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2012年08月02日

『親密さ』
濱口竜介(監督)インタビュー

 オーディトリウム渋谷で「濱口竜介レトロスペクティヴ」が開催されている。本サイトでも取りあげた『PASSION』(08)や、韓国の俳優キム・ミンジュンを主演に迎えた『THE DEPTHS』(10)、被災者の証言を記録することに徹した震災ドキュメンタリー『なみのおと』(11 酒井耕と共同監督)など、この作り手はこれまでにもすぐれた作品を世に送り出してきた。ただ、その実力に反して一般の商業作はまだ一本もないことから、彼の作品を見る機会は限られてきたが、今回の特集上映は未見の観客にとって絶好のチャンスと言えるだろう。
 そして、今回お披露目となる最新作『親密さ』は、劇団員が舞台公演に向けて稽古を続ける日々を描く第一部と、その舞台を撮影した第二部とに分かれ、4時間半におよぶ大長編となっている。この映画は、なぜこれほど複雑な構成と長大な時間を必要としたのか。また、そこで描かれる若者の群像にはどのような思いが込められていたのか。特集上映が始まる前日に監督から話を聞いた。
(取材・構成:平澤竹識)

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──まず、今回の『親密さ』は二部構成になっていて、主題の問題と方法論の問題と両方に触れるべき作品だと思うので、順に訊いていきたいんですけど、そもそもこういう映画を発想したきっかけというのは?

濱口 舞台劇に使ったプロットは大学時代に考えていたもので、そのことは映芸シネマテークで『親密さ』のショートバージョンを上映してもらったときにも話したと思うんですけど(※詳細)。昔、『何食わぬ顔』(03)という映画を作った後、まだ大学にいる時間が少しあったんで、もう一本ぐらい撮れたらと思っていて、そのときに考えてたプロットが「親密さ」という第二部の舞台劇にした話だったんです。そのプロットも生き別れになった兄と妹、衛と佳代子の話が軸になっていて、衛にはゆきえという義妹(いもうと)がいるという設定でした。最後に読まれる詩もできていて、再会した衛と佳代子が父親の墓参りをした後、そこで会ったゆきえと喫茶店で話すところまで、脚本の形でできていたんです。でも、「今こんな話あるかな?」という思いがありまして、僕自身でも越えられないリアリティの壁みたいなものを感じていて、ちょっと難しいなと思っていたんですよね。

──それをなんで今やろうと思ったんでしょう。

濱口 苦し紛れみたいなところはありましたね。この映画はENBUゼミナールの映像俳優コースの卒業制作になるんですけど、ENBUゼミの講義を受け持つことになったときに、演劇をやろうと初めから決めてたんですよ。その舞台公演の稽古をしている間もドキュメンタリー的にカメラを廻して、最終的に公演も撮る。僕が監督をして、彼らの卒業制作を撮らなければいけなかったので、その一連を作品にしてしまおうというアイデアがあったんです。ただ、実際に何を舞台でやるかという問題があって、映画全体の構想を考えたら、オリジナルのほうがいいだろうとも思ってたんですが、何もネタがなくてですね。それで引っ張り出してきたのが、この『親密さ』というプロットだったんです。

──なんで演劇だったんですか。

濱口 コースの授業が始まる前から「いったい何を教えたらいいのかな?」という思いがずっとあったんですよ。ただ、僕も教えるなんて初めてだし、3ヶ月も役者に演技を教えるといっても、「いったい何をすればいいの?」ってところがあるじゃないですか。普段自分がやってるのも『PASSION』(08)以降は、演技をしてもらって、それをカメラで撮るっていうシンプルなことなんですね。大がかりな演出はしないというのが基本的なスタンスなので、そういうスタンスで3ヶ月という時間を貫けるような仕組みを作るために、稽古から撮ることにしました。要するに、舞台は2時間ぐらい通しでやらないといけないわけじゃないですか。そのためには必然的に、ものすごく長い稽古が必要とされるはずだという考えで。そういう、3ヶ月という時間をつぶすために(笑)、ものすごく長い稽古を導入するために演劇を選んだところはあります。

──それで演劇をやるとなったときに、リアリティとしてはありえない話も実現できるだろうという見通しが立ったわけですね。

濱口 そうなんですよね。それは作品ができてから思いましたけど、脚本を書いてるときも、「これを映画にするんだったら、ちょっとマズいんじゃないかな」っていう部分がたくさんあった気がするんです。でも、それが結構すんなり書けて、出来上がった作品を見終わった後、元々の『親密さ』というプロットは「こういう形じゃないといつまでも実現しなかったかもな」と思いました。まあ、ちょっとフィクションのドーピングぽいなとも思いますが。もちろん原理的には映画にもできたんでしょうけど、今見られてるようには見られなかった気がします。単純に映画化していたら今よりももっと、「いやいや、そんなことしないでしょ」っていう観客のツッコミにさらされたでしょうし、それに耐えるものができた自信はまだないですね。

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──どういうところが映画では成立しづらかったと思います?

濱口 単純に僕の個人的な心のハードルですけど、生き別れの兄妹という設定がそもそもどうなんだという思いもありますし、それがやりたいことではあるんですけど、今演じる側がリアリティをもって接することのできる設定なのかどうか分からなかったんです。それが演劇を導入することですっと前に進んだな、という気はしています。手紙を読んだりするのも元々の構想の中にはなかったんですよね。それでも演劇でやるってことに決めたら、自然と「やってもいいかな」と思えました。

──生き別れた兄妹という設定の大時代感もそうですけど、愛という言葉がこれだけ直截に言及されて、それが自然に受け止められることにも驚きました。

濱口 それはよかった(笑)。

──それも「演劇を撮る」という形だから飲み込みやすくなってるんですかね。

濱口 そうだと思いますねえ。台詞で愛を語るとか、それが今の時代にある程度信じられる強度を持つことはあるのかっていう不安は常に持ってます。台詞としては、作品の中にいつも何かしら入れていますけど、それをやるときはいつも難しいなって思うんですよ。これはでも・・・後のほうで話しません?(笑)きっとすごく核心のところなんですよね。今はまだそこまで行けない気がします。

──じゃあ、愛についての話題は後まわしにしましょうか(笑)。撮影の順序的には、第一部の稽古風景とエピローグに当たる「二年後」はどの段階で撮ってるわけですか。

濱口 ENBUゼミナールでの稽古風景はだいたい公演の前に撮っていて、衛役の佐藤亮君と舞台を演出した平野鈴さんが二人で過ごしてるシーンは、舞台劇の後に撮ってるんです。部屋のシーンとか橋のシーンとか電車のシーンとかは。

──第一部とエピローグの台本は、舞台の台本ができた時点で完成してたんですか。

濱口 いや、できてなかったです。順序を言うと、授業が11月の後半から始まるんですよね。それで12月の頭ぐらいに舞台劇の第1稿を渡したんです。クラスに15人弱いましたから、それを3チームに分けて「後日、オーディションします」と。その後、1月の半ばぐらいにオーディションを兼ねて発表をしてもらって、キャスティングを決めました。その発表の様子が、映画の冒頭に平野さんたちがビデオで確認しているものです。キャスティングを決めて、一人一人に合わせて書き直した第2稿が1月の末ぐらいにできました。それで彼らが稽古してる間に映画(第一部とエピローグ)の台本を書き上げて、2月の半ばぐらいに「映画はこういう話です」と台本を出したんですね。その後、公演は3月2日にやっています。

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──舞台を演じる直前ぐらいに、映画の台本が出来上がってるんですね。

濱口 そうですね。ただ、映画の脚本を渡すときに、主役が変わることも同時に伝えたんですよ。それまで実際にキャスティングしてたのは、映画の中で元々主役に決まってる田山幹雄君っていう子だったんですけど、舞台の主演は佐藤君になります、と。映画の中では舞台を降板して韓国に行くことになる彼を、現実でも主役にキャスティングしてたんです。でも、田山君だけには最初に話してるんですよね、「君は途中で降板するよ」と。それで映画の脚本を渡した2月の半ばに、佐藤君にも配役の変更を伝えたんです。ただ、さすがに直前に変更しても稽古の時間がないので、公演の2週間ぐらい前に知らせました。

──映画の中の出来事に関連して、現実でもそういう仕掛けをしてたんですか。

濱口 当時、稽古部分をドキュメンタリー的に撮ってるときは、全然映画の構成が見えてない段階で、ドキュメンタリー的なものが第一部の中心になるのかなと思ってたんですよ。ただ、単にドキュメンタリー的なものになるのは避けたいと思っていたので、途中で配役を変更する物語の流れだけは決めてたんですね。そのときに、田山君が実際には主役を降りることを発表していたら、みんなが一心に稽古できるわけがないと思ったんです。だから、みんなが本当に田山君が主役でやるという思いで稽古をしていて、佐藤君は平野さんと一緒に演出側のチームにいるという形で進めてました。実際、演出はかなりの部分、佐藤君も関わってます。

──要するに、ドキュメンタリー的に撮られている公演前のディスカッションとか質問ゲームはリアルな稽古としてやってるわけですよね。それは役柄としてではなく、本人としてやってるわけですか。

濱口 ある程度、その人としてやっていて、後日、役柄としての部分を撮り直しました。

──じゃあ、あの稽古風景も実際の稽古の映像と、ドキュメンタリー風に撮り足してる映像がミックスされてると。

濱口 そうですね、「こすいことしてんなあ」みたいな感じでしたけど(笑)。映画をある終わりにたどり着かせるために必死でしたね。

──当初のプランとして、第一部の稽古のドキュメンタリー的な映像と第二部の舞台劇のフィクション的な映像とを対比させる狙いがあったんですか。

濱口 最初はどんな映画ができるか全然分からなかったんですよ。正直、そんなやり方で映画ができるかどうか疑わしいなと思っていたことをこの機会にやってみようとは思ってました。即興的なものであったり、ドキュメンタリー的に生々しいものを撮ることが映画にとって力になるのかどうか、それを肌で知りたいという気持ちがありました。今までは絶対に台詞を書いてたんですね、即興的なこと、少なくともアドリブで台詞を言わせたりは極力させてなかったんです。ドキュメンタリー的なアプローチについても、手持ちカメラをほとんど使わなかったりとか、そういうことはこれまでは意識してました。ただ、いろんな人がそういうことをやっていて、中にはすごくうまくやってる人もいる。代表はキアロスタミや侯孝賢ですね。そこにも何か映画の力は隠れているのかもしれない、という気持ちはあったから、興味はあったんですよね。それで今回は、映画になるかどうか分からないけどやってみようと。「最悪、舞台劇だけ映像にすればいいや」という気持ちもあったし、彼らにもそう言った記憶はありますね。まあ、それすらどうなるか分からないところもありましたけど。

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──フェイク・ドキュメンタリーみたいな方法論を試したいという気持ちもあったということですか。

濱口 やってることは一緒なんですけど、フェイク・ドキュメンタリーみたいなものを撮ろうと思ったことはないんですよね。ENBUゼミの授業をやりながら考えてたのは、「演じる」っていうのは何なんだろうってことだったんです。僕は演じられたもののほうが、生々しく行なわれるものよりも好きなんですね。その「演じる」ことの価値がどこにあるのかを探るのが今回の目的で、それは僕個人の興味だけでは終わらないだろうと。きっとENBUの人たちの3ヶ月の使い方としてもいいんじゃないかな、と思ったんですよね。

──たしかに完成した映画を見ると、「演技」してる第二部の舞台劇のほうが、素の状態に近い第一部よりも迫真性のようなものが感じられますよね。リアルとは違うんですけど、なんか不思議な感触でした。

濱口 そうなんですよね。しかも、その舞台は僕が演出してないので、なんとも言えないところはあるんですけど、それはきっと「演じる」ってことの力が出てるからだと思います。カメラとの関係も含めて、後半はすごくその力が弾けまくってるような気がします。

──でも、「演じる」って結局のところ何なんでしょうね。

濱口 そうですねえ。最近、『なみのおと』(11)っていうインタビューの映画を撮って、今も続篇のためにずっとインタビューをしてます。そこで思うのは「書き言葉」と「話し言葉」のことなんです。いつも劇映画を撮るときは、シナリオに書いた言葉を俳優さんに話し言葉として言ってもらうわけですよね。それは当然、普段の会話よりどこかしら硬かったりする。インタビューの場合は逆に話し言葉だから、まとまりがなかったり、グニャグニャしてる。そのインタビューした内容は全部文字に起こして構成を考えるわけですけど、最終的にピックアップするのは結局どこか書き言葉的に感じる部分なんですね。話し言葉の中に、書き言葉のような、それこそ夜に書かれる手紙みたいな率直な心情の表出があるわけです。つまり順序が逆なだけで、結局は書き言葉的なものが映画には必要だっていうことなんだと思うんですよ。で、それは「愛」ってことを映画の中で語ってもかまわないっていう、さっきの話とも関わりがあると思うんです。手紙を読むとか詩を読むのはもろですけど、書き言葉的なものを口にすることがとても重要かもしれない、と最近思います。それぞれの中に眠っている「書き言葉」的な言葉がある。でもそれは本来、「話し言葉」として語られることを欲している言葉なんだという気がします。

──それは映画の中でということですよね。

濱口 映画に限らず、フィクションというものを作るときに、「書き言葉」的なものが重要になるんだと思っています。ただ、むしろ映画は一番「書き言葉」的なものと相性が悪いかもしれない。硬いし、生きてるうえでのリアリズムみたいなものと離れてますから。でも、フィクションの中で口にされなきゃいけない言葉、生まれたがっている言葉は本来、そういうものなんだろうという気がします。インタビューのときも、普段とはモードが変わるわけじゃないですか。こうやって平澤さんと話すときも、さっきまでの少しダラッとした感じとは違って、書き言葉的なものを話そうとするわけですよね。でも、その書き言葉的なものが前面に出すぎると嫌なものになってしまうことがある。だから、書き言葉的なものと話し言葉的なものが調和した状態が、演技としても素晴らしいものなんだと最近思うんですけど、そういう状態はフィクションが生まれる条件なのかなという気がします。

──そういうことについての試行錯誤が今回の制作過程で行なわれていたんですか。

濱口 むしろ作り終わってから考えたことなんですよね。正直、なんであんなことになったんだろうって思うんですよ。あの舞台劇に関して、全部が全部すぐれた演技だとは言えないと思うんですけど、自分が演技というものを見てきた中で一番すごいものがそこにあったんですね。それで舞台直後、佳代子という役を演じた伊藤(綾子)さんに「あのときって何が起きてたの?」みたいなことを訊いてみたら、ある種、ぶっ飛んでる状態だったと。ある種何も分からなくなるんだけど、ただ、すごく冷静なんだと。頭の中はクリアな状態で、何をしなきゃいけないとか、そういうことははっきり意識してたって言われて。「へえ、やっぱりそういうことってあるんだなあ」と納得しました。あの舞台劇は、観客を入れた本番を含めて4テイクやったんですけど、2テイク目と本番のときにそういうことが起きてたみたいなんです。

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──濱口さんがそう感じたのは、カメラを通さずに現場で直に見ていたからなんですか。

濱口 それは難しいんですよね。僕は基本的に、キャメラマンを乗せたドリー(移動台車)を押してたので、キャメラのフレームはずっと見てたんですよ。だから、フレームに映るものがすごいのか、その場で起きてることがすごいのか、その辺りは区別がつかないんです。ただ、その合わせ技と考えるのがいい気がしますね。最良の演技を、最良のポジションで捉えたら、それは起こるのかもしれない。べつに真正面とかじゃなくても、それはあるんだろうな、と今は思います。

──濱口さん自身も、最終的にあれだけのものになるというビジョンを持ってやってたわけじゃないんですね。

濱口 そうですね。ものすごくいいものができるかもしれないとも思ってましたけど、確信がどこまであったか。今回に関しては、ポストプロダクションのほうが大きいかもしれません。東北に行ってる間を含めて、結局1年近く編集をしていて。東京の鈴木宏君という編集マンと週に1度ぐらいの割合で、やり取りをしていました。どうやったらこれが映画になるのか、やってる間に考えてましたね。稽古のドキュメンタリー部分も結果的にあまり使ってないとはいえ、素材はかなりあったので、それをどういう風に使うかも含めて、ポスプロで形にしていったところはあると思います。

──今回は舞台劇の演出を平野さんに預けてるわけですもんね。

濱口 脚本を書いてる時点で「もうこれはやれないな」って単純に思ったんですよね。舞台の脚本を書き終わると同時に、映画の脚本も書き始めていたので、これはちょっと舞台の演出までやれないと思いました。やってみたかったんですけどね。ただ、何がそこで起きてるのか、何を撮るべきなのか、そこに巻き込まれると見えなくなっちゃうな、という気持ちがありました。あと、単純に演出をやってもらうこと自体がこちらの演出みたいな部分もあったんですよ。田山君が降板する話を現実にも似たような形でやらなきゃいけなかったのと同じように、僕が実際には舞台の演出をしてるのに、平野さんが演出してるように見せるような形で撮影をしてしまうと、みんなの表情にもそれが反映されるだろうと思って、それはしませんでした。で、これはさっきも言ったようにフェイク・ドキュメンタリー的な、観客が信じるかどうかの問題じゃなくて、どっちかと言えば、演じてる彼らが今起きていることを信じるかどうかって問題なんです。

──少し話を戻しますけど、舞台劇のほうでは通俗的で小さい話を語ってるわけじゃないですか。でも、第一部とエピローグの部分では朝鮮半島で戦争が起きてるという架空の大きな話が語られている。その対比にはどういう意図があったんですか。

濱口 舞台の第2稿を渡して彼らが稽古を始める頃は、コースが始まって2ヶ月弱経ってたんですね。それは映画の方向性が決まる時期でもあったんですけど、その時期に彼らが勘違いしそうだなって思ったんですよね。脚本もほとんど当て書きみたいなところがあったし、「ああ、僕のままでいいんだ」みたいなことを思うんじゃないかという不安がありました。そういうことではなくて、大事なのは「演じる」っていうことのほうなんですよと。それを分かってもらうために、戦争という突飛な題材を放り込んだところがありました。そういう世界に生きている、しかもその戦争に参加しに行く、みたいなことも含めて、積極的に嘘臭い話にしないといけないっていう気持ちがあったんですよね。このままだと彼らに「リアルっぽいものを撮りたがってるんだな」と思われるな、という危惧があったんです。

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──演出家としてのそういう配慮とは別に、シナリオ作家としての意識はどうでした? 小さな物語と大きな物語を同時に語るということについては。

濱口 どうなんだろう。実は『何食わぬ顔』で既にやったやり方ではあるんですよね。そのロングバージョンというのは、自主映画の監督をしていたお兄さんが死んでしまうと。そのお兄さんが死んだ後に、残った弟と友人が映画を撮って上映すると。そこで上映される作品が『何食わぬ顔』のショートバージョンとしてあるんですけど、その映画内映画も通俗的で小さな話なんです。

──ロングバージョンでは「死」っていう大きな物語が語られてるわけですね。

濱口 そうですね。でも、やっぱりそれを「大きい」と呼んでしまうと違和感はあります。大きな物語と小さな物語っていうのは、そんなにはっきりとした境界があるわけではないですよね。「死」なんてその最たるもので、何か大きな話になりがちなんだけど、それはすごく簡単に起こる。その境界の揺らぎは、それこそ日常的に起こるわけだから、その大きな話と小さな話の境界の揺らぎを撮りたいっていうことだと思います。「大きい」とされているものを「大きい」と認めたまま話を語りたくないなっていう。「小さい」に対してもそういう気持ちはありますが。

──なるほど。映画の第一部に「この(舞台の)脚本の良さは小ささとか弱さだ」っていう台詞もありましたけど、濱口さんの映画は身近で小さな世界の話を描いてるのに、そこに大きなものが見えてくる。なおかつ第一部で戦争へ行ってしまう田山さんに平野さんが言うんですよね、「これからあなたのやることが、私たちと関係ないって思わないで。私たちも、これから私たちのやることはあなたとつながってると思ってる」って。ツイッターとかいろんなメディアが発達した中で、卑近な世界と大状況が否応なく接続してるって認識があるような気がして、そこはすごく共感してしまうところなんですよね。

濱口 ありがとうございます。

──・・・なんか喋ってください(笑)。

濱口 ハハハ。何を喋ればいいのかな。

──いや、映画から離れて普段どんなことを考えてるか、みたいな話でいいんですけど。

濱口 そうですね。質問がないと・・・。っていうのは最近よく思うんですよ。僕も今、東北に行ってインタビューする側にまわるじゃないですか。そうすると、結局どんな質問をするかってことがものすごく重要なんですよね。それは『親密さ』を作る過程でも感じたことなんです。僕はどちらかっていうと、3ヶ月という期間を“つぶさなきゃいけない”っていう意識があったんですよ、今だから言えるけど(笑)。それで準備が間に合わなくて、何もないまま教室に行かざるをえない第一回目の授業というのがあって、そのときに「自己紹介をしてください」「そのために2人1組でお互いをインタビューしてください」と言ったわけです。でもやってみたら、ほんとに「おまえら全然人に興味ねーな」みたいな感じなんですよね(笑)。一応10分が持ち時間なんですけど、全然話が続かない。そう言えば、そこで「この人たち結構聞き上手だな」と思ったのが、平野さんと佐藤君だったんです。その印象があって、キャスティングもした気がします。その相互インタビューの後に、僕が個人面談をしていろいろ訊いて、さらには家庭訪問とかして「どうですか」と(笑)。

──すごい積極的な先生になってるじゃないですか(笑)。

濱口 時間をつぶさなきゃいけないという気持ちが高じた結果、すごく積極的な形に転化したというか(笑)、逃げて逃げて積極的になるみたいな感じはありましたね。そのときに「あ、君たちこんなに話したかったのね」って思うことが結構あったんです。みんなの前ではあんなに話さなかったのに、こんなに喋ることあるんだ、みたいな。インタビューしてる1時間とか2時間の間に、ある「いい時間」が訪れるときがあるんですよね。それは先ほど言った「書き言葉」的なものが出てきたときだったな、と今にして思うんです。ただ、それはやっぱりものすごく苦しそうに出てくるんですよ、「こんなこと言っていいのかな」みたいな感じで。それがとても印象的でした。

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──そういう意味で言うと、濱口さんの書く台詞って周到に話し言葉風に装飾されてるけれども、すごく深いこと、今の話で言うと書き言葉的なものを口にしてますよね。『親密さ』のシナリオを読んで思ったのは、質問と答えみたいなやり取りを経て、そういうところに辿りつく会話が多いような気がしました。

濱口 「脚本に他者がいない」みたいなことをよく言われたりするんですけど、そういう問題と関係してるのかもしれないですね。普段は質問ってそんなに気安くしていいものじゃないっていうのがあるじゃないですか。縦に切れ込むスルーパスみたいなところがあって(笑)、普段は単に時間つぶしみたいな横にパスをまわし合うような会話が多いわけですよね。だから、「こんなに質問しないよね」っていうのが見る人の中に感覚的に起こるのかもしれないですね。

──僕は他者がいないことと質問が多いことは関係ないような気がするというか、濱口さんの映画に他者はいると思いますよ。むしろ今って現実に他者がいないことが問題なわけじゃないですか。みんなが一人称の世界で生きてるというか。濱口さんの映画はそのことを自覚したうえで、どうにか他者を発見しようとしてる、あるいは厳然たる他者といかにして繋がれるかみたいなことを試行錯誤してると思うんですよ。そこが感動的なところなんですけど。

濱口 まあ、僕もほんとに他者が何かっていうのは分からないですけどね。

──今日はそういう話も伺えたらなって思ってたんですよね。要するに、今の時代状況とか、広い話を濱口さんにしてもらいたいなって。

濱口 いやあ、そういうことにはほとんど縁がないですからね。まあ、生きてる以上、縁がないということはないんですけど。でも、どうなんだろうな。一応、『なみのおと』の撮影で「地方」と言われるようなところへ行くじゃないですか。僕はずっと「都市」みたいなところで暮らしてきたんですよね、東京の大学に入るまで父親の転勤で地方都市を転々としてたんです。根なし草的な不安定さをずっと感じてましたんで、結果的に東京はものすごく居心地がよかった。それで、それこそ15年ぶりぐらいに東京を離れて地方に行ったときに、都市にはサークルができやすいんだなって思ったんですよね。これは、電車と車っていう話にもなると思うんですけど、個人が身一つの、徒歩でどこか行きたいところに行ける、その「徒歩圏内」の感覚が、都市だと電車によって保証されているんですけど、地方にはその電車的交通網は十分じゃなくて、車で行きたいところまでいかないといけない。その、交通インフラによってできている流動性の差が、そのまま都市と地方にできるサークルの違いにもなっている気がしますね。流動性の高い都市だと、みんな好きなところに行けるから、同じ趣味を持った同質性の高いサークルができやすい。その中では、隠語やクリシェでやり取りする。今まで特に意識することなくその中にいたんですけど、改めて東京ってすごい特殊な場所だったんだなって思ったりしました。そうじゃない人間関係、たぶん旧来の人間関係が地方にはまだまだ全然うごめいてるなと。

──それはつまり、地方には歴然たる他者がうごめいてるという感覚なんですか。それぞれが異質で当たり前の空間というか。

濱口 地方ではそれぞれがすごく異質でも、そこにいなくちゃいけないわけですよね。やっぱり一種でっかい家族みたいな人間関係なんだと思うんですが。車を持ってない10代の閉塞感とかすごい高いだろうな、と思ったりします。逆に、都市だとお互いの関係を簡単に組み替えられる。そうすると、同質性の高いもの同士にガーッと選り分けられていくんだけど、地方の「ムラ」的な場所は今も流動性が相対的に低いから、異質なものが異質なまま一緒にいなくちゃいけないし、隠語やクリシェはあるけど、それは同質性じゃなくって暮らしてきた歴史を基にして発される。都市でも結局はそうだと思うんですけど、隠語やクリシェは結局他者性を隠すためのものでしょう。でも、その他者性が相対的に強いことが、ものすごい負荷になってるわけですよね。それがまた都会とは違う、隠れた感情を生み出してるなっていうのは思いました。ただ、それはべつにもっと流動性を高めようよ、という話でもないんです。今、東北地方の民話の記録をやってるんですけど、民話は口承文化なんですよね、おばあちゃんから孫へとか、お母さんから子供へと受け継がれる。民話はつまり「フィクション」ですよね。フィクションをどんどん受け渡していく。特に昔ですけど、ムラという絶対に出られない空間から外に出る方法として、民話のような物語空間があったということなんだと思うんです。ここで生きていかなきゃいけない、しかも東北の雪深い地域だったりすると、そこからどうやって外に出るかってことがものすごく重要というか。誰も自分のことを理解してくれないような人たちの中で生きていく、そのときにフィクションのようなものが強烈な負荷の中で育まれる、そういうことがあるんだなというのは思いました。そう考えると逆に、都市では今フィクションが死ぬようなところがあるんじゃないかなと。今のフィクションがリアリズムに流れる傾向はそういうことなのかなという気がします。

──なるほど。僕は個人的に濱口さんの作品、特に濱口さんが自分でシナリオを書いてる作品が好きで、ずっと吹聴してまわってるんですけど(笑)、ほんとにハマる人とそうでもない人がいて、「こんなに面白いのに、どこを見てるんだろう」と思ったりするんですけど(笑)。僕自身もムラ的な空間とは縁のない人生を送ってきたから、濱口さんの映画で描かれてる他者との出会い方にすごく共感してしまうのかなって、今の話を聞いて思いました。それこそ地方のムラ的な空間の中で生きてきた人からすると、濱口さんの映画は「何をそんなことで悩んでるの?」って感じに見えちゃうんですかね。

濱口 どうでしょうね。こんなことは語るに値しない問題であるという風には見えるかもしれませんね。

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──そういうリアクションってこれまで受けてきてます?

濱口 まあ、なかなか直接ぶつけられないというのもあると思いますけど。どうなんだろうな。昔から、すごく反応する人とそうじゃない人は分かれますけどね。ただ、それが僕の作品に特有のことなのかは全然分からないです。どんな作品でもそうでしょう。でも、国際映画祭とかに行っても一緒だなとは思いました。全然興味を持たれないこともあるし、その中でほんとにピコンと(笑)強く反応してくれる人は必ずいるという印象です。僕も自分の映画を小難しくしようと思ってるわけではないし、どちらかと言えば、一般的に面白いと言われるような映画にしたいと思って作ってるものが、必ずしも人から反応を得ないな、というのは苦々しく思ったりしてますね、「そっか、こういうことはみんなにとってはどうでもいいことなのかな」って。でも、たしかにそうじゃないとこの世の中はこんな風にはなってないのかなって思ったりもしますけど。

──まあ、そうですよね。でも、人それぞれにいろんな世界の見え方があるにせよ、濱口さんから見えてるものは精緻に物語化、映像化されてるという気はしますし、なんとかこの良さを広めていきたいですね(笑)。

濱口 ハハハ。きっと100人いたら1人ぐらいは、みたいな感じなんでしょうね。

──もうちょっといると思いますけどね、故郷みたいな場所を持たずに東京で生きてるような人たちには響くんじゃないですか。

濱口 もしかすると覆いかぶさっている抑圧そのものが理解できないということはあるのかもしれないと思うんですけど、『親密さ』を作ったときに、何十年経ってもこういう若者の気持ちってあるんじゃないかなってことは思いましたね。状況は苛酷になって、もっと増えてるかもしれない。何十年か後にもしかしたらあるとき若者に見てもらえたら、助けになったりしないかなって思ったりはしました。

──そうですね。僕なんかはもう34とかになってるから図々しくもなったし、鈍感にもなってるんですけど、それこそ20歳前後の頃に、友達と思ってたやつが自分のことをそんな風に思ってたんだとか、そのことに過剰に反応して「裏切られた」って思ったりとか。きっと今まさにそういう他者との出会いの中でもがいてる若い人たちがいるだろうし、そういう人たちにぜひ見てほしいなって思いますよね。

濱口 ENBUのコースに集まった子たちは基本的に、地方とは言っても都市で育ったような子がほとんどだったんですね。郊外って言ったらいいのかな。彼ら一人一人と話していて、意識してるしてないに関わらず、ものすごく強い恐怖心があるんだなあと思ったんです。僕ももしかしたら同世代の人たちに対してはそうかもしれないし、「そうだよね、怖いよね。なんでこんなに怖いか分かんないけど怖いよね」みたいなことは思いました。あるときにそれが溶けると、さっきから言ってる「書き言葉」的なものが出てきたりするんですよね。それは興味深い体験でした。

──生徒と個別に話したことが、映画にフィードバックされてるところもあるんですか。

濱口 かなりありますね。実際、口にした言葉をそのままパクったところもあります。あとは単純に、今回の舞台劇に関しては、演出のツールが脚本しかなかったわけですよね。脚本を通じてしか演出できない状況だったから、その子たちが読めば、階段を下るように書き言葉的なものへ近づいていけるようには考えていました。キャスティングも決めていたので、当て書きじゃないけれども、この子にはこういう流れでとか。演劇には最終的に決定的な台詞というものがどうしても出てくるんですけど、そういうものになんとか辿りつきやすいようにっていうことでは書いてましたね。

──さっき「後で話しましょう」って言ってた愛の問題についてはもう話した感じですかね。

濱口 さっきから「書き言葉」と呼んでるものは、フィクションっていうものと近いと思うんです。それで愛というのは、フィクション的な感情なんだと思うんですよね。簡単に口にされるようなことではないし。ただ、『親密さ』の中で愛みたいなものが映像として描かれてるとか、そういうことではないと思うんです。それはやっぱり愛に至る手前の人たちの映画のような気がします。まあ、なんであれ「書き言葉」的なものが実際に生きる態度として出てくると、この人たちは生きたいように生きられるかもしれないな、役者を続けるかどうかは置いておいて、そうであってほしいなってことはずっと思ってやってましたね。

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──話し言葉的なものが生きる態度として出てくればっていうのは、言い換えると威厳みたいなものなんですかね。というのも、大江健三郎さんが小説の中で「威厳(ディグニティ)」って言葉をよく使ってたのを今思い出したからなんですけど。やっぱり映画の人物が輝いて見える瞬間ていうのも、その威厳を帯びてきたときなのかなって気がするんですよね、子供だろうが、大人だろうが、悪人だろうが、善人だろうが。今の話を聞いていて、書き言葉的なものと威厳というものが繋がってるような気がしました。

濱口 そうですね。自分の中に威厳を見出すっていうことだと思います。彼らの話を聞いて思ったのは、やっぱり自分のことを低く見積もらされてる感じはすごくするんですよね。都市に、なのか分からないけど、周囲からすごく自分を貶められてきたような感じはありました。必ずしもいじめとかそういうことに限らない、たぶん誰もがする普通のことなんだけど、それが彼らにより強く集まってしまったような印象は受けました。僕の投影かもしれないですけどね。ただ、僕も映画育ちの人間ですから、最初はブレッソン的に「おまえら演技なんか、表現なんかしちゃいけねえよ」的な(笑)スタンスを捨てられないところがあったんです。個人面談をしてるときにその子たちが「目立ちたい」とか「チヤホヤされたい」とか、そんな動機を口にしたりすると、「このバカやろう」と(笑)思ったりするんですけど。今になれば、それはすごく切実な欲望なんだと思います。他者によって貶められたものを、なんとか回復する方法が知りたくて「別の人間になりたいんですよ」ってことを彼らは言ってた気がします。そういう認識ができて以来、「別の人間になりたい」という彼らの欲望を尊重したいと思いましたね。ただ、半分はそうもいかない部分があって、結局、演じるのは自分であって、映るのも自分であるという映画の大原則があるじゃないですか。別の人になれるわけじゃないと。そこで結局、自分を肯定できること、威厳を回復することがすごく必要なんですよね。まあ、僕はなんの他意もなく、そう思ったので「君たちはほんとに素晴らしいと思うよ」と言ったりしたわけですけど、それはすごく必要とされていたような気がします。そういうことを自分に対して言えるようになったときのみ、「書き言葉」的なものとか威厳というものが回復されていくんじゃないでしょうか。イメージですけど、演出家って結構抑圧するじゃないですか。「おまえなんて何者でもないんだ」とか「おまえの表現なんて誰も見たくねえんだよ」みたいなことを言ったり。映画を作るうえでそういうスタンスはあると思いますし、それはそれで正しい回路だとは今でも思っています。僕ももしかしたらまたそういうほうに振れるかもしれない。ただ、そうするともう出てこないものがあって、実際それが「書き言葉」的なものと呼んでいたり、威厳と呼んでもらったものなんだろうと思うんですね。それが出てきたとき、それが映画に映らないかっていったら映ると、とても重要なものとして映るという風に今は思います。

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映芸シネマテーク『PASSSION』トーク(濱口竜介×荒井晴彦×稲川方人)
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『親密さ』
監督・脚本:濱口竜介
撮影:北川喜雄 編集:鈴木宏 整音:黄永昌 
助監督:佐々木亮介 制作:工藤渉 劇中歌:岡本英之
出演:平野鈴、佐藤亮、伊藤綾子、田山幹雄 ほか
製作:ENBUゼミナール
2012年/255分/HD/カラー

濱口竜介レトロスペクティヴ @オーディトリウム渋谷
8月2 日(木)21:00『親密さ(short version)』※英語字幕付き
8月3 日(金)21:00『三重スパイ』
+トークセッション 濱口竜介 × 梅本洋一(映画批評家)
8月4 日(土) 21:00『PASSION』
+トークセッション 濱口竜介 × 森下くるみ(文筆家)
8月5 日(日)21:00『なみのおと』
8月6 日(月)21:00『THE DEPTHS』※英語字幕付き
8月7 日(火)21:00『Friend of the Night』『はじまり』『Nice View Second Edition』
+トークセッション 濱口竜介 × 加藤直輝(映画監督)
8月8 日(水)21:00『永遠に君を愛す』『記憶の香り』
+ライブ 岡本英之 with 長岡亮介(ペトロールズ)
8月9 日(木)21:00『何食わぬ顔(long version)』
+トークセッション 木村建哉(映画研究者)× 岡本英之(ミュージシャン)
8月10日(金)21:00『THE DEPTHS』※英語字幕付き
+トークセッション 濱口竜介 × 黒沢清(映画監督)

【『親密さ』オールナイト上映スケジュール】
8/3(金)、 8/4(土)、 8/10(金)各日24:00〜4:30『親密さ』(途中休憩あり)

濱口竜介レトロスペクティヴ公式サイト http://www.hamaguchix3.com/index.htm

posted by 映芸編集部 at 17:38 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする