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2007年06月21日

対談 諏訪敦彦(監督)×稲川方人(詩人)
『不完全なふたり』をめぐって

 『H story』以来4年ぶりに製作された諏訪敦彦の長編映画『不完全なふたり』が6月30日より新宿武蔵野館ほかで公開される。パリを舞台にフランス人キャストと共に作られた本作は、ロカルノ国際映画祭で準グランプリにあたる審査員特別賞と国際芸術映画評論連盟賞を受賞。フランス国内でも3万人以上を動員するヒットを記録した。
 『不完全なふたり』のカメラはただ危機に瀕した夫婦の成り行きを見つめることに徹する。物語的な起伏も映像的な動きも少ないこの作品は、それでも映画でしか体現しえない豊かさを画面の端々にまで宿している。長い沈黙を経て『不完全なふたり』で諏訪敦彦が到達したその境地に、詩人・稲川方人が肉迫する。

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稲川方人氏(左)と諏訪敦彦氏(右)

『H story』以降の苦悩
稲川 始めに、『H story』(01)以降、諏訪さんが何を考え、何をしてきたのかということを教えてください。

諏訪 『H story』を撮影した後、映画との関係を見失ったというか、映画に正面衝突して自分がバラバラになってしまった感覚がありました。ギリギリのところでやったので、もうこれ以上映画は撮れないだろうという思いが強かった。フランスでは『H story』に対する興味深い批評も出たんですが、日本では存在しない映画として扱われた印象でしたから、自分が映画を撮り続ける環境ではなくなったなと。率直に言えば、もう日本にいたくないという気持ちになったんです。それで文化庁の在外研修プログラムに応募してフランスへ行きました。

稲川 フランスで過ごしている一年の間に何か動きはあったんですか。

諏訪 パリに住んでいる澤田正道さんというプロデューサーが一緒にやってみないかと声をかけてくれました。その時に提示された原案は少年犯罪がテーマになっているもので、なんとか撮影までたどり着けたらいいね、という感じで始まったんです。だけど、出来上がった脚本を前にしたら、これを自分が撮るというリアリティを完全に失ってしまったんですね。と同時に、話のきっかけとなっている殺人というものを描くことに抵抗を感じてしまった。ある劇的な効果のために人の死を描くことに対して違和感が拭えなかったんです。だけど、その時点で既にスポンサーの会社に台本を持っていく予定になっていて、土壇場で新たに数枚のシノプシスを書きました。それが『不完全なふたり』の原型になったものです。その時は、登場人物も男と女だけ、それしか出てこない映画でいいじゃないかと思い直すことができたんですね。

稲川 殺人を描かないというのは、映画監督としてではなく、人として選択しているわけですよね。

諏訪 その頃、たまたまスイスの映画祭へ行って、子供たちと一緒に山に登ったんですが、落ちてきたつららで下の子供の頭が割れたんですよ。真っ白な雪の上に鮮血が飛んで、子供は「僕、死ぬの?!」なんて言っていた。軽いケガで済みましたが、それが少年犯罪の脚本を完成させた直後のことだったので、この脚本を撮ってはいけないんじゃないかという気になったんですね。

稲川 わが子の額に流れた血を見る、その時の諏訪さんの視線みたいなものが、映画の選択にも影響を与えているんでしょうね。『不完全なふたり』における男と女の愛、あるいは『M/OTHER』(99)の生活を巡る倫理みたいなものに対しても、諏訪さんは同様の視線を持っているんだと思います。自分と家族との関係とか、自分と女性との関係とかが映画と不可分になっている。そういう作り手の倫理が、今回の作品でもよく示されていたと思います。とはいえ『H story』以降の心理的にもかなり苦しい状態にある中で「こういう映画を撮らないか」と言われたら、普通はやりますよね。その作品が自分を救うかもしれないという希望を持ちうるわけですし。

諏訪 そうですね、やるかもしれません。でも、できなかったんですよね。自分はこういう素材で映画を撮ることはできないんだと改めて思いました。

稲川 その時に少年犯罪の映画の代わりに渡したシノプシスが、『不完全なふたり』の原型になっているわけですね。

諏訪 そうです。『M/OTHER』のベースになっているのも夫婦関係の問題ですが、夫婦を直接は描いていない。だから男と女だけの夫婦というものを描いてみようと思ったんです。

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諏訪敦彦氏

クローズアップの発見
稲川 『不完全なふたり』の冒頭、二人が車に乗っているシーンでは長回しの映像が続きます。その長い時間の中で映っている人物の何かがうごめいてくる。それを我々が受け取る。何かとても不思議な感覚だったんですが、カメラは車に寄り添いながら、近づいたり遠のいたりしていますね。どんな撮影だったのでしょうか。

諏訪 撮影自体はものすごくシンプルで、撮影車が劇用車に並走して撮っているだけなんです。最初のカットに関しては、撮影のキャロリーヌから「人物を直接撮ってはいけないような気がする」と言われたんですね。実像として直接人物を撮るのは違うんじゃないかと。それでガラスの反射越しに撮りました。

稲川 それが素晴らしい選択ですよね。美しさを単純に表現できていたし、不安を抱えた二人の関係性のようなものをよく見せている。カメラが近づいたり離れたりすることがすごく気持ちいいんですね。

諏訪 互いに交換する言葉が「失われている二人」であることを表すようにはしたかったんです。くだらない話しかできなくなった二人の上に、無為に時間が流れていくという。ただ、ああいう視点、ああいう距離感というのはどこかで意識していたんだと思います。作曲家と打ち合わせをした時にも、二人を肯定的に見守っている天使のような存在が時折現れるというイメージで音楽を付けていきました。

稲川 パリに到着した二人は夜、友人たちとレストランで食事をしています。あの場面は、画面も暗いし、そんなに人物の表情が見えるわけじゃない。でも途中でクローズアップが入るじゃないですか。僕はそこに驚いたんですが、あのクローズアップは最初から意図して撮ったものなんですか。

諏訪 撮影には二台のカメラを使っていて、クローズアップはDVカメラ、引きの画にはハイビジョンカメラを使っています。キャロリーヌとは最初、全篇手持ちのDVカメラで役者に接近して撮影しようと話していました。しかしテストをしてみたら、どうも違和感があった。カメラが中に入っていくと、相手ではなくカメラに対する演技になってしまうんですね。それで、二人との間には距離感が必要だろうと話し合って、ハイビジョンカメラによる引きの撮影を考え始めた。ただハイビジョンにした場合、キャロリーヌはカメラをあまり動かしたくないという意思を持っていたんです。それから彼女は、僕の映画ではフレームの外の空間を活かすべきだとも言っていました。でも、ずっと引いていると、人物の表情から内面を覗き込みたいという気持ちも生まれてくるわけです。それで、引きの映像を撮りながら、僕たちの心が動いた瞬間にカメラを持ち替えようということになった。ですから、アップを撮る可能性というのは常にあったんです。

稲川 『不完全なふたり』におけるアップの素晴らしさは、「クローズアップの発見」と言ってもいいほどのものだと思います。最近の日本映画やアメリカ映画、おそらくフランス映画もそうだと思いますが、人間を見るカメラの距離感がめちゃくちゃになっている。そういう中で『不完全なふたり』を見ると、映画にはクローズアップがあって、クローズアップがもたらす力というものがあるのだと改めて気付かされます。

諏訪 僕自身、クローズアップについては、全く違う視点ということを意識していました。二つのサイズの映像が互いに補完しあいながら、ひとつの世界を再構成するのではなく、二つの世界、二つの視点があるということを示したかった。僕には、顔に寄りたいという欲求がすごくあるんです。最後の朝、ホテルのシーンでは、二人のクローズアップを編集して繋げたんですが、そこも最初は引きのカメラだけで撮影していました。でも僕はキャロリーヌに、ヴァレリアの顔が見たいと言った。キャロリーヌはそれを了解してくれたんですけど、ヴァレリアだけじゃなく、ブリュノのアップも平等に撮影しようと言ったんですね。その時はごく自然に自分の中で切り返しを「発見」したという感覚がありました。でも、クローズアップを使うことの危険も当然あります。それによって単純に顔が心理として内面化されてしまう恐れもありますし。

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稲川方人氏

メタ的な要素の排除と肯定的な視点の導入
稲川 諏訪さんの映画に対する批評のルーティンとして、メタシネマへの言及があります。『不完全なふたり』のクローズアップも映画のメタ的な側面、物質的な側面を感じさせるけれども、これまでよりもっと柔和だと思いました。とりわけ『H story』にあったような、攻撃的とも言えるほどのメタ的な部分が、今回の映画では一瞬もなかったような気がします。

諏訪 自分の中で、そういう要素を入れようとする傾向は残っていますが、結局それは映画を単なる自己表現にしてしまう気がしたのです。今回はそのこと自体が問題なのではないと考えていたんだと思います。

稲川 それは、演出家としての変化なんでしょうか、それとも今回に限っての暫定的な意識なんでしょうか。

諏訪 男女の問題を巡る自分と映画との関係性というのは少し変わったのかもしれません。僕としては今回の作品をコメディとして撮りたいという意識もあったんです。そういう意識が生まれたのは、描こうとしている内容との距離感が変わってきているからだと思いますし。

稲川 人物を肯定的に描きたいという思いは、『H story』以降の決して良好ではなかった諏訪さんの精神状況も影響しているんでしょうか。

諏訪 関係していると思います。日本で暮らしている時は家族がそれぞれに社会性を持って生きているわけですが、外国では社会性が著しく制限されるので、家族同士が互いに見つめ合ったり、向き合ったりする瞬間がかなりありました。パリにいるのに、あまり映画も見ませんでした。映画よりも生きることや生活のことを考えていた。そういう経験を通過したことの影響はあると思うんですね。

稲川 その肯定的な視線が、結果的にこの映画を非常に豊かなものにしていると思います。諏訪さんにとっては、対象にどう切り込んでいくのか、その攻撃的な切っ先をどう見せるのかということが一貫する課題なのかもしれません。しかし少なくとも今回の映画に関しては、監督の視線がもたらす豊かさの方が攻撃性よりも勝っている。久しぶりに豊かな映画を見たなという印象でした。それは、描かれる人間の人生や社会の複雑さがよく描かれているという意味ではなく、映画の中心的なものが豊かに動いているという意味です。物語や製作制度のシステムによって抑圧されることのない豊かなものが、見る者に対して差し出されている印象があったんですね。だから、諏訪さんにはこの豊かさをベースにして、これからも映画を作ってほしいと思ってしまう。映画のメタ的な側面によって、我々の意識に揺さぶりをかけるのではなく、この豊かさを提示し続けてほしいと。

諏訪 『不完全なふたり』の後、NHKのBSで『男と女の民主主義』という番組を作ったんです。これは別の監督がドキュメンタリーを撮り、僕が同じテーマでフィクションを作って一本の作品にするという企画でした。その中で僕は、日本の母親が置かれている状況、母親の孤独のようなものをテーマにして、家庭の中で子供と向き合って生きていくことがいかに孤独な時間なのかということを描きました。その時に、これは「作品」じゃないと思ったんですね。専業主婦の母親が夫の知らない間に家で一体何をしているのか、どういうことを感じているのか、映像はそれを社会に見せる機能に徹するべきだと感じた。そういう意味で言えば、『不完全なふたり』は「表現」であり「作品」なのかもしれません。「作品」はコミュニケーションの手段ではないんだけれども、その一方でフィクションというものが社会にどう機能していくべきかを考えるようになったんですね。その結果、映画でできることはなんだろうという発想にも変化が出てきたんじゃないかと思います。

稲川 その変化が映画の作り方にも影響するということですよね。語るべき物事に対して謙虚にカメラを向けようとすると、作り手が受容するものや、受け入れなきゃいけないものも増えてくるんじゃないですか。

諏訪 受け入れるものは増えますね。今回の番組では妻が書いた脚本をそのまま使っているんですが、それを僕がこうしてほしいと思う時もある。だけど、それをやると自分の「作品」作りなってしまう。そこにいろんな人間が関与してくれたことを、もっと積極的に受け入れていこうと。そこに関与してくれた人間がお互いに教育し合うような関係の中で最終的にものが出来てくればいいなと思っていました。

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諏訪作品の独自性
稲川 美術館での撮影は、人物の動きや撮影の仕方について事前に設計されたものだったんですか。

諏訪 寄りに関しては、ある程度はしていますね。

稲川 そのカットは小型のカメラで撮っていると。

諏訪 そうですね。寄りの時は手持ちのDVカメラで撮影しています。実は一度、二人が喧嘩をしているシーンを手持ちのカメラで撮影してみたことがあったんです。ホテルに到着して、最初に喧嘩をするところですね。そうしたら、映画のクライマックスのような非常に劇的なシーンになってしまった(笑)。カメラの介入が二人の演技を劇的なテンションに高めてしまったんですね。その時に、二人の中にカメラが入っていくのは間違いだと、キャロリーヌとの間で話し合いました。

稲川 その手持ちのカメラで撮影した二人のシーンは全体の中に繋げて見たんですか。

諏訪 ラッシュを見ただけで、編集の時には使いませんでした。

稲川 それを繋げることによって、何かが壊れてしまうという判断だったんですか。

諏訪 それ自体は、素晴らしいショットでしたが、俳優も表現しきって、解放されてしまうのですね。ヴァレリアはクリエイティブな俳優なので、いくらでも演技のバリエーションが出てきます。映画で使われているテイクでも、編集では切っていますが、最後は高笑いをして完全に男を軽蔑するようなところまでのぼりつめてゆく。でも、そうやって解放されてしまうと、彼女が自由な人間に見えてしまうんですね。彼女が演じるマリーは自分を上手に表現できないからこそ、生きることに苦労しているはずなのに。だからヴァレリアには、マリーは女優じゃない、普通の人間なんだと言いました。そうしたら彼女も納得してくれた。後になって、彼女はその言葉が演じるうえでの助けになったと言っていましたが。

稲川 そこでそういう選択をするところが諏訪さんらしいですね。おそらく手持ちカメラで撮影した喧嘩のシーンが繋がれていても、映画の持つ豊かさが損なわれることはなかったと思うんです。むしろ、シーンの意味としては観客にとってより分かりやすくなったんじゃないでしょうか。それでも、それは違うんだと判断する諏訪さんの姿勢はやはり独特ですよね。映画作品としての完成を第一に考えているというよりも、何かもっと違う視点で判断しているような気がします。それが諏訪さんの映画の謎であり、面白さでもある。

諏訪 今日話していて思うのは、僕が作っているものは映画じゃないんじゃないかと(笑)。映画とは違うことをやってるのかな、まあそれでいいのではないか、という気がちょっとしてきました。

稲川 映画が媒体になっていないということなんだと思うんです。普通の映画を見た場合には、映画的なセオリーによって、良い映画か悪い映画かということが相対的に判断できる。しかし、諏訪さんの映画はそういうところで作られていない。諏訪さんの作品はあくまで「映画」なんだけれども、それを作っていく意味が違うという感じがするんです。映画的な意味を構築しているのではなくて、映画にとってもっと本質的な意味を構築しようとしているんじゃないかと。諏訪さんの映画からはいつも、そういう姿勢を感じます。特に『M/OTHER』の場合には、こちらが傷つくほどの攻撃的な姿勢があった。しかし、今回はこちらが構えていなくても、それを自然に受け取ることができました。以前の攻撃性が消えたことで、肯定の視線を共有することができたんです。

諏訪 フランスでは、お客さんが結構笑って見ているんですよね。ヴァレリアの話し方や言葉を発するタイミングがすごくおかしいみたいなんです。つまり、そういう能力が俳優にもあったんですよ。自分のしていることをどこかで相対化できるという。

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即興撮影における俳優の演出
稲川 撮影前に俳優との打ち合わせなどはあったんですか。

諏訪 撮影前に時々会って、映画の内容について少し話をしています。二人がどのように出会ったのか、どうして子供ができなかったのか、結局その答えは出ませんでしたが、そういう話し合いの中でおおまかな二人の背景を決めていきました。だけど、本当に話を詰めているかと言えばそうでもない。話すこと自体が目的という感じでした。結局、現場に入った時に、それまでどのような時間が流れていたのかということが重要なんですね。そういう意味では、互いの関係性が熟すまでの時間は取れたと思います。

稲川 つまり事前のディスカッションでは、論理的な過程を経て何かの答えを出すことに重きを置いていないと。

諏訪 そうですね。たぶん、お互いに信頼できるかどうか、それを確認しているだけなんだと思います。それがないと、俳優もこういう形で演技することはできないですし。

稲川 諏訪さんの映画の方法を、二人に予め知ってもらうということも重要だったわけですよね。

諏訪 方法というのは単純で、シチュエーションの中で演じてもらうということしかありません。でも結局、現場がどうなるかは始まってみるまで分からない。だから、方法については現場で了解するしかないわけです。ただ、そういうやり方をすると、方法論によって守られることがない。例えば台本をより所にして、演技について事前に議論することもできません。だから俳優にとっては、この人の前で自分が演技をしても大丈夫なのかといったことを確認する時間が必要になる。つまり、お互いの態度を確認し、経験していく時間が必要なんですね。

稲川 俳優との間にどのような信頼関係のプロセスを作るかが大切だと。

諏訪 それだって根拠のない信頼関係なんですけどね。数回会っただけで、今まで一緒に仕事をしたことがあるわけではないですし。何か直感なんだと思います。

稲川 少年犯罪の映画を撮らなかったのも、論理的な理由があったわけじゃなくて、人間としての倫理感からそう判断したわけじゃないですか。撮影前に諏訪さんと会っている時、俳優たちが見ていたのはおそらくその部分なんだと思いますね。従来のセオリーで映画を作る監督だという理解ではなく、人間としての諏訪さんを見ているんじゃないかと。例えば、子供の額から流れる鮮血を見て少年犯罪の映画を撮ることをやめたというエピソードを聞くだけで、諏訪さんの倫理観や世界観というものを知ることができる。俳優たちが受け取っているのはその部分で、そこに関係性が築かれていくんじゃないかと思います。そして映画にはその関係性が生々しく反映されている。映画の台本があるとか、画コンテがあるとかいうことが意味を成さなくなっている場所に、監督と役者たちが立っているということなんじゃないでしょうか。だから従来の映画と比較して、諏訪さんの映画が実験的だと言うことに、もはや意味はないんじゃないかという気がします。

諏訪 今回、即興で撮影しているという意識が、僕にもスタッフにもなかったんです。おそらく俳優も同じだったと思いますが、あたかも書かれたセリフの通りに演じられているような感覚がありました。だから、即興でやっていることに面白さを感じたことはなかった。方法的な面白さを基準に映画を作ってはいなかったんです。

稲川 それはすごくいいことだと思うんですね。映画には長い歴史があるわけですが、ここ数年は僕自身、その蓄積に対してあまり意識的になりたくないと思っているんです。だから単純に、人間の顔が見たいとか、豊かなものが見たいと思っていて、それは多くの人が感じていることじゃないでしょうか。そういう観点で言うと、諏訪さんの今の話は非常に前進的だと思うんですね。

諏訪 極端なことを考えてはいけないなというか、ちょっと違うだけで十分違うんだということを少し思うようになりました。僕が経験してきたことは消せないし、同じところをグルグル廻っているだけかもしれない。それは些細で必ずしも進歩と呼べるものではないけれど、変化だから仕方がない。最近はそう思いますね。

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「カメラを向けるということに映画は宿る」
稲川 『2/デュオ』(97)から数えて、約十年で四本の長編作品を撮っています。しかし、この十年というのはものを作る人間としてかなりいろんな経験をせざるをえない歴史的な時間だったと思うんですね。その中で、映画とは何か、文学とは何かということを考えざるをえなかったんじゃないかと。その後に『不完全なふたり』を見せられると、諏訪さん自身の変化がもたらした映画の豊かさとは何なのかという問題について考えたくなります。この作品には、フランス映画が失ってしまったフランス映画のテイストというものがあって、その辺りも良いですよね。

諏訪 それはフランスでも言われました。今のフランス映画が持っていないフランス的なものが含まれていると同時に、アジア的な部分も感じると。アジア的なものを意識したつもりはないんですが、長い沈黙が続いたりするのはアジア的だと受け止められましたね。

稲川 映画の雰囲気という部分で、すごく懐かしく感じられるんですね。それは日本映画としての懐かしさではなく、かつて見たフランス映画の懐かしさなんです。フランス現地でも、映画はプロセス化された中で作られていて、今回のような方法では作られていないのではないですか。

諏訪 フランスでも書かれたものに対する価値というのは高まっていますね。結局、みんな面白い脚本を書いて助成金を得ようとするわけですし。かつてトリュフォーが「フランス映画のある種の傾向」と言った時に彼が否定しようとしたある文芸的なもの、映画以上の価値をそこに求めていることに対する警告、それと似たようなことを感じざるをえない。カメラを向けるということの中に映画が宿るわけで、そういう意識を失っている傾向はあります。映画というものは、ただ映っているだけでとんでもなくすごいんだと、そういう感覚を自分の中にもう一度取り戻したいと思いますね。

稲川 そういう意識は今回の映画からも感じました。冒頭のシーンで車の窓ガラスに反射する風景や光を見た時に、あ、映っていると。

ラストシーンにおける選択
稲川 『不完全なふたり』は危機に瀕した夫婦の話ですが、そういう観点から言うと、ラストシーンはこの映画の大きなポイントだと思います。始めに確認したいんですが、ホームで二人が立っているカットは途中で別のカットに変わっているんですか。

諏訪 カット自体は変わっていませんが、途中の抜いている部分に黒味が入っているんですね。

稲川 そうですか。プレスを読むと、事前に女優とロッセリーニの『イタリア旅行』(53)について話したと書かれていて、そのことがラストシーンに影響を与えているように感じます。最終的に彼女が去らないことは、諏訪さんの中で予め決まっていたんですか。

諏訪 最初からではありません。今回の映画は台本通りに撮っているんですけれども、ラストシーンは空白にしておいた。書きたくなかったというのもあるし、見えていなかったということもあるんですが(笑)、撮影していくうちに段々見えていくだろうと。ただ、僕はたぶんホテルを出るところで終わるんだろうなと思っていたんです。ホテルを舞台に設定して、最後は彼女がホテルを一人で出て行く姿を見送ったりすれば、映画はもう終われるじゃないかと。でも、ヴァレリアは二人を肯定したがっていました。それでラストシーンを撮影する一日か二日前に、ホテルでは終わりたくない、外へ出ようって言うんですね。だから、あのラストシーンに関しては、ヴァレリアのアイデアを受け入れて撮ったという感じなんです。そのアイデアが出た時点で、彼女が列車に乗らないことは決まっていたと思います。厳密に言うと、乗らないのではなく、残るでもなく、列車が行ってしまったという、微妙なところなんですが。結局、彼女は決断していない。きっと決断できなかったんだろうと思います。意志と偶然の狭間みたいなところで彼女が駅に立っているという。

稲川 ドラマの流れとして観客を一番落ち着かせられるのは、彼女が去るという結末の方だろうと僕なんかは思ってしまうんですね。一旦彼女が去ることによって二人の間に距離ができれば、新たなディスカッションが生まれるだろうという希望が持てる。しかし、彼女が残ってしまうと、二人にはまた厳しい現実が待っているんだろうなという気がしてしまいます(笑)。

諏訪 二人が同じ過ちを繰り返す可能性を秘めてしまうということですよね。

稲川 そうですね。だから映画では暫定的な答えしか提示していないんじゃないかと。実は先ほどカットが変わっているのではないかと質問したのは、二人が別れるのかどうかという問題について、カメラを止めて俳優たちと話し合ったのかなと思ったからなんです。

諏訪 それはしなかったですね。いくつかの違う結末がありえたと思うんですけど、撮影を始めた時点で、二人が別れてしまうという選択肢はありませんでした。ヴァレリアもそういう結論に向かって演じてはいなかったと思いますし。

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次回作と『パリ、ジュテーム』について
稲川 準備している次回作はあるんですか。

諏訪 今回と同じプロデューサーと一緒に準備しているものがあります。『不完全なふたり』を撮影した前後に、『キングス&クイーン』(04)で弁護士役を演じていた男優(イポリット・ジラルド)との出会いがあって、ここ2年ぐらいは彼と一緒にずっと次のプロジェクトについて考えています。『不完全なふたり』はフランスで撮るということを殆ど意識していなかったんですが、次回作では男優と二人でやるということが一つのテーマなんですね。彼はフランス人で僕は日本人だし、「混血の映画」みたいになってもいいんじゃないかと。それで日本とフランスの両方を舞台にしてやってみようと考えています。内容的には、父親がフランス人で母親が日本人の、混血の女の子が両親の離婚に反対するという話です。これは自分の作品ではなくて、男優と二人の作品という感じにしたい。

稲川 これまでにも諏訪さんは「私の作品」だと自我を主張するのではなく、例えば役者との作品である、スタッフとの作品であるという言い方をしてるじゃないですか。次の作品はそれともまた異質なものになるんでしょうか。

諏訪 いろんな関係性の中で作っていくうちに、結果として「自分の作品」だと言い切ることができないんですね。その反面、「私の作品」だという思いも強くある。最終的な決定の責任は自分にあるし、編集も僕がやるわけですから、両義的だけれども「私の作品」ということにはなると思うんですね。それに対して、次回作では互いに五〇%ずつぐらいの権利を主張し合えるような環境でやってみようかなと。

――『パリ、ジュテーム』の一篇『ヴィクトワール広場』は『不完全なふたり』とは真逆の方法論で作られていると思います。『不完全なふたり』を終えて『パリ、ジュテーム』に至るまでに、諏訪さんの中でどういった変化があったんですか。

諏訪 『パリ、ジュテーム』に関しては、これまでのやり方でできるものではないし、これまでやらなかったことをやろうという風に考えを切り替えたんです。この話を考えたのは、『不完全なふたり』と同じようにパリで暮らしていた時期だったので、スイスで子供がケガをした経験もあった。と同時に、津波の被害が報じられていた時期で、メディアでも家族を失った人たちの姿を頻繁に目にしていました。実は、僕が『a letter from hiroshima』(02)というビデオ作品を撮った時も、広島のある母親の感情が入口になっていたんです。朝ごはんで冷えた粟を子供に食べさせたら不満を言ったのでひどく叱った。子供は泣きながら『行ってきます』と言って学校へ行く。それが子供との最後になってしまったというんですね。あの時なんで叱ってしまったんだろうと親は後悔する。僕はそういう感情をすごく共有できる。それに、残された人は自分だけが生き残ったことに罪の意識を持ってしまうんですね。でも、生き残ったことは罪ではないし、そのことを肯定したいという思いがありました。それがフィクションの形でなら素直に言えるような気がして、アンデルセンの原作を映画としてそのまま伝えるということをやってみたんです。『不完全なふたり』では何かを伝えようとは思っていないわけですよ。でも『ヴィクトワール広場』の場合は、生き残った自分を責める必要はないんだということを物語として伝えたいと思った。だから撮影方法に関しても、スタイルで何かを主張するのではなくて、できるだけ自然に撮ろうとしています。でもカットを割って撮るのは難しいなと思いましたね。これで2時間の映画を撮るのは大変だなと(笑)。

構成:平澤 竹識(「映画芸術」編集部)

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『不完全なふたり』
監督/構成: 諏訪敦彦
撮影/アーティスティック・ディレクション: キャロリーヌ・シャンプティエ
編集: ドミニク・オーヴレイ、諏訪久子
録音: ジャン=クロード・ロルー、フランク・デムラン、ニコラ・カンタン
整音: ニコラ・ナエゲラン 音楽: 鈴木治行 衣裳: エリザベス・メウ
プロデューサー: 澤田正道、吉武美知子
出演:ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ、ブリュノ・トデスキーニ ほか

6月30日(土)より 新宿武蔵野館ほか 全国順次ロードショー

『不完全なふたり』公式サイト:http://www.bitters.co.jp/fukanzen/


posted by 映芸編集部 at 00:49 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする