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2014年11月23日

『禁忌』『欲動』レビュー

文・大沢 愛

『禁忌』(監督:和島香太郎)

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2014『禁忌』製作委員会

 『禁忌』は理性と欲望の狭間を行き来する人間を生々しく、かつ繊細なタッチで描いた力作だ。
 女子校教師の浅井咲良(杉野希妃)は生徒と恋愛関係にありながら、異性の恋人と交際をしている。ある日、幼少期に離別した父親(佐野史郎)が暴行事件に巻き込まれ、咲良は彼の身の回りの世話を任されることになる。そして、咲良は父親の家を訪れた際に監禁されている少年・望人(太賀)と出会い、彼と父が性的関係にあることを知ってしまう。その後、売春の容疑をかけられた父の頼みで仕方なしに少年を匿うことにした咲良であったが、彼女もまた父と同じように少年に強い欲望を感じるようになってゆく。
 精神分析学の第一人者であるフロイトは、「性欲論三篇」(1905)の第一章「性的な錯行」の中で性対象の倒錯を三つのパターンに分類している。その中の一つ「両性にわたる倒錯」は同性も異性もともにその性対象となる場合を示しており、咲良と彼女の父はこれに該当するといえるだろう。咲良の場合は、異性の恋人と女生徒との関係、彼女の父は亡くなった咲良の母と少年・望人との関係がそれぞれ当てはまる。しかし、咲良の生活環境を見ると父の場合とは一線を画している感がある。
 咲良の職場は女子校であり、男性の姿はほとんど見られない。教育実習生であろう男性教師が登場するが、彼は教師として生徒をまとめることができず、男性的な雄々しさが欠如している存在として描かれている。つまり、咲良の周りには彼女を支配する成人男性の影が薄く(父親とも幼少期に一度離別している)、例え異性の恋人と抱き合っていても情熱的にはなれていないことが窺える。ここで再びフロイトの学説を軸に考えると、彼が提唱した「去勢コンプレックス」が咲良の行動に表れていると言えないだろうか。

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 フロイトは「去勢コンプレックス」について、女児の場合は自分が去勢されている事実を認めると劣等感と本格的な去勢不安を感じるようになり、男根を羨望するようになると定義している。
 さらに、この「去勢コンプレックス」から抜け出すために女性は次のような方法を取るという。一つ目は「男根の象徴としての子供を求める」、二つ目は「男らしさに固執する(これが極端な場合は同性愛へ発展する)」、三つ目は「性行為自体を避ける」方法である。
 異性として絶対的な存在である父との離別、男性の存在感が薄い職場での勤務、さらに女性として男根を有していないという強い劣等感を無意識のうちに咲良が抱いていたのだと仮定すれば、去勢コンプレックスから逃れるために、男らしさに固執して女生徒と関係を持ち、かつ男根への強い羨望を棄て切ることが出来ずに異性の恋人とも関係したと考えることができるのではないだろうか。
 では何故、咲良は少年・望人に強く惹かれていったのか。父親からの遺伝子を受け継いでいるからだからと言ってしまえばそれで済むことかもしれないが、咲良について今一度整理すると、彼女は異性との関係よりも女生徒との関係に満足していることは明らかであったが、男根への羨望を諦め切れずに異性との関係を断ち切れずにいたと考えられる。つまり、出会った当初、思春期の前に位置し、女性的なか弱さと男性的な外見を兼ね備えていた望人は彼女にとってこの上なく尊く、待ちわびていた存在だったといえるのではないだろうか。

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 しかし、望人が思春期を迎えたことによって咲良の希望は潰えてしまう。心も身体も成人男性へ着実に近づく望人は、ある意味で咲良に支配されていた以前の立場から、支配する側の立場へと移行する。ここでは太賀と杉野希妃の息もつかせぬ熱演によって「支配する男」と「支配される女」の構図が見事に展開され、ここで物語に緊張感と人間の生々しさが感じられる。
 罪を犯した女性教師と彼女を愛する青年。男女の恋愛はどのような形であっても、一種の欲望や支配から逃れることはできない。だからこそ、この作品から溢れる切迫した生々しさは私たちを圧倒させるのではないだろうか。
 
 

『欲動』(監督:杉野希妃)

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2014『欲動』製作委員会

 バリの異国情緒豊かな風景にある男女の物語が溶け込む。河瀬直美監督の『2つ目の窓』(2014)で舞台になった奄美大島と同様、自然の息吹を感じられる土地ほど生と死の距離が近いことに改めて気づかされる作品だ。また、『禁忌』で主演を務めた杉野希妃が監督・出演しており、才色兼備の彼女の実力にも圧倒される。
 勢津ユリ(三津谷葉子)は心臓に重病を抱える夫・千紘(斎藤工)を連れて、出産を間近に控えた千紘の妹・九美(杉野希妃)とその夫・ルークが住むバリへ訪れた。食卓を囲み食事をしたり、カフェに立ち寄ったりと穏やかな時間を四人で過ごしていたが、千紘と九美が口論を始め、彼らの間には深い溝が生まれてしまう。途方に暮れたユリがバリの土地を歩き続けていると、先ほどのカフェに居た日本人男性・木村がユリをナイトクラブへ誘う。そこでジゴロのワヤンと出会い、ユリはそれから度々ワヤンと密会するようになる。

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 ファーストシーンの原住民たちによる情熱的な踊りは、終盤まで度々登場する。舞台には火が灯され、生き生きとした音楽が流れているが、時には死と向き合う千紘の姿がそれと対比的に映されるのが印象的だ。一方、ビートの効いた音楽が流れるナイトクラブでは木村が恋人と接吻をしながら踊る姿も原住民たちのそれと重なり、トランス状態に陥った人間の動物的な生々しさを目撃する。
 そして、ここで私たちは一目瞭然でこの作品の主題の一つに「生と死」を見出すことができるだろう。妹の出産と死期迫る兄という関係からもそれを感じられるが、「自然という広大な生」と「人間の死」を対比されると人間の存在がどれだけ小さいのかを同時に痛感させられてしまう。
 これらのダンスシーンに加えてこの作品に躍動感を与えたのは、やはり千紘とユリが互いを求め合う場面だろう。千紘が心臓に重病を抱えているため二人には時間がない上、夫婦問題解決の端緒も見つからない焦りを必死に掻き消そうとしている夫婦の心情がこのシーンに集約されているように思えた。

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 また、この作品は円満な妹夫婦と問題を抱えた夫婦の関係性を対比させて物語が進むが、『禁忌』と同様、女性である千紘の妻・ユリが罪を犯してしまう。これに対する罰は明確に下されることはないが、ラストシーンで海へ身体を預けている千紘が浜辺に座るユリに向かってひたすら声をかける姿は、彼岸と此岸を暗喩しているようでもあり、妻としての貞操を遵守できなかったユリへの罰は二人の永訣であることが予想される。ひたすら妻の名前を叫ぶ夫と、それを眺める妻の後ろ姿。バリ島でのロケーション撮影の美しさに終始圧倒されてしまうが、ラストシーンの物悲しさと夕暮れの美しさにはさらに深い感動を覚えさせられる。
 これは偶然だと思うが、この作品は『禁忌』と同様に海辺でのシーンが深い印象を刻んでいる。海が生命の源であると言われるように、違った視点からではあるがこれらの作品が描いた生命には飾り気がなく、そして力強い脈動が感じられる。男女が佇む海岸に寄せては帰る波、これは欲望のうごめきなのだろうか。それとも、愛のささやきなのだろうか。
 

おおさわ めぐみ◎1994年生まれ。日本大学芸術学部映画学科在学中。映画理論・批評を専攻。


『禁忌』
監督・脚本:和島香太郎 プロデューサー:杉野希妃、山口幸彦
コプロデューサー:小野光輔 撮影:古屋幸一 音楽:富森星元
出演:杉野希妃、太賀、佐野史郎、山本剛史、藤村聖子、森岡 龍、月船さらら
制作:和エンタテインメント 配給・宣伝:太秦
2014年/日本/ビスタ/カラー/ステレオ/73分 

*12月6日(土)新宿武蔵野館にてレイトショー

『欲動』
監督・コプロデューサー:杉野希妃 脚本:和島香太郎
プロデューサー:小野光輔、山口幸彦 撮影:シディ・サレー 音楽:富森星元
出演:三津谷葉子、斎藤 工、コーネリオ・サニー 、杉野希妃、トム・メス、高嶋宏行、松ア 颯
制作:和エンタテインメント 配給・宣伝:太秦
2014年/日本/シネマスコープ/カラー/ステレオ/97分
 
* 11月22日(土)より新宿武蔵野館にてレイトショー

http://www.u-picc.com/taksu_sala/

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2014年08月18日

山本政志監督最新作『水の声を聞く』レビュー

文:村松健太郎


序章−プロローグであって序章−プロローグではない

 シネマ☆インパクト第3弾について最初に書かせていただいたのが昨年3月のことになるので、シネマ☆インパクトと山本政志監督との濃いお付き合いもかれこれ1年半になる。
 シネマ☆インパクト第3弾と言えばやはり、昨年、超低予算ながらも高いクオリティが話題となり、後に単独公開されヒットし大いに話題をさらった大根仁監督による突然変異的作品『恋の渦』の存在があまりにも大きい。今作『水の声を聞く』はその勢いと収益をそのまま引き継いでいて、ある意味コインの裏表のような作品だ。
 また監督からお叱りを受けそうだが、誤解を恐れずに言えば、シネマ☆インパクト第3弾のラインナップ内の一作として上映された『水の声を聞く−プロローグ−』はプロローグですらなかった。長編作として再び現われた『水の声を聞く』はそう思わせるまでにジャンプアップしていた。ここまできれいに跳ねられるとは思ってもいなかった。さすがは突然変異種と表裏一体なだけはある。
 また今作は山本政志としては『聴かれた女』以来約8年ぶりの長編復帰である。近年はシネマ☆インパクトもあってか、プロデューサー業が主だった活動となっていて、監督をしても短編が続いていた中で、本人もフラストレーションも溜まっていたのだろう、鬱憤を晴らすように129分の大作に仕上げてきた。『プロローグ』が約30分だったのだから、そこから100分追加されたことになる。代わりに大森立嗣監督の『ぼっちゃん』『さよなら渓谷』と話題作が続く村岡伸一郎がプロデューサーに登板している。

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特筆すべきはストーリーが展開していく確たる説得力

 新大久保コリアンタウンで占いコーナーから始まった宗教的なサークルが次第に巨大化していき様々な人間の思惑が絡み始める。友人の美奈に頼まれ軽い小遣い稼ぎのつもりで巫女=教祖役を引き受けたヒロイン・ミンジョン(様々な文化的背景を持つ女優玄里が熱演)は自分のもとに多くの人が救いを求めてくる重圧に耐え難くなってくる。
 前半部分のこの擬似宗教的サークルが大きくなっていく流れの中で広告代理店の男(村上淳が軽快に演じている)が登場するのもユニークだ。純粋な救済を求めながら、その一方で組織を大きくしていく上でいくつもの人間の欲望が見え隠れする。この現代の宗教団体が抱える矛盾する要素をコンパクトに並立させて描くのが難しいところだろうが、この広告代理店の男が一人登場することでさらりと宗教のビジネス的側面を描いてみせた。
 これに、多額の借金を抱え、教団に逃げ込むミンジョンの父親とそれを執拗に追うヤクザのストーリーが絡んでくる。
 映画の後半部分で大きな説得力を発揮するのが済州島四・三事件(1948年4月3日に済州島でおこった朝鮮半島分裂に反対する島民の蜂起に対して韓国軍と警察が、朝鮮戦争終結までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件)。ヒロインを済州島の巫女(シンバン)の血を受け継ぐ者に設定したところから、リサーチの中で大阪の在日コリアンの中に済州島出身者が多いこと、それは四・三事件から逃げ延びてきた人々が多いということを知った山本監督は、“この歴史的な事件を物語に組み込まないわけにはいかない”と考えてヒロインの覚醒の大きな鍵とした。近年は韓国で映画化(『チスル』監督オ・ミョル、2013年製作)もされたが、歴史的タブーとして長年黙殺されてきたこの歴史的事実の存在はヒロインならずとも大きな衝撃を受ける。済州島にルーツを持つヒロインならば人生観を大きく揺さぶられ、生き方・考え方全てが大きく変わっていくのは必然的な流れであろう。監督としてはよもや自分の作品にここまで社会的な要素を持ち込むことになるとは思っていなかったようだが、物語をクライマックスへと強烈に牽引してく。また、サイドストーリーと思われていた父親と借金取りのパートがこのクライマックスに結合して、意外な作用を見せる。

 “山本政志印”とも言うべき、ダークサイドの住人やリアルで唐突な暴力描写、ゲリラ的に敢行されたロケなどは作品のそこかしこで健在だ。しかし、それよりもストーリーがまず見た人間の心を捉える。こう書くとまるでそれまでの山本監督作品にストーリーがなかったような言い方になってしまうが、やはりこれまでの山本監督作品は強烈な個性を持ったキャラクターとドキュメントタッチの映像がまず目に飛び込んできていた。ところが、今作は相変わらず、一癖も二癖もあるような人物しか出てこない上に、新大久保のコリアンタウンや美術が冴える宗教施設、果ては韓国・済州島という印象に残る舞台の数々が登場するにもかかわらず、それらを一歩も二歩も後ろに引かせてストーリーが前面に現れる。
 久々に解禁された監督のライフワークとも言うべき“森と水”というモチーフもストーリーの中に綺麗に編み込まれ、文字通り自然に“そこ”に存在している。


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物語を生み出した玄里、物語を紡ぐ脇役

 キャストで言えばやはり主演の玄里(=ヒョンリ)の、特に後半部分の自身の行うべき救済に覚醒してからの存在感は圧倒的。監督が玄里ありきで書き起こしただけあって、ヒロイン・ミンジョンというキャラクターとのシンクロ率は高く、当たり役といってもいいだろう。教団(=真教・神の水)の運営役に回る美奈役の趣里は実利を求めつつも、実利に走りすぎる流れに戸惑いも感じる微妙な立ち位置のキャラクターを丁寧に演じている。
 『プロローグ』の部分では登場しない広告代理店の男役の村上淳の悪役にはならない軽薄さはさすがである。以前のトークショーで山本政志の長編復帰を喜んでいた村上が満を持しての登板といったところだろう。
 シネマ☆インパクトからの参加組で言えば、最初は日陰の存在でありながらもラストに向かってドンドン妖しい存在感を出す中村夏子は今後も覚えておきたい存在だ。
 大人を翻弄する少年を演じた萩原利久、教団に救われたことで人生の歯車を狂わせてしまう青年を演じた松崎颯も印象に残る。俳優としての山本政志が登場しないのは少し寂しい気もする。その代わりに、山本組の常連となりつつある小田敬が登場して、凛々しい玄里と美しい森に強烈な毒を放ってくれる。

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ライフワークと新境地

 山本監督自身常に頭の中にあり、時に真正面から向き合い、時には極端に避けてきたテーマである“森と水”。今作は完成した長編ということで言えば87年の『ロビンソンの庭』以来の四半世紀ぶりにこのテーマに挑んだということになる。森は森、水(滝)は水で別の場所で撮影を行うというこだわりようだが、今回はこの熱意が強い物語によって補完され、作中でテーマが浮いてしまうことはなく、それでいて変に小さくまとまっているようなこともなく、少し大げさな表現を使えば、山本政志の新境地といってもいいだろう。シネマ☆インパクトのブランドマークが付いてはいるものの、この作品はその枠には収まりきらないものになった。突然変異種『恋の渦』はまだ荒さが目に付きワークショップの残像が見え隠れしたが、こちらは完成度が違う。
  “森と水”というテーマと映画のストーリーのここまで密度の高い融合を見せられると、山本監督の未完の大作『熊楠・KUMAGUSU』の再始動まで期待してしまうのだが、それは欲張りだろうか?



『水の声を聞く』
監督・脚本:山本政志 プロデューサー:村岡伸一郎 ラインプロデューサー:吉川正文
撮影:高木風太 照明:秋山恵二郎 美術:須坂文昭 録音:上條慎太郎 編集:山下健治 音楽
:Dr.Tommy
出演:玄里 趣里 村上 淳 鎌滝秋浩 中村夏子 萩原利久 松崎 颯 薬袋いづみ 小田 敬
2014年/129分 製作:CINEMA☆IMPACT
公式HP:http://www.mizunokoe.asia/

8月30日(土)〜9月23日(火)オーディトリウム渋谷にてロードショー
http://a-shibuya.jp



【村松健太郎】ムラマツ・ケンタロウ
脳梗塞との格闘も7年目に入った映画文筆屋。横浜出身。02年ニューシネマワークショップ(NCW)にて映画ビジネスを学び、02年よりチネチッタに入社し翌春より06年まで番組編成部門のアシスタント。07年初頭から11年までにTOHOシネマズに勤務。12年日本アカデミー協会民間会員・第4回沖縄国際映画祭民間審査員。現在NCW配給部にて同制作部作品の配給・宣伝、イベント運営に携わる一方で批評・レポート等を執筆。
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2014年06月10日

『収容病棟』クロスレビュー
比嘉徹徳(思想史/精神分析)、菊井崇史(文筆/詩/写真)

比嘉徹徳(思想史/精神分析)

 閉鎖環境への監禁によって従順な身体を作り出すことが、近代の規律権力のあり方であった。この病棟に収容された「狂人たち」は、建物の中庭を見下ろしながら延々その回廊を彷徨し続ける。廊下だけでなく階段にも鉄格子が張り巡らされている。この閉ざされた空間で、患者の一人の言葉を借りれば、彼らは「ゾンビ」のごとく佇みうろくつことしか許されていない。
 しかし規律権力が監禁と同時に、時間の有効利用による技能習得やら知識獲得といった「発展」や「発達」をあくまで目指していたのに対して、このドキュメタンリーが描くこの病棟には、いかなる未来も指し示されない。ここには未来がない。時間は円環的に閉じている。「回復」や「治癒」、社会への「復帰」は医師や看護師、あるいは患者の家族すら望んでいないように見えるし、患者たち自身も次第にそれを信じなくなっていく。空間的にこの病棟が回廊として閉ざされ、歩いてきた場所にまた戻るしかない構造であるように、時間的にも、昨日と同じ一日が始まり、そして同じ一日が明日以降も果てしなく続いていく。こうしてある者は10年、ある者は15年、そして20年をこの病棟に棲まい続ける。この閉鎖病棟に入りたての「新人」が示すありとあらゆる抵抗に、ベテランがやさしく諭す。慣れるしかないのだ。その先の未来がないということに。

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 ワン・ビンが映す人物たちは、誰もが閉じ込められている。現代中国の厳しい現実にカメラを向けることによって、何より、「人々はそこから動くことができない」ということをこの作家は執拗に描こうとしているのではないのか。前作『三姉妹〜雲南の子』において、家畜たちに囲まれた極貧の中国農村のある家族を追ったときもそうであった。ヤギやロバたちを連れ出して行った先に広がる山村の段々畑のある広大な見晴らしが、その空の寒く乾いた青さとともに開放感を見る者にもたらすことは決してない。その眺望はどこまでも続いていく可能性や明るい未来を指し示すものではなく、この小さな子どもたちや大人たちは決してこの貧しい場所から逃げられない、いつまでもこの開け放たれた「吹きだまり」に閉じ込められたままであろうという苦い印象をしか与えない。ここから逃げ出すには、せいぜい都市に出稼ぎに行くことであるが、これもまた別の不自由、別の「監禁」でしかないだろう。

 この閉鎖病棟内では、当然ながら、医師は医師であり患者は患者であるという厳然たる制度的な同一性が貫徹している。乱暴な所業に対する「罰」として後ろ手に手錠をされた患者が、医師にどうか外してくれと懇願する。医師は自らの気まぐれな裁量において適当なところで外してやる。また、医師たちによって目の前で列をなした患者たちが薬を服用させられる光景は、治療するためのものというより、むしろ彼らを患者であり続けさせるための儀式のように見える。
 では、この病棟内の人間たちが均質でモノトーンであるかというと、そうではない。カメラは、固有名を持ったそれぞれの存在を映し出していく。そのそれぞれの特異な個性は、彼らのその発話形式によって見る者に強い印象を刻む。歌をうたう者、怒鳴り散らす者、やさしく仲間を気遣うささやき、俺は狂っていないと抗議する者、賢者のように世界を語る者、あるいは黙して時間をやり過ごす者。下の階に同じく入院しているお気に入りの女性患者に呼びかける男の猫なで声、暗闇に消えていく虚しい独白。話し方によってそれとわかるさまざまな個性の共存は、その病質や症状が深刻であるか否かに関わりなく「いっしょくた」にこの病棟に収用されていることにも拠るのだろう。家族や近隣の者による「通報」や「要請」によって強制的に収容された者がほとんどらしい。こうなると単に風変わりに見える者から、呆けて徘徊する者、喧嘩早いあらくれ者、妄想に苦しむ者や、アルコールもしくは麻薬の中毒のためにベッドから一歩も動かぬ者までが、同一空間にひしめき合うことになる。結果的に、われわれは患者たちの奇妙な共同生活を垣間見ることになる。
 彼らは差し入れの食料を分けあい、あるいはタバコを融通しあっている(その一方で、他人に食べ物を取られまいと必死になっている者もいる)。あるいは、仲間の足を洗ってやる患者がいる(他方で仲間を大した理由もなく蹴りつける男もいる)。親子ほども年が違う男二人が思春期の同級生同士のように肩を組んで語り合う姿があるかと思えば、他人のベッドに潜り込もうとする男と、それを嫌がりながらも結局は許してしまう患者がいる。狭いベッドに複数の男たちが同衾する姿は滑稽ではあるが、これはしかし、行き場のない寄る辺のなさを互いに持ち寄った者たちが陥った極限的状態でもある。

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 この作品は、ほとんど映されることのなかった対象をわれわれに見せてくれるという意味において極めて貴重であることは言うまでもない。患者たちが強制的に収容されているあのような場所によく入り込めたものだと思う。ただしその一方で、日常において見ることのできない特殊な対象や隠蔽されているものを追いかけて映し出すことは、ドキュメンタリーの最も基本的な振る舞いであるだろう。その意味で、これら「汚辱に塗れた者たち」(フーコー)を映すことは、それ自体では、ドキュメタリーの常套とすら言えるかもしれない。
 しかしこの作品がそのような常套性を免れているのは、その実われわれには何も隠されていないということ、何も秘められたものはないことをこそ映し出すことによってである。患者たちの振る舞いは、なるほど奇矯であり常軌を逸している。しかし同時に、われわれはそれらを充分すぎるほど理解できるし、彼らの発言の意味を受け取ることができ、感情の動きを見て取ることもできる。患者たちが特異でわれわれの理解を絶した何者であるかのような「演出」は皆無である。ましてや、その佇まいに特別な意味やフェティッシュを見いだすことは固く禁欲されている。カメラを前にして患者たちがなぜかくも「ありのまま」を曝すことができるのか、これは今でも私にとって理解できないままである。ワン・ビンが彼らの内面に立ち入ろうとしている訳でも、また、壮絶な物語を求めている訳でもなく、ただただ彼らの隣人として長時間寄り添っていたであろうことが推測されるだけである。ここに対象にカメラを向けるワン・ビンの監督としての倫理があるはずである。ここに映し出されているのが生の「卑小さ」であると誤解を恐れずに言うなら、それはこの作品を見ている衣食足りたわれわれの生とも地続きであることが了解されるだろう。

 作中でカメラは一度だけ戸外へ出る。そして収容病棟から退院したある元患者を追っていく。家族たちの扱いは冷たい。何かあればまた入院させるぞと言い放つ親。ほどなく家を出て男は歩き始める。日が暮れる。それでも男はポケットに手を突っ込んだまま黙って歩き続ける。カメラがそれ以上追うのをやめ、その男は冷たい闇夜に消えていく。彼は自由になったのではない。行く当てもなく、どこにも逃げ場などないことは誰よりも彼が知っているのである。

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菊井崇史(文筆/詩/写真)

 三階建、中庭に面した廊下の全面に鉄格子が張り巡らされ、各階ごとにも閉鎖されているその病棟は、「中国では多くの精神病院は、衛生部ではなく、日本の警察庁に当たる公安の管轄を受けている」、「治療は二の次となっている事実」と資料にあるとおりの様相を紛れもなく呈していた。

 中国南西部雲南省にある公立精神病院で、二〇一三年一月三日から四月十八日までの三ヵ月半のほぼ毎日を撮影されたドキュメンタリー映画『収容病棟』にうつされる人々の実際は、「収容」「病棟」という言葉が思い起こさせるであろういかなる時と場所にも襲ねることはできない。その場所と日付は固有であり、そこには固有の人間が生きている。そう断言しなければならないのだと覚悟したのは、人間の生存の個々を見極めることがこの映画の意志だと覚えるからだ。

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 「どうやらこの人には精神疾患はなさそうだと感じた人は数多くいましたが、どの人がどうだとはっきり断定することはできませんでした。」と監督ワン・ビンが言うように、収容された人々が、正常か異常かを割り切り、判断できるものではないことは、すぐにわかる。薬物及びアルコール依存、治安紊乱行為、喧嘩、浮浪罪、神経衰弱、過度な信仰、政治的陳情、一人っ子政策への違反、重度障害者、認知症、うつ病、コミュニケーション障害等が、病棟に収容される理由であり、各々の暴力性のあるなしを問わず、彼らは皆、一緒に収容されている。しかし、理由の差異にかかわらず、「異常なふるまい」の一括りに行使される病棟への収容だけが、「断定」を拒むのではない。

 収容病棟を生きる人々は、反社会的、反人間的、つまり、人間の規範からの逸脱を宣告されてあり、「すべて自発的入院ではなく、家族や警察、裁判所による措置である。」と映画の終わりに記されることは、その収容が彼らへの一方的な行使であることを充分に説明している。反社会的、反人間的と判断されるには、社会的であり人間的であることの規範がなければならない。国家、共同体は自身を構成する人間の輪郭を規範として縁どる。そして、個々の生存が共同体の規範から逸脱すること、それを判断するのは規範をまもる側でしかない。人間の規範を維持し、保身するのは、規範に生きるものの側であり、そこからの逸脱は、反、という烙印を押され、かたづけられる。誰がここにおれをいれた、という一人の男性の問いの、「誰」は、その行使が一方的であればあるほど、明確に固有の人間、集団を名指しえない。反社会的、反人間的であるものを選択、排斥、抑圧し、淘汰するものは、多数の権力なのだ。

 ワン・ビンは、そのことをはっきりと理解している。だから、収容されてある人間の正常、異常を問うこと、「はっきり断定すること」をしない。収容されてある人々に加担し、告発をなす映画でもない。だからこそ、『収容病棟』は、人間の規範が、つまり、病棟に生きる人間を反社会的、反人間的と断定する側のものが、正常か異常かを問うことになる。『収容病棟』は、病棟に生きる人間の実際に目をむけると同時に、病棟という制度そのものをわれわれの瞳に晒すからだ。この映画を観るものは、その双方と真向かうしかない。

 国家、共同体に異常、狂気と見做され、反、と宣告されれば、誰もが収容される。思惑と作為さえあれば、そこに、確かな判断、明確な根拠を、制度の側は必要としてはない。ならば、病棟を生きる人々の日々の実際が露顕することだけが、異常と正常、狂気と正気の境界が揺さぶるのでも、消滅させるのでもないのだ。そのような境界は、はなから自明でも確乎なものでもありえない。明確な理由の呈示を必要としない収容の行使において、どうしてだ、なぜこんなことになった、と映画に響く一言の切実、悲痛は、人間が人間を隔離すること、排斥すること、人間が人間を隠蔽すること、その隔離と隠蔽が、選択、排斥、抑圧のもとに行使されることを烈しく伝えていた。

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 雪の日が在る。三階のカメラが地上、ひとりの女性をうつす。彼女は、雪の降る中庭で、歌をうたい、跳ねている。彼女は、ほほえんでいる。カメラと彼女の間には、雪が降りつづく。絶え間なく。鉄格子越し、雪の一片一片、無数の白が、カメラと彼女の距離を可視化する。自由な行き来を赦されない病棟の二階三階、鉄格子越しに、愛を伝えあう男女がいる。わたしの顔が見えるか、わたしを抱きたいかと、彼女は三階の彼を見あげ、呼びかける。彼は静かに、二階の彼女にこたえる。ふたりがふれあう光景がうつされる。鉄格子越し、だが、互いの掌がふれあい、互いのこごえが、息が届く。カメラは、鉄格子の見せる隔離と共に、ふたりの愛が確かめた距離を伝える。ワン・ビンは、距離を可視化させつづける。彼女彼らに張り巡らされた鉄格子は、絶望的な距離としてカメラとのあいだにも絶えず巡っている。その絶望的な距離は、病棟を生きる人々と、その映画を観る者との間では、一層、重い。それは、いかようにも無化されない。されてはならない。

 時折、人々は、カメラを見る。ゆっくりとカメラを見る人もいる、すぐに瞳をそらす人もいる。映画を観るものは、カメラにむけられる瞳が、自身にむけられた視線と覚える瞬間があるだろう。しかし、そうではなく、その視線は、カメラとの距離をはかっているのだ。ワン・ビンは、カメラと、うつされる者の距離をありのままに伝える。照明を使わない。カメラを固定しない。暗いものは暗く、明るいものは明るい。彼らの生涯のひと時に、物語を付着させることもない。カメラは揺れている。うつされる者があゆめば、カメラもあゆむ。翔ければ、カメラも翔ける。見あげ、うつむけば、その視線に添う。カメラは、彼らを見ていることを見せる。瞳をそらさないことを見せる。個々の生存を承認していること、個々の生存を見つめる覚悟があることを体現している。この覚悟が、『収容病棟』を撮り、完成させたワン・ビンの位置であり、切実だろう。ワン・ビンのカメラは、病棟を管轄、統治する権力が放つ視線に似ることを自身に赦さない。

 ワン・ビンのカメラは、距離を護るのだ。距離を護ることと、隔離は、絶対的に異なる。隔離とは、生存の個々を見極め護る距離を無化するからだ。隔離を行使するもの、そして監視するものは、彼女彼らの個々の生存を見てはいない。存在と存在、人間の距離を見ない。監視者が彼らを個々と見做すのは、規範からの逸脱の度合いであり、監視体制を揺るがさないかどうかにおいてだ。それが、隔離し監視するものの視線であり、その視線は、生存の個々を封殺する。ワン・ビンは、封殺された人々の聲を聴く。人々の仕草を見る。ワン・ビンは彼らに発言も仕草もうながさない。人々がみずから語り、行動する、人々の生きる日々の実際をうつすのだという意志をはずさない。ひしめくベッドの軋み。シーツの皺。壁のくすみ。衣服の汚れ。鉄パイプの錆び。裸足や靴の足音。排泄された尿や、飛散した水道水で水浸しの床。煙草のけむり。無造作な髪の毛。飲食物の包装。彼女彼らが生きてきた、生きている、生きてゆく場所の様相の細部が、映画を観る間、確実につみ重なるからだろう、一人の男性が蜜柑の皮を剥く時、実と内果皮の繊維が、千切れ、剥がれる音、その指のすがたが伝える生存の呼吸に、わたしは、胸を締めつけられた。ワン・ビンは、自身のカメラが出逢い、うつしとった日常の光景のひとつひとつを『収容病棟』を観るものに、邂逅させる。たとえそれが、絶望的な距離のさきにであろうとも。

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 『収容病棟』という経験の結果「鉄格子で閉じ込められているにも関わらず、彼らは彼らの間に、道徳による規制も行動の規制もない、新しい世界と自由を創りだしています。」とする監督ワン・ビン自身の言明に対し、わたしは首肯できない。その言明を承認するには、病棟を統治、管理する「行動の規制」「道徳による規制」が、あまりに見えすぎていたからだ。

 法を犯していなくたってやつらは一日中監視する、先生たちは権力者だ、病棟を生きる人間が告げる一言一言は、収容された人々が、法にふれるかどうかだけを監視されているのではないことを教える。病棟において一層に監視され封殺されるものは、個々人の「道徳」倫理、および、それにもとづく「行動」なのだ。個々人が、各々に護り、生きる倫理道徳は、共同体を構成する人間の規範及び法と不可分ではないが、制度からの一方的な強制に屈すべきものではありえない。個々の倫理道徳は、その内側、外側から、人間の規範の縁取りを問うことができる。法に否を叩きつけることができるし、国家、共同体の制度を変革する根拠になるものであり、その余地は奪われてはならないはずだ。しかし、『収容病棟』には、権力が倫理道徳に対し、一方的に介入し、生存の均一化をはたそうとする手つきが、あまりに露顕している。時折、彼らは、病棟の管理体制、権力に対して敵意を吐露する。しかし、この敵意は、何ものにも釣り合わない。病棟で赦される敵意は、管理体制が脅かされないと判断されたものであり、管理体制を脅かすそれは赦されないからだ。許容の限度にふれたならば、制裁を与え、暴力を執行する。管理体制を脅かさない範囲での緩慢な放任、無関与もまた、それ自身が暴力の形態だろう。病棟を生きる人々は、収容されたという現実を受けとめるしかないのだ。病棟に収容されたという揺るがぬ事実によって、彼らは、自身が、排斥されてあることを自覚している。理由はわからなくても、納得などできなくても、その事実は自覚せざるをえない。その自覚が時に、敵意となり、絶望となり、悲しみとなる。彼らが見せる敵意とは、彼らにむけられた敵意の照りかえしなのであり、その敵意、聲、悲しみ、憤りは、ふたたび一方的に監視される。釣り合うわけがない。

 一度だけ、カメラは病棟の外に出る。母の迎えに連れられ、病棟を去る三十歳に近いひとりの男を追って。男は、自分の帰宅を喜ぶでもない母親に、何かあればまた病棟に連れてゆくよと脅される。しかも、男の帰宅した家屋は、「この貧しい地域では患者及び患者の家族の大半に治療費を払う余裕はない。」との言明に顕著であり、貧困の実体が、収容とわかたれないと知るとき、強制収容されることも、収容されてからの日々にも、収容をとかれてからの日々にも「自由」を見出すことは難しかった。自発的な収容病棟からの離脱が不可能であるという状況、管理体制の転覆、もしくは、変更はもう病棟の外部からでしか可能ではなく、しかし、その外部が、彼らを強制収容したのだという事実にいきあたらざるをえなかったからだろう、鉄格子越しに見えるビルや、夜空にうちあがる花火、その破裂音といった、病棟から見える外部の気配の逐一が、たまらなく不穏なものに感じた。

 ひとりの青年が、自身の肌に言葉を記す光景がある。文字の読み書きがあまりできず、共に生きる人間に教わっている。青年は、手や足の肌に記した文字を丁寧に指でなぞり、聲に発する。自分は、肌が薄いからと文字の書かれた皮膚をむき、傍にいる人々をわらわせる。彼は、共に生きる人間の肩に腕をまわし、人懐っこい表情で、語る。聲を交わす。『収容病棟』からは時折、歌が聴こえる。不意に、彼女彼らは、何かを思い出すように歌をうたう。歌謡曲、故郷で聴いた歌、祈りの歌、民謡、ひとつひとつの旋律や詞が、人のよすがであるように、口からこぼれる。それら全ての歌が、切なく響く。覚えていたい。その歌は、うたう人自身のものだ。歌うこと。飯を喰うこと。排泄すること。寝ること。煙草をすうこと。走ること。水を浴びること。服を着込むこと。裸になること。柵越しの日を浴びること。想うこと。願うこと。それらは尽く、彼女彼らが生きていることの証明だ。その証明の重さに、痛切に、だからこそ、わたしは、病棟に収容され生きる人々が「自由を創りだして」いると言うことは赦されないと感じたのだった。この映画を観るものは、彼女彼らの見せるほほえみや、よろこびや、やさしみや、いたわりあう光景を理由に、慰められても、救われてもならないのではないかと。もしも、「自由を創りだして」いると言っても赦される人間は、病棟を生きる人々自身、個々の生存だけだろうと。

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 撮影が終了した翌月、二〇一三年五月、中国で「精神衛生法」が施行され、個人の同意なしに施設へおくりこむことが違法行為だと明文化された。起草から施行までに、三十年弱の年月を経て。しかし、制度は、条件による強制の余地を残している。この余地は、闘争の場だ。この余地に、今、われわれは問いたださなければならない。『収容病棟』にうつされる現実の何が異常、狂気であり、何が正常、正気なのかを。

 『収容病棟』は、現在、人間の生存全土の基盤、規範、共同体の概念を、幾多の位相によって問うことになるだろう。われわれはいかなる地に生きているのかを問われる。同時に、『収容病棟』という四時間の経験の重さは、はかりがたく、容易な理解を拒む。烈しく。彼女彼らの生きる日々は、あらゆる相似を無化するに充分な現実だからだ。映画を観終えた後、今、現在、終わりなく病棟の現実が繰りかえされているのだということの自覚の前では、一層にそうなのだ。ワン・ビンのカメラが隔離をではなく、距離を忘れなかったように、それを受け取る側のわれわれはそれを忘れてはならない。

 ひとつの光景が映画の開始を告げる。西日が射している。ベッドの上、白い布団がうつされている。無造作に剥がれる布団のなかに、ふたりの男性がもぐり、つつまれていたことがわかる。めくられた布団の内側に西日の光が届き、ふたりの体温でみちていただろう、そのぬくもりが宙にほどけるのが伝わる。男のひとりは、構わないでくれと、苛立ちを籠めた聲を出す。この光景に映画のはじまりを託した理由は、映画がすすむにつれ、明かになる。いや、その光景の重さが、ふくらんでゆく。おそらく、外部を遮断する布団のなかで、彼らは彼らであることを護っていたのだ。人のぬくもり、匂い、息、肌を確かめ、それらが命のそれであることを覚えていた。その切実がひたすらに重さをましてゆく。『収容病棟』に籠められた生存の切実は、幾度も、わたしをこの映画に向かわせるだろう。

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『収容病棟』
監督:ワン・ビン(王 兵)WANG BING
製作:Y.プロダクション、ムヴィオラ
2013年/香港、フランス、日本
配給:ムヴィオラ
上映時間:前編 122分/後編 115分(全237分)
第70回ヴェネツィア国際映画祭特別招待作品
第35回ナント三大陸映画祭銀の気球賞
コピーライトマーク Wang Bing and Y. Production

6月28日(土)、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
公式HP:http://moviola.jp/shuuyou/






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2014年04月27日

新作映画『シンプル・シモン』劇場公開のお知らせ

2011年のアカデミー賞外国語映画賞のスウェーデン代表に選出され、国内でもSKIPシティ国際Dシネマ映画祭で審査員特別賞を受賞。その後もトーキョーノーザンライツフェスティバル2012ほか各地の映画祭で好評を得た本作が、ついに劇場公開をはたす。

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コピーライトマーク 2010 Naive AB, Sonet Film AB, Scenkonst Västernorrland AB, Dagsljus AB, Ljud & Bildmedia AB, All Rights Reserved.


5月3日より、渋谷ユーロスペースにて公開後、全国順次公開!

公開日:5月3日(土)
劇場:ユーロスペース渋谷
   渋谷区円山町1‐5 KINOHAUS 3F 電話:03-3461-0211
   http://www.eurospace.co.jp/
入場料金:一般1800円/大学・専門学校生1400円/会員・シニア1200円/高校生800円/中学生以下500円


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『シンプル・シモン』
監督・脚本・製作:アンドレアス・エーマン
脚本・製作:ヨナタン・シェーベルイ 製作:ボニー・スクーグ・フィーニー 製作総指揮:ピーター・ボスネ
撮影:ニクラス・ヨハンソン 照明:ヨン・ストランド 美術:サンドラ・リンドグレン 編集:アンドレアス・エーマン ミカエル・ヨハンソン
音楽:ヨセフ・トゥールセ
キャスト:ビル・スカルスガルド マッティン・ヴァルストレム セシリア・フォッシュ ソフィー・ハミルトン ロッタ・テイレ
イングマール・ヴィルタ クリストッフェル・ベルイルンド ジミ・エドルンド スサンネ・トールソン マック・クヴィストレム
2010/スウェーデン/1時間26分
配給・宣伝:フリッカポイカ
公式ホームページ:http://www.simon-movie.jp/index.html

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Story
アスペルガー症候群のシモンは他人の気持ちが分からず、触られるのも大嫌い。嫌なことがあると宇宙船に見立てたドラム缶に閉じこもって想像の世界に引きこまってしまう。そんなシモンの唯一の理解者が兄のサムだが、シモンが原因で恋人と別れることに。失恋に落ち込むサムを見たシモンは「科学的に完璧な恋人」がサムにいれば元通りになると思い、恋人探しを始める。「人は違うから惹かれ合うんだ。磁石と同じさ」という兄の言葉を聞いた、シモンは毎朝同じ時間に街角ですれ違う天真爛漫なイェニファーを恋人候補に絞り、ある計画を実行に移すのだが……。

















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2013年07月30日

銀座シネパトス最後の支配人、鈴木伸英インタビュー

東京は銀座地区唯一の名画座として親しまれてきた銀座シネパトスが今年3月31日をもって閉館した。地下鉄銀座駅と東銀座駅の中間にある三原橋地下街にある同館は1967年、銀座地球座そして翌年名画座としてオープン。主に成人映画を上映してきたが、1988年に現在の銀座シネパトスに改称して一般映画にシフト。2009年からは3スクリーンのうちの1館を邦画専門の名画座として、ユニークな番組でファンに支持されてきた。「名画座宣言」の発案者であり、近年の名画座ブームにおおいに貢献されてきた同館最後の支配人、鈴木伸英さんにお話をうかがった。
(取材・構成:磯田勉、春日洋一郎 構成:武隈風人)

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――シネパトスに支配人として赴任されてから閉館まではどのくらいですか。

鈴木 シネコンの成田HUMAXシネマズからこっちに移ってきてから4年でしたかね。12年前の2001年にも1年間ぐらい支配人をやっていたことがありましたが。

――その頃はどんな番組をやっていたのですか。

鈴木 当時は3スクリーンすべてが単館系で、それが埋まらないときはムーブオーバーをやっていましたね。夜は当時から、レイトショーでロマン・ポルノなどの特集を上映していたんですが、ちょうどそのころ、「並木座」(註1)さんがなくなったあとで、日本映画の旧作の上映をやりはじめました。

――銀座地区で名画座を引き継いでいこうと?

鈴木 そこまでは、とても考えてませんでした。昼間は番組が契約で埋まっていますから、夜にカルトな名画をやっていました。

――レイトだけだとお客さんがなかなか定着しないのでは?

鈴木 レイトショーとしては定着していました。ただ成瀬巳喜男監督とかをやっても、やっぱり年配のかたたちがなかなか足を運べませんから。

――そして2009年の4月に鈴木さんはまた支配人として赴任されます。ほどなく、同年7月に銀座シネパトスは「名画座宣言」として、3スクリーンのうちひとつを邦画旧作の上映にあてる方針を打ちだしました。これは鈴木さんの発案ですか。

鈴木 12年前のときも2、3度、レイトじゃなくてモーニングショーでもやったことがあるんです。そのときお客さんから続けてもらいたいという声もあったんですけど、私が1年ですぐにシネコンのほうに戻っちゃったのでできなかったんです。
で、こちらに移ってみると昼間の3スクリーンが埋まらないことがあるので、思いきって一軒を名画座に変えられないか、という提案が通りまして始めたわけです。

――最初は「日本映画レトロスペクティブ」シリーズというかたちで、それこそ並木座を思わせる、けっこう堅い番組でしたね。

鈴木 スタートは自分としては、高度経済成長期の日本映画がいちばん元気だったころ、昭和33年(1958)の前後あたりから特集上映したいという思いでした。

――軌道に乗りはじめたのはどのあたりからですか。

鈴木 2009年の11月に森繁久彌さんが亡くなられたんです。たまたまそのとき12月から特集上映を組んでいたんですよね。チラシもすでにでき上がっていましたが、急遽、追悼というかたちに変えまして。それまでは一日に30、40人ぐらいだった動員が200人ぐらい来られて。テレビの取材も入ったりしました。

――すると、この森繁特集がターニングポイントになったと。

鈴木 そうです。それでグンと動員も知名度も上がったんです。それからはコンスタントに100人から150人ぐらいはみえるようなったんですね。

――シネパトスといえば、特撮ものの企画が人気ですね。

鈴木 12年前に支配人で来たとき、ちょうど円谷英二監督の生誕100年の年で、そのときも特集をやりましたね。最初の「平成ゴジラ誕生祭」という特集は持ち込み企画だったんですが、その当時いろんなかたたちとの話し合いを重ねていくうちにやってみようと。名画座の立ち上げですから、とにかくいろんなジャンルを企画するなかで広まっていけばいいなと思ったものですから。
そうしたら、それがことのほかすごく、鉄板というか人気企画になってしまって。最初は「平成ゴジラ」ということでどうかな、とも思ったんですけど。「昭和」で売りたかったものですから(笑)。『ゴジラVSビオランテ』(1989 大森一樹)からすでに10年ぐらいは経っていたんですよね。

――それ以降、特撮ものが番組の柱の一つになっていきましたね。

鈴木 とくにゴジラの場合は、11月3日がゴジラの日ですよね(註2)。そこは必ず、東宝さんに特別な問題がなければやろうということで。

――あとモスラの日とか、公開日にちなんだイベントをいろいろやっていますよね。

鈴木 特撮のファンのかたたちが定期的にみんなで集まって上映したいというのがあって。あとは川北(紘一)監督が頻繁に出版されたり、なにかのタイミングがあるといつも声をかけていただいて、私どもも何かあるときは、必ずウチでやらしてくださいと話していたんです。

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――女優さんの特集がまたひとつ大きいと思いますが。名画座宣言後、昼間の番組とは別にレイトショーの特集も始められました。その第1弾が「cool&wild 妖艶美 反逆のヒロイン」と題した梶芽衣子さんの特集。これも鈴木さんの企画でしょうか?

鈴木 そうですね、私が梶さんを大好きなものですから。そのあと、ひし美ゆり子さんや関根恵子さん(現・高橋惠子)など、「誘惑の女優列伝」と銘打ってレイトショーでやりました。とにかく一発目は梶さんでやろうと思っていたので。

――ぼくの印象では、秋吉久美子さんの特集の反響が大きかったように思いますね。

鈴木 大きかったですね。この特集は映画批評家の樋口尚文さんと一緒に秋吉さんを呼べないかなというのがありまして。トークにもいらしていただきましたけれど、「日本映画専門チャンネル」さんや「キネマ旬報」さんやらの取材も一緒に連動してできたので、企画が膨らみましたね。
秋吉さんとは最初に知り合って以来、シネパトスのことを応援していただけるようになって。秋吉さんがどうせやるならということで、いろんな媒体に持ちかけてくれたのも大きかったですね。

――樋口尚文さんとのおつきあいというのはそのあたりから?

鈴木 わたしがひし美さんや高橋惠子さんの特集を組むことを決めていたころに、樋口さんと知りあったんです。ウチが名画座宣言をしてからお客さまとして来られていた樋口さんが手紙をくれたんです。何が響いてくれたかというと、まだ始めたばっかりでしたから、休憩中のBGMに昭和歌謡をかけたりして、まあ自分の好きなものしかかけていないんですが、それがすごく樋口さんにもシンクロしたみたいで。どういう人なのかぜひお話したいという、もったいない言葉をかけてもらいまして。それで返事を書いてお会いしてから、じつはこんな企画を考えていると。わたしのほうでもゲストをお呼びしたいんだけれども、伝手がなくてわからなかったものですから。ひし美さん、高橋惠子さん、秋吉久美子さんという、お互い好きなところが合致しまして、そこからですね。
樋口さんからもいろんな申し込みやこんな企画はどうですか、といった感じで。私からもお願いするようになったり。樋口さんもすごくお忙しい人なので、つねにお願いしているわけではないのですが、トークショーのときに「樋口さんがいい」とタレントさんもおっしゃるので司会をお願いしたり。

──大学がご一緒だったと聞きましたが。

鈴木 一緒でしたね。ちょうど同い年で。でも面識はなかったです。樋口さんは早稲田大学の政経学部で、私は社会学部だったので、まったく知らなかったんです。ただ、樋口さんとは過ごした時代や範囲が重なるんです。九州の佐賀のかたなんですけど、小中学校からこっちに出て来てて、中学校は樋口さんが芝中学校、わたしは御成門中学校で、映画は日比谷の日比谷映画とか有楽座とかで観ていたので話が合うんですね。

――そこから俳優さんをゲストに招いたトークショーが定着するんですね。

鈴木 12年前に私がいたころは続けてレイトショーをやっていたんですよ。その後、いろんな支配人に代わりましたが、やったりやらなかったりしてそのうち途絶えてしまうんですね。新作のレイトショーはやるんですけど、あるときからまったくレイトショーすらやらなくなった。わたしはその後、十数年間、横須賀と成田のシネコンにいたんですが、ずっと気になっていて。もしかしてシネパトスが特徴のない劇場になってしまったのではないかと。
動員も最悪になっていたので、名画座宣言をしてからはここでもう一度シネパトスを注目させたいと思って、とにかく怒涛のようにイベントを組みました。

――映画上映に付加価値をつけると。

鈴木 どうしてもお客さんみんなに自分のセレクションを観てもらいたかったものですから。また、俳優のかたや監督の話をうかがっていると、意外と当時は舞台挨拶だったりトークショーをやられていないんですよ。それで、何年も何十年も経ったあとに――わたしが言うのもなんですが――劇場に招かれてお話して、ファンのかたがたと話すというのはすごくよい時間を過ごせた、というお話をよく聞くんです。これはもうお客さんにとっても、監督さんや出演者のかたがたにも、わたしたち劇場にとっても、みんなよい時間を過ごせる、こんなよいことはないなと思って、できるだけひとつの企画で1回のトークぐらいはしたいと思って組んできましたね。夏木陽介さんのときは3回やりました。ご自身が何回もというご希望があって。

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──印象に残っているゲストのかたはいらっしゃいますか?

鈴木 たくさんおられますが、なんといっても原田芳雄さん。原田さんは木村威夫監督の『黄金花 秘すれば花、死すれば蝶』(2010)で名画座ではなく封切上映だったんですが、そのときはちょうど、名画座宣言の森繁さんの特集のちょっと前だったんです。ご挨拶で「支配人、君は名画座宣言をよくやったよ」と言っていただいて、ああ知ってくれてるんだと思って。「駅前」シリーズとか「社長」シリーズとか、全部好きで観てるって話してくれました。
舞台に立ったら、『黄金花』の話はひとつもしないで、名画座宣言の話だけしてました。その後も打ち上げで飲みに行ったときもずっとその話をしていただいて。わたしは劇場に戻らなければいけなかったんですが、最後に原田さんも出てきてくれて、写真撮ろうと言っていただいて、ウチのシネパトスの前で一緒に写真を撮ったんです。だからすごくそれが印象に残っているんですよ。
原田さんから言われたわけじゃないですけど、樋口さんと話していてぜひやろうとなって、その後、原田芳雄さんの特集をやりました。

──原田さんが亡くなられたときはちょうど梶芽衣子さんの特集を上映中で、原田さんの映画もかかっていて、図らずも原田さんの追悼特集にもなっていましたね。

鈴木 なりましたね。梶さんの特集を昼間やるのはちょっと冒険だったんですけど、森繁さんの特集と同じ数字だったんですよ。すごくいい興行でした。若い人もたくさん来ていただいて。
梶さんが来てくださったのには感激しました。梶さんのほうから直接、何月何日に行くよと連絡が来て。撮影中でしたが、合間に京都から駆けつけてくれましたね。四、五日前の発表になりましたが、劇場は一杯になりました。

――あと当たっていたのが舟木一夫さんと天地真理さんの企画。

鈴木 そうですね、舟木一夫さんは3年連続やって、天地さんは2年連続で。本当はもっと続けたかったんですけど。舟木さんの場合は、劇場の前でおじちゃんおばちゃんの四人組が話をしていて、あの人もしかして支配人じゃないか、と声をかけたがっていたみたいなので、わたしから声をかけたら、ここで舟木一夫さんの映画をかけてもらえないですか、と言われて。それで話してみたら、3年後に芸能生活50周年を迎えると。それで3年前から仕込んで50周年で花咲かせたいと。すごく計画的なんですよ。そのかわり、どこで映画を上映していいかわからないし、ホールを借りるのは何百万もかかるし、一日だけは嫌だと。それで、じゃあ一緒にやりましょうよという話をして。
それまでにいろんなファンのかたや名画座で知り合った仲間との企画をいくつもやっていましたので、絶対にひとりで考える企画なんかよりもみなさんと考えたほうが、多くのかたから喜んでもらえると思っています。私なんかより全然詳しいかたたちと一緒にやったほうが、企画が膨らむじゃないですか。そういうのがあったんで、舟木さんの特集もすぐに上映しようと。日活映画で舟木さんと共演の多い女優の和泉雅子さんもウチの映画館の近くにお住まいなので、ちょうど声をかけられるなと思って。そうしたら、1年目からお客さんが来てくれて。最初はなかなか舟木さんサイドからの協力は得られなかったんですけど、2年目からは受けることができて。舟木さんがゲストで舞台に立つというのはたいへんな話なんで、それはできませんでしたけど。
天地さんも、2010年にファンクラブが再結成されまして、わたしも天地さんのファンだったので、そこにも参加していて(笑)。ちょうどデビュー40周年で還暦を迎えるということで、ファンクラブに入りましたものですから、そこのメンバーと話をして、ウチでぜひ映画を上映したいと話して。調べたところ、松竹から送られてきたプリントは2本ともボロボロでダメだったんです。じゃあ、新たに焼こうということでやりました。その時は「ドリパス」(註3)でやったんですけど、ニュープリントが焼けたのはよかったのですが、利益が出ないんですよ。ただ、盛り上げることはできて、なおかつ昨年は松竹さんも積極的に展開してくれて、ファンクラブもがんばって、全国9大都市で天地真理映画祭をやったんですね。

――シネパトスの企画から意外な拡がりが生まれているんですね。

鈴木 これがほんとうに私にとっても、やってよかったなと思う企画ですね。話は変わりますが、去年(2012年)の暮れに次の山田洋次監督の特集に向けて柴又に行く用事があったのですが、別件のイベントやら問い合わせの電話やらでどんどん行くのが遅くなってしまったんです。そうしたらちょうど通りかかったパチンコ屋から舟木一夫さんが出てきたんですよ。こんな大きなマスクをしてたけど、すぐに舟木さんだとわかって。さらに柴又に行くのが遅くなりましたけど、これも運命だと思って、舟木さんに話かけました。いくらやっても舟木さんご本人は映画祭に対してなんの反応もなくてすごくモヤモヤしていたんですが、当然、シネパトスの特集のことは知っていてくれていて。

――歌手のかたは映画ファンとはまたちがった、熱心なファンに支えられていますよね。

鈴木 舟木さんのコンサートもそれを機会に、3回観に行ったんですけが、すごく根強いファンなんだなと思いましたね。舟木さんも自分で話していらっしゃいましたが、あるときから昔を振り返って歌うというのはあまりしないというのが一時期あったらしいんですね。でもとにかくみなさんと一緒に青春時代を歩んできたから、みなさんが聞きたい曲を、ということで、もちろん新しい曲も歌うんですが、今では当時みなさんが応援してくれた曲を歌うというという姿勢なんですね。それで「毎回同じなんだよ」って言うんですよ。「毎回、同じだけど、この曲とこの曲、順番だけが違うね」みたいな、そんな話しかたでお客さんに話しかけて。お客さんももうわかっているんですよね。この時間帯に、この曲が入ったらトイレ休憩に行くと(笑)、そんなことまで決まっていて。舟木さんも「この歌はトイレタイムだから、この曲を歌ってる間にトイレ行ってきて」みたいな(笑)。
本当にみなさんと知り合ったり、名画座をやることによって私自身も新しく知ることがいっぱいあって、本当によかったな、と。新作だけをやっても、そうは広がらないですから。

――新作だとどういう系統が人気ですか。シネパトスといえばスティーヴン・セガールに代表されるB級アクションのイメージですが。

鈴木 ウチとしてもセガール、(ジャン=クロード・)ヴァン・ダムあたりの映画はつねに上映ができたらいいなとは思っていましたが、セガール・ファンも世代交代していかないというか、どうしても動員が先細っていっちゃいますね。今はどこの劇場もそうかもしれないですけど、年配のお客さまが多いので、ドキュメンタリーだとか、年配層のお客さまの好む作品が多くなりますね、やっぱり売り上げのことも考えるので。基本的にはよほどのことがないかぎり、持ちかけられたものは断らないでずっとやってきました。

――シネパトスの新作というと、アクションと並んでエロスものですね。団鬼六原作の『花と蛇』シリーズや最近だと壇蜜主演の『私の奴隷になりなさい』(2012 亀井亨)がヒットしていますね。

鈴木 そうですね。シネパトスはやっぱりアクションとエロスですね。『花と蛇』(2004 石井隆)は一番最初の杉本彩さんのが大当たりしましたから、『花と蛇2 パリ/静子』(2005 石井隆)も大当たりして。それに比べると、小向美奈子さんの『花と蛇3』(2010 成田裕介)は中ヒットになっちゃうんですけど、それでも数字としては大きかったですね。

――石井隆監督の特集をやったのはそういう縁からなんですか。

鈴木 石井監督はわたしが好きだったので、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)の公開に絡めて、よしここだ、と思って、特集をしたくて監督に声をかけました。

――名画座宣言が順調にきたところで一昨年の震災があったわけですが、震災のときの映画館の様子は。

鈴木 震災の当日はイベントが組まれてたんですね。当時は東宝ニューアクション特集を開催中で、『黄金のパートナー』(1978 西村潔)の製作進行だった東宝の高井英幸社長(現・相談役)をお招きする予定でした。ウチはそれでも上映しようかと思っていたんですが、結局、中止になりました。そのへんにヒビが入っていますけど、このあたりは土で覆われているものですから、ゆっさゆっさきても意外に物が倒れることもなかったのですが、地下のシネパトスから外へお客さんを誘導して出たら地面がものすごく揺れていました。
シネパトスの地上の看板の高いところにある時計は震災のときの時間で止まったままなんですよね。電気が通っているはずなんですが、どこか途中で断線しているみたいで、もう直せないんですけどね。

――閉館が急遽決まったのは震災の影響なんでしょうか。

鈴木 じつを言うと、私が2009年に名画座宣言をしたときから、このあとは毎年毎年更新がされるかどうかわからないよ、ということは管理のかたに言われていたんです。ただその次の年も、その次の年も、とくに更新のときに何も言われずに自然更新していたんです。ですから、安心していましたらその矢先にあの震災で、これはにわかに動きがちょっとあるな、と思いました。そのときも東京都のかたは、私が直接話したわけではないんですが、もしここの閉鎖ということがあったとしても、伝えてから2年は猶予があるという話だったんです。ですから2011年の3月に更新の話がきたときに、1年か1年半と言われて、来年(2014年)の3月か夏かということで、早くてそうなのかと思っていて。管理しているところからはそれのさらに1年後だという話もあって、高をくくっていたわけではないですが、そのまま済むかと思っていたんですね。そうしたところ、2012年の6月に来年(2013年)の3月いっぱいで更新はもうしないと言われまして。

――それは東京都が管理しているんですか。

鈴木 そうです。東京都の管轄で新東京観光というところが委託されて管理しています。ここは昔、川だったんですが、埋めたてたいまは道路の扱いなんです。その道路許可を3月31日でもう取れなくなると。危険地域ということらしいんです。
あと美観を損ねているみたいなことも言われましたけど。世界都市東京でしたっけ。そういうことでふさわしくないなんていう、その発言にはカチンときましたけど。残すべきところは残したいと思っていたんですが。しかも、ここは毎年のように橋と道路の間の補強工事をいつもやっているんですよ。だから十分補強には気をつけている場所なんですよね。だからこそ、東京都としても気をつけていたのかもしれないですけど。何かあったらいけない、ということで毎年毎年工事してきちんとやってらしたんですよね。

――更新をしないということで、閉館が決まったと聞かされたときの鈴木さんのお気持ちは。

鈴木 大ショックでしたね。自分としてはシネパトスという劇場が果たしている役割は計りしれないと思っていましたから。閉館が決まって名画座がなくなるという捉えられかたで新聞などにも大きく取り上げていただいたんですが、私としては名画座はもちろんなんですが、ウチの単館劇場としての役割が果たせなくなるということは、映画界にとってもひじょうに苦しいというか、発展が止まってしまうんじゃないかと思いましたね。

――たしかに、シアターN渋谷も2012年12月に閉館して、この手の規模の単館上映作品をかけられる場所がどんどんなくなってきていますよね。

鈴木 シネパトスはまた場所がよいので、この銀座というところに意味があったんですよね。

──洋画だと『ボーダー』(2008 ジョン・アヴネット)や『陰謀の代償 N.Y.コンフィデンシャル』(2011ディート・モンティエル)といった、ロバート・デ・ニーロやアル・パチーノが出演している渋い映画を拾ってくれるので、映画好きにはすごく助かったと思います。

鈴木 劇場公開にならないんじゃないかと思ったものを積極的にやったりしましたし。ウチなんかは本当に何でもアリだったので。すごく配給会社さんも重宝してくれたし、そういう映画を上映する劇場はウチがなくなったらどうするんだと思いますね。
悔しい思いはありますよ。もう、いろんなかたたちといい時間を過ごせたので。わたしは今50歳なんですが、この歳でこんな贅沢な3年間を過ごせることなんてなかなかないんじゃないかと思うぐらい、いろんな経験をさせてもらって。それは自分の個人的なことかもしれないですけど、お客さんもせっかく定着してきましたし、名画座もあり、B・C級作品もあって、というこのシネパトスという場所がなくなるということがちょっと信じられなくて、ほんとうに悔しかったですね。

――川谷拓三さんの特集なんかはここでしかできないものですよね(笑)。

鈴木 息子さんの仁科貴さんが2011年の「SUSHI TYPHOONまつり」で上映した『極道兵器』(2011 坂口拓、山口雄大)に出演されていて、劇場にしょっちゅういらしてて、わたしとしては川谷さんの特集をやりたいと思っていたので声をかけたんですが、そしたら「そんなのやってもらえるの」みたいな感じだったんですけど、ぜひともやりたいと思って。

――思い出の番組はなにかありますか。

鈴木 そうですね。さっき言った、単発でしかやりませんでしたけど、天地真理さんや舟木一夫さんの企画はファンのかたと一緒に作り上げたという思いがありますので。もちろん樋口尚文さんとの企画もいっぱいあって、思い出には残っているんですけれども、舟木さんの特集は昔、大井武蔵野館でやっていましたけど、真理さんの特集なんてまず絶対ないですし。真理さんも最後、舞台に上がってくれましたから、よかったなと思って。ファンのかたたちと一緒に作り上げた企画がいくつもあるんですね。それが思い出深いですね。

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───閉館までの三か月間について振り返っていただきたいのですが、2012年の12月から年が明けて1月にかけては「新春!みんなの寅さんまつり」でしたね。

鈴木 「寅さんまつり」の初日(2012年12月15日)のゲストが初代マドンナで、二月にお亡くなりになった光本幸子さんだったんです。ゲストとしてご挨拶していただいて、すごくお元気だったのが、それからふた月くらいしてから亡くなられたので、とても印象に残っています。光本さんにはすごく優しくしていただきましたし、イベントにいらしたお客さんみなさんが「男はつらいよ」が大好きな人たちばかりだったので、喜んでいただけたのが嬉しかったです。

──元旦は佐藤蛾次郎さんがゲストにいらして、歌まで披露されたそうですね。

鈴木 蛾次郎さんのお店に伺って、いろんな写真を見せていただいたり、それをシネパトスに飾らせてもらったり、蛾次郎さんが作ったお酒の酒瓶とかを持ってきてもらったりしていただきました。光本幸子さんのイベントも蛾次郎さんと一緒に行ったんです。そして「寅さんまつり」では、何よりも柴又のみなさんにすごくお世話になりました。帝釈天の題経寺の広報の方とか、寅さんミュージアムの方だとか、参道商店街のお店のご主人たちにお世話になって、柴又と銀座を30往復ぐらいしましたね。だから、ほとんどもう顔見知りになって、みなさんが本当に渥美さんのことを好きということがわかったので、これはもうきちんと特集をやらなきゃいけないぞと思いました。それはゲストのみなさんも同じ想いだったと思います。

──そのあと、2月から3月末までの「銀幕の銀座」という特集は、閉館が決まってから、最後に銀座の映画の特集をやろうということで企画されたのですか。

鈴木 そうですね。閉館がほぼ間違いないだろうと思われたのでやることが決った企画です。ただ、これも閉館が決まる前から、いつか必ずやらせてもらいたいと映画評論家の川本三郎さんにお話しはしていたんです。「銀座百点」での川本さんの「銀座が映画の主役だった」という連載を読んでおりましたし、川本さんの文章って実際にその映画が見たくなるじゃないですか。銀座にある名画座の支配人としては観ていない作品も非常に多かったので、個人的に観たかったですし、もう心の中ではいつかはやることは決めていたんです。たまたま、それが閉館の時にふさわしいということで、やることに決りました。

──和泉雅子さんと川本さんのトークがありましたね。

鈴木 川本さんが和泉さんとお会いしたことがないということだったので。和泉さんが山内賢さんとデュエットした曲を映画化した『二人の銀座』(67 鍛冶昇)が川本さんの大好きな映画なんですね。和泉さんはシネパトスの近所にお住まいなんですよ。舟木一夫さんの特集で何度も来ていただいたりして、私がシネパトス前の地下通路を歩いているときにフワーッとした顔をしていると、通りがかった和泉さんが元気出しなさいよと尻を叩いてくれたりもしたんです。シネパトス閉館を悲しんでいただいていて、銀座の町内会にシネパトスのチラシを配る話も、和泉さんがきっかけを作ってくれたんですよ。ふつうは銀座町内会にチラシを広く撒くのはなかなか大変なんですけど。トークショーは最高でしたよ。映画の話だけではなくて、銀座をよく知る川本さんも知らないような昔の銀座の話を「ここは昔はこうだったんだよ」って和泉さんがいっぱいしてくれて、すごく盛り上がりました。

──最後の一か月は二館を名画座にして、銀座映画の特集と並行してお客さんからのリクエスト特集もやりましたね。いちばん票が集まったのはどの映画だったんですか?

鈴木 不思議なことにほとんどバラバラなんですよ。作品に対するみなさんの想いはいい意味でひとつにならないのかなと(笑)。 それでも、多かったのは『砂の器』(74 野村芳太郎)、『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』(69 石井輝男)あたりでしたね。

──これはシネパトスのお客さんへの最後のサービスということで、催された企画ですか。

鈴木 そうです。みなさんのいろんな声を聞いて名画座を作っていたつもりではいるんですけども、最後にそれらに応えられたらいいなと思いまして企画しました。劇場にはいつもお客さまのご意見の募集箱を置いてあったのでそれも参考にしましたね。

──最後の「イベント」として、樋口尚文さんが監督した『インターミッション』という新作映画の公開がありました。映画館の閉館記念映画というのはおそらく初めてではないでしょうか。これはどういう経緯で作られたのですか。

鈴木 樋口尚文さんに閉館の話をしましたところ、たいへん驚かれまして。ほんとうに早かったんですよね、樋口さんはわたしが話したその場で言ってましたね、シネパトスの映画を作ると。最初は「(閉館だなんて)そんなことがあっていいのか」と憤っていたのが、その場でまったくアイディアがないなかで「シネパトスを映像に残そうよ」って言ってくれたんです。

――ドキュメンタリーではなく劇映画のかたちで映像で残そうと。

鈴木 「シネパトスがなくなっちゃうなら映像に残さなければダメだよ」という話から始まって、まだ内容がまったくないなかから、話したその数分後ぐらいにはもうイメージされたようで、そういったことを話されて。また会ったときに「配役なんかもシネパトスに所縁のある人に声をかけて、できるかわかんないけどやってみよう」と。でも、「ノスタルジックな『ニュー・シネマ・パラダイス』(88 ジュゼッペ・トルナトーレ)みたいなのは嫌だから、シネパトスは“あさきゆめみし”というか、なんでもありなんで、明るくはっちゃけて終わろうよ」と、「そういうのをイメージしているんだ」というお話だけでしたね。

――映画を作ると聞いたとき鈴木さんはどう感じましたか。

鈴木 何かわからなかったですね。ほんとうにできるのかなと思って。樋口さんは電通のCMディレクターでしたし、自主映画作家として「PFF(ぴあフィルムフェスティバル)」に入選されていたことも知っていましたから、これはできるんじゃないかと。そのうちに、これほどの終わりかたはないなと思いました。終わりかたってのも変ですけど、ふつうにセガールとかを上映して終わるんじゃなくて、ウチを舞台にした映画が最後にかかる、しかもウチの客席が映り、そこに座っているお客さんがその映画を観る、という内容ですから。
最初に樋口さんからうかがったときはそれほど固まったイメージは持っていなかったんですが、完成した映画を観たらノスタルジックな映画じゃないですし、ひじょうに感動しました。ほんとうに手前味噌の話になってしまうんですけど、ウチとしては最高の終わりかただったと思います。

――製作費はどうされたんですか。

鈴木 樋口さんの全額自費です。どうなっちゃうかな、と言ってましたけど(笑)。キャスティングも全部樋口さんが、しかもこの短期間で決めてくださって、ものすごいネルギーだと思いました。
だからわたしたちシネパトスのスタッフなんかは撮影中、恥ずかしくなっちゃいましたね。これだけシネパトスを愛している監督と、俳優さんや照明さんなどのスタッフのかたたちの愛情たるやシネパトスに勤めている人間以上といって語弊があるかもしれないですけど、ウチの会社にいる人間、全員にこの姿を見せたかったですね。みなさんチームワークもよくほんとうにすばらしいかたたちで。

――豪華なキャストが実現していますね。

鈴木 そうですよね。キャストがどんどん増えていってどう樋口さんはさばくのかなと思って。そのときはまだ脚本も読んでいなかったので。樋口さんが自分で声をかけて口説いたわけですよね。半分以上はトークのゲストで来られたかたばかり。
竹中直人さんはトークもそうですけど、ふだんからしょっちゅう映画を観に来ていただいていました。シアタークリエで舞台やっているときも、その最中に来てくれていたんです(笑)。あんなに台詞の多い役をやりながら、その間に来られるのかと思って(笑)。ほんとうに映画好きなんだなあと。

──『インターミッション』をめぐってはさまざまなイベントが開催され、またメディアにも取り上げられるなど、大きな反響がありました。その渦中にあって、鈴木さんはどうお感じになられましたか。

鈴木 言いかたは悪いですけど、もう最後のほうは何が何だかわからないという感じでしたね。私の中では『インターミッション』が一人歩きしているという感じがしていて。売り上げもシネパトスとしては大ヒットですよね。監督も精力的にすごく動いていただきましたし、お客さんにも盛り上げていただいた。そういうシネパトスをずっと愛していただいたお客さんたちの熱意であそこまで押し上げてもらいました。

──トークゲストのかたがたもすごかったですよね。小山明子さんも香川京子さんもいらして。

鈴木 もうありえないですよね。香川さんからは何か協力できることがあればぜひに、と言ってもらえましたし。ふつうじゃ考えられないですよ。小山さんも大島渚監督が亡くなって、舞台もあって本当にお忙しい大変な時期でしたが、樋口監督と家族のようなおつきあいをされているのでいらしていただいて。水野久美さんにもゲストに来ていただき、ありがたいことでした。

──畑中葉子さんもゲストにいらして、鈴木さんとご一緒にデュエットしたと聞いたんですが。

鈴木 「カナダからの手紙」をデュエットさせていただきました。もう本当に最高の思い出ですよね。私の若いときのアイドルとこうやっておつきあいできるなんて……香川さん、水野さん、小山さんたちの映画をずっと見てきた自分としては本当に信じられない光景でしたね。たまたま私は最後の支配人をやっていただけなのに、全部シネパトスのおかげですよ。

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──シネパトスでやり残したことはありますか。

鈴木 シネパトスが3月31日に閉館してから一か月くらいは片づけを一人でせっせとやってたんですけど、シネパトスがあればこれができたなとか、こういうこともやりたかったなとか、でも、もうできないかなと思って、寂しいやら悔しいやらみたいな考えの繰り返しをその一か月くらいはしてました。今年はブルース・リーの『燃えよドラゴン』(73 ロバート・クローズ)の公開から40周年だから、イベントやりたいなとか。そんな妄想ばかり抱いてましたね。でも、私は現在、ヒューマックスの本部の営業グループというところにいるんですが、そのなかで何かイベントなどの面白い企画を、系列の劇場を使ってまだまだできるんじゃないかと思えるようになってきました。閉館後は精神的にけっこうマイナスな感じだったんですけどね。疲れが出たのかもしれませんが、虚脱感というか、初めて感じる精神状態でした。

──閉館が決まったあとで、お客さんにかけられたことばや反応で嬉しかったことはありますか。

鈴木 最初に言いましたけど、私はシネパトスで12年前に1年間支配人やっていたことがありましたけど、そのときは苦労ばかりだったんですよね。お客さんからの苦情も、劇場が臭いとか上映中に地下鉄の音がするとかで。どうやったら女性のかたとかが地下の劇場に降りてきてくれるかなと思って、地下の通路にほかの劇場さんのチラシをいっぱい置いて映画の情報を取りにきてもらうような場所にしたり、いろんな工夫を凝らしたんですけど、なかなか、劇場内にはお客さんが入ってこなかったんです。その時のことを思い出すと、最後の7、8か月の間は、「シネパトスに映画館で映画を見る楽しみを教えてもらいました」とか、「ここでしか観られない映画を劇場ぐるみで楽しむことができた」ということばをいただくことができて、とても印象的でした。かつては劇場批判みたいなものがけっこうありましたから。うちの会社としては接客に力も入れましたし、清潔さを保つための対策もやってきて、あれからの十数年間は、お客さんを迎える姿勢や番組を大事にすること第一に考えてきましたので、お客さんにそういったことばをいただくと報われたなと思って、とてもうれしかったですね。

──『インターミッション』の劇中でもふれられたように、最後のほうは真下を通過する地下鉄の音が名物になっていましたね。

鈴木 不思議ですよね。もともとはあれが最悪だと言われてたわけですから(笑)。「えー、こんなところに劇場があるの!?」とか、「指定席はないの?」とか「入れ替え制じゃないの?」とか、それが最後のほうは逆にそれがいいということになりましたからね。シネコンで映画を見慣れているお客様には不自然だったかもしれないけれど、私たちが学生の時に見てた劇場は入れ替え制じゃないのがあたりまえでしたし。それで、やっとシネパトスのよさが伝わり始めたと思っていたら、その矢先に閉館ということになってしまって……。

──閉館の日の心境はいかがでしたか。

鈴木 正直に言うと、ほんとうに忙しかったという感じだけで(笑)。もちろん、いよいよこの日がきてしまったという感慨もあったんですけど、とにかく足を運んでくれたたくさんのお客さんが事故なく無事に映画が見れるようにという運営面のことばかり頭にありましたね。でも、本当に最後の最後、無事に映画も上映できて、あとは最後のごあいさつだけとなったときにそこで初めて寂しさがこみ上げてきました。自分はもう劇場勤めはできないのかなと思うとそれが途轍もなく寂しく感じられて。特にシネパトスというのは「ザ・映画館」というか、いわゆる映画館と呼べる小屋だと自分でも思っていたので、それがなくなってしまうことの寂しさも去来しましたし。本当に名画座やってよかったなと思えて、『インターミッション』はもう奇跡だなと思ったし、シネパトスはいろんな傷みによく耐えてくれて、最後にこれだけのいい思い出を残して劇場を閉じられて本当に幸せだなと思いますよ。それはシネパトスががんばって持ちこたえたからで、映画の神様がシネパトスにみなさんがいい想いを持って終われるようにしてくれたんだな、と。もちろん知る人ぞ知る劇場だったとは思いますし、最後だけ盛り上がればいいってもんじゃないとは言いますけど、私はそれでもみなさんの記憶に残ればいいと思いました。

──こういう終わり方をした映画館ってなかなかないですよね。

鈴木 だからもっと驚かなきゃいけないというか、感謝しなきゃいけないことだと思います。今はこれからがスタートだなと思ってます。現在はいろんな興行形態があって映画館の生き残りが大変なわけですが、シネパトスのようななんでもありの劇場の姿をまた映画興行の新しい形として活かしていけたらいいなと、やっと閉館から三か月経って、前を向いて歩けるかなというふうになりました。それだけシネパトスの最後の数か月というか、今までやってきたことの印象が大きくてなかなか脱却できなかった。今日、戦時中の木下惠介監督を描いた『はじまりのみち』(13 原恵一)という映画を見てきたんですよ。木下惠介は戦時下に撮影した『陸軍』(44)が戦意高揚映画になっていないということでそれを最後に次の作品が撮れなくなって松竹を辞めるわけですけど、『はじまりのみち』はある意味、木下監督の再生までの映画でもあるわけなんです。木下惠介がお母さんを疎開先までリヤカーで運ぶロードムーヴィーともいえる内容なんですが、その間の母親や一緒に同行した便利屋たちと交わしたことばや出来事によって、また映画を撮り始めようという気持ちに至るまでの映画なんです。まさしく映画の題名が『はじまりのみち』ということで、自分自身を木下惠介になぞらえるわけじゃないですけど、私もまた新しいかたちで劇場運営を始めることができるんじゃないかと思いましたね。


(註1)並木座 銀座並木通りにあった老舗名画座。東宝の藤本真澄、金子正且プロデューサーらが経営陣に参加し、1953年に開館。日本映画の名作を中心にした番組で映画ファンに親しまれたが、98年9月22日をもって惜しまれつつ閉館。

(註2)ゴジラの日 第1作『ゴジラ』(本多猪四郎監督)の封切日は1954年11月3日。

(註3)ドリパス 株式会社ブルームの運営するリクエスト上映システム。映画上映の企画を募り、一定数以上の購入数が確保できれば企画が成立となり、提携した映画館での上映となる。
posted by 映芸編集部 at 09:06 | インタビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする