映芸459HPトビラ.jpg

2013年07月30日

銀座シネパトス最後の支配人、鈴木伸英インタビュー

東京は銀座地区唯一の名画座として親しまれてきた銀座シネパトスが今年3月31日をもって閉館した。地下鉄銀座駅と東銀座駅の中間にある三原橋地下街にある同館は1967年、銀座地球座そして翌年名画座としてオープン。主に成人映画を上映してきたが、1988年に現在の銀座シネパトスに改称して一般映画にシフト。2009年からは3スクリーンのうちの1館を邦画専門の名画座として、ユニークな番組でファンに支持されてきた。「名画座宣言」の発案者であり、近年の名画座ブームにおおいに貢献されてきた同館最後の支配人、鈴木伸英さんにお話をうかがった。
(取材・構成:磯田勉、春日洋一郎 構成:武隈風人)

DSC_0037.JPG


――シネパトスに支配人として赴任されてから閉館まではどのくらいですか。

鈴木 シネコンの成田HUMAXシネマズからこっちに移ってきてから4年でしたかね。12年前の2001年にも1年間ぐらい支配人をやっていたことがありましたが。

――その頃はどんな番組をやっていたのですか。

鈴木 当時は3スクリーンすべてが単館系で、それが埋まらないときはムーブオーバーをやっていましたね。夜は当時から、レイトショーでロマン・ポルノなどの特集を上映していたんですが、ちょうどそのころ、「並木座」(註1)さんがなくなったあとで、日本映画の旧作の上映をやりはじめました。

――銀座地区で名画座を引き継いでいこうと?

鈴木 そこまでは、とても考えてませんでした。昼間は番組が契約で埋まっていますから、夜にカルトな名画をやっていました。

――レイトだけだとお客さんがなかなか定着しないのでは?

鈴木 レイトショーとしては定着していました。ただ成瀬巳喜男監督とかをやっても、やっぱり年配のかたたちがなかなか足を運べませんから。

――そして2009年の4月に鈴木さんはまた支配人として赴任されます。ほどなく、同年7月に銀座シネパトスは「名画座宣言」として、3スクリーンのうちひとつを邦画旧作の上映にあてる方針を打ちだしました。これは鈴木さんの発案ですか。

鈴木 12年前のときも2、3度、レイトじゃなくてモーニングショーでもやったことがあるんです。そのときお客さんから続けてもらいたいという声もあったんですけど、私が1年ですぐにシネコンのほうに戻っちゃったのでできなかったんです。
で、こちらに移ってみると昼間の3スクリーンが埋まらないことがあるので、思いきって一軒を名画座に変えられないか、という提案が通りまして始めたわけです。

――最初は「日本映画レトロスペクティブ」シリーズというかたちで、それこそ並木座を思わせる、けっこう堅い番組でしたね。

鈴木 スタートは自分としては、高度経済成長期の日本映画がいちばん元気だったころ、昭和33年(1958)の前後あたりから特集上映したいという思いでした。

――軌道に乗りはじめたのはどのあたりからですか。

鈴木 2009年の11月に森繁久彌さんが亡くなられたんです。たまたまそのとき12月から特集上映を組んでいたんですよね。チラシもすでにでき上がっていましたが、急遽、追悼というかたちに変えまして。それまでは一日に30、40人ぐらいだった動員が200人ぐらい来られて。テレビの取材も入ったりしました。

――すると、この森繁特集がターニングポイントになったと。

鈴木 そうです。それでグンと動員も知名度も上がったんです。それからはコンスタントに100人から150人ぐらいはみえるようなったんですね。

――シネパトスといえば、特撮ものの企画が人気ですね。

鈴木 12年前に支配人で来たとき、ちょうど円谷英二監督の生誕100年の年で、そのときも特集をやりましたね。最初の「平成ゴジラ誕生祭」という特集は持ち込み企画だったんですが、その当時いろんなかたたちとの話し合いを重ねていくうちにやってみようと。名画座の立ち上げですから、とにかくいろんなジャンルを企画するなかで広まっていけばいいなと思ったものですから。
そうしたら、それがことのほかすごく、鉄板というか人気企画になってしまって。最初は「平成ゴジラ」ということでどうかな、とも思ったんですけど。「昭和」で売りたかったものですから(笑)。『ゴジラVSビオランテ』(1989 大森一樹)からすでに10年ぐらいは経っていたんですよね。

――それ以降、特撮ものが番組の柱の一つになっていきましたね。

鈴木 とくにゴジラの場合は、11月3日がゴジラの日ですよね(註2)。そこは必ず、東宝さんに特別な問題がなければやろうということで。

――あとモスラの日とか、公開日にちなんだイベントをいろいろやっていますよね。

鈴木 特撮のファンのかたたちが定期的にみんなで集まって上映したいというのがあって。あとは川北(紘一)監督が頻繁に出版されたり、なにかのタイミングがあるといつも声をかけていただいて、私どもも何かあるときは、必ずウチでやらしてくださいと話していたんです。

DSC_0040.JPG

――女優さんの特集がまたひとつ大きいと思いますが。名画座宣言後、昼間の番組とは別にレイトショーの特集も始められました。その第1弾が「cool&wild 妖艶美 反逆のヒロイン」と題した梶芽衣子さんの特集。これも鈴木さんの企画でしょうか?

鈴木 そうですね、私が梶さんを大好きなものですから。そのあと、ひし美ゆり子さんや関根恵子さん(現・高橋惠子)など、「誘惑の女優列伝」と銘打ってレイトショーでやりました。とにかく一発目は梶さんでやろうと思っていたので。

――ぼくの印象では、秋吉久美子さんの特集の反響が大きかったように思いますね。

鈴木 大きかったですね。この特集は映画批評家の樋口尚文さんと一緒に秋吉さんを呼べないかなというのがありまして。トークにもいらしていただきましたけれど、「日本映画専門チャンネル」さんや「キネマ旬報」さんやらの取材も一緒に連動してできたので、企画が膨らみましたね。
秋吉さんとは最初に知り合って以来、シネパトスのことを応援していただけるようになって。秋吉さんがどうせやるならということで、いろんな媒体に持ちかけてくれたのも大きかったですね。

――樋口尚文さんとのおつきあいというのはそのあたりから?

鈴木 わたしがひし美さんや高橋惠子さんの特集を組むことを決めていたころに、樋口さんと知りあったんです。ウチが名画座宣言をしてからお客さまとして来られていた樋口さんが手紙をくれたんです。何が響いてくれたかというと、まだ始めたばっかりでしたから、休憩中のBGMに昭和歌謡をかけたりして、まあ自分の好きなものしかかけていないんですが、それがすごく樋口さんにもシンクロしたみたいで。どういう人なのかぜひお話したいという、もったいない言葉をかけてもらいまして。それで返事を書いてお会いしてから、じつはこんな企画を考えていると。わたしのほうでもゲストをお呼びしたいんだけれども、伝手がなくてわからなかったものですから。ひし美さん、高橋惠子さん、秋吉久美子さんという、お互い好きなところが合致しまして、そこからですね。
樋口さんからもいろんな申し込みやこんな企画はどうですか、といった感じで。私からもお願いするようになったり。樋口さんもすごくお忙しい人なので、つねにお願いしているわけではないのですが、トークショーのときに「樋口さんがいい」とタレントさんもおっしゃるので司会をお願いしたり。

──大学がご一緒だったと聞きましたが。

鈴木 一緒でしたね。ちょうど同い年で。でも面識はなかったです。樋口さんは早稲田大学の政経学部で、私は社会学部だったので、まったく知らなかったんです。ただ、樋口さんとは過ごした時代や範囲が重なるんです。九州の佐賀のかたなんですけど、小中学校からこっちに出て来てて、中学校は樋口さんが芝中学校、わたしは御成門中学校で、映画は日比谷の日比谷映画とか有楽座とかで観ていたので話が合うんですね。

――そこから俳優さんをゲストに招いたトークショーが定着するんですね。

鈴木 12年前に私がいたころは続けてレイトショーをやっていたんですよ。その後、いろんな支配人に代わりましたが、やったりやらなかったりしてそのうち途絶えてしまうんですね。新作のレイトショーはやるんですけど、あるときからまったくレイトショーすらやらなくなった。わたしはその後、十数年間、横須賀と成田のシネコンにいたんですが、ずっと気になっていて。もしかしてシネパトスが特徴のない劇場になってしまったのではないかと。
動員も最悪になっていたので、名画座宣言をしてからはここでもう一度シネパトスを注目させたいと思って、とにかく怒涛のようにイベントを組みました。

――映画上映に付加価値をつけると。

鈴木 どうしてもお客さんみんなに自分のセレクションを観てもらいたかったものですから。また、俳優のかたや監督の話をうかがっていると、意外と当時は舞台挨拶だったりトークショーをやられていないんですよ。それで、何年も何十年も経ったあとに――わたしが言うのもなんですが――劇場に招かれてお話して、ファンのかたがたと話すというのはすごくよい時間を過ごせた、というお話をよく聞くんです。これはもうお客さんにとっても、監督さんや出演者のかたがたにも、わたしたち劇場にとっても、みんなよい時間を過ごせる、こんなよいことはないなと思って、できるだけひとつの企画で1回のトークぐらいはしたいと思って組んできましたね。夏木陽介さんのときは3回やりました。ご自身が何回もというご希望があって。

DSC_0033.JPG

──印象に残っているゲストのかたはいらっしゃいますか?

鈴木 たくさんおられますが、なんといっても原田芳雄さん。原田さんは木村威夫監督の『黄金花 秘すれば花、死すれば蝶』(2010)で名画座ではなく封切上映だったんですが、そのときはちょうど、名画座宣言の森繁さんの特集のちょっと前だったんです。ご挨拶で「支配人、君は名画座宣言をよくやったよ」と言っていただいて、ああ知ってくれてるんだと思って。「駅前」シリーズとか「社長」シリーズとか、全部好きで観てるって話してくれました。
舞台に立ったら、『黄金花』の話はひとつもしないで、名画座宣言の話だけしてました。その後も打ち上げで飲みに行ったときもずっとその話をしていただいて。わたしは劇場に戻らなければいけなかったんですが、最後に原田さんも出てきてくれて、写真撮ろうと言っていただいて、ウチのシネパトスの前で一緒に写真を撮ったんです。だからすごくそれが印象に残っているんですよ。
原田さんから言われたわけじゃないですけど、樋口さんと話していてぜひやろうとなって、その後、原田芳雄さんの特集をやりました。

──原田さんが亡くなられたときはちょうど梶芽衣子さんの特集を上映中で、原田さんの映画もかかっていて、図らずも原田さんの追悼特集にもなっていましたね。

鈴木 なりましたね。梶さんの特集を昼間やるのはちょっと冒険だったんですけど、森繁さんの特集と同じ数字だったんですよ。すごくいい興行でした。若い人もたくさん来ていただいて。
梶さんが来てくださったのには感激しました。梶さんのほうから直接、何月何日に行くよと連絡が来て。撮影中でしたが、合間に京都から駆けつけてくれましたね。四、五日前の発表になりましたが、劇場は一杯になりました。

――あと当たっていたのが舟木一夫さんと天地真理さんの企画。

鈴木 そうですね、舟木一夫さんは3年連続やって、天地さんは2年連続で。本当はもっと続けたかったんですけど。舟木さんの場合は、劇場の前でおじちゃんおばちゃんの四人組が話をしていて、あの人もしかして支配人じゃないか、と声をかけたがっていたみたいなので、わたしから声をかけたら、ここで舟木一夫さんの映画をかけてもらえないですか、と言われて。それで話してみたら、3年後に芸能生活50周年を迎えると。それで3年前から仕込んで50周年で花咲かせたいと。すごく計画的なんですよ。そのかわり、どこで映画を上映していいかわからないし、ホールを借りるのは何百万もかかるし、一日だけは嫌だと。それで、じゃあ一緒にやりましょうよという話をして。
それまでにいろんなファンのかたや名画座で知り合った仲間との企画をいくつもやっていましたので、絶対にひとりで考える企画なんかよりもみなさんと考えたほうが、多くのかたから喜んでもらえると思っています。私なんかより全然詳しいかたたちと一緒にやったほうが、企画が膨らむじゃないですか。そういうのがあったんで、舟木さんの特集もすぐに上映しようと。日活映画で舟木さんと共演の多い女優の和泉雅子さんもウチの映画館の近くにお住まいなので、ちょうど声をかけられるなと思って。そうしたら、1年目からお客さんが来てくれて。最初はなかなか舟木さんサイドからの協力は得られなかったんですけど、2年目からは受けることができて。舟木さんがゲストで舞台に立つというのはたいへんな話なんで、それはできませんでしたけど。
天地さんも、2010年にファンクラブが再結成されまして、わたしも天地さんのファンだったので、そこにも参加していて(笑)。ちょうどデビュー40周年で還暦を迎えるということで、ファンクラブに入りましたものですから、そこのメンバーと話をして、ウチでぜひ映画を上映したいと話して。調べたところ、松竹から送られてきたプリントは2本ともボロボロでダメだったんです。じゃあ、新たに焼こうということでやりました。その時は「ドリパス」(註3)でやったんですけど、ニュープリントが焼けたのはよかったのですが、利益が出ないんですよ。ただ、盛り上げることはできて、なおかつ昨年は松竹さんも積極的に展開してくれて、ファンクラブもがんばって、全国9大都市で天地真理映画祭をやったんですね。

――シネパトスの企画から意外な拡がりが生まれているんですね。

鈴木 これがほんとうに私にとっても、やってよかったなと思う企画ですね。話は変わりますが、去年(2012年)の暮れに次の山田洋次監督の特集に向けて柴又に行く用事があったのですが、別件のイベントやら問い合わせの電話やらでどんどん行くのが遅くなってしまったんです。そうしたらちょうど通りかかったパチンコ屋から舟木一夫さんが出てきたんですよ。こんな大きなマスクをしてたけど、すぐに舟木さんだとわかって。さらに柴又に行くのが遅くなりましたけど、これも運命だと思って、舟木さんに話かけました。いくらやっても舟木さんご本人は映画祭に対してなんの反応もなくてすごくモヤモヤしていたんですが、当然、シネパトスの特集のことは知っていてくれていて。

――歌手のかたは映画ファンとはまたちがった、熱心なファンに支えられていますよね。

鈴木 舟木さんのコンサートもそれを機会に、3回観に行ったんですけが、すごく根強いファンなんだなと思いましたね。舟木さんも自分で話していらっしゃいましたが、あるときから昔を振り返って歌うというのはあまりしないというのが一時期あったらしいんですね。でもとにかくみなさんと一緒に青春時代を歩んできたから、みなさんが聞きたい曲を、ということで、もちろん新しい曲も歌うんですが、今では当時みなさんが応援してくれた曲を歌うというという姿勢なんですね。それで「毎回同じなんだよ」って言うんですよ。「毎回、同じだけど、この曲とこの曲、順番だけが違うね」みたいな、そんな話しかたでお客さんに話しかけて。お客さんももうわかっているんですよね。この時間帯に、この曲が入ったらトイレ休憩に行くと(笑)、そんなことまで決まっていて。舟木さんも「この歌はトイレタイムだから、この曲を歌ってる間にトイレ行ってきて」みたいな(笑)。
本当にみなさんと知り合ったり、名画座をやることによって私自身も新しく知ることがいっぱいあって、本当によかったな、と。新作だけをやっても、そうは広がらないですから。

――新作だとどういう系統が人気ですか。シネパトスといえばスティーヴン・セガールに代表されるB級アクションのイメージですが。

鈴木 ウチとしてもセガール、(ジャン=クロード・)ヴァン・ダムあたりの映画はつねに上映ができたらいいなとは思っていましたが、セガール・ファンも世代交代していかないというか、どうしても動員が先細っていっちゃいますね。今はどこの劇場もそうかもしれないですけど、年配のお客さまが多いので、ドキュメンタリーだとか、年配層のお客さまの好む作品が多くなりますね、やっぱり売り上げのことも考えるので。基本的にはよほどのことがないかぎり、持ちかけられたものは断らないでずっとやってきました。

――シネパトスの新作というと、アクションと並んでエロスものですね。団鬼六原作の『花と蛇』シリーズや最近だと壇蜜主演の『私の奴隷になりなさい』(2012 亀井亨)がヒットしていますね。

鈴木 そうですね。シネパトスはやっぱりアクションとエロスですね。『花と蛇』(2004 石井隆)は一番最初の杉本彩さんのが大当たりしましたから、『花と蛇2 パリ/静子』(2005 石井隆)も大当たりして。それに比べると、小向美奈子さんの『花と蛇3』(2010 成田裕介)は中ヒットになっちゃうんですけど、それでも数字としては大きかったですね。

――石井隆監督の特集をやったのはそういう縁からなんですか。

鈴木 石井監督はわたしが好きだったので、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)の公開に絡めて、よしここだ、と思って、特集をしたくて監督に声をかけました。

――名画座宣言が順調にきたところで一昨年の震災があったわけですが、震災のときの映画館の様子は。

鈴木 震災の当日はイベントが組まれてたんですね。当時は東宝ニューアクション特集を開催中で、『黄金のパートナー』(1978 西村潔)の製作進行だった東宝の高井英幸社長(現・相談役)をお招きする予定でした。ウチはそれでも上映しようかと思っていたんですが、結局、中止になりました。そのへんにヒビが入っていますけど、このあたりは土で覆われているものですから、ゆっさゆっさきても意外に物が倒れることもなかったのですが、地下のシネパトスから外へお客さんを誘導して出たら地面がものすごく揺れていました。
シネパトスの地上の看板の高いところにある時計は震災のときの時間で止まったままなんですよね。電気が通っているはずなんですが、どこか途中で断線しているみたいで、もう直せないんですけどね。

――閉館が急遽決まったのは震災の影響なんでしょうか。

鈴木 じつを言うと、私が2009年に名画座宣言をしたときから、このあとは毎年毎年更新がされるかどうかわからないよ、ということは管理のかたに言われていたんです。ただその次の年も、その次の年も、とくに更新のときに何も言われずに自然更新していたんです。ですから、安心していましたらその矢先にあの震災で、これはにわかに動きがちょっとあるな、と思いました。そのときも東京都のかたは、私が直接話したわけではないんですが、もしここの閉鎖ということがあったとしても、伝えてから2年は猶予があるという話だったんです。ですから2011年の3月に更新の話がきたときに、1年か1年半と言われて、来年(2014年)の3月か夏かということで、早くてそうなのかと思っていて。管理しているところからはそれのさらに1年後だという話もあって、高をくくっていたわけではないですが、そのまま済むかと思っていたんですね。そうしたところ、2012年の6月に来年(2013年)の3月いっぱいで更新はもうしないと言われまして。

――それは東京都が管理しているんですか。

鈴木 そうです。東京都の管轄で新東京観光というところが委託されて管理しています。ここは昔、川だったんですが、埋めたてたいまは道路の扱いなんです。その道路許可を3月31日でもう取れなくなると。危険地域ということらしいんです。
あと美観を損ねているみたいなことも言われましたけど。世界都市東京でしたっけ。そういうことでふさわしくないなんていう、その発言にはカチンときましたけど。残すべきところは残したいと思っていたんですが。しかも、ここは毎年のように橋と道路の間の補強工事をいつもやっているんですよ。だから十分補強には気をつけている場所なんですよね。だからこそ、東京都としても気をつけていたのかもしれないですけど。何かあったらいけない、ということで毎年毎年工事してきちんとやってらしたんですよね。

――更新をしないということで、閉館が決まったと聞かされたときの鈴木さんのお気持ちは。

鈴木 大ショックでしたね。自分としてはシネパトスという劇場が果たしている役割は計りしれないと思っていましたから。閉館が決まって名画座がなくなるという捉えられかたで新聞などにも大きく取り上げていただいたんですが、私としては名画座はもちろんなんですが、ウチの単館劇場としての役割が果たせなくなるということは、映画界にとってもひじょうに苦しいというか、発展が止まってしまうんじゃないかと思いましたね。

――たしかに、シアターN渋谷も2012年12月に閉館して、この手の規模の単館上映作品をかけられる場所がどんどんなくなってきていますよね。

鈴木 シネパトスはまた場所がよいので、この銀座というところに意味があったんですよね。

──洋画だと『ボーダー』(2008 ジョン・アヴネット)や『陰謀の代償 N.Y.コンフィデンシャル』(2011ディート・モンティエル)といった、ロバート・デ・ニーロやアル・パチーノが出演している渋い映画を拾ってくれるので、映画好きにはすごく助かったと思います。

鈴木 劇場公開にならないんじゃないかと思ったものを積極的にやったりしましたし。ウチなんかは本当に何でもアリだったので。すごく配給会社さんも重宝してくれたし、そういう映画を上映する劇場はウチがなくなったらどうするんだと思いますね。
悔しい思いはありますよ。もう、いろんなかたたちといい時間を過ごせたので。わたしは今50歳なんですが、この歳でこんな贅沢な3年間を過ごせることなんてなかなかないんじゃないかと思うぐらい、いろんな経験をさせてもらって。それは自分の個人的なことかもしれないですけど、お客さんもせっかく定着してきましたし、名画座もあり、B・C級作品もあって、というこのシネパトスという場所がなくなるということがちょっと信じられなくて、ほんとうに悔しかったですね。

――川谷拓三さんの特集なんかはここでしかできないものですよね(笑)。

鈴木 息子さんの仁科貴さんが2011年の「SUSHI TYPHOONまつり」で上映した『極道兵器』(2011 坂口拓、山口雄大)に出演されていて、劇場にしょっちゅういらしてて、わたしとしては川谷さんの特集をやりたいと思っていたので声をかけたんですが、そしたら「そんなのやってもらえるの」みたいな感じだったんですけど、ぜひともやりたいと思って。

――思い出の番組はなにかありますか。

鈴木 そうですね。さっき言った、単発でしかやりませんでしたけど、天地真理さんや舟木一夫さんの企画はファンのかたと一緒に作り上げたという思いがありますので。もちろん樋口尚文さんとの企画もいっぱいあって、思い出には残っているんですけれども、舟木さんの特集は昔、大井武蔵野館でやっていましたけど、真理さんの特集なんてまず絶対ないですし。真理さんも最後、舞台に上がってくれましたから、よかったなと思って。ファンのかたたちと一緒に作り上げた企画がいくつもあるんですね。それが思い出深いですね。

DSC_0041.JPG

───閉館までの三か月間について振り返っていただきたいのですが、2012年の12月から年が明けて1月にかけては「新春!みんなの寅さんまつり」でしたね。

鈴木 「寅さんまつり」の初日(2012年12月15日)のゲストが初代マドンナで、二月にお亡くなりになった光本幸子さんだったんです。ゲストとしてご挨拶していただいて、すごくお元気だったのが、それからふた月くらいしてから亡くなられたので、とても印象に残っています。光本さんにはすごく優しくしていただきましたし、イベントにいらしたお客さんみなさんが「男はつらいよ」が大好きな人たちばかりだったので、喜んでいただけたのが嬉しかったです。

──元旦は佐藤蛾次郎さんがゲストにいらして、歌まで披露されたそうですね。

鈴木 蛾次郎さんのお店に伺って、いろんな写真を見せていただいたり、それをシネパトスに飾らせてもらったり、蛾次郎さんが作ったお酒の酒瓶とかを持ってきてもらったりしていただきました。光本幸子さんのイベントも蛾次郎さんと一緒に行ったんです。そして「寅さんまつり」では、何よりも柴又のみなさんにすごくお世話になりました。帝釈天の題経寺の広報の方とか、寅さんミュージアムの方だとか、参道商店街のお店のご主人たちにお世話になって、柴又と銀座を30往復ぐらいしましたね。だから、ほとんどもう顔見知りになって、みなさんが本当に渥美さんのことを好きということがわかったので、これはもうきちんと特集をやらなきゃいけないぞと思いました。それはゲストのみなさんも同じ想いだったと思います。

──そのあと、2月から3月末までの「銀幕の銀座」という特集は、閉館が決まってから、最後に銀座の映画の特集をやろうということで企画されたのですか。

鈴木 そうですね。閉館がほぼ間違いないだろうと思われたのでやることが決った企画です。ただ、これも閉館が決まる前から、いつか必ずやらせてもらいたいと映画評論家の川本三郎さんにお話しはしていたんです。「銀座百点」での川本さんの「銀座が映画の主役だった」という連載を読んでおりましたし、川本さんの文章って実際にその映画が見たくなるじゃないですか。銀座にある名画座の支配人としては観ていない作品も非常に多かったので、個人的に観たかったですし、もう心の中ではいつかはやることは決めていたんです。たまたま、それが閉館の時にふさわしいということで、やることに決りました。

──和泉雅子さんと川本さんのトークがありましたね。

鈴木 川本さんが和泉さんとお会いしたことがないということだったので。和泉さんが山内賢さんとデュエットした曲を映画化した『二人の銀座』(67 鍛冶昇)が川本さんの大好きな映画なんですね。和泉さんはシネパトスの近所にお住まいなんですよ。舟木一夫さんの特集で何度も来ていただいたりして、私がシネパトス前の地下通路を歩いているときにフワーッとした顔をしていると、通りがかった和泉さんが元気出しなさいよと尻を叩いてくれたりもしたんです。シネパトス閉館を悲しんでいただいていて、銀座の町内会にシネパトスのチラシを配る話も、和泉さんがきっかけを作ってくれたんですよ。ふつうは銀座町内会にチラシを広く撒くのはなかなか大変なんですけど。トークショーは最高でしたよ。映画の話だけではなくて、銀座をよく知る川本さんも知らないような昔の銀座の話を「ここは昔はこうだったんだよ」って和泉さんがいっぱいしてくれて、すごく盛り上がりました。

──最後の一か月は二館を名画座にして、銀座映画の特集と並行してお客さんからのリクエスト特集もやりましたね。いちばん票が集まったのはどの映画だったんですか?

鈴木 不思議なことにほとんどバラバラなんですよ。作品に対するみなさんの想いはいい意味でひとつにならないのかなと(笑)。 それでも、多かったのは『砂の器』(74 野村芳太郎)、『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』(69 石井輝男)あたりでしたね。

──これはシネパトスのお客さんへの最後のサービスということで、催された企画ですか。

鈴木 そうです。みなさんのいろんな声を聞いて名画座を作っていたつもりではいるんですけども、最後にそれらに応えられたらいいなと思いまして企画しました。劇場にはいつもお客さまのご意見の募集箱を置いてあったのでそれも参考にしましたね。

──最後の「イベント」として、樋口尚文さんが監督した『インターミッション』という新作映画の公開がありました。映画館の閉館記念映画というのはおそらく初めてではないでしょうか。これはどういう経緯で作られたのですか。

鈴木 樋口尚文さんに閉館の話をしましたところ、たいへん驚かれまして。ほんとうに早かったんですよね、樋口さんはわたしが話したその場で言ってましたね、シネパトスの映画を作ると。最初は「(閉館だなんて)そんなことがあっていいのか」と憤っていたのが、その場でまったくアイディアがないなかで「シネパトスを映像に残そうよ」って言ってくれたんです。

――ドキュメンタリーではなく劇映画のかたちで映像で残そうと。

鈴木 「シネパトスがなくなっちゃうなら映像に残さなければダメだよ」という話から始まって、まだ内容がまったくないなかから、話したその数分後ぐらいにはもうイメージされたようで、そういったことを話されて。また会ったときに「配役なんかもシネパトスに所縁のある人に声をかけて、できるかわかんないけどやってみよう」と。でも、「ノスタルジックな『ニュー・シネマ・パラダイス』(88 ジュゼッペ・トルナトーレ)みたいなのは嫌だから、シネパトスは“あさきゆめみし”というか、なんでもありなんで、明るくはっちゃけて終わろうよ」と、「そういうのをイメージしているんだ」というお話だけでしたね。

――映画を作ると聞いたとき鈴木さんはどう感じましたか。

鈴木 何かわからなかったですね。ほんとうにできるのかなと思って。樋口さんは電通のCMディレクターでしたし、自主映画作家として「PFF(ぴあフィルムフェスティバル)」に入選されていたことも知っていましたから、これはできるんじゃないかと。そのうちに、これほどの終わりかたはないなと思いました。終わりかたってのも変ですけど、ふつうにセガールとかを上映して終わるんじゃなくて、ウチを舞台にした映画が最後にかかる、しかもウチの客席が映り、そこに座っているお客さんがその映画を観る、という内容ですから。
最初に樋口さんからうかがったときはそれほど固まったイメージは持っていなかったんですが、完成した映画を観たらノスタルジックな映画じゃないですし、ひじょうに感動しました。ほんとうに手前味噌の話になってしまうんですけど、ウチとしては最高の終わりかただったと思います。

――製作費はどうされたんですか。

鈴木 樋口さんの全額自費です。どうなっちゃうかな、と言ってましたけど(笑)。キャスティングも全部樋口さんが、しかもこの短期間で決めてくださって、ものすごいネルギーだと思いました。
だからわたしたちシネパトスのスタッフなんかは撮影中、恥ずかしくなっちゃいましたね。これだけシネパトスを愛している監督と、俳優さんや照明さんなどのスタッフのかたたちの愛情たるやシネパトスに勤めている人間以上といって語弊があるかもしれないですけど、ウチの会社にいる人間、全員にこの姿を見せたかったですね。みなさんチームワークもよくほんとうにすばらしいかたたちで。

――豪華なキャストが実現していますね。

鈴木 そうですよね。キャストがどんどん増えていってどう樋口さんはさばくのかなと思って。そのときはまだ脚本も読んでいなかったので。樋口さんが自分で声をかけて口説いたわけですよね。半分以上はトークのゲストで来られたかたばかり。
竹中直人さんはトークもそうですけど、ふだんからしょっちゅう映画を観に来ていただいていました。シアタークリエで舞台やっているときも、その最中に来てくれていたんです(笑)。あんなに台詞の多い役をやりながら、その間に来られるのかと思って(笑)。ほんとうに映画好きなんだなあと。

──『インターミッション』をめぐってはさまざまなイベントが開催され、またメディアにも取り上げられるなど、大きな反響がありました。その渦中にあって、鈴木さんはどうお感じになられましたか。

鈴木 言いかたは悪いですけど、もう最後のほうは何が何だかわからないという感じでしたね。私の中では『インターミッション』が一人歩きしているという感じがしていて。売り上げもシネパトスとしては大ヒットですよね。監督も精力的にすごく動いていただきましたし、お客さんにも盛り上げていただいた。そういうシネパトスをずっと愛していただいたお客さんたちの熱意であそこまで押し上げてもらいました。

──トークゲストのかたがたもすごかったですよね。小山明子さんも香川京子さんもいらして。

鈴木 もうありえないですよね。香川さんからは何か協力できることがあればぜひに、と言ってもらえましたし。ふつうじゃ考えられないですよ。小山さんも大島渚監督が亡くなって、舞台もあって本当にお忙しい大変な時期でしたが、樋口監督と家族のようなおつきあいをされているのでいらしていただいて。水野久美さんにもゲストに来ていただき、ありがたいことでした。

──畑中葉子さんもゲストにいらして、鈴木さんとご一緒にデュエットしたと聞いたんですが。

鈴木 「カナダからの手紙」をデュエットさせていただきました。もう本当に最高の思い出ですよね。私の若いときのアイドルとこうやっておつきあいできるなんて……香川さん、水野さん、小山さんたちの映画をずっと見てきた自分としては本当に信じられない光景でしたね。たまたま私は最後の支配人をやっていただけなのに、全部シネパトスのおかげですよ。

DSC_0038.JPG

──シネパトスでやり残したことはありますか。

鈴木 シネパトスが3月31日に閉館してから一か月くらいは片づけを一人でせっせとやってたんですけど、シネパトスがあればこれができたなとか、こういうこともやりたかったなとか、でも、もうできないかなと思って、寂しいやら悔しいやらみたいな考えの繰り返しをその一か月くらいはしてました。今年はブルース・リーの『燃えよドラゴン』(73 ロバート・クローズ)の公開から40周年だから、イベントやりたいなとか。そんな妄想ばかり抱いてましたね。でも、私は現在、ヒューマックスの本部の営業グループというところにいるんですが、そのなかで何かイベントなどの面白い企画を、系列の劇場を使ってまだまだできるんじゃないかと思えるようになってきました。閉館後は精神的にけっこうマイナスな感じだったんですけどね。疲れが出たのかもしれませんが、虚脱感というか、初めて感じる精神状態でした。

──閉館が決まったあとで、お客さんにかけられたことばや反応で嬉しかったことはありますか。

鈴木 最初に言いましたけど、私はシネパトスで12年前に1年間支配人やっていたことがありましたけど、そのときは苦労ばかりだったんですよね。お客さんからの苦情も、劇場が臭いとか上映中に地下鉄の音がするとかで。どうやったら女性のかたとかが地下の劇場に降りてきてくれるかなと思って、地下の通路にほかの劇場さんのチラシをいっぱい置いて映画の情報を取りにきてもらうような場所にしたり、いろんな工夫を凝らしたんですけど、なかなか、劇場内にはお客さんが入ってこなかったんです。その時のことを思い出すと、最後の7、8か月の間は、「シネパトスに映画館で映画を見る楽しみを教えてもらいました」とか、「ここでしか観られない映画を劇場ぐるみで楽しむことができた」ということばをいただくことができて、とても印象的でした。かつては劇場批判みたいなものがけっこうありましたから。うちの会社としては接客に力も入れましたし、清潔さを保つための対策もやってきて、あれからの十数年間は、お客さんを迎える姿勢や番組を大事にすること第一に考えてきましたので、お客さんにそういったことばをいただくと報われたなと思って、とてもうれしかったですね。

──『インターミッション』の劇中でもふれられたように、最後のほうは真下を通過する地下鉄の音が名物になっていましたね。

鈴木 不思議ですよね。もともとはあれが最悪だと言われてたわけですから(笑)。「えー、こんなところに劇場があるの!?」とか、「指定席はないの?」とか「入れ替え制じゃないの?」とか、それが最後のほうは逆にそれがいいということになりましたからね。シネコンで映画を見慣れているお客様には不自然だったかもしれないけれど、私たちが学生の時に見てた劇場は入れ替え制じゃないのがあたりまえでしたし。それで、やっとシネパトスのよさが伝わり始めたと思っていたら、その矢先に閉館ということになってしまって……。

──閉館の日の心境はいかがでしたか。

鈴木 正直に言うと、ほんとうに忙しかったという感じだけで(笑)。もちろん、いよいよこの日がきてしまったという感慨もあったんですけど、とにかく足を運んでくれたたくさんのお客さんが事故なく無事に映画が見れるようにという運営面のことばかり頭にありましたね。でも、本当に最後の最後、無事に映画も上映できて、あとは最後のごあいさつだけとなったときにそこで初めて寂しさがこみ上げてきました。自分はもう劇場勤めはできないのかなと思うとそれが途轍もなく寂しく感じられて。特にシネパトスというのは「ザ・映画館」というか、いわゆる映画館と呼べる小屋だと自分でも思っていたので、それがなくなってしまうことの寂しさも去来しましたし。本当に名画座やってよかったなと思えて、『インターミッション』はもう奇跡だなと思ったし、シネパトスはいろんな傷みによく耐えてくれて、最後にこれだけのいい思い出を残して劇場を閉じられて本当に幸せだなと思いますよ。それはシネパトスががんばって持ちこたえたからで、映画の神様がシネパトスにみなさんがいい想いを持って終われるようにしてくれたんだな、と。もちろん知る人ぞ知る劇場だったとは思いますし、最後だけ盛り上がればいいってもんじゃないとは言いますけど、私はそれでもみなさんの記憶に残ればいいと思いました。

──こういう終わり方をした映画館ってなかなかないですよね。

鈴木 だからもっと驚かなきゃいけないというか、感謝しなきゃいけないことだと思います。今はこれからがスタートだなと思ってます。現在はいろんな興行形態があって映画館の生き残りが大変なわけですが、シネパトスのようななんでもありの劇場の姿をまた映画興行の新しい形として活かしていけたらいいなと、やっと閉館から三か月経って、前を向いて歩けるかなというふうになりました。それだけシネパトスの最後の数か月というか、今までやってきたことの印象が大きくてなかなか脱却できなかった。今日、戦時中の木下惠介監督を描いた『はじまりのみち』(13 原恵一)という映画を見てきたんですよ。木下惠介は戦時下に撮影した『陸軍』(44)が戦意高揚映画になっていないということでそれを最後に次の作品が撮れなくなって松竹を辞めるわけですけど、『はじまりのみち』はある意味、木下監督の再生までの映画でもあるわけなんです。木下惠介がお母さんを疎開先までリヤカーで運ぶロードムーヴィーともいえる内容なんですが、その間の母親や一緒に同行した便利屋たちと交わしたことばや出来事によって、また映画を撮り始めようという気持ちに至るまでの映画なんです。まさしく映画の題名が『はじまりのみち』ということで、自分自身を木下惠介になぞらえるわけじゃないですけど、私もまた新しいかたちで劇場運営を始めることができるんじゃないかと思いましたね。


(註1)並木座 銀座並木通りにあった老舗名画座。東宝の藤本真澄、金子正且プロデューサーらが経営陣に参加し、1953年に開館。日本映画の名作を中心にした番組で映画ファンに親しまれたが、98年9月22日をもって惜しまれつつ閉館。

(註2)ゴジラの日 第1作『ゴジラ』(本多猪四郎監督)の封切日は1954年11月3日。

(註3)ドリパス 株式会社ブルームの運営するリクエスト上映システム。映画上映の企画を募り、一定数以上の購入数が確保できれば企画が成立となり、提携した映画館での上映となる。
posted by 映芸編集部 at 09:06 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする