり監督)、少女の造形がステレオタイプにはまらず、ちょっとした間の取り方が的確に映画の時間をぴんと持続させ、ドキドキさせる。参った。『Love Machine』(古澤健監督)、人間の欲望がそのまま映画を突き動かすアクションとなりショットになる、まさにスクリューボールなラブコメ。笑って唸った。『旧支配者のキャロル』(高橋洋監督)、恩讐のような虚構の熱量の果てに強固な映画のリアルが立ち現れてくる。くやしい。『適切な距離』(大江崇允監督)は、主人公の「トラウマ話」の見せ方が完璧で膝を打った。前半の構成・カット割に監督の脚本の巧さが冴え渡る。『NINIFUNI』(真利子哲也監督)は、小技の積み重ねで魅せる映画が多いなか、これほどの「大技」を大胆に仕掛けてくれた映画は久しぶり。竹馬靖具による脚本との合わせ技一本。なお「青春H」シリーズは、評判の『超・悪人』も『ソーローなんてくだらない』も見れていない。せめてビデオで、と思っているうちにボヤボヤしていたら〆切が来てしまいました。無念。話題の『へんげ』『先生を流産させる会』も未見。公開したら指の間からおそるおそる見てへこみたいと思います。
 今後の公開がいまのところ未定であると思われる作品からは、映画美学校映画祭で見た『水槽』(加藤綾佳監督)とアート専門のインターネット放送局comos-tvで見させて頂いた『Ms.S』(鈴木光監督)、俳優としても活躍する太田信吾監督の『それは愛じゃない』などが刺激的でした。
 震災・津波関連では『大津波のあとで』(森元修一監督)、『なみのおと』(濱口竜介監督)などが印象的だった。前者は震災の衝撃に背中を押され、迷い動揺しながら被災地にカメラを向けた作家の混乱が、誠実に舌足らずに、それだけにそのまんま伝わってくる。後者は、より戦略的に思索的に、被災者の言葉を記録し編纂する。「対話」とは何かを理屈ではなく映画言語を通じて問いかけてくる。これらの映画を見て、震災以前に福島で撮影された『こもれび』(小澤雅人監督)を思い出した。ここに記録されていた福島の光は美しく、それゆえに残酷に人の孤独に陰影を与えていた。津波と震災が生み出した「絆」という幻は、天災の前にも後にも同じようにある孤独を隠蔽する。

 おまけで至福だった作品を旧作より2本。伊藤雄之助特集で見た『とむらい師たち』(三隅研次監督)。いやもう、凄い。最後の飛躍に唖然。あとこまばアゴラ映画祭で上映させて頂いた『Reflection』(石田尚志監督)。同監督の傑作『部屋/形態』を初めて見たときと限りなく近い興奮に震えました。外国映画では、フィリピンの『クリスマス・イブ』(ジェフリー・ジェトゥリアン監督)とスウェーデンの『プレイ』(リューベン・オストルンド監督)がともに傑作なのでぜひ日本でなんとか公開して欲しいです。
 あ、あと個人賞として、数々の映画上映会を企画し実験映画の普及に努めながら、著作(『フィルムメーカーズ 個人映画のつくり方』)を出版し、三田文学新人賞(評論「弧状の島々 ソクーロフとネフスキー」)を受賞し、新作映画(『インペリアル―国家論・君主論―』)まで飄々と完成させてしまった、影武者がいるとしか思えない金子遊氏の活躍も書き留めておきたい。いやほんと、身内受けでもなんでもなく、そう思います。


 で、ワーストについてですが、これはもう書き始めたら字数が足りない。手短に。

 映画を作りたい、という作り手の情熱の陰で健全な労働の姿から程遠い悲惨が野放図にされている日本映画界。本誌では説明が足りなかったかも知れませんが、当然のことながら「青春H」を悪玉にして糾弾しそれで済むような話ではなく、日本映画の疲弊の先端でたまたま「青春H」が目立っていたという話です。私自身、加害者のひとりです。

 問題は、映画界はこのままじゃよくない、と多くの人が内心思いながら、それは誰かが言うことで自分の言うべきことではない、作り手の言うことではない、と口を噤んでしまっていることではないでしょうか。当たり前ですが社会問題は発言して指摘していかない限り、存在しない。原発の問題と同じで、野暮でもなんでも、声に出して顕在化していかない限り、現状は是認されたまま未来へ先送りされていきます。
 私たちは、このギリギリの状況のなかで、面白い映画を作り続けることと、自分の映画作りにおいてできる限り自分も仲間も理不尽な撮影環境下に置かないこと、そして映画を作り見せるシステムそのものを改善していく努力、この3つを同時に進めていかないといけないのでしょう。うわ、大変だ。


中山洋孝(本誌編集部)

ベスト
1 不倫純愛(矢崎仁司)
2 孤独な惑星(筒井武文)
3 Rocks Off 未完成版(安井豊作)
4 姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う(大工原正樹)
5 ガクドリ (江良圭)
6 美しい術(大江崇允)

ワースト
○わたしたちの夏(福間健二)
○軽蔑(廣木隆一)
○NINIFUNI(真利子哲也)

 2011年は『Rocks Off』がどのような映画なのか、未完成版とはいえ、見ることができて良かった。5年以上前に法政大学へ入学したときから、既に解体されていた学生会館の存在は聞かされてきたし、どこからかその解体の様子をOBが撮影した映画があるとも耳にしていた。それからこの映画を見るまで5年以上、時折聞いてきた思い出話や、勝手に脳内で出来たイメージとは、少なくとも全く結びつかない内容だった。それまであった建物が無くなってしまうと聞けば、何であろうと記録するに値する事件かもしれない。しかし、この映画は解体される建物が何だったか、そのことで何が失われるか、撮ろうとした理由は何か、ほとんど語ろうとしない。この映画が「未完成版」であることを考慮に入れても、おそらく改善されることがありえない、異様なくらい何も語ろうとしない。いくらでも語れそうな言葉の数々が、一切排除されている。極端な言い方をしてしまえば、『Rocks Off』は何のために撮られたかさえ観客に答えようとしない。
 学生会館が解体されたことについて、ほんのわずかな字幕が冒頭にあるだけで、後は何の説明もなく、ただ建物が重機によって解体される様子と、学生会館と浅からぬ縁にあった灰野敬二の演奏が延々と続く。特に灰野敬二は闇に包まれたまま、ギターではなくピアノと対峙し、観客には背を向けていることで匿名性を帯びているのかもしれない(長髪のシルエットと、ガタガタ揺らしたり叩いたりする、まるで何かを解体しているような姿は、灰野敬二以外ありえないと思うけれど)。重機による解体と演奏を重ね合わせて見ることも可能だけれど、それにしてもそんな解釈をしている自分が虚しくなるくらい、学生会館を撮影したシーンの比にならないくらい、何度も気絶しそうになるくらい演奏シーンが長い。次第に灰野敬二の傍で俯いたまま座っているような男(小沢靖)と、自分のこの映画を見ている姿勢がとても近いものに思えてくる。
 黙々と続く解体作業だけでなく、それ以上に尋常じゃなく長い演奏をなぜ映したのか。演奏者が灰野敬二という点で観客が解釈や説明をすることは可能だろうが、映画自体は彼が灰野敬二だということさえ一切語ろうとしない。関係性やドラマの排除された二つの作業を延々説明もなく、ただ見続けるほかなくなってしまうこと。それまであったものから読み取れる意味が失われていくこと。何かが解体されるとはこういうことだと言わんばかりだ。終盤、BGMによってこの建物への郷愁や思い入れみたいなものが一瞬感じられるかもしれないカットがあるけれど、それこそ「クリシェ」以外何物でもない。唐突にありきたりで感傷的な場面が演じられているだけで、何一つ物語ってなんかいない。それならば「映画秘宝」のベストテンで度々書かれていた、『電人ザボーガー』(井口昇)で渡辺裕之とデモ田中の刑事二人が飛び立つ瞬間、菊池俊輔の劇伴の流れるシーンのほうが遥かに泣かせる。
 用意されたクライマックスさえ何も語ろうとしない『Rocks Off』だが、不思議と苛立ちや虚しさは感じなかった。それどころか不思議とポジティブな気持ちになれる。それはたとえ「いま」を感じさせるものだとしても『NINIFUNI』の殺伐とした映像の連続からは味わえないものだ。もしかしたら東日本大震災の被災地を舞台にした映画と比べて、圧倒的にロケーションへの思い入れが感じられない分、この突き放したドライな視点が重機による「解体」という作業そのものを生産的に見せているからかもしれない。とはいえ「完成版」が出来たらもう一度観に行こうという気持ちになれないくらい、ウンザリするほど長い解体に立ち会うのは一度きりで充分だと内心思っている。
 『ガクドリ』の終盤、大会への出場を賭けた一騎打ちで、これが学生時代だけでなく人生最後の、死を前にした大会だったかもしれない今井(佐々木喜英)が、走行中に自らの肉体的な限界を察し、アクセルを緩め、腹立たしいくらい無邪気な後輩のマサキ(木ノ本嶺浩)にその権利を譲る。そうと決めた瞬間、彼の殺気だった目つきは穏やかになり、遠のいていく一台の車を笑顔で見送る。彼の視界は開かれ、画面いっぱいに映し出された青空を見ると、人生において大事なのは勝ち負けじゃない、そんな普段ならちょっと恥ずかしくて躊躇したくなるメッセージをつい読み取って、どうしても感動してしまう。その青空を屈託のない表情でマサキも見ているラストに震えた。
 『ガクドリ』の杉本有美は、お姉さんらしい体型なのに顔つきはあどけなくて、彼女と仲良くなりたい下心で男たちが動いてしまうのもわかる、そんな説得力があった。『軽蔑』の鈴木杏は、『まほろ駅前多田便利軒』(大森立嗣)と役柄的に比べて見てしまうと、どうしてもさらされた裸体が痛々しかった。性的な魅力は乏しいけれど、あえぎ声の演技をしている内に楽しそうな表情をしてしまう彼女のほうが可愛らしい。だがどちらも『不倫純愛』であれだけ激しい絡みを演じた後に、少女のような佇まいでボートに乗る嘉門洋子の魅力に負けてると思う。
 決して低予算、ほぼ無予算の映画に魅力を感じているわけではないが『孤独な惑星』『美しい術』、どちらの作品も限られた条件の下で作られているが、その制約によりかえって魅力を増していると思う。『美しい術』のテーマ曲から受ける「テレビドラマ」風の作りに反して、ヒロインのポストを相手にした一人芝居や、不安定な内面を抱えながら告白するときの仕草が、深い関係性のなかでしか撮れないものに思えた。中原昌也氏が『孤独な惑星』の女性像の素晴らしさを指摘していたが、その点で『美しい術』と通じ合うものがあると思う。
 『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』の人気のない木更津の空気をとらえたシーン、浴衣の帯だけで姉弟の間に物凄く背徳的なやりとりがされているように感じる宿屋の夜、トンネルでの凶行、そのどの描写にも説得力があり、限られた人物とロケーションで作られる映画学校の作品のなかでも図抜けた一本だった。
 福間健二監督の『わたしたちの夏』は、このラフな雰囲気の画だけで劇場公開作を一本完成させてしまえるのは凄いと思うし、「水をください」という言葉の貫かれている強度があるのかもしれない。しかし『岡山の娘』の、本当に映画として完成したと言っていいのか不安になるくらい、それぞれの画がつながっているのかわからない緊張感に比べると、むしろ「なかなか映画って壊れないものだな」と、やや引いた眼で見てしまった。それを「映画は何でもありなんだ」という、もうありきたりな感動にはつながらなかった。それならば、もうどんな目に遭った映画でも自分の作品として抱えなければならない苦痛にもがいているような、『東京島』『死ね! 死ね! シネマ』で篠崎誠監督の見たもののほうが怖い。


平澤竹識(本誌編集部)

ベスト
1 親密さ short version(濱口竜介)
2 僕たちは世界を変えることができない。 But,we wanna build a school in Cambodia.(深作健太)
3 冷たい熱帯魚(園子温)
4 アントキノイノチ(瀬々敬久)
5 毎日かあさん(小林聖太郎)
6 モテキ(大根仁)
7 大鹿村騒動記(阪本順治)
8 サウターヂ(富田克也)
9 超・悪人(白石晃士)
10 ギ・あいうえおス-ずばぬけたかえうた-(柴田剛)

ワースト
○ふゆの獣(内田伸輝)
○家族X(吉田光希)
○ハラがコレなんで(石井裕也)
○終わってる(今泉力哉)
○トーキョードリフター(松江哲明)

 映芸ダイアリーズとして本誌のベストテンに参加して四度目になるが、今回ほど他のメンバーと意見が合わなかったことはない。これまでの基本方針は、話題にならなかったけれども見所のある作品、無名ではあっても期待の持てる作家を応援するということだったと思う。だから、いきおい自主制作や若手の作品が優先される。しかし、今はもう自分がそうした姿勢に意味を感じなくなっており、そのせいで他のメンバーとの間に齟齬が生じてしまったのかもしれない。初めてダイアリーズがベストテンに参加したのは2008年のことだったが、今とはずいぶん状況が違っていた。
 2000年代の中頃、アップリンクのように貸館的な興行もする劇場を除けば、都内で自主映画を定期的に上映していたのはシネマ・ロサぐらいだったと思う。それが、2007年にユーロスペースで『童貞。をプロデュース』(松江哲明)や『眠り姫』(七里圭)が公開され、ポレポレ東中野で『ラザロ』(井土紀州)が公開された辺りから、一般の劇場でも自主映画を公開する動きが目立つようになった。2008年には本誌夏号でも「いま、自主制作/自主公開とは何か」という特集を組んでおり、この頃から潮目が変わってきたと記憶する。その年は『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』が若松プロダクションの自主配給で公開されて話題となる一方、メジャーはテレビ局主導の作品が支配的な状況であり、インディペンデントの存在感は希薄だった。だから、メジャーでもインディペンデントでもない、画一化する商業映画の対抗軸として、自主映画の機能する余地があったのである。しかも、当時公開されていた自主映画は、既にプロで実績を積んだ監督の作品や、劇場の門戸を押し広げるパワーを持った作品に限られており、その領域には大きな可能性があるように感じられた。前述したようなベストテンの選考方針にダイアリーズの皆が賛同したのも、こうした認識がある程度共有されていたからだろう。私自身も、「映画芸術DIARY」という場においては同様の意識を持って企画と編集に携わっていた。
 しかし、その間にも2009年にムービーアイ、2010年にシネカノンと、中堅の制作配給会社が破産する事態となり、中規模映画の空洞化、予算興行規模の二極化が顕著になっていく。他方では、減少する中規模映画の穴を埋めるように、自主映画や数百万円規模の商業作の劇場公開が常態化していった。そして迎えた現在、自主映画は市民権を得るに至ったが、果たしてそれが映画状況の改善に繋がったと言えるのだろうか。
 私の考えはノーである。まず、公開本数が増えたことで自主映画も玉石混淆になり、“玉”に出会える機会が減少した。“石”のほうは技術的な裏づけがないだけに、料金を取って見せるクオリティに達していないものが少なくない。さらに、こうした作品の興行では劇場側が保証金を取り、作り手自身が知人友人にチケットを売り捌いていると聞く。これでは、仮に劇場を埋められたとしても、その観客は二度と自主映画と呼ばれる作品群を見たいと思わなくなるだろう。もしかしたら、映画そのものに幻滅してしまうかもしれない。私が怖れるのは、現在の自主映画を取り巻く状況が、そうした負のスパイラルを作り出す予兆をはらんでいるということだ。
 ダイアリーズの深田晃司が本誌でその問題点を指摘した「青春H」シリーズも、もとを辿れば自主映画の一般化に便乗した企画だろう。れっきとした商業作であるにもかかわらず、制作体制は自主映画と大差がなく、現場予算は百万円に満たないという。このシリーズが優れた作品を世に送り出したことは否定しないが、こうした制作システムがまかり通れば、作り手は経済的にも追い込まれ、創作を続けていくことは困難になる。自主映画の周辺で起きているこれらの事例は、自らの脚を貪ることで生きながらえる蛸の姿を連想させるものだ。
 こうした経過を見るにつけ、私は自分がしてきたことの正当性を疑うようになった。画一化した商業映画の対抗軸として自主映画をクローズアップすること、そうした姿勢が現在の状況を招き寄せた一因であるのなら、自分はこれまでの考え方を改めるべきではないのか。もちろん力のある自主映画は今も作り続けられており、それらに言葉を与えることは媒体の重要な仕事であるに相違ない。けれども、数年前から濫立するWEB媒体には邦画に特化したものも多く、そこでは充分すぎるほどの言葉が自主映画という領域に与えられている。冒頭の話に戻れば、映芸ダイアリーズとして自主制作や若手の映画を応援することに意味を感じなくなったのは、そうした諸々の事情に由来しているのである。そして今、自戒を込めて思うのは、「メジャーかインディペンデントか自主制作か」という見方にはもはや何の意味もないということだ。作り手の大半がフリーで活動している現在においては、誰もが「インディペンデント」の作家なのであり、映画を語る言葉はただ、作品の出自とは無関係に、そこに込められた作り手の意志を捉えることに専念するべきではないかと思う。
 そういう意味では昨年、メジャーの配給作品に優れたものが多かったのは皮肉な結果と言えるかもしれない。本誌の座談会でも瀬々敬久、大根仁、深作健太といった監督たちが述べているように、作り手自身が中規模映画の空洞化を自覚し、従来その領域で撮られていたような企画をメジャー配給作の中で実現すべく奮闘している。2011年の日本映画を振り返った時、私はそのような動きにこそエールを送りたいと思った。だから上記のリストでは、メジャー、インディペンデント、自主制作という出自に関わらず、個々の「インディペンデント」作家たちが精魂を込め腕を尽くしたと感じられる作品を選んだつもりである。
 これに対してワーストの5本は、今の自主制作や若手の作品に感じる危惧を体現しているものを選んだ。『ふゆの獣』と『家族X』はどちらもリアルな演出に秀でているが、外部や背景の描写を致命的に欠いている。象徴的なのは、前者の若者たちも後者の父親もその職業の実態がほとんど語られないことだろう。そこに「映画青年」監督の弱点が露呈しているように思えた。『ハラがコレなんで』は、新たな価値観を創造しようとする気概に共鳴しつつも、映画が作家の観念に閉じこめられているのが気になった。そこに真の「他者」は存在しない。『恋の罪』(園子温)にも同様の不満を持ったが、こちらには俳優の身体が作家の観念を食い破る瞬間があったと思う。『終わってる』は、この作家が得意とする等身大の、身も蓋もない恋愛模様の秀抜な描写にとどまらず、今の若者を覆う不安のようなものにまで表現が届いており、傑作の予感を抱かせる。しかし、作家の主張よりも観客の驚きを優先させたかのような結末には納得がいかなかった。これこそ、今の商業映画の病理ともいえる「オチがないと終われない」典型ではないだろうか。『トーキョードリフター』は、どうしても前野健太という人にこういう形で歌わせることの必然性が感じられなかった。前野と組んだ前二作(『ライブテープ』『DV』)を見ていれば、ある程度の憶測を働かせることもできるが、未見の観客が監督と前野の関係を知る手がかりはない。これで単独の作品として成立しているのかどうか、疑問に感じざるをえなかった。
 今回はベストに挙げた個々の作品について語ることができなかったが、それこそ2008年と比べても力と志のある作品の数は増えていると思う。例年ならベストに入れる水準のものが十本以上はみだした。そういう映画が継続的に作り続けられるためにはどうしたらいいのか。映画の作り手だけでなく、映画を送り出す側、伝える側、享受する側も含めて、知恵を絞っていく必要があるのではないか。そうしなければ、昨年のような豊穣も一過性のものに終わってしまうだろう。

posted by 映芸編集部 at 00:15 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする