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2012年10月17日

映芸シネマテークvol.13『スーパーローテーション』
斎藤久志(本作監督)×井土紀州(監督・脚本家)トーク

 6月8日に行なわれた映芸シネマテークでは、斎藤久志監督作『スーパーローテーション』を上映しました。本作は日本映画学校俳優科の卒業制作として作られ、物語としても俳優学校に通う生徒たちの日々が描かれています。そうした映画の設定も相まって、ゲストの井土紀州さんとのトークでは、斎藤さんの映像文体や演出術について、また俳優という不可思議な存在についても話が及びました。
(進行・構成:平澤竹識)

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中央=斎藤久志、右=井土紀州

斎藤 映芸シネマテークが今日で終わるらしいんですが、思い起こせば、映芸マンスリーの第一回目がそこにいる川瀬(陽太)が出てた『ホワイトルーム』(06)でした。俺の映画で始まり、俺の映画で終わるというのは美しいなと思う反面、俺の映画を掛けてくれるところがなくなるということかなと寂しい思いもあります。今日はありがとうございます。

──井土さんは日本映画学校の発表会で既にご覧になってたそうですが、そのときの感想からお願いできますか。

井土 「いいものを見たなあ」という印象でした。たぶん斎藤さんなりの映画的な記憶とか、そういう断片を使っているんだろうけれど、最終的に「斎藤久志の映画だなあ」という風にしみじみ思った(笑)。言い方を変えれば、斎藤久志という監督が持ってる映画の文体ですね、その文体だけがずっしり残る映画だったと、そのときは思いました。

──いま公開されている『ふたりのシーズン』(12)という作品を演出するに当たっても『スーパーローテーション』から刺激を受けたとおっしゃってましたよね。

井土 はい。僕が映画を作るときは一応、僕なりに緻密に準備して、カット割りも決めて、その中で芝居を作る。自分の演出プランに従って芝居を組み立てるというか、そこでどうやって観客をドラマとかストーリーにいざなっていこうか、ということを考える。そういうことに躍起になるわけです。その前の『彼女について知ることのすべて』(12)という映画では、そのことを考え抜いて撮った。ただ、観客という存在を意識しすぎて、そこに縛られたところがあるんですね。だから、その流れで斎藤さんのこの映画を見て、もちろん俳優科の卒業制作という枠ではあるけれども、斎藤さんは“そこで起こること”をどう撮るかっていう風に考えてるんだなあっていうことを感じたんです。逆に言えば、斎藤さんが予習復習をしないというわけではないと思うんですけれども、僕は予習に時間をかけすぎて、肝心の本番での熱というか、現場で起こることについて淡白になってるんじゃないかと。「現在性」って言うんですかね、“今そこで起こってること”をどう撮るか、それを大切にしてみたいって思ったんですね、僕が受けた刺激というのは。

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──斎藤さん、今の話を受けてどうですか?

斎藤 これを受けて?(笑)

井土 じゃあ、もう少し話しますと(笑)、具体的に言うと、みんなとキャンプして帰ってきたヒロインが、アパートのポストの前で郵便物を見てから階段を上がっていく。僕だったら、その後も彼女の視点を崩さないと思うんですよ。

斎藤 彼女から入るってこと?

井土 はい。

斎藤 撮ってるんだよ。

井土 撮ってるんですか。それを編集で外すんですか?

斎藤 外しましたね。わざわざ移動で撮ってるんだけど、なんか邪魔だったんだろうね。いや、基本的に説明カットは撮ってないんだけど、いくつかそういう繋ぎのカットは撮ってたんだよ。でも、なんだろうな。あれが一回あっちに行くのが変だってことだよね。

井土 変と言うよりも、「むだに混乱する」って思っちゃうんです。あそこで視点が切り替わって、急に男がポンと画面の奥に座ってるところから始まって、彼女がそこにフレームインしてくる流れだと、「あれ、この男、誰なんだろうな?」「一緒にキャンプしてたやつかな?」と考えてしまう。それだけに限らず、キッチン向けの長廻しがあるじゃないですか。あのシーンは素晴らしいと思うんですけど、あそこもいきなり室内から入りますよね、それで彼女がクラスメイトの男の子と話してる。だから、最初に人物関係が入ってこないんですよね。でも、それを捨ててでも斎藤久志が掴もうとしてるものって何なんだろうなってことを、最初にこれを見たときに考えざるをえなかったんです。

斎藤 それは結構言われてることで、例えば、あの女の子の話ならば、あの女の子から入るのが常套手段じゃない。でも、それはホンの段階から、ホンを書いてくれた加瀬(仁美)さんとの間で、「誰が主人公か分からない集団があって、そこから一人の女の子が主人公になっていく」ということをやろうと思ってはいたんだよ。それがあんまりうまくいってないから、余計な混乱を起こさせるんだろうと思う。この人とこの人が同一人物に見えないっていう現象も人によっては起きるんだと思うんですね。それは、そういう風に撮ってないんで、「なんで撮ってないのか」って言われると・・・。

井土 いや、「なんで撮ってないんだ」って言いたいわけではなくて、不思議なんですよね。だから、斎藤さんは“作家”だと思うんですけど、そのわりに「あ、計算してるな」と思うのは、室内の長廻しで、彼女とクラスメイトの男の子がドアのほうに行くときに、一回キャメラが元彼のほうから切れそうになるじゃないですか。これは普通切るんだろうなと思ったら、キャメラの動きに合わせて元彼がベッドの手前のほうに移動する。それだけなら単に、キャメラのフレームに合わせて役者を動かしたんだなと思うんだけど、そこはちゃんと「ティッシュを取って鼻をかむ」っていう芝居として成立させてるんで、斎藤さん、こういうこともやるんだって思ったんですけど。

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斎藤 話に水を差して申し訳ないんだけど、キャメラの指示は一切してないんですよ。ここはワンカットでいこう、ズームを使おうということはキャメラマンと話してますが、現場でもモニターは一切見てない。水口(智之)って今回一緒にやったキャメラマンは、その前に『ホワイトルーム』でも一緒にやってて、どっか信用してるキャメラマンだから、できたらそうしたいんだよね。自分が思い描いてる画(え)を超えてほしいという思いがあるんで、そこは委ねてる。そういう意味では、井土が言ったように、変な噛み合い方をしてるのが、俺としては少し気持ち悪いんだよ。

井土 じゃあ、あれは水口さんが元彼役の男の子に「パンすると切れちゃうから、ベッドの手前に動くように」みたいな指示を出してたんですか。

斎藤 いや、水口は自分の画に合わせて俳優を動かすような指示は絶対しない人なんだよね。だから、あの一連が意図的に見えたのは全くの偶然。ましてやプロの俳優じゃないから、元彼の男が鼻をかむっていうのも、毎回同じことはしない。あれも何テイクも廻してる中の一つなんだよね。裏をバラすような言い方になるけど、もっと水口の狙い通りにいろんなことが噛み合ってるOKテイクがあったんだけど、合いすぎるとやっぱりつまんないんだよ。だから、キャメラだけの問題じゃなく、芝居のことも含めて、いろんなタイミングがずれてるテイク1かテイク2を敢えて使ってる。その意味で言うなら、どうすればその瞬間のライブ感を出せるか、「ドキュメント」にできるか、というのは自分が映画を作ってるときにいつも思ってることかもしれない。

井土 鼻をかむっていう設定はずっとあったんですね。

斎藤 あれは台本上に書いてある。

井土 なるほど。じゃあ、あそこはキャメラワークと芝居が奇跡的に噛み合ってるんですね。

斎藤 例えば、サッカーグラウンドのシーンなんかも、あのテイクしかあの光がないっていう。

井土 あの光はいい光ですね。

斎藤 で、水口に「うまくいったよね」って言うと「いやあ、光がいいんですよ」っていう、そういうタイプのキャメラマンなんだよね。まあ、井土のやり方と少し違うかもしれないけど、俺自身、芝居を追い求めるほどテストが重なったりテイクが重なったりして、一番いい光の瞬間を撮れなかったことが山のようにあるし、たまたま噛み合うこともあるし。それが今言ってくれたように、うまくいってると思ってくれたらいいんだけど、あれが嫌だっていう人もいるかもしれないし。だから、映画の“狙い”とか“作為”ってなんだろうね。映画はモンタージュということができるんで、“芝居”だけではなく“ショット”でも作られる。そのショットというのをもうちょっと味方にしないと、自分の映画の拡がりがなくなるのかな、という気はする。だから、必ず最初の編集ラッシュのときは一回愕然としますね、「なんでこんな映画になっちゃったんだ」っていう風に。そこからどうしていくか、という作業ではあるのかな。

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斎藤久志

井土 やっぱり編集に時間かかりますか?

斎藤 たぶん、あんまり考えてないんだろうね。だから、編集でまたなんか考えないといけなくなるという感じはする。

井土 あと、今回は二回目で流れを分かって観てるから気づいたんですけど、サッカーのシーンの後にもう一回キャンプのシーンが入りますね。一番みんなが伸びやかになってて、川に飛び込むっていうところを時制を無視して編集でぶつけてるじゃないですか。あのつながりが非常に気持ちがよかった。

斎藤 キャンプじゃないんだけどね。

井土 そうなんですか。じゃあ、あのシーンは何なんですか?

斎藤 あれは前を全部落としちゃってるんだけど、芝居の打ち上げなんだよ。打ち上げで騒いでるっていうシーン。

井土 あ、そうなんですか。

斎藤 だけど、そんなもん分かんなくても、それは井土が感じてくれた感触でいいんだけれども、要は彼女が田舎に一回帰って落ち込んでるという状態があって、そこから元彼の友だちの家を訪ねていくシーンに繋ぐと、いい感じでスッと気持ちが流れるんだよ。ただ、編集は脚本を書いた加瀬さんの強い抵抗も含めて、彼女の感情が“いい子”というか普通に見えるのが嫌で、ある種、彼女が傷ついてはいるんだけど、東京に帰ってきて普通の状態に戻ってるという風に一回リセットしてから、元彼の友達の家に行きたいと。まあ、ホンは元々そうなってたんだよね。

井土 じゃあ、冒頭とは全然違う日の出来事なんですね。

斎藤 服が似たような服を着てるからね。「ああ、そう思われたか」って今ちょっとショックなんだけど(笑)。喋るとしょうがないよね。「そうなんです」って逃げると、後で誰かに怒られるかもしれないし。

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井土 ちなみに『スーパーローテーション』っていうタイトルはどういう意味合いなんですか?

斎藤 それは単純に、本編でメインタイトルが出て音楽が鳴ってるときに、眼鏡をかけた男が説明してること。金星の上で自転速度より速い風が吹いていると、その風のことをスーパーローテーションって言うんだけど。

井土 それをこの一人の女の姿に重ね合わせたということですか。

斎藤 真意は脚本の加瀬さんに訊いてもらうしかないんだけど、なんか分かるようで分かんない感じがいいかなと思ったんだよね。「ヘビーローテーション」と間違えて見にこないかなとか(笑)。

──斎藤さんがこれと同じようにENBUゼミで俳優コースの子たちを使って撮った『最初の七日間』(08)っていう映画がありますよね。それは、その子たちが元々持ってるキャラクターを活かして、ドキュメンタルな形で撮られてたと思うんですけど、今回はそこに嘘っぽいというかフィクションぽい映像が紛れ込んでるじゃないですか。ヒロインが元彼を殴るアクションの撮り方なんか特にそうだと思うんですけど、結婚式で女の子二人がカラオケを歌うところにもそういうニュアンスを感じて・・・。

斎藤 カラオケのところが嘘っぽいってこと?

──嘘っぽいというか、切り返しも使ってないんで、フィクションぽい空間、時間の切り取り方に感じたんですよね。そういう箇所が所々にあって、ラストの移動車のレールがばれちゃうカットに収斂していくように見えたんです。そういうフィクショナルな映像を混ぜた意図というのは何だったんですか。

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斎藤 べつに混ぜてるつもりはないんだよ。『最初の七日間』のホンを書いてくれたのは、成冨(佳代)さんていう映画美学校の教え子なんだけど、ENBUの授業は俳優のワークショップを5〜6週間続けて、最終的に映画の作品を撮る。だから、成冨さんにもワークショップの間に来てもらって、そこからホンを立ち上げていった。でも、今回はそういうことを一切やってないんですよ。ホンを書いてくれた加瀬さんに俳優のプロフィールは渡してますが、本人たちには会わせてない。まあ、後にプロフィールを見て、「こいつはサッカーをやってるから」ってサッカーのシーンを足したりとかは多少ありますけど、それ以外は加瀬さんが作った世界観なんです。だから、加瀬さんのホンの狙いとしても、フィクショナルこととリアルなことみたいな話は作ってない。ただ、俺自身は俳優学校の生徒っていう設定が引っくり返らないかなという気はしてたんですね。それはホンが持ってる本質的なテーマとは違って、描かれたものが結果どうリアルに見えるかということ、それが映画そのものの勝負所ではあると思うんで、それをどう作れるかというのは考えてたんですよ。俳優科の生徒を使わざるをえないという中で、ただ“俳優科の思い出作りの映画”を作っても彼らにとってプラスにならないし、“自分の映画”を作ろうと思ったときに、そのことをどうすれば武器にできるのか、小栗旬や妻夫木(聡)みたいな人たちじゃなくて、彼らが出てることが力になるような映画にどうすればできるのかっていうことはずっと考えてた。それが平澤なんかに、そういう風に見える部分だと思う。まあ、元々ホンの段階からスタッフ間でも、あの殴るところはどうなのっていう、あそこと後半で話が分離してるよって言われたんだけど、アクションをやりたいというのもスケベ心としてはあったのかもしれない。でも、俺が下手くそだからリアルに見えないだけで、嘘っぽいことをそこにぶち込むという狙いではないんだよ。こうやってネタばらすとどんどんつまんなくなるか(笑)。

井土 そんなことはないんじゃないですか。あとは、映画監督の安藤尋さんが出てきて、映画論を一席ぶつじゃないですか。まさにそこで「俳優じゃなくて素人がいいんだ」っていう風なことを言われてますけど、斎藤さんご本人はどうなんですか。

斎藤 そのことで言うと、俺はこれから俳優になろうとする彼らを使うときに、大人の役はプロを使ったほうがいいだろうって思ってたんですよ。だから、主人公のお父さん、お母さん役と安藤がやった講師役は、最初はプロを想定してたんだけど、あるとき「これ、安藤さんがいい」って加瀬さんが言ったんで、「あ、なるほどな」と。主人公の両親役をやってるのも、シナリオライターの小川智子さんとそのご主人なんですけど、それもほんとの夫婦だから、なんかリアルな感じが出てると思う。そういう風にこの映画を括ったほうがいいのかなって思ったところはあったんだよ。まあ、俺も元々が自主映画の出なんで、素人がいいっていう側面もあるし、プロとやるプラスアルファもあると思う。だから必ずしも「役者が嫌いだ」っていうわけではないんだけど、ブレッソンのように俳優を「モデル」として扱う、それもどっかで理想ではあるんだと思う。ただ、有名なタレントが出てることが映画の力になる部分もあるし、一概にはどっちという風には思ってないかな。

井土 例えば、今回のようなスタイルの苦しいところは、「もう少し粘れたらよかったんだろうな」って思う部分が出てきてしまうことだと思います。僕も同じように映画学校の俳優科の人たちとやったけど、ヒロインの女の子はすごく輝いてくる。ある意味、素人に近い子がやってる域を超えて、ほんとの意味でキャラクターを生きだしてくる感じがあるんです。それに比べると、たぶん撮影の日をずっと待っていて、ガチガチになって芝居をしてる子、例えばドラッグストアで会う同級生。彼なんかは、どこか“芝居”してるように見える。自然な会話というより、台詞を言ってるような感じがしてしまう。こういうスタイルだったら、ああいうところにプロの俳優がいて、そういうシーンをうまく成立させる手もあったんじゃないかと思ってしまいます。

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井土紀州

斎藤 それはプロだからどうこうではなく、やっぱり現場の空気感とかチームができてる中に初めて俳優が一人で来るっていうのはすごく難しいことなんだよ。

井土 プロの俳優さんでもそう言いますね。

斎藤 聞いた話だけど、永島暎子さんは自分の出番の3日ぐらい前から現場にいるようにしてたらしいし、そういう俳優さんもいるじゃない。それはだから、誰がやっても難しいことで、そういう風に感じさせたならば、俺の演出がうまくいかなかったんだと思う。フィルムに定着した以上、役者の芝居がダメって言われたら、責任はこっちにあるんですよ。

井土 それは僕も作り手として同じ気分なんですけど、べつに斎藤さんに自己批判を迫ってるわけではなくて。つまり、主役でずっとやってきた子の輝き、これは否定しがたくある。実際、ずっと付き合ってやってくと、3日目、4日目ぐらいから変わってきますよね。それに対して、ドラッグストアの彼とかになると、こっちは芝居をものすごく緊張してやってる。芝居って、リラックスしてやれるってことがいかに大切かということを言いたいんです。

斎藤 ドラッグストアで会う同級生の役をやったあいつは、オーディションでホンを読ませたときにすごくよかったんですよ。なんも考えてなかったから。それが、ちょっとホンの面白さが分かっちゃったんだよね。そうすると、なんか考えて芝居しちゃう。それをリハーサルで剥ぎ取ったんだけど、完全なところまでは行けなかった。もう一つの例で言うなら、最後に出てくる自転車のやつはリハーサルしないでやったほうがいいだろうということで、ほぼぶっつけで撮ってるんだよ。放っとくと余計なことするやつなんで、「何もするな」って言ってやるっていうことが、結果うまくいってると思うんだけど。

井土 彼はすごくいいんじゃないですか。

斎藤 その匙加減が難しいんだよね。一応、彼らのなんとなくの感じを見つつ、こいつはいじっといたほうがいいとか、一切やらないほうがいいとか、もっと押したほうがいいとかっていうことがあるんだと思う。それってなんだろうね、単純に芝居とか演出だけの問題じゃなく、衣裳とか髪型を変えるだけでその気になる部分もあるし。「こういう役になれよ」ってことではなく、そういう風に自然になっていくことをどう仕向けていくのか、そのことに終始してる感じはあるのかな。

井土 それが斎藤さんにとって究極の演出なんですね。

斎藤 そうですね。だから、できれば何にも言わないで「よーい、スタート」「カット、OK」って言えるといいんだけどね。まあ、芝居って噛み合わせだから、相手役によっても変わってくるし、ロケーションの天気でもニュアンスが変わる。この空間があって、景色があって、どういう風に持っていけば、俳優がそこに“いれる”ようになるのか。それは100人監督がいたら100のメソッドがあるわけで、たぶん『サウダーヂ』(11)の川瀬さんは富田(克也)メソッドで生き返ったんだろうし、俺なんかダメだったと思うんですが・・・目の前にいるからいじってみたんだけど(笑)、じゃあ川瀬が俺にとってダメかっていうと決してそうではないし、俺は川瀬っていう俳優がすごく好きだし、不思議なんですよね、俳優って。

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井土 うん、不思議ですね。

斎藤 その流れで言うと、映画学校の生徒が撮る実習に川瀬を何度も呼んでるんだけど、真面目に芝居しないとほんとにいいんだよね。『ホワイトルーム』のときも思ったけど、全ダブリで切り返しを撮ってたときに、キャメラを川瀬向けにするとダメなんだけど、逆向くと「なんだよ、こっちの芝居のほうがいいじゃん」っていう。

井土 切り返しを撮るときに、オフになっている方の芝居がいいということは多いですよ、役者さんに限らず。やっぱりリラックスしてるってことですよね。

斎藤 そうそう。「それしろよ」って思うんだけど。

井土 僕は、役者さんに「リラックスしてください」って言ったら、すごく怒られたことありますよ(笑)。「できるもんだったらやってるよ」って。

斎藤 だから、そんなのできっこないわけだよ。2〜3日前に、柄本(明)さんが日本映画大学に来てくれて授業をやったんだけど。「『普通にしろ』って、普通の状況じゃないのにできるわけないだろ」「『普通にしろ』って言ってるほうが頭おかしい」っていう柄本さんの言い方があって、それはその通りなんだけど、柄本さんも自分で演出してるときは「普通にしろ」って言うらしい。だから結局、リアルっていろんなリアルがあるだけで、例えば是枝(裕和)さんとか諏訪(敦彦)さんがやってるような「リアルな」空気感もあるじゃない。それって変な言い方だけど、ドキュメンタリー映画に出てる登場人物のリアルみたいな感じがするんだよ。キャメラが廻ってるところで緊張してる人間のリアルな空気感みたいな感じで、それってリアルじゃないようにも見えたりするし。まあ結果、井土が監督したら井土のリアルだし、俺が監督したら俺のリアルでしかないのかもしれないけど、どこまで自由にさせて、どこまで縛ってというバランスはとても難しいような気がする。

井土 一つ後輩としてお訊きしたいんですけど、長廻しで撮るじゃないですか。僕、いつも思うんですけど、長廻しで撮ると、役者さんも徐々にスイッチが入ってくるんですよね、後半のほうがよくなってくる。素人の場合は特にそれが顕著で、立ち上がりがいまいちだったりするんですけど、斎藤さんってそこに対しての戦略って何かあります?

斎藤 俺はもしかすると井土の10倍ぐらいテストしてるかもしれない。

井土 テストを繰り返せばいいんですか。

斎藤 「立ち上がる」という次元を超えた「麻痺」みたいなところ、もう何してるのか分かんないぐらいのところまで持っていこうか、ぐらいは思ってるのかな。

井土 斎藤さんにとっては、そういうやり方がベストですか。

斎藤 人によりますね。だから、全部が全部そうやってるわけではなくて、サッと撮ってるときもあるし。ただ、必ずしもうまくいかないよね。それは井土もあると思うけど、キャメラを廻し始めて、芝居がちょっと立ち上がると、もう一回いこうと思って、もう一回やると落ちるときがあるじゃない。

井土 ありますね。

斎藤 そのときに、そこでOKは出せないじゃん。ちょっと意地になるんだよね。しかも下手にOKって言うと役者に分かるでしょう。「あ、諦めたな」っていう。そうすると、どんどんドツボにはまることもある。それに関しては、今村(昌平)さんの言葉を俺は思ってて、「ある次元を超えると神が宿るんだ」って。だから「あ、神が宿るんだ」っていう風に俺は思ってるんだ(笑)。

井土 なるほどね。斎藤久志の考えてる演出って何なんだ、ってことに迫ってみたかったんですけど、やっぱり現場でテストするしかないんですかね。

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斎藤 映画の学校で井土もそういうことを教えてるけど、演出っていうのが一番教えられないよね。

井土 それはなかなか方法化とか定式化できないから、結局、自分が見て好きだなと思えるものから養分を吸収して、自分なりに座標軸を作ってくしかないと思います。僕は『ラザロ-LAZARUS-』(07)っていう三部作の『朝日のあたる家』っていう映画ぐらいから、なんとなく自分なりの座標軸が見えてきて、それを繰り返しやってるんです。ただ、この映画を見て自分がやってきたことを軌道修正するわけじゃないんですけど、なんかもうちょっとチャレンジしてかないと、次の次元というか、今の自分から見えてない場所には行けないという感じがしました。

斎藤 でも結果、撮れてるわけだからね、そっちのほうがいいんだと思うよ。結果、俺は撮れてないわけだから。

井土 どういうことですか?

斎藤 いや、仕事があるってことがね。

井土 それはあれですよ、マンションの階段を上がってきたときに、受けのカットを使うかどうかじゃないですか(笑)。

斎藤 あの受けさえ使っとけば仕事が来るの?

井土 そこだと思います。

斎藤 じゃあ、そうしよ。

──そろそろ時間なんですけど、せっかく川瀬さんがいらっしゃってるんで一言お願いできますか。

川瀬 えーっと、二人とも好き勝手なことをおっしゃってましたけど、ほんとに監督ってのは嫌な人間だなあと(笑)。最初はテンションがいまいちなんだけど、後半からよくなってくるって、「動物実験じゃねえんだ」って思いながら聞いてました。まあ、先ほどもおっしゃってましたけど、例えば素人を使うという意味では、『サウダーヂ』という映画に出たときも悩むんですよ。彼らのドキュメンタルな志向を活かすためには、僕が“俳優”であることは邪魔なんじゃないかということも考えたんです。だから、果たして職能としての俳優というのは何なのだっていうのは、僕もいまだに分からなくて、結果よかったものを拾ってくれるのが映画だと思ってるんですね。だから、監督も探ってるんですけど、僕らも同じように探ってるんだなと。あ、一個だけ訊きたいんですけど、ラストのレールは最初から決めてたんですか。

斎藤 ホンにはないです。

川瀬 やっぱりアンタがやったんだ(笑)。はい、以上です。

──最後に斎藤さんから一言お願いできますか。

斎藤 本日はどうもありがとうございました。井土さんも、ありがとうございました。この続きは月曜日に、ポレポレ東中野で井土さんの映画で、今度は僕がトークに呼ばれて行きますんで、この話が続きます。ぜひ月曜日もよろしくお願いします。

井土 よろしくお願いします。ありがとうございました。

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『スーパーローテーション』
監督:斎藤久志 脚本:加瀬仁美 プロデューサー:加瀬愼一 山本隆世 
ラインプロデューサー:池原 健 撮影:水口智之 録音:齋藤泰陽 
美術:高橋俊秋 編集:小林由加子 助監督:西 保典 
出演:下村響子 藤原 慧 小泉将臣 安藤 尋 大竹智子 大竹 勝 倉持幸歩 
中村圭吾 小宮 咲 嶋田康平 上松大祐 芳野裕太 小澤孝輔 渡邉直城
製作:日本映画学校 2011/77分

posted by 映芸編集部 at 17:42 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする