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2013年05月17日

『三姉妹〜雲南の子』クロスレビュー
相澤虎之助(脚本家・映画監督)、中島一夫(文芸批評家)、津村喬(気功家・評論家)

相澤虎之助(脚本家・映画監督)

 私の好きな中国料理に雲南米線という食べ物がある。その名の通り雲南省の料理で、別名“過橋米線”とも言われる。米線とは米で出来た麺のことであるが、肝はスープにある。メチャメチャ熱いスープがまず運ばれて来てその後に生の肉やら椎茸やらが皿に盛られてやってくる。その生肉を熱いスープに入れると、スープの熱で具が調理されるのである。しゃぶしゃぶと一緒なのだが、別に器に火は掛かっていない。それだけ高温のスープであるということだ。私が初めて食べた時、いきなりスープをすすろうとしたら、店員の人に凄い勢いで怒られた。「間違いなく火傷するよ!」
 この料理が何故“過橋米線”と呼ばれるのかというと、むかし雲南の南の小さな島で科挙の試験に向けて勉強している書生がいたという。その妻が書生である夫がいる小島に橋を渡って食事を運んで行くのだが、食事がいつも冷えてしまう。そこで妻は鶏油の浮いた鍋がいつまでも冷めないことに気付き、そこに米線を入れてヌードルにして夫の元に毎日橋を渡って運んだのである。いつまでも冷めないこの料理のおかげで見事夫は科挙の試験に合格したという。この逸話から雲南米線は“過橋米線”と呼ばれるようになったということだ。
 橋を渡って(過橋)、科挙の試験に合格し、立派な華僑になりましたという訳だ(失礼)。冗談を言ってしまったが、かつて中国において科挙の試験というものは日本で言えば就職活動のようなもので、死活に関わる問題であった。老人になっても試験を受け続け、結局合格できずに死んでいった者もいたらしい。科挙の試験に受かる事がそのまま自身、あるいは一族郎党の生活の安定に直結するほどのコトだったという。たかが試験でまったく冗談じゃない。もちろん当然、科挙の試験に向けて勉強が出来るということは勉強が出来るだけの資産や余裕のある家に生まれなければならないということだ。

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 で、映画『三姉妹〜雲南の子』である。ワン・ビン(王兵)監督のこのドキュメンタリーには、米線は出て来ても科挙の試験を受けられるような見込みのある人間は出て来ない。経済発展著しい中国においても最も貧しいと言われている雲南地方の標高3200メートルの山岳地帯の小さな村に生きる人たちが撮られている。この村は低地への全村移住政策が押し進められているらしい。高地に住むこの地方の村人たちがあまりに貧しい為に雲南では移住の政策がとられているのだ。劇中で村長が自分の無力さを語り、いずれは役人が医療保険の徴収にやってくるだろうと話す。10元(150円)の医療保険を村人達は払う事ができないのだ。メインの登場人物である三姉妹は、母が出奔し父は低地の街へ出稼ぎに行ってしまっているので親戚の家の手伝いをしながら子供3人だけで暮らしている。
 ここから先の内容については実際に映画を観てもらうとして、ワン・ビン監督自身は自作についてこう述べている。「私は、この家族を民族学的探求として捉えたくはありません。彼らの現実のより具体的で直接的なイメージと子供たちが生きる世界の直接的なイメージを観客に委ねたいと思いました。私たちは、彼らの原初的な生活を目撃します。この映画の物語は、純粋でシンプルな人間の物語なのです。」
 雲南省という地域は中国の中でも少数民族が多い地域で、民族学的に題材の宝庫と言われている。政府が少数民族を売りに観光地化を計り、経済発展を目指す政策を打ち立てているほどだ。『雲南の少女〜ルオマの初恋』『雲南の花嫁』(02、05 チアン・チアルイ)などの作品には色とりどりの民族衣装を着飾った少数民族の娘たちが登場する。ただ、それはあくまで素朴で純真無垢といったイメージを抜けきることはない。開発に翻弄されていく現代の“おしん”のイメージである。もちろん世界中におしんは存在するわけだから悪いのは現代社会なのだが、いま一歩パワーが足りない感は拭えない。
 それとは逆に『天菩薩』(86 イム・ホー)という作品では第二次大戦中に抗日戦を支援した米軍の航空機が四川の山岳地帯(ほぼ雲南)に墜落し米軍兵士が少数民族イ族の奴隷となってしまう姿が描かれる。ただあくまで主人公は米兵であり、少数民族イ族は得体の知れない未開の部族といった描き方をされている。米兵は10年間の奴隷生活の中で少数民族の娘と恋に落ちてむしろ西洋社会からすれば未開の土地にこそ残ろうと考える。奴隷となることによって西洋人である米兵自身の価値観が変容するさまが描かれているのだが、いかんせんスペクタクルロマンであり描かれる時代も古いのでこれもなんとも言えない気持ちになってしまう。

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 『三姉妹〜雲南の子』には、私達がそれまで与えられていた雲南省イコール少数民族のイメージは出て来ない。派手な民族衣装も無ければ珍しい風習も描かれない。ワン・ビン監督の言う通り、原初的な生活が繰り返されるだけだ。ヤギや羊、ブタや犬の鳴き声と子供の泣き声や笑い声がまったく同質で村を彩る音楽のように聴こえてくる。ときおりハッとさせられる瞬間に以前観た『精神の声』(90 アレクサンドル・ソクーロフ)のイメージも蘇る。「そう言えばアフガンに従軍していたソビエト軍の兵士の中に明らかにアジア人が混じっていたなあ」などと考えてしまい、更にボリビアのウカマウ集団が蘇ったりもした。ただ山岳地帯を撮っているからだけなのかもしれないが、まあそんなふうなことだ。要するに『三姉妹〜雲南の子』にはある危険が孕んでいるのである。
 その危険とはいったい何か? それは世界に向けられた刃の危険である。牧歌的な風景や原初的な生活にほだされそうになった私達に聴こえてくる少女のせきの響き。しらみの湧いた服を着て地面をゴロゴロ転がる子供の姿が私達にこう問いかける。「なめるんじゃねえ」着たきりスズメの少女のぼろぼろのスウェットの背中には「LOVERY DIARY」とある。思えばワン・ビン監督の作品は中国では公開できないのであった。私はいつも不思議だった。別に反体制の作品でもなんでもないドキュメンタリーや映画が何故にそれが撮られたどこの国においても規制を受けているのかが。ただ人々の生活を撮る事や、性愛を表現する事が時に撮る者撮られる者両者にやもすれば生命の危険をも伴う事態を起こしてしまうことを(もちろん日本でも原発の報道規制や『愛のコリーダ』問題など枚挙にいとまは無い)。それはおそらく必然的に政府や体制というものは、この世界に向けられた刃を恐れているからなのだ。私達誰もが本来持っていて(もちろん政府の方々もお持ちです)どこへ向けられるかも本当は定かではない“ちっぽけな斧”の刃を恐れているのだ。
 この映画を観ながら想像してみよう。これから先に経済発展とやらでこの村の人々がどのように変わっていくのかを。私達が今居る場所でどのように変わっていくのかを。この雲南の子供たちが銃を持たされればタリバンの兵士になるし、私達が銃を持たされれば派遣されるアメリカの兵士になるかもしれない未来もある。その時にお互いこの映画を懐かしんだとてもう遅い。だからはっきり言っておく。この映画を観て、どうか彼らの“世界に向けられた刃”を感じて欲しい。そしてその刃が自分の中に存在することを感じて欲しい。そうすれば自ずと何に対して「なめるんじゃねえ」と言えばいいのかがわかるはずだ。とりあえず原発は止めよう、怖いから。


中島一夫(文芸批評家)

 「その家には人間と豚と犬と鶏と家鴨が住んでいたが、まったく、住む建物も各々の食物も殆ど変っていやしない」。坂口安吾の小説「白痴」の書き出しだ。
 大空襲の中、どてっ腹に爆弾の衝撃を感じながら、だが「僕はね、ともかく芸人だから」「逃げたいが、逃げられないのだ。この機会を逃がすわけには行かないのだ」と疎開を忌避し、人間が家畜と同列の地平で生きるさまを描いた。その生は、動物的、非人間的、「白痴」的で「堕落」したものだったが、だからこそ、この上もなく人間的で美しかった。それが安吾の見た「戦争」であり、目をそらさずに見つめようとした、原初的で裸型の人間の姿だった。いや、「芸人」根性で、どうしようもなくそれを見たかったのだ。

 ワン・ビンの新作『三姉妹〜雲南の子』は、戦争下でないにもかかわらず、その「白痴」の世界を彷彿とさせる。泥だらけの服で泥まみれの顔をした10歳、6歳、4歳の三姉妹が、けたたましく鳴きたてる豚、犬、鶏、家鴨、羊らに囲まれ、また動物たちの匂いと糞にまみれながら生きている。「まったく、住む建物も各々の食物も殆ど変っていやしない」。

 中国西南部、雲南省の洗羊塘村。中国最貧困地域の一つだ。出来るだけ多くの農地を確保しようと、山の急斜面に段々畑が目立つものの、海抜3200メートルに位置しているため(ワン・ビンは、撮影中、高山病にかかったという)、農作物はジャガイモしか育たない。約80戸470人の村人たちは、牧畜で何とか生計をたてようとしているのだ。

 また、高地のためインフラも不十分で、電気が通ったのは2007年だという。ここは中国で最も遅く電気がやってきた場所であり、今や中国脅威論が盛んになるほどの経済発展と、それがもたらすはずの恵みや潤いから、最も遠い土地なのだ。

 いや、「遠い」のではない。「遠い」には、まだ距離が、そして「やがてはここにも」という微かな希望がある。だが、この村はすでに全村移住が決定しており、しかも当時村人には、移住先すら知らされていなかったという。ここは、開発から見放された村であり、やがては消えゆく場所なのだ。今回ワン・ビンが、この村の三姉妹にカメラを向け、その生活の記録を残そうとしたのは、何も想像を絶する貧困の中、たくましく生きる彼女らの姿に胸を打たれたからばかりではない。

 冒頭、三姉妹が、土塀に囲まれた穴倉のような家の暗がりに身を寄せ合っている。暗がりに靄が立ち上る。ワン・ビンの画だ。とっさに、近作『名前のない男』の住む荒野の洞穴や、『無言歌』の砂漠の収容所が思い出される。

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 ここ何作かのワン・ビンの関心は一貫している。それは、死に隣接するような貧困というだけでは足りない。国家に、社会に、世界に見放されてしまった人たち、「外」にいる人たちに、ワン・ビンの視線は注がれる(そもそも、三姉妹の存在自体が、中央の一人っ子政策の「外」にある)。そして、「ここにこんな人たちがいる」と驚いている。ワン・ビンの画の力は、画面から伝わるこの驚きの力だ。ワン・ビンを見る者は、何よりもその驚きを共有する。そして画面は、高みの見物を許さないとばかりに、人物たちにくぎ付けとならざるを得ない距離感で迫ってくるのだ。

 しばらくたっても、三姉妹の親の姿が一向に見えない。どうやら、母は家を出て行方知れず、父は何年も出稼ぎに出たきりのようだ。必然的に、長女の英英(インイン)が、次女の珍珍(チェンチェン)と三女の粉粉(フェンフェン)の面倒をみることになる。

 長女は、妹たちのけんかをなだめ、怪我の手当てをし、髪のシラミを取り、同じように豚や羊の世話をし、牧草を刈る。その合間に学校へ行き、宿題もこなさねばならない。母であり姉であり生徒であり労働力であり……。彼女にとっては、それらは当たり前のように未分化で、それら全部が生きることだ。彼女は、草刈り鎌で鉛筆を削り、座る間もなく立ち歩きながら食事する。

 やがて、父親が出稼ぎから戻ってくる。その父が不在の間、三姉妹が何年も体を洗っていなかったことに衝撃を受けずにはいられないだろう。三女は久し振りにお湯で体を洗ってもらいながら、無邪気にそのことを父に告げる。何となく責められているようなのか、うつむき加減に固く口を結ぶ長女。彼女は、作品を通して終始言いたいことをがまんしているような顔つきなのだ。その表情が、そのまま彼女の生活の痕跡である。

 下の二人が男の子のように短髪なのもシラミ対策だろう。それでも三女のシラミは、長女がいくらつぶしてもきりがないほどだ。長女の白いパーカーは、すでに背中の文字が読めなくなるほどに黒ずんでいる。だが、ついに最後まで着替えられることはない。

 ワン・ビンは、2010年から11年にかけての6カ月の間、時々雲南に出かけてはこれを撮影していたという。その間彼女は、下のジーンズも含めて一度も着替えなかったことになる。彼女のパーカーは、泥やアカのみならず、ガスがなく薪を燃やす暮らしの中で煤塗れになってもいるのであり、時間がたつにつれ増していくその黒ずんだ汚れは、「ここにこの村の暮らしのすべてがある」とばかりにカメラの前で主張し続けるのだ。

 戻ってきたも束の間、父はまたすぐに出稼ぎに出なければならない。今回は次女と三女を一緒に連れていくことに。長女だけは祖父の元に残していくほかはない。町では学費がかかり過ぎるし、そもそも三人の子供を養うのは難しい。

 この村が資本主義経済に包摂されるということは、父が出稼ぎ中心の生活を強いられ、家族離散を余儀なくされることを意味する。村には自ずと、老人、女性、子供だけが残されることになる。その様子は、村人たちが一同に会する収穫祭のシーンで明らかになるだろう。

 収穫祭での話題は、次第に一つの不安に収斂していく。今後当局は、村人から強制的に医療保険を徴収するらしい、しかも、徴収人を村人の一人に負わせ、払えない者からは豚や羊で現物徴収も辞さない構えだという。租税国家の暴力は、開発を放棄し、やがては消滅する村をも例外とはしない。おそらく父は、それを払うために、何度となくまた出稼ぎに出なければならなくなるのだ。

 父と祖父の相談で、長女だけここに残すことは、いよいよ決定したようだ。すぐ傍でそれを耳にしながら、長女はやはりじっと口をつぐんでいるほかはない。町に向かうバスに乗せる必要からか、次女と三女には、赤とオレンジの真新しい上着が与えられるが、長女には新しい靴だけだ。これらも町で買いそろえてきたのだろうから、自分だけとり残されることは、実はとうに決まっていたことなのだろう。そうか、今回父は、妹たちを迎えに戻って来たのだ。長女は、黙っていろいろなことを考える。カメラは、そんな寡黙な長女から目が離せない。だが、何も語られなくとも、長女の着替えられることのない黒ずんだ服と、真新しい靴との鮮やかすぎるギャップは、村と町とに引き裂かれる家族のあり様をあからさまに示していて、痛々しいほどだ。

 その後、結局父は出稼ぎに失敗し、次女と三女とともに再度戻ってくるものの、子守りの女とその娘も一緒だった。父が畑仕事に出ている隙に、自分の娘だけをかばって、次女を邪険にするこの女を、だがいったいこの先、三姉妹が「母」と認める日が来るのだろうか。

 「私のママが、世界で一番ステキ……一番やさしいママ、ママの子はなんて幸せ」。次女の歌声が、泣き笑いのように聞こえて胸を打つ。続くラストシーンに、この次女の姿が見当たらない。そこには、長女が三女を抱きかかえるように山を登っていく後ろ姿があるばかりだ。

 それは、次女の歌を子守唄のように傍で聞いていた、三女の見た「母」の夢だったのかもしれない。ずっと「母」をやってきた長女が、本当に母として三女の前に現れたのかもしれない。おそらく、三女は、年齢的に母を覚えていないだろう。そういえば、スカーフを頭に巻き、その垂れ下がった裾で、パーカーの背中の文字が隠れている長女の後ろ姿は、心なしか少し大きく感じ、母のようにも見える。

 いや、それこそが153分の間、ずっと彼女らの生きる姿を見てきた者の夢であり、幻であったのかもしれない。それでかまわない。

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津村喬(気功家・評論家)

 何もドラマは起きない。ただお腹が減れば今日のじゃがいもを食べるだけだ。10歳と6歳と4歳の三人の女の子が、ただ生き延びていく姿が描かれている。母親は失踪し、父親は働いているが、町へ出稼ぎに行こうと考え、下の二人の女の子と出かける。10歳の英英(インイン)が、おじいちゃんと残る。ほかの姉妹がいようといまいと、日々の生活は変わらない。ヤギに餌をやり、小屋に追い込み、豚にじゃがいもを食べさせる。同じじゃがいもを自分も食べる。特別の日でなければ、わざわざおかずは作らない。下の娘のシラミをとってやるのが日課だったが、彼女が留守なので、今はしない。妹が帰ってくれば、またシラミをとってやる日々が続くだけだ。彼女が一人でシラミをつぶせるようになるまでは。日常の一部に小学校があって、梅蘭芳の話を暗記している。その先生だけが北京語を話していて、子供たちもその時だけそれにつきあう。そうそうそれからおじさんの家にあるテレビでは北京語を話している。遠い国の言葉。自分たちは雲南のなんという言葉を話しているのか。もと秦に追われた楚の国のミャオ族やタイ族の子孫なのか。

 伯父さんの家で収穫の祝いのごちそうがあって、豚を一頭つぶした。「農村復興」の話が出ている。村長もよくわからない。とりあえず医療保険を10元(日本円で150円)集めるというが、誰も出すのは大変だ。仲間内のひとりが集める係になれといわれているが、誰も出してくれるわけがないと抵抗している。それでやめさせられようとしている。やめれば、また誰かが代わりに集める係になるだけだ。村の人で話しても、迷惑だと思うだけで、何も結論が出ない。年間二万五千円くらいで暮らしている人たちだから、お金をとられることに抵抗がある。高地を歩き回っているから、誰も大きな病気はしない。でも本当は英英はいつも咳をしているし、腰が痛いのか、長靴の不具合のせいなのか、腰をかすかにかがめて歩いている。まさかこの山奥の子供が漢方薬や整体でもない。

 山また山が続いている。だがよく見ると、雪の残っている山の合間に、段々畑にして耕した跡がある。段々畑はえんえんと続いている。そのあたりの山から燃料にする馬糞をひろってくる。馬がそこで勝手に草を食べ、糞をする。それはよい資源となる。ある日、背中の籠一杯の松かさをとってくるようにいわれる。松かさはなんのために採るかというと、おそらく着火剤としてである。その松が高い松でなく、地を這うようにしてある。たぶん私たちがラップランドの極地で目にするのと同じような這松の姿をした赤松である。3500メートルの高山には何もないように見えるが、それなりの利用可能な資源があり、それを集めてくることがまさしく日常生活を成り立たせている。繰り返し。ただの繰り返しとしての一生。

 映画はただその繰り返しのさまだけを描いていく。そしてそのただなかに、ごく普通で、悲劇性のない、ありきたりの繰り返しの日常が描かれていく。この山から二千キロも離れた上海では、一日にかれらの年間の収入の十倍は消費する人々が十万人くらいはいる。上海の消費生活の映像を五秒間でも対比すればわかりやすすぎる映像になる。そうしなくても、見る人は多かれ少なかれその当事者なのだ。誰も比較していない。だが一人一人が飽食するわたしと引き比べて、一日を何個かのじゃがいもで過ごすこれらの少女たちを思うだろう。誰も怒ってはいない。誰も泣いてもいない。ただ不条理なだけである。

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 ブレヒトはガリレイの生涯を描こうとして「ガリレオ、上半身を洗い、身震いする。牛乳をテーブルの上に置く」というところから始める。これを引用してアンリ・ルフェーヴルは「非英雄化」と呼び、まさにガリレイを「日常の相において」描こうとしたと述べる。ブレヒトはキリスト教世界全体と対決して地動説を主張し、圧力に負けて撤回し、そしてまた主張した英雄として描くときに、彼を普通の労働者農民と同じ日常の地平から描いた(『日常生活批判T』)。王兵は同じように少女たちを描くときにそこに何の価値付けもせず、美しくも醜くもない、価値があるのでもないのでもない姿でただ描く。まさに「日常の相において」である。そしてそれこそが見る者にとっての「批判」を可能にする。

 政府はずっと代々ここに住んできた人たちをどこか知らない集合住宅に移住させると発表している。もう若者たちは出て行ってしまった。老人たちが死ぬまで待たせるのだろうか。山の上のここの暮しより便利かも知れないが、ここでしか経験できなかったものは失われていく。低地で暮らせば、足は弱り、心臓も弱りやすくなる。ただ移住させることがいいことなのか。かといって、こんなぼろ屑のような、家畜小屋のような家に住んでいるのがいいことなのか。
 世界の経済成長をリードする中国には、なお、年間二万円以下で暮らす人が一億人以上いるといわれる。三姉妹をほかの何にも還元しないことによって、この一億人のインデックスにし、さらに十億人の未来を問うているのが王兵の仕事だと思う。


『三姉妹〜雲南の子』
監督:ワン・ビン(王 兵)WANG BING
配給:ムヴィオラ
フランス、香港 / 2012 / 153分/16:9/stereo
2012年ベネチア映画祭オリゾンティ部門グランプリ
2012年ナント三大陸映画祭 グランプリ&観客賞 ダブル受賞
(c)ALBUM Productions, Chinese Shadows

5月25日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー
公式HP:www.moviola.jp/sanshimai














posted by 映芸編集部 at 16:44 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月19日

「映画芸術」最新号(443号)、4月30日発売!!

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特集『戦争と一人の女』
対談
江口のり子×中野太(脚本家)
永瀬正敏×井上淳一(映画監督)
村上淳×荒井晴彦(脚本家・本誌編集長)

論考
渡辺考(テレビ・ディレクター)
宮台真司(社会学者)

座談会
成田尚哉(プロデューサー)×森重晃(プロデューサー)×寺脇研(『戦争と一人の女』統括プロデューサー)
川上皓一(キャメラマン)×斎藤久志(映画監督)×荒井晴彦

大島渚「破壊と創造」の映画史
追悼文
小笠原清(映画監督)
崔洋一(映画監督)

全映画
『明日の太陽』
『愛と希望の街』荒井晴彦
『青春残酷物語』河村雄太郎(昭和映画愛好家)
『太陽の墓場』沖島勲(映画監督)
『日本の夜と霧』菅孝行(劇作家・評論家)
『飼育』西岡琢也(脚本家)
『天草四郎時貞』高橋洋(脚本家・映画監督)
『小さな冒険旅行』/『私のベレット』小野沢稔彦(非正規雇用労働者)
『悦楽』足立正生(映画監督)
『ユンボギの日記』松岡錠司(映画監督)
『白昼の通り魔』瀬々敬久(映画監督)
『忍者武芸帳』中村征夫(テレビ・プロデューサー)
『日本春歌考』福間健二(詩人・映画監督)
『無理心中日本の夏』小川智子(脚本家)
『絞死刑』松田政男(映画評論家)
『帰って来たヨッパライ』向井康介(脚本家)
『新宿泥棒日記』高取 英(劇作家・演出家)
『少年』松原信吾(映画監督)
『東京战争戦後秘話』後藤和夫(テレビ・プロデューサー)
『儀式』小林竜雄(脚本家)
『夏の妹』安藤 尋(映画監督)
『愛のコリーダ』斎藤久志(映画監督)
『愛の亡霊』大石三知子(脚本家)
『戦場のメリークリスマス』富田克也(映画監督)
『マックス、モン・アムール』青山真治(映画監督)
『御法度』成田祐介(映画監督)

主要テレビ
「忘れられた皇軍」原一男(映画監督)
「アジアの曙」絓秀実(文芸評論家)
「KYOTO MY MOTHER’S PLACE」/「日本映画の百年」林海象(映画監督)
大島渚主要著書 丸川哲史(評論家)

連続斗論5 大島渚『絞死刑』をめぐって
〈鼎談〉西部 邁(評論家)×佐高 信(評論家)×寺脇 研(映画運動家)

ロングインタビュー
ジャン=クロード・カリエール(脚本家)

新作映画
インタビュー
『はじまりのみち』原恵一(映画監督)
映画批評
『モンスター』新城勇美(会社員)
「廣木隆一の現在」森直人(映画評論家)
『ホーリー・モーターズ』安藤礼二(批評家)
『L.A.ギャングストーリー』大畑創(映画監督)
『孤独な天使たち』川口敦子(映画評論家)

震災−映画
『ガレキとラジオ』『わすれない ふくしま』『犬と猫と人間2 動物たちの大震災』山下絵里

書評
渡辺武信(映画評論家)鈴木了二著「建築映画 マテリアル・サスペンス」
青山真治(映画監督)アラン・シルヴァー、ジェイムズ・ウルシーニ著「ロバート・アルドリッチ大全」
武藤康史(評論家)田中眞澄著「本読みの獣道」
杉野希妃(女優・プロデューサー)文化通信社編著「映画界のドン 岡田茂の活動屋人生」日下部吾朗著「シネマの極道 映画プロデューサー一代」
木全公彦(映画評論家)土屋由香、吉見俊哉編「占領する眼:占領する声 CIE/USIS映画とVOAラジオ」
編集部の一冊 ジョン・ランディス著「モンスター大図鑑」

連載
大木雄高「「LADY JANE」又は下北沢周辺から」
「DVD NEW RELEASE」
『ベルリン・アレクサンダー広場』『インディアン渓谷』青山真治
『暗殺の詩』『堕ちた天使』荒井晴彦
『レーシング・ブル』『モロッコへの道』『土曜の夜と日曜の朝』稲川方人
長谷川元吉「カメラマン解体新書
荒井晴彦×寺脇 研「韓米★映画合戦」
『世界にひとつのプレイブック』、『リンカーン』、『ジャンゴ 繋がれざる者』
『セデック・バレ』、『嘆きのピエタ』、『3人のアンヌ』
わたなべりんたろう「日本未公開傑作ドラマ紹介」
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2013年04月03日

「シネマ☆インパクト」第3弾徹底批評!!(text 村松健太郎)

 映画監督であり映画プロデューサーでもある山本政志が脱ワークショップ、非ワークショップを掲げて立ち上げたプロジェクトの第3弾にして、第1シーズン完結編といった趣の中・長編5作品。第2章とも言うべきシネマ☆インパクト2013では長編制作を掲げている。

『止まない晴れ』
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2013年 32分
監督:熊切和嘉 脚本:辻田洋一郎 撮影:高木風太 録音:小山道夫 編集:堀善介
出演:伊藤尚美 関寛之 樹香 吉原大地 松竹史桜 小松茂孝


 熊切和嘉監督による結婚記念日と同窓会を迎える同窓生夫婦の物語。残り10分で夫婦の秘密が明らかになるところから始まる混乱にどこまで同調できるかが鍵だろう。
 最初の秘密が意外な形で描かれるところまではある種の定形に沿った作りであり、そのあとのカオスに向かう展開を見ると、監督の“型にはまらない、むき出しの俳優と出会えたらいいな”という希望と“彼女(主演の伊藤尚美)をいかに追い込み、ぶっ壊し、どれだけ本当の感情を引き出すことができるか?”という狙いの体現に一応の成功を感じる。
 ただし、作品としては熊切監督のこれまでの作品群の延長線上にあるもので、そこから大きく跳ね上がるまでには至らなかった。話の落とし方を考えれば、30分強という上映時間は最適であろうが、このような特殊な制作形態であれば、カオスを迎えてからの部分をあと10分描いて、見ている側全員に前半部分を忘れさせ、引かせるぐらいの壊れぶりが延々と続き21世紀の大宴会が描かれても良かったのではないだろうか?
 秘密の描かれ方にもムラがあるように感じた。ああいう形で露見するのであれば、劇中、別の形でも露見しうるべきで、そこは伏線を張る形で丁寧に描かれていたほうが良かった。思わせぶりに登場するヒロインの妹も登場するだけで、その後機能していない。
 “型にはまらない”ところを強調させるためには前段階に綺麗な形で“型”を見せておいて、そこから一気に崩すような形にしたほうが効果的ではないだろうか?
 “型”をしっかりとしておかなければ“型破り”の印象も自然と薄らいでしまう。
 熊切監督は変に登場人物を増やしてしまうと物語錯綜してしまうことが多くて、こういう形でメインの人物たちをコンパクトに描いたのは成功だが、今度はあまりにもメインとその他の中で演者のバランスが崩れてしまったような気がする。他のところと言っていることが矛盾してしまうような気もするが、企画としてはもう少し一人の演者ではなくて、複数の演者にスポットライトが浴びるような作りが求められたのではなかったのではないだろうか? 熊切監督も大小多くの作品を経て来ているのでそこは、もう少し企画に寄り添っても良かったのではないだろうか? シネマ☆インパクトのあり方とその中での監督の立ち位置についてふと考えてしまった。


『集まった人たち』
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2013年 62分
監督・脚本:いまおかしんじ 撮影:戸田義久 録音:光地拓郎 編集:神谷朗 助監督:甫木元空
出演:新山志保 松永祐樹 鈴木将一朗 重田裕友樹 阿部隼也 小川朝子


 いまおかしんじ監督の生きているうちに貯まる鬱屈とSEXへの欲求をめぐる作品。
 酔った勢いで後輩に迫る自称ヤリマンの先輩はカウンセラーとして女性恐怖症の男性患者に相対する。社内恋愛に行き詰まるカップル、男のセフレ扱いに苛立つ女はオタクのコスプレ撮影会の被写体になる。女子高生は裏DVD売人を父親に仕立て上げて面談に臨み、その担任は自身のロリコン趣味に悩む。男性客に無理な注文を受けたデリヘル嬢は恋人に仕事を黙っていたことで揉め始める。女性を襲う計画に友人を誘う男達だが、ターゲットになった女性が強気で逆に愛とは何かと説教をされる。その女に強引に不倫関係を求められる男に年季の入った街娼二人組が迫る。
 細い糸で繋がりを持つ特殊でイタイ人間たちの跳梁跋扈が、監督のホームグラウンドを舞台にしているためにギリギリの淵でおさまっていて不快ではない苦笑に満ちた仕上がりになっている。SEXと恋愛感情のバランスを考えて悶々とするのか? とりあえずは欲望に身をゆだねておくのか? 欲望の男女比は? 答えのない問なだけに荒業のラストもそれほど違和感がない。
 また、このような企画では演者の出演のバランスを考えるあまりに結果として映画自体がギクシャクしてくるものだが、いまおか監督の器のサイズの見立てが良く、映画全体の設計の良さを感じた。全く違うパートにそれまでの登場人物が思わせぶりに登場する部分があまり機能していないことが惜しいところだ。
 制作体制に限られているところで、得意とするホームグラウンドのあるいまおか監督の強みがうまく作用した。強いて言えば、もう少し糸のつなげ方を有機的な形にできなかったのかと思う。場面・場面の演者の組み合わせは綺麗にはまっていただけに、場面が展開にあざとさを感じてしまう。群像劇ではなくエチュードの連なりといった趣なので、変に繋げなかったほうが、その場面と演者が立ったのではないだろうか?


『恋の渦』
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2013年 138分
監督・撮影:大根仁 原作・脚本:三浦大輔 撮影:高木風太 大関泰幸 録音:岩倉雅之 光地拓郎
出演:新倉健太 若井尚子 柴田千紘 後藤ユウミ 松澤匠 上田祐揮


 劇団ポツドールの三浦大輔による岸田國士戯曲賞受賞の戯曲を三浦自身が脚本を担当して大根仁監督が映像化。大根監督にとっては結果的にあの『モテキ』以来の長編となった。ここで140分の作品を撮り上げたことが長編制作を掲げたシネマ☆インパクト2013へのシフトチェンジに繋がったのだろうか?
 深夜の鍋パーティに集まる数組の男女。狙いはそれぞれの男友達と女友達をくっつけ合うことが狙い。しかし、出会いでつまずき4時間後には気まずいままで終わり、それぞれ散開となる。恋人同士、友人同士でその後の時間を過ごす面々だが、その場では言えなかった不満が頭をもたげ始め、微妙な空気が流れ始める。一週間の後、鍋パーティのことを肴に組み合わせを変えて盛り上がる面々。少しずつ関係性が歪み始めていく。さらに一週間後にはすっかり関係は変わっていた……。
 漢字の微妙ではなくカタカナのビミョー、漢字の本音と建前ではなくカタカナのホンネとタテマエを物語にするとこうなるのか。全編セリフの押収で覆われた140分は大根監督得意の人間の不器用さと身勝手さが充満する物語になっている。キャスト面での弱さはあるものの、単独でも十分に成り立つ長編になっている。完成度についても当然といえば当然であろうが、ひとつ頭が抜けたデキになっている。逆にシネマ☆インパクトの中にあっていいのかという気にもなってくる。これだけのものが出来上がってしまうと他の二つの企画との差異が目についてしまう。
 人間身内には甘くなる反面身勝手にもなりやすく、他人にはどうしても見栄を張りたくなる生き物なのだということを改めて感じさせてくれる。もちろん、ある世代・ある人々にはピンと来ない人物ばかりが登場するが、キャラクターの本質を見てみれば、そこにはどこにでもいる人々に見えてくるはずだ。
 今の人間は感情でも繋がっているがスマホ・携帯でも繋がっている。人と人を繋げる力という点ではスマホ・携帯の方が強いかもしれない。残念ながら……。


『海辺の町で』
「海辺の町で」.jpg
2013年 64分
監督・脚本:廣木隆一 撮影:鍋島淳裕 録音:ジョイスあゆみキャスリーン 編集:和田剛
出演:高麗靖子 真辺照太 北口辰也 小嶋喜生 山口可奈子


 福島県郡山市出身の廣木隆一監督が震災の爪あとも生々しく残る福島にてロケを敢行した一品。ストーリーらしいストーリーはない、また、多くの出演者が登場するが、それが群像劇のように絡み合うわけでもない。
 役どころもバラバラで被災者、ボランティア、取材者、工事業者、人妻モノのAVの撮影クルーまでいて、中には福島に向かう意図がよくわからない者たちもいる。全てに共通している部分がある、佇まいが虚無的で刹那的なのだ。その佇まいが映画を作っていく。やりきれない思いという言葉では少し語感が強すぎる、被災地に漂う感覚と空気。  
 少し極端な物言いをすればそこに映る人間たちは役者という職業の人間たちであって、誰かによって演じられた人物ではない。かつてそこは街であったのであろう何もない風景は確かにそこに大きく存在しているものの、映画のために切り取られ、用意された風景はそこには一切ない。
 “確かにあるが、何かがない”下手なドキュメンタリーよりも被災地の現状を感じられる風変わりな立ち位置の作品になった。
 その分だけ、挿入されるキャラクターが何かを抱えていそうな部分はいらないような気がする。立て続けにカメラが出てくるのでこれが意味があるのかと思うとそうでもなく、濡れ場が複数出てくるのも今ひとつピンと来ない、エロス=生という効果を狙ったのだろうか? ひたすら家族を探す人々、ボランティアというものへの何気ない思いを語り合う若者たち、被災しながらも普通の暮らしを続けようとする人々、エンコして遅々として進まない車は復興の隠喩だろうか? 動作やセリフで震災後の空気を伝えようという意図は分からなくもないが、前述のとおり、何もしない佇まいが結果的に震災後の被災地の空気を感じさせているだけに、アンバランスさが目に付いた。もちろん前半部分があった上で後半の静かな部分が際立つわけで無駄ではなかったのだろうが、ここは企画上避けられない演者を平等に出演させなければいけないということの弊害が出てしまった。廣木監督の小さな範囲内の人間たちを描いてきたフィルモグラフィを考えれば、アルトマンの様な群像劇をこの陣容で描くにはやや無理があった。


『水の声を聞く―プロローグ―』
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2013年 31分
監督・脚本:山本政志 撮影:高木風太 録音:小山道夫 編集:山下健治 制作:吉川正文 音楽:Dr.Tommy
出演:玄里 鎌滝秋浩 小田敬 高橋美穂 齋藤隆文 樫原由美子



*詳細は劇場へ!



【村松健太郎】 
映画文筆屋。横浜出身。02年ニューシネマワークショップ(NCW)にて映画ビジネスを学び、同年末より潟`ネチッタに入社。翌春より番組編成部門のアシスタント。07年よりTOHOシネマズ鰍ノ入社。同年6月より本社勤務。11年春病気療養のため退職。12年日本アカデミー協会民間会員・第4回沖縄国際映画祭民間審査員。現在、NCW配給部にて同制作部作品の配給・宣伝に携わる一方で他の媒体への批評・レポートも執筆。



3月30日(土)〜4月19日(金)
オーディトリウム渋谷

http://a-shibuya.jp/archives/5405

■上映スケジュール
5作品3プログラム
Aプロ:廣木隆一『海辺の町で』(64分)+山本政志『水の声を聞く -プロローグ-』(31分)
Bプロ:熊切和嘉『止まらない晴れ』(32分)+いまおかしんじ『集まった人たち』(62分)
Cプロ:大根仁『恋の渦』(140分)

3/30(土)‐ 4/2(火)16:10 Cプロ  19 :00 Aプロ
4/3(水)‐ 4/7(日) 16:50 Aプロ 19 :00 Bプロ
4/8(月)‐ 4/12(金)16:10 Bプロ 18 :20 Cプロ
4/13(土)21:00 Cプロ
4/14(日)21:00 Bプロ
4/15(月)21:00 Aプロ
4/16(火) 21:00 Cプロ
4/17(水)21:00 Bプロ
4/18(木) 21:00 Aプロ
4/19(金)21:00 Cプロ

料金:当日一般 1500円 学生・シニア 1200円
1回券 1200円 3回券 3000円


シネマ☆インパクト2013 Vol,1 4/1(月)始動!! 今年は、長編作品制作
林海象(濱マイクシリーズ、弥勒)平波亘(労働者階級の悪役)タナダユキ(ふがいない空を僕はみた)、行定勲(春の雪、クローズドノート)大森立嗣(ぼっちゃん さよなら渓谷)各監督
下記HPからお申し込みください。
http://www.cinemaimpact.net/info@cinemaimpact.net

posted by 映芸編集部 at 00:11 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月28日

「映画芸術」最新号(442号)発売中!!

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日本映画ベストテン&ワーストテン
相田冬二(ノベライザー) 渥美喜子((挙結梭ュ美組代表取締役) 伊藤雄(湯布院映画祭実行委員会) 上野昂志(映画評論家) 宇田川幸洋(映画評論家) 内田眞(編集者) 浦崎浩實(激評家) 柄本佑(俳優) 岡田秀則(東京国立近代美術館フィルムセンター主任研究員) 岡本安正(会社員) 荻野洋一(映像演出・映画評論) 桂千穂(脚本家・評論家) 川口敦子(映画評論家) 木全公彦(映画評論家・ライター) 国映ピンキーズ 新宿かぼす会 高橋洋(脚本家・映画監督) 田辺秋守(大学教員・哲学・映画論) 千浦僚(「オーディトリウム渋谷」支配人・映画感想家) 寺脇研(映画運動家) 富岡邦彦(PLANET+1代表・CO2事務局員・大阪アジアン映画祭インディーフォーラム部門ディレクター) 中村賢作(会社員) 永吉直之(名古屋シネマテーク) 長谷川法世・悦子(漫画家・博多町家ふるさと館長/博多ごりょんさん・女性の会) 林田義行(「PG」編集発行人) 福間健二(詩人・映画監督・文化研究者) 細谷隆広(映画配給・宣伝トラヴィス) モルモット吉田(映画評論家) 山下絵里(築地魚河岸の帳場さん) 吉田広明(映画批評家) 渡辺武信(映画評論家) 侘井寂子(フリーライター) 映芸ダイアリーズ 「映画芸術」編集部 

『横道世之介』
インタビュー 高良健吾(主演)
『ナイトピープル』
インタビュー 門井 肇 (監督)

【新作映画批評】
『東京家族』磯田勉(フリーライター)
『さまよう獣 』村上賢司(映画監督・テレビディレクター)
『ムーンライズ・キングダム』柴田剛(映画監督)
『奪命金』千浦僚(ミニシアター支配人、映画感想家)

【震災映画】
楠山忠之(映像ジャーナリスト)

【追悼 若松孝二 その光と影の果てに】
追悼文
松田政男(映画評論家)
和光晴生
崔洋一(映画監督)
清水一夫(プロデューサー)
鍋島壽夫(プロデューサー)
朝倉大介(プロデューサー)

インタビュー再録
若松孝二と土地

座談会 「若松孝二 境界なき虚像と実像」
足立正生(映画監督)+沖島勲(映画監督)+福間健二(詩人・映画監督・文化研究者)+小水一男(映画監督・脚本家)+秋山道男(プロデューサー・クリエイティブディレクター)+高間賢治(撮影監督)+荒井晴彦(脚本家・本誌編集長)

カラー口絵:若松孝二がそこにいた 写真 岡田喜秀

【ロングインタビュー】
アニエス・ヴァルダ(映画監督)

【連続斗論4 映画『戦争と一人の女』をめぐって】
〈鼎談〉西部 邁(評論家)×佐高 信(評論家)×寺脇 研(映画運動家・『戦争と一人の女』プロデューサー)

【追悼 橋本文雄 わしは死んでも、現役や】
追悼文:阪本順治(映画監督)、紅谷愃一(録音技師)
(2012年第37回湯布院映画祭シンポジウム 現場で生きた音を録れ 録音技師 橋本文雄の世界
橋本文雄+澤井信一郎(映画監督)+阪本順治+上野昂志(映画評論家)

【書評】
高澤秀次(文芸評論家)田村孟『田村孟全小説集』
山嵜高裕(詩人)ジョナス・メカス著、木下哲夫訳『ジョナス・メカス─ノート、対話、映画』
瀬川裕司(ドイツ文学者)吉田広明『亡命者たちのハリウッド 歴史と映画史の結節点』
稲川方人(詩人)アラン・ベルガラ著、奥村昭夫訳『六〇年代ゴダール 神話と現場』
新城勇美(会社員)山崎まどか『女子とニューヨーク』
編集部の一冊『女優 若尾文子』

連載
【OUT OF SCREEN】 あたご劇場 堀内 恭
大木雄高「「LADY JANE」又は下北沢周辺から」
長谷川元吉「カメラマン解体新書」
白坂依志夫「白坂依志夫の続・人間万華鏡」
荒井晴彦×寺脇 研「韓米★映画合戦」
わたなべりんたろう「日本未公開傑作ドラマ紹介」
posted by 映芸編集部 at 19:45 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月26日

『あるいは佐々木ユキ』レビュー
暁方ミセイ(詩人)

わたしと世界とユキと。見えるもののすべてへ。
暁方ミセイ(詩人)



 去年の十二月に訪れた渋谷の小さな試写会会場は、路地を曲がり、地下への狭い階段を見つけて下りて行き、見覚えのある淡いベージュの『あるいは佐々木ユキ』のポスターが貼ってあることだけが確かにここで間違いないと信じられるドアを開けたところにあった。わたしはコートを着たまま、なんだか緊張して上映を待っていた。同時にその夏、黄金町の映画館で、『わたしたちの夏』を観たときも、映画が始まるまでは周囲の他人が気にかかって所在無かったことを思い出していた。
 映画が始まると、我々観客は暗闇の中に一人きりにされ、映画と一対一になる。
 それがいい映画のときは、ふと気がついたとき、周囲との温度差が埋まって、劇場の暗室がひとつの、運命共同体の箱舟のように揺られている感じがする。『わたしたちの夏』では、そういう感じがした。そして最新作『あるいは佐々木ユキ』もまた、心地よい共有感を味わった映画だった。

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 福間監督の撮る映画には、体温があると思う。
 それは単に人間味が溢れているだとか、現代の若者がリアルに描かれているだとか、そういうことではなくて、一人の女の子が、自分の世界と、他者と共有する世界とを、入子状に何重にも持っていて、その卵のような大切な体で、世界と共鳴しながら生きている「普通の女の子」という温もりが、本当によく描かれていると思う。
 わたしが作中、最も好きなシーンが、ユキの通学するモノレールの車窓から、ずっと、かなり長いカットで、立川の街と夕日が映されるシーンなのだが、あれを見ているだけで、ユキという女の子の生きている時間を大切に感じた。そしてその画面全部を埋めた視界が、そこに乗り合わせる乗客たち、この夕日をここで見ているわたしたちもまた、「ユキ」であると知らせるのである。

 特別ではなく撮られたものたちが、特別に美しくなるのも、福間監督の作品の特徴だと思う。
 ストーリーにとっておよそあってもなくてもいいシーンなのに、どうしても覚えていて思い出してしまうシーンがある。ユキがひとりでご飯を食べていて、ご飯粒が手にくっついて、それをぺろっと啄ばむように食べる場面だ。他にも、ある一箇所の声の抑揚の感じだったり、カルタ遊びの長い長いカットの、びっくりするくらいのなんでもなさの中にある、愛おしさだったり、そんなところばかり覚えている。
 試写会の後、福間監督にお話を伺ったとき、「明日失明すると知ったときに、見ておきたいと思うものを撮った」とお話されていたが、実際この映画には、死期の目で撮ったような、はっとするほど美しいありふれた世界が収められていると思う。前作『わたしたちの夏』では、夢や、死者が帰ってくるなど、異世界がすっとこちらに、涼しい風のように流れ込んでくる夏の時間が描かれていたが、今作では、より身近で、より近いところで、詩情が発光している。また、映像重視で、話も抽象的でありながら、むやみな「お洒落感」がないのも、好ましいところだと思う。ちゃんと、東アジアで撮った作品であると思う。
 
 もう一つ、どうしても触れておきたいのが、主演の小原早織さんのことである。
 彼女の存在は、ほとんど魔力と言ってもいい。
 普段はただの学生だという彼女の魅力については、既にもう随所で語られていると思うが、素人らしくていいとか、普通っぽいところがいいとかの、最近ありがちなB級嗜好とは全然違う。福間氏は同じ試写会後の席で、「彼女の目には力があって、ジプシーの少年の目だ」とおっしゃっていた。目や仕草や表情や声で惹きつけられても、それは彼女の方から強烈に発信されたものではない。彼女はただまっすぐに、スクリーンに向かって立っている。だから我々は、その魔力に予め身構えることができない。
 多分、恋をしてしまう。そんな意味で、ふと、作中に出てくる『人魚姫』と同じ人魚のローレライを思い出したりもする。

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  大切なものを入れておくとっておきの箱のような映画で、しかし宝物の宝石のようには大人しくはしていない、ユキたち。この映画に撮られたすべてのものに、多くの方が、祝福をしてくださることを祈って。




『あるいは佐々木ユキ』
監督・脚本:福間健二 製作:福間恵子
撮影:鈴木一博 編集:秦 岳志 音響設計:小川 武
音楽:大川美由子 吉田孝之 助監督:西野方子 細谷周平 酒井 豪
出演:小原早織 吉野 晶 千石英世 文月悠光 川野真樹子
配給:tough mama
2013/HD/カラー/79分

ポレポレ東中野にてモーニング&レイトショーにて絶賛上映中
ポレポレ東中野 http://www.mmjp.or.jp/pole2/
公式ブログ  http://sasakiyuki.doorblog.jp/

イベント情報
1月27日(日) 21時の回上映前 福間健二監督による詩の朗読
1月29日(火) 21時の回上映後 小原早織(主演)+福間監督トーク

当日料金:一般¥1500 学生¥1300 シニア¥1000
* リピーター割引:半券ご提示で、2回目から¥1000に。
* ポエトリー割引:どんな詩集でもご提示で、一般のお客様も学生料金に。詩集をポッケに映画を見に行こう!

posted by 映芸編集部 at 19:33 | レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする