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2012年07月18日

細谷隆広インタビュー
川向こうの映画館で(後篇)

 いまや伝説の名画座と言われる、自由ヶ丘推理劇場、大井武蔵野館、中野武蔵野ホールなどで支配人を務め、一部の映画ファンからタコ支配人の愛称で親しまれた細谷隆広氏。彼がそれらの映画館で組んだプログラムはシネマヴェーラ渋谷や銀座シネパトスなど現在の名画座の先駆けとも言えるものであった。その活動は旧作の上映だけに留まらず、自主映画やピンク映画を積極的にバックアップし、イベントを開催するなど広範にわたり、現在の映画界に少なくない影響を与えた。その細谷氏が昨年、長年務めたアルゴ・ピクチャーズを退社し独立することになったので、それを機に三十年以上にわたる映画屋人生を振返っていただくことにした。幼少期からの映画体験や支配人時代の思い出、映倫事件や『靖国』騒動のときの裏話など、その濃密な人生を存分に語っていただいた。お待たせいたしました、後篇です。
(聞き手:磯田勉、稲川方人 取材・構成:春日洋一郎、伊藤宗之)

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──映倫事件について詳しく教えていただけますか。

細谷 ついにきましたか(笑)。伝説の昭和の謀略事件の封印を解くときが!! 新宿武蔵野館にいながら中野武蔵野ホールの番組をやっていた92年の話ですね。映倫審査は法的な強制力はないのですが、劇場でかける場合、通したほうが良いという風潮が当時からありました。武蔵野興業の社長が全興連(全国興行生活衛生同業組合連合会)の会長をやっていて、その当時文芸坐のオーナーだった三浦大四郎氏が広報部にいたんです。その三浦氏による会長潰しみたいな政治的策略があって、全興連の会議のときに「最近、武蔵野ホールさんは映倫審査のないものをやっているんじゃないか」と告発したんです。会長の映画館でありながらどうなっているんだと。そうしたら、さかのぼって以前に上映した作品『きらい・じゃないよ』(91 内田栄一)とか『鉄男』(89 塚本晋也)まで問題にしたんですよ。それで、道義的なこともあり、会社としてそのとき中野でやっていた『あふれる熱い涙』(92 田代廣孝)を1週間休映することになったんです。これは映倫をちゃんと通してましたけど。

磯田 L版審査(※1)というのはもうあったんですか。

細谷 あったけど、あれはいろいろ制約があって、普通の映倫審査より安いといっても審査料を10万円取られるからね。自主映画にとって10万って大きいから、わしなんかは「映倫審査に金を払うなら新聞に広告出したほうがいいよね」とか言って、無審査の作品を上映しつづけて、そのままずるずるとね。

磯田 それで細谷さんは処分されることになるんですね。

細谷 1週間休んで関東を処払いされて大阪に遊びに行ったな。わしはいづらくなって、大阪の映画館に草鞋を脱ぐような気持ちでいたんだけど、2泊ぐらいで戻ってきちゃった(笑)。たしか映画館は1週間休映でまた再開して。わしは不動産部に飛ばされたんだけど、そこにいたのは1日だけで、あとは停職1ヵ月でしたね。停職中も給料が出ました(笑)。

稲川 それにいたる過程の三浦氏の感じはどうだったんですか。やっぱり、武蔵野興業と文芸坐の間で何かあったんですか。

細谷 武蔵野ホールができる前は文芸地下や同じく三浦氏がやっていたル・ピリエ(※2)なんかが自主映画の発信地でしたからね。お亡くなりになった武蔵野興業の社長の河野(勝雄)さんは理解ある人で、結構自由にやらせていただいたんで、ただメンツとして休映したんだよね。それでわしも1ヵ月休職で戻って来たから。いまはないじゃないですか、弾圧とか恐怖政治とか。そういうのがあった時代だったから、狭い世界で。

稲川 細谷さんにとってはそういう物語が最後まで続くよね。

細谷 いやいや。のちにテアトル新宿で『鉄男』をやるときに、わしの問題を踏まえて、映倫審査をつけたんだよね。映倫事件の前に中野で上映した天願大介の『アイ・ラブ・ニッポン』(91)なんかも映倫審査なしでやっていて、そのあとつけざるをえなかったという話も聞きました。その後、天願大介と会う機会があって言われたね、「細谷さん、なんで闘わなかったんですか」って。「おどおどしないで、『映倫審査しなくて何が悪いんですか』となんで言わなかったんですか」って。そのとき頑張っていろいろなものを敵にまわしても闘えばよかったなと。そのときすごく思ったな、「俺は無力だった」って。周りから「大変だったね」って言われても、結局、なにもしなかったからね。その審査基準をゆるめるとか、なんでそういうことをする必要があるのかと悩んだけれど、ただただ逃げてただけだったから。天願にはいまでも申し訳ないなあと思ってます。

磯田 ただ、細谷さんの性格からしてそういう運動に加担するというタイプじゃないですよね。ゲリラ的に若い作家の便宜を図るというぐらいはするけど、それ以上はできたかって言うと……まず、会社員だし。

細谷 だからいま、わしは会社員じゃなく自由なことを選んだわけで……。当時は天願なんかがなにかやってくれると思っていたことに対して逃げてた、というよりもなにもせずにいたんだよね。いま思えば、なにかを変えなきゃいけなかったのかもしれませんね。グダグダでした。

──それで、武蔵野興業のあとはどうなさってたんですか。

細谷 停職後も、新宿武蔵野館に復帰して、中野武蔵野ホールで自主映画とかやっていて、それで1年後にやり尽くしたところでシネマアルゴ新宿(※3)のほうから声がかかって。まあ、アルゴ・プロジェクト(※4)の動向というのは結構聞いていたし、アルゴにいた伊地智啓さんとは昔からつき合いがあったしね。シネマアルゴ新宿がそれまで『12人の優しい日本人』(91 中原俊)とか『ナンミン・ロード』(92 五十嵐匠)とかアルゴの製作作品ばっかり上映していたんですけど、それだけじゃ1年間番組が埋まらないんで、そこで啓さんがドスを利かせた声で「細谷、そろそろうちのほうの番組をやってみないか」ということで、それはもう渡りに舟だった。それで、円満退社でうまく渡って93年にシネマアルゴ新宿の番組編成として来たんですよ。

──シネマアルゴ新宿は細谷さんが来てからアルゴプロジェクト以外の作品もやるようになったんですね。

細谷 実相寺昭雄さんの『屋根裏の散歩者』(92)、石井輝男さんの『ゲンセンカン主人』(93)とか、園子温の『部屋』(94)とかをやっていた。『二十歳の微熱』(93 橋口亮輔)はすごく入ったね。週で興収600万円とか信じられない入りを記録したんだよ。35ミリに起こさずに16ミリで上映したんです。いまじゃ、ありえないことですよ。当時、シネマアルゴ新宿で『二十歳の微熱』をやって、中野武蔵野ホールで『裸足のピクニック』(93 矢口史靖)。橋口(亮輔)と矢口(史靖)が同時期にもりあがりましたね。

磯田 シネマアルゴ新宿をやりながら中野武蔵野ホールの番組にも関わっていたと。フィクサーじゃないですか。

細谷 いやいや。シネマアルゴ新宿というのも、本当に映画バブルの最後だよね。アルゴプロジェクトはサントリーが映画製作に参入し、サントリーと6人のプロデューサーのプロダクションが半分ずつ出資して映画を作った。なおかつ製作→配給→興行を1社でまかなう新しいシステムに挑戦したんです。結局、アルゴプロジェクトは映画館のために映画を作らなきゃいけなくなってきたんだよね。つまらなくても面白くっても、取りあえず映画館にかけなきゃいけなくなってきたから、そこらへんが辛かったよね。

──どうしてそういう風になってきたんですか。

細谷 年間埋まらないじゃない、新作だけで。最初は華々しく、プロデューサーたちが集って自分たちのフィールドのなかで東宝とかメジャーに対抗するんだって、6社のプロダクションが大手じゃ作れない自分たちの映画を作ろうとしたんだよ。サントリーの助けを借りてね。低予算と言っても一応、1億5千万円ぐらいのやつを。『ヌードの夜』(93 石井隆)とか『800 Two Lap Runners』(94 廣木隆一)あたりが最後だよね。

稲川 どのくらい作ったんですか。

細谷 10本以上つくられていましたね。本当にアルゴプロジェクトが映画バブルの最後だよね。シネマアルゴ新宿も95年に閉館したし。しかし、何館、映画館を潰しているのかな(笑)。

磯田 中野もシネマアルゴも跡地はパチスロ屋になっている(笑)。映画館がなくなってどうしたんですか。

細谷 映画館がなくなったからといってプロデューサーにいくわけじゃないから、そのまま配給とか宣伝のほうにいって、長崎俊一監督の『ロマンス』(96)の宣伝をやってたのが最初でした。アルゴも誰もやる人間がいなくって。結局、製作をしなくなり、劇場がなくなり、映画バブルがはじけてサントリーが映画から撤退してアルゴ・プロジェクトがなくなり、そのなかでアルゴ・プロジェクトの制作会社のひとつ、ニュー・センチュリー・プロデューサーズ(N.C.P)の代表の岡田(裕)がアルゴ・ピクチャーズを名乗り、ちっちゃい製作プロダクションとして再始動していくなかで、そのままアルゴに残ったという形なんですね。

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中野武蔵野ホールの跡地もパチンコ店に……

磯田 アルゴ・ピクチャーズになってからも作品は作ってましたよね。『新唐獅子株式会社』(99 前田陽一)とか。

細谷 あったあった、佐藤寿保監督のVシネマ『女虐』(96)とかも。

磯田 『新唐獅子株式会社』にはプロデューサーに名前が入ってましたね。これはどういう経緯で。

細谷 もともと前田陽一監督とは前篇でふれている「映画村」の上映会をやっていた頃から知り合いで、いつも飲んでいて、前田さんに映画を撮らせようという個人的な思いがあったんですよ。当時Vシネでまだヤクザものが流行っていたから、ギャガに「唐獅子株式会社」の企画を売り込んだんですね。小林信彦さんの原作だし。でも撮影開始1週間ぐらいのところで前田監督が亡くなって現場は大変だったんですよ。監督がもともと癌で余命幾ばくもなくて危ないということは、親族と一部の人しか知らなかったようで、スタッフなんかに言うと中止にされるんじゃないかと、なんとか隠していたようなんです。わざと平静を装って普通にロケハン行ったり、打ち上げで酒も飲んでいて、ひたすら隠して何とかクランク・アップまで行けるんじゃないかと前田監督は思ってたようなんだけど、本当に1週間ぐらいで鶴見のほうの会社のロケセットのところで倒れて、そのまま次の日に亡くなってしまったんです。そのとき、撮影途中で監督が亡くなってこの映画をどうするかという大問題になった。だってスケジュール立てて役者さん押さえて、スタッフを押さえて撮影のスケジュールも全部決めてて、それが全部パーになったからね。結局、通夜と告別式を終えて前田さんの弟子の南部英夫さんがあとを引き継いで、即撮影再開ということになった。

稲川 どのぐらいで撮り終ったんですか?

細谷 再開後1週間いかないぐらいかな。

稲川 南部さんが入ってもスタッフはばらけなかったんですか?

細谷 うん、南部さんはテキパキと進めていたし、撮り始めれば早いから。なによりも南部さんは前田監督の一番弟子ですから、スタッフも安心していましたよ。わしはほんとうに前田ファンなんで、前田映画の新作を観たかったと切に思いましたよ。映画を撮らせたいという思いがあったから。

──それで、「P-1グランプリ」ですか?

細谷 その前に亀有名画座の閉館イベントの「ラストショー亀有名画座」があるな。亀有閉館って99年だよね。亀有はみんなで燃えたよね。自分たちがお世話になった亀有名画座が都の区画整理で閉館するというんで、何かしなきゃということで、最後の1週間は今井(通雄)支配人はもう休んでくれと、その代わり自分たちでフィルムを手配して、上映もやって、モギリもやりますと。そういう1週間をやって、ピンクにかかわる人たちが協力して、女優さんたちも売店の売り子をやったりね。あんなところに連日700人、800人とか入って、石井隆さんとか竹中直人さん、大杉漣さん、若松孝二さん、荒井晴彦さん、金子修介さんとかいまじゃ絶対ありえないような、ロマン・ポルノの時代からいまにいたるまで活躍している映画人が集まったのはすごいですよね。私はなぜか後半のイベント司会をやりました(笑)。

磯田 学園祭的なノリでしたよね。説明をしておくと、亀有名画座は作家的な特集ではなく、ごく普通の成人映画専門の名画座として以前から地道に映画人たちを応援してきたところだから、恩返しの意味でも立ち上がろうということがあったんですよね。

細谷 そのあと「P-1グランプリ」が中野武蔵野ホールで翌年の2000年だよね。ピンク映画をまた劇場でかけるには、ただかけてもおもしろくないので、お客さんを巻き込んだイベントにしようと。監督特集とか年代別にやっても話題にもなんないしというところで考えたんだよね。

磯田 2000年と2001年の2回やりましたね。

細谷 瀬々(敬久)監督が新宿の焼肉屋で「みんなで闘うんや!」「映画はプロレスだ!」とか言って(笑)。プロレスや格闘技好きの瀬々さんがトーナメント制にしようというので、1回の上映で2作品をかけてお客さんの投票で勝ち負けを決めて、最後まで残ったものが優勝ということに。

磯田 四天王の次の世代をピンク七福神と銘打って、世代闘争的なアングルを仕掛けてましたね。

細谷 四天王の作品は主に国映製作で新東宝配給だったんだけど、エクセスとか大蔵とかそういう製作会社にも声をかけて。これまでピンク映画の各社を盛り上げたイベントというのがなかったしね。あれは夏だったね。

磯田 ベテランが若手に敗れる番狂わせがあったりして楽しかった。これも非常に燃えましたね。

細谷 クソ熱い夏にまた大人の学園祭(笑)。

磯田 テレビ朝日の深夜番組「トゥナイト2」が取り上げてましたね。煽り映像の瀬々さんが田尻(裕司)監督をキックするシーンが何度もリピートされて(笑)。あの番組のイメージが強かったですよね。

細谷 ねえ、社会的な現象に……なることもなく(笑)。中野界隈の飲み屋を儲けさせて。毎晩のように飲んでましたね。何で2年で終ったかと言うと、作品がないからね(笑)。どんどん作られなくなってきたから。それと、みんな手弁当で無償でやっているので、体力がね……。

稲川 会社の仕事とのバランスはどうだったんですか?

細谷 会社はちゃんと朝に行ってましたよ。いろいろな映画の宣伝をやりつつ、瀬々さんとかそういう監督たちを応援するのもありじゃないかなと。まだそういう余裕があった時代ですね。

磯田 すごくタフですね。

稲川 そのへんも含めて終止お金は動くわけですよね。いろいろとシビアなところはなかったんですか。

細谷 お金は結局ボランティアみたいな感じで、たとえば興収で150万円ぐらいあがっても、劇場半分、国映が半分でそのなかでチラシとかいろいろな経費を捻出したんですよ。みんな若くって、30代だったかもしれないね、四天王たちも。だから、本当に真剣に映画を当てるため、話題になるには何をしなきゃいけないかなって考えて前篇でもふれた「新作家主義列伝」を経て「P-1」をやったんだよね。本当に「P-1」以上のイベントってできなかったもんね。

稲川 そのへんの動きってとにかく目立ったわけですけれども、全体的にはどうだったんですか? 当時のインディペンデント映画界は細谷さんからすると。

細谷 成り上がろうとしていた彼らとこちらのほうも彼らをなんとかしなきゃなという気持ちがすごく通じ合っていたから「ラストショー亀有名画座」、「P-1グランプリ」そのへんはひとつの繋がりがありましたよね。四天王たちも瀬々さんの『雷魚』(97)を頂点にして始まりもあって終わりもあった時代ですよね。ピンク映画の端境期で、節目の年だったのかな。ちょうど20世紀の終りの頃ですもんね。アルゴにいながらそういうこともやっていたということですよね。

稲川 それが傍目から見てまったく不自然じゃなかったですよね。細谷さんはそういうものだって業界ではみんな思ってました。

磯田 自転車で都内を走りながら、毎日の宣伝や何やらの合間に(笑)。

稲川 その時代の端境期に細谷さんがやらなければならないっていう感じは自分でありましたか。

細谷 サラリーマンですからね。サラリーマンをやりながらぽつぽつと切れ目なくそういう国映の映画の宣伝とかやってたという感じですね。

稲川 他の会社だったら採算合わないでしょ。

細谷 そういう意味では国映作品はすごく安い宣伝料で、7万とかでやってましたね(笑)。国映のお姐さん(※5)に「5万を7万にしてくれ」って言って(笑)。すごい時代だったよな。

──2000年代に入って何か変わったなと感じたりしたことはありましたか。

細谷 もう私の時代じゃないなと思いましたね。みんな20世紀で終ってたんだね。

磯田 映画美学校ができたのが97年ですか。これまで自主映画といえば8ミリや16ミリでハードルが高かったのが、デジタル機材の普及もあって、誰もが簡単に映画を撮れるようになってきた。

細谷 枠のないところで、それも経費のないところで、家内工業だったものがだんだんシステム化したり、いつの間にかギャラも上がったりとかしてね。

稲川 たとえば、いま、井土紀州がやってる「映画一揆」だとか、富田克也や相澤虎之助たちがたちあげた「空族」のやっていることのベースは細谷さんが作ったみたいな感じですよね。彼らは自分で入口も出口も作って劇場でやっているし。

磯田 2000年代を境に商業映画と自主映画の枠みたいのが崩れてきて、細谷さんのあとの世代と言いますか、直井(卓俊)さんみたいな人が出てきて細谷さんのあとを引き継ぐような形になってますね。

細谷 作家を見つけて、作家を育てるようなことになってきてますよね。

磯田 松江哲明とかいまおかしんじ、城定秀夫といった監督たちをプッシュしたり。だからみんな細谷さんがやっていたようなことをやっているっていう。

細谷 いまやっているか、前にやっていたかということじゃないですか。

磯田 しかし、その頃は細谷さん以外に誰もやっていませんよ。

細谷 その頃は媒体とかもそんなになかったしね。ネットもないし、情報誌と映画誌ぐらいだったからな。

稲川 宣伝会社もいまみたいに細分化してないしね。

細谷 宣伝会社がそんなになかったよね。「P2」とか「ゼアリズ」とかそんなもんだった。

稲川 何か流れみたいなものは作ったんじゃないかな。

磯田 サラリーマンでやっているのがすごいと思います。

細谷 葛井欣士郎(※6)ですね。企業内でやっていたという点が同じかな(笑)。

──それで、問題の『靖国』ですが。

細谷 私が悪かったんです、「週刊新潮」にしてやられて(笑)。『靖国』のあの事件はいまでも小説にもできるくらいだな。結局、李纓(リ・イン)監督が作った映画はまずタイトルのインパクトがあったし、ただ内容はすごく気を遣っていたんだけど、要するに靖国を中国人が撮ったというだけで、それは日本の人たちから反感を買うわけなんですよ。反対に「中国人がよくやった」と、日本人が撮らないのに、という評価もあって、その両極端のなかに置かれましたね。最初なんかまだ何も決まっていないときに当時トルネード・フィルムにいた叶俊太郎から電話がかかってきて「細谷さん、『靖国』やるの? いいな〜絶対入るよ。うちもかましてよ」って。そういう変な見せ物的なところがあって、これはそういうタイトルで作品だから、営業試写やったときに最初に手を挙げたのが、最初に降りた東映のバルト9でしたからね。いまから考えるとよくバルトでやろうとしたよな(笑)。向こう見ずだったよね。1館じゃなくて4館ぐらいでやれば、1館降りても3館が頑張ると思ったら、1館降りたらみんなが降りちゃう、そういう結果になってしまったというね(笑)。
その当時は小泉(純一郎)さんが靖国参拝をやっていた頃に比べて靖国もおとなしくなって、反日問題とかも静かになっているときだったんですよ。映画にしても観察映画としてそのまま撮って、結局、靖国神社を愛している人たちのコスプレショーみたいなね。それをみんな日本人は普通に見ているけど、外国人から見ると珍しいから、外国人はこれは変だよねってところでカメラを回し始めた。意外に普通の人もああいう風になっているって知らなかったんだけど。
最初の試写をやったときに結構私たちも危ない橋を渡ったというか、いろいろあって右翼の人も大丈夫なんだと。そうだよなおとなしい映画だしなと思っていたところが、「週刊新潮」にやられた(笑)。こういうネタだから「週刊新潮」に盛り上げてもらわないとなと思って、向こうからこれを観たいということじゃなくて、こちらから「こういうネタです」ってやったら、見事に「こんな中国人の反日映画が」って記事が出て。あれも結局、ラストに使った写真が偽造じゃないかと言われている南京大虐殺の確証のない日本兵が中国人を惨殺しているやつで、その写真を監督が堂々と使っちゃってそれがいちばん「週刊新潮」を喜ばせた。最初に「週刊新潮」からこういう記事を載せますよってゲラ刷りを教えられ、「反日映画『靖国』」って。それを聞いただけで監督は抗議してね。その前から「週刊新潮」の記者と「これは載せないでください」と「反日映画っていうのは何とかならないですか」ってやりとりして。でも、向こうのほうとしては「偽造写真を使ったってことは、これはインチキな映画なんだから、わからないんですか細谷さん」って。「週刊新潮」が水曜日発行だから日曜日締切りでいろいろ電話でやりとりして、日曜の夜とかホント地獄でしたね。記事は止められないしどうしようって。

磯田 狂気の日々が始まった。

細谷 劇場が全館降りるというのが決まったのが3月の31日で、4月1日に新聞に全部出て、そこからいろいろなボランティアの人に、電話の対応が大変になると思うから来てもらって。「何でそんな映画を公開しようと考えたんだ」とかいろいろな人たちの抗議や、あと新聞社、テレビ局が「今後どうするんですか」とか「降りた劇場に対する補償は」とか、マスコミがどんどん「靖国事件」というストーリーを作りあげてね(笑)。あとあの当時ネットウヨクですよね。本物じゃなくて電話だけでけしかけてくる人たちが「靖国神社をけなす映画を配給するなんて何をやってるんだ」とかね。匿名性のなかでしか言えない人たちが言葉の暴力を。それで電話の応対に追われていましたね。「責任者出せ」と言われて、「よし、責任者は田中って人間にしよう」ってことにして、何かあったら「責任者は田中です」、「田中はいるか」、「ちょっといま出ております」って、みんながみんな田中という架空の人間をでっちあげてね(笑)。本当に朝から晩まで地獄でした。

磯田 公開中も抗議はすごかったんですか。

細谷 公開中はそんなでもなかったかな。要するにここで右翼が映画を妨害したという風に思われたくないし、右翼は自分たちはこの映画を冷静に見ているという風にしたかったんでしょうね。噂だけで暴れないようにといって、新右翼「一水会」の方からの依頼でロフトプラスワンで右翼の皆さんと試写をやったり、新宿の偉い方々とルノアールで会ったりね。お察しのとおり、『靖国』ダイエットになりました(笑)。いまをときめく『サウダーヂ』の宣伝やってる吉川(正文)君もポレポレ東中野を辞めたあとに来てもらって、宣伝を手伝ってもらいましたね。

磯田 僕も劇場の警備に行きました(笑)。

細谷 いまだから言いたいのは、全館降りたってときに、各新聞社が降りた映画館を叩いたんですよ。映画館が右翼に屈して降りたということで。そのときに六本木にある某映画館はホームページで「うちは『靖国』をやろうとした、ただアルゴさんがこういう事態になったんで『止めてくれ』と言ったんで降りただけで、うちはあくまでもやる気でいます」って書いたんですよ。私たちは抗議したんだけど、要するに世論のなかで叩かれたから責任転嫁したんですよ劇場側が。最初にバルトが降りた時点で他の映画館が降りないようにこちらはいろいろ説得して、みんなそんなことは想定内でやったとは思うんだけど、びびっちゃったんだよね。そのとき、その映画館の社長とも話したんだけどいきなり正論を言ってくるわけですよ、「うちは映画館だし、いろいろなお客さんが来るわけだけど、細谷君、何かあったときに責任取れる?」って。でも、普通そういう何か起きたときに一緒にやるのが映画館と配給・宣伝じゃないのかと。そこの会社とは念書まで書かされたんですよ。何かあったら配給のアルゴが責任を取るって。ハンコまで押したにも関わらず、ホームページでそんなことを書かれ、結局降りて、非常に忸怩たる思いだった。その変わり身の早さとかね、いろいろな事件があるといろいろな人の顔が裏もあれば表もあるってわかりますね。

磯田 これは公開して入ったわけですか?

細谷 お客さんは入りましたね。全館が降りたというマイナスの要素がなければ、あそこまでマスコミも取り上げなかったろうし。だっておかしいのは言論の自由でも何でもないんですよね。ただ単に映画館がびびって降りただけで、映画館によっては抗議の電話が来なかった映画館もあります。ただ一部のマスコミの取材方法には大いに疑問を感じました。

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磯田 これは別に仕掛けたわけじゃなく、結果的にこうなってしまったと。そのあと神保町ですか。

細谷 神保町シアターから私のところに話が来たのは元東京アニメセンターの千田さんから小学館が映画館を作りたいということで、アルゴさんが手伝ってくれないかと。神保町は古本屋があり、映画好きの人が集まるし、小学館出資のアニメ映画をかけるより旧作中心の映画館にしようと思ったんです。それで支配人を元三百人劇場の大矢(敏)さんにして、バイトは彼が連れてきて。神保町シアターを名画座にしようとしたのは私で、最初は川本三郎さんに「昔の映画をやりたいんです」って言ったら、「昭和の映画に出てくる子どもたちをやろう」ということになって「昭和の子どもたち」をオープンのレイトショーでやったんです。結局、肩叩かれましたけど(笑)。人材に問題ありの職場でした。

稲川 誰に叩かれたんですか。

細谷 小学館がアルゴの岡田社長を叩いて、細谷を降ろせと。

磯田 小学館というよりも……。

細谷 T氏だね。ひとつ言えることは3月11日の東日本大地震があった直後、よその映画館が地震が起きたあとも節電しながらお客さんの安全を考えつつやっていたのに、小学館は神保町シアターを堂々と2週間休映にしちゃった。そういったなかで他の映画館は日銭が入って来ないとたいへんですから、みんな営業しているのに、Tさんは「いいよね、能天気な映画館は。こんな地震のあとも営業を続けて」と言うから、「いや、能天気じゃないんです。みんな零細企業ですから、安全を考えつつ観たい人がいる限りやんなきゃ喰っていけないんですよ」って言ったら、その人は自分の個人営業じゃないですから何も言えなかったんですよ。ただ、他の映画館を「能天気な映画館」というのは、それは小学館だから言えるということですよね。そのときに2週間まるまるなくなったプログラムをどうするかってことで、次の企画が未定だったし、私は2週間分のプログラムをそのままやるのが筋だと。お客さんへの義務で、「だからやりましょう」って言ったら、「映画館というのは雑誌と同じようにどんどん新しい企画を出していかないといけないんだから、古いプログラムは全部捨ててアンコールやモーニングでいいじゃないか」と言われて。「でも、お客さんとの信頼関係がなくなっちゃいますよ」と「まるまるやるのがお客さんへの義務じゃないですか」と言ったんですけど、まったく耳を貸さずに……。それじゃまずいよなと思って、それで地道に水面下でいろんな方に働きかけたんですけど、そのあたりからTさんの態度が非常に厳しくなって。……こわいところでしたよ。

稲川 それは反会社的なやつだと思われたんですか。それが直接の原因ですか。

細谷 それが直接の原因だと岡田には言われましたけど、あとはいろいろなね……。大人の事情がありますよ。

磯田 大矢さんのあとを引き継いで細谷さんが支配人になってからは、若尾文子レア作品やミステリ映画の特集など、いろいろおもしろい企画を連発して動員も上向いてきたところだったのに。それで結局、アルゴも辞めることに。

細谷 これは単純に私が岡田とはもう仕事はできないなと思う出来事がありまして、それで『ムーランルージュの青春』(11年)の田中重幸監督が私のシナリオ作協時代の知り合いで「公開できないかな」って話がきたんで、アルゴを辞めて、その製作プロダクションと僕でやろうということになったんです。それでこれを機に退社しようと。結果的にはよかったかなと(笑)。

──今後はどういった活動をしていこうと考えているのですか。

細谷 昔の中野武蔵野ホールのときみたいに若手の作家の作品を劇場にかけようかと動き始めてます。今度やるのは堀内博志監督の『私の悲しみ』という作品で「TAMA CINEMA FORUM」でグランプリを取った群像劇です。いろいろな人間関係が繋がっていくという、ちょっとしゃれて笑えたりもする映画です。ユーロスペースで7月27日まで上映してます。オススメですよ。そして、今は昔からの知り合いがトラヴィスという製作・配給会社をやっているんで、そこに机を借りています。他に『もしかしたらバイバイ!』などいろいろな自主映画を劇場公開するお手伝いをまた原点に戻ってやろうという感じですかね。

[註]
※1 L版審査:リミテッド版審査。単館公開用作品向けに作られた映倫審査。

※2 ル・ピリエ:旧文芸坐にあった地下劇場。自主映画、ドキュメンタリー映画の上映のほか演劇や舞踊などの公演も盛んだった。97年閉館。

※3 シネマアルゴ新宿:アルゴプロジェクト製作映画の専用映画館として90年に開館するも紆余曲折を経て95年に閉館。

※4 アルゴプロジェクト:89年に6人の映画プロデューサー(伊地智啓、岡田裕、佐々木史朗、増田久雄、山田耕大、宮坂進)が立ち上げた、製作・配給・興行すべてを自ら行う組織。

※5 国映のお姐さん:ピンク映画の製作を行っている国映株式会社の代表、プロデューサー朝倉大介氏。

※6 葛井欣士郎:日本アート・シアター・ギルド(ATG)の映画を上映する映画館「アートシアター新宿」の総支配人。ATG映画の製作者としても知られる。

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posted by 映芸編集部 at 14:04 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする